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第二十六話 またしても胃が痛む伯爵

 ラ・ギーズ家へ戻ると、ベランジェは当然のように玄関広間で待っていた。


 最近の彼は、娘が外出すると、帰宅まで落ち着けないらしい。

 しかも、何も起こらないという希望は持っていない。

 ただ、起こることが小さく済むよう祈っている。


「クラリッサ」


「お父様」


「王宮では、何かあったのか」


 クラリッサは少し考えた。


「リボンを結びましたわ」


 ベランジェは、ゆっくりジャンを見た。


「ジャン君」


「はい」


「それは、大丈夫なことなのか」


「状況によります」


「今回は?」


「王女殿下の髪に、クラリッサの青いリボンを結びました」


 ベランジェは額を押さえた。


「なぜ」


「殿下がお好きな色だったからです」


「それだけか」


 ジャンは少しだけ間を置いた。


「それだけではありません」


 オルタンスが階段から降りてきた。


「詳しく聞きましょう」


 クラリッサは、茶会でのことを話した。


 セラフィーヌが青を好んでいたこと。


 ジスランが赤を勧めたこと。


 それが一度ではなく、花、本、茶会の席、友人にまで及んでいたこと。


 王女が自分の好きなものを、少しずつしまい込んでいるように見えたこと。


 そして、青いリボンを結んだこと。


 話し終えると、オルタンスはしばらく黙っていた。


「クラリッサ」


「はい」


「王宮で、ずいぶん危ういことをしましたね」


「……はい」


「ジスラン・ド・モーヴリニーは、軽い相手ではありません」


「はい」


 クラリッサは、珍しく素直だった。


 オルタンスは続けた。


「けれど、王女殿下が青をお好きなら、青を選ぶ権利はあります」


 ベランジェが小さく呻いた。


「オルタンス」


「政治の話とは別です」


 オルタンスは夫を見た。


「小さな好みをすべて政治に奪われるなら、王女殿下はどこにも残れません」


 クラリッサは、母を見た。


 オルタンスはいつも整っている。

 言葉も、顔も、姿勢も。

 だが今の一言には、何か古いものが混じっていた。

 母自身も、若い頃に何かを選べなかったことがあるのかもしれない。

 クラリッサはそう思ったが、口には出さなかった。


 出すと、たぶん母が怖い顔をする。


 モルガナが静かに言った。


「お嬢様。本日は、騒ぎを大きくなさいました」


「はい」


「ですが、リボンは綺麗に結べておりました」


 クラリッサは顔を上げた。


「そこを褒めるの?」


「そこは確かでございましたので」


 ジャンが小さく笑った。


「確かな部分から褒めるのは大事だね」


「ジャンも褒めなさい」


「君は、今日は少し勇敢だった」


 クラリッサは瞬きをした。


「もう一度」


「言わない」


「ジャン」


「言わない」


 モルガナが言った。


「記憶される前に逃げましたね」


「長年の経験です」


 その夜、王宮から短い手紙が届いた。


 差出人は、セラフィーヌ・ド・ヴォークラン。


 便箋は小さく、文字も控えめだった。


 クラリッサは自室でそれを開いた。

 モルガナが燭台のそばに立っている。

 ジャンはもう帰っていた。

 ベランジェは可哀想に胃を押さえながら休んだ。

 オルタンスは新しい扇を選んでいる。


 手紙には、こうあった。


 ――今日は、ありがとうございました。


 ――青は、やはり好きです。


 それだけだった。


 クラリッサは、その二行をしばらく見つめた。


「モルガナ」


「はい、お嬢様」


「短い手紙ですわね」


「はい」


「でも、悪くありませんわ」


「ええ」


 モルガナは静かに言った。


「名前も、気持ちも、きちんと入っております」


 クラリッサは、少しだけ笑った。


「そうですわね」


 それから手紙を畳み、机の小箱にしまった。


「青いリボン、また買わなければ」


「明日にでもご用意いたします」


「殿下にも、もう一本贈りましょう」


「よろしいかと」


 クラリッサは椅子に座った。


 今日は、座り心地のいい椅子だった。


 彼女は背もたれに体を預け、天井を見上げた。


「ねえ、モルガナ」


「はい」


「わたくし、人様の婚約にまで口を出してしまいましたわね」


「はい」


「悪い癖かしら」


 モルガナは少し間を置いた。


「お嬢様の癖は、たいてい悪うございます」


「モルガナ」


「ですが、今日の悪い癖は、誰かの息を少し楽にしたかもしれません」


 クラリッサは目を閉じた。


「それなら、少しはましね」


「少しは」


「そこは、もう少し盛ってくださってもよろしいのよ」


「盛ると、また明日にはお嬢様が天井まで届きますので」


「失礼ですわ」


 モルガナは燭台の火を少し落とした。


 部屋の中が柔らかく暗くなる。


 その暗がりの中で、クラリッサはふと思った。


 自分はただ、自分が粗末に扱われるのが嫌だった。


 残り物の指輪も、後ろの椅子も、名前のない詩も、白すぎる手袋も、全部嫌だった。


 でも、今日は少し違った。


 セラフィーヌが青いリボンを外そうとした時、自分の胸の中で何かが鳴った。


 あれは、自分のための音ではなかった。


 それが少し、奇妙だった。


 気に入らない。


 でも、嫌ではなかった。

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