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第十九話 手袋が白すぎますわ!!

 しばらくして、ミロシュはクラリッサたちのもとへ戻ってきた。


「お待たせいたしました。子供たちが、今日を楽しみにしていたものですから」


「ええ」


 クラリッサは微笑んだ。


 よそ行きの微笑みだった。美しいが、少し硬い。


「皆、とても嬉しそうでしたわ」


「そう言っていただけると、何よりです。貧しい子供たちには、少しでも明るい時間が必要ですから」


「ええ。本当に」


 ミロシュは、菓子の皿を勧めた。


「どうぞ。こちらは孤児院の子供たちにも配っているものと同じ焼き菓子です」


 クラリッサは一つ手に取った。


 そして、半分に割る。


 中には干し果実が少し入っていた。


「美味しそうですわ」


「質素ですが、心を込めております」


「質素ですわね」


 ジャンが低く言った。


「クラリッサ」


「褒めていますのよ。質素なものを質素と言って何が悪いの」


 ミロシュは穏やかに笑った。


「構いません。慈善に贅沢は不要ですから」


「贅沢は不要でも、砂糖はもう少しあってもよいのではなくて?」


 ジャンが目を閉じた。


 モルガナは微動だにしなかった。


 ミロシュの笑顔は変わらない。


「甘いものは、子供たちのためには控えめがよいのです」


「そうですの」


 クラリッサは焼き菓子を見た。


「でも、こちらのテーブルの菓子は甘そうですわね」


 彼女は貴族客用のテーブルに視線をやった。

 そこには、砂糖衣のかかった小菓子、蜂蜜を使った焼き菓子、果物の砂糖煮が並んでいる。


 ミロシュは静かに言った。


「寄付者の方々をもてなすことも、慈善を続けるためには必要です」


「なるほど」


 クラリッサは頷いた。


「貧しい子供たちには控えめな甘さを。寄付者には十分な甘さを。慈善というのは、なかなか配分が難しいのですわね」


 場の空気が少しだけ硬くなった。


 ミロシュは、初めてクラリッサを正面から見た。


「ラ・ギーズ嬢は、ずいぶん率直な方ですね」


「ええ。よく言われます」


 ジャンが小声で言った。


「別の言い方でね」


 クラリッサは聞こえないふりをした。


「ミロシュ様。先ほど、手袋をお替えになりましたわね」


 ミロシュの笑顔が、わずかに止まった。


「手袋?」


「ええ。子供の手を取られた後に」


 周囲の数人が、ちらりとこちらを見た。


 ミロシュは穏やかに答えた。


「汚れてしまいましたので。客人の前に立つ以上、身だしなみには気を配るべきでしょう」


「汚れた」


 クラリッサはその言葉を繰り返した。


「お嬢様」


 モルガナが低く呼んだ。


 引け、という意味だった。


 だがクラリッサは引かなかった。


「子供の手を取る前から、替えの手袋は用意されていましたわ」


「当然です。こうした場では、何があるかわかりません」


「何があるかわからない」


「ええ」


「貧しい子供に触れることも、その『何か』に含まれているのですね」


 ミロシュの表情から、柔らかさが一枚剥がれた。


「ラ・ギーズ嬢。あなたは少し、物事を意地悪くご覧になる」


「ええ」


 クラリッサはあっさり認めた。


「意地悪く見なければ、見えないものもありますもの」


 ジャンが、ほんの少しだけ姿勢を正した。


 彼は止めなかった。


 ミロシュは静かに言った。


「私は、彼らのためにできることをしています。寄付も、食事も、衣服も、学びの場も。私の手袋が白いことが、それほど大きな問題でしょうか」


「大きいか小さいかは、わかりません」


 クラリッサは言った。


「でも、嫌ですわ」


 周囲がざわめいた。


 クラリッサは続けた。


「あなたは、あの子の手を取る時、とても優しい顔をなさいました。でも、その手を離した後、すぐに手袋を替えました。まるで、絵に描かれるためには触れるけれど、絵が終われば拭うみたいに」


「それは言いがかりです」


「そうかもしれません」


 クラリッサは、彼の白い手袋を見た。


「けれど、わたくしはあなたの妻になったとして、いつか同じように扱われるものが自分の目の前にいるのを見るのは嫌ですわ。助ける相手を、同じ人間として見ていない方の隣に立つのは、もっと嫌です」


 ミロシュは、少し声を低くした。


「あなたに何がわかるのです。あなたは貧しさを知らない」


 その言葉は正しかった。


 クラリッサは貧しさを知らない。


 ラ・ギーズ家は財政難ではあるが、それは貴族の財政難である。明日のパンを心配したことはない。冬の外套が一枚しかない暮らしも知らない。


 だからこそ、彼女は少し黙った。


 ジャンは横から口を開こうとしたが、クラリッサは手で制した。


「ええ。わたくしは知りませんわ」


 彼女は言った。


「知らないから、知らない相手に触れた後で手袋を替える自分を、立派だとは思えません」


 ミロシュは答えなかった。


 クラリッサは、銀の皿に置かれた白い手袋を見た。使い終わった手袋。誰かの手に触れたあと、すぐに外されたもの。


「ミロシュ様」


「はい」


「この顔合わせは、なかったことにいたします」


 またか、という空気が場に広がった。


 ジャンは静かに息を吐いた。


 モルガナはクラリッサの外套を手に取った。準備が早すぎる。だが、長年の経験とはそういうものだった。


 ミロシュは言った。


「手袋一つで?」


「ええ」


 クラリッサは微笑んだ。


「手袋一つで十分ですわ。時々、小さい布の方が、大きい旗より本音をよく見せますもの」


 ジャンが小さく呟いた。


「それは報告書に使えるかもしれない」


「使いなさい!」


「欄外には書かない」


「まだ何も言っておりません」


「君の顔が言っていた」


 クラリッサは、ミロシュへ礼をした。


「本日はお招きいただき、ありがとうございました。菓子は少し控えめでしたが、手袋は大変白うございました」


 ジャンは片手で顔を覆った。


「最後に刺すな」


 モルガナが静かに言った。


「お嬢様にしては、短くまとまりました」


「そこを褒めないで」


 帰りの馬車の中で、クラリッサは黙っていた。


 珍しいことだった。


 ジャンは手帳を開いていたが、すぐには何も書かなかった。

 モルガナも、いつものように皮肉を重ねなかった。


 馬車が石畳を走る音が続く。


 しばらくして、クラリッサは言った。


「わたくし、嫌な女だったかしら」


 ジャンは窓の外を見たまま答えた。


「いつもより?」


「ジャン!」


「冗談だよ」


 彼は少し間を置いた。


「今日の君は、意地悪ではあった。でも、間違っていたとは思わない」


 クラリッサは、手袋を外して膝の上に置いた。


「わたくしは、貧しさを知りませんわ」


「そうだね」


「だから、ミロシュ様のなさっていることを軽く見る資格はないのかもしれません」


「寄付しているのは事実だろうね」


「ええ」


「でも、善いことをしている人間が、すべて善いわけではない」


 ジャンは静かに言った。


「そこは分けていい」


 クラリッサは、彼の顔を見た。


「あなた、時々まともなことを言いますわね」


「時々なのか」


「いつも言うと腹が立つでしょう」


「君の基準は本当に難しい」


 モルガナが口を開いた。


「お嬢様」


「何?」


「貧しさを知らないことは、お嬢様の落ち度ではございません。知らないことを、知った顔で飾る方が見苦しゅうございます」


 クラリッサは少し俯いた。


「わたくし、知った顔をしていたかしら」


「今日は、しておられません」


 モルガナは続けた。


「ただ、嫌だとおっしゃいました。それはお嬢様の中から出た言葉でございます」


「嫌だ、だけでは足りないでしょう」


「足りない日もございます。けれど、言わないよりはましな日もございます」


 ジャンは手帳に短く書いた。


「慈善活動における振る舞いと、当人の価値観について不一致」


 クラリッサはすぐに顔を上げた。


「つまらないですわ」


「来ると思った」


「もっと書きようがあるでしょう」


「あるとしても、書類には書かない」


「では欄外に」


「欄外にも書かない」


「まだ何を書くか言っておりません」


「白すぎる手袋、とでも言うんだろう」


 クラリッサは、少し悔しそうに黙った。


 ジャンは小さく笑った。


「当たったか」


「あなた、わたくしを読みすぎですわ」


「幼なじみだからね。君の騒ぎは、だいたい前書きが長い」


 モルガナが静かに言った。


「今回は、前書きのわりに本題は短うございました」


「褒めているの?」


 クラリッサは少し期待した。


「半分ほど」


「残りは?」


「いつも通りでございます」


「もう、それはわかりましたわ」


 ラ・ギーズ家へ戻ると、ベランジェは客間で待っていた。


 彼は、娘の顔を見るなり、深く椅子に沈んだ。


「またか」


 まだ誰も何も言っていない。


 だが、父にはわかった。


 それもまた、積み重ねである。


「お父様」


 クラリッサは言った。


「ミロシュ様とのお話は、なかったことにしてくださいませ」


 ベランジェは両手で顔を覆った。


「今度は、何だ」


「手袋ですわ」


「手袋」


 ベランジェは顔を上げた。


「私は今、椅子の次に手袋と聞いたのか」


「はい」


 ジャンが後ろから淡々と言った。


「子供の手を取った直後に、手袋を替えたことが問題になりました」


 ベランジェはゆっくりジャンを見た。


「ジャン君」


「はい」


「それは、破談に足ることなのか」


 ジャンは少し考えた。


「足りませんでしょうな」


 クラリッサがむっとした。


「ジャン」


「ただし」


 ジャンは続けた。


「婚約を進める気が失せる理由としては、理解できます」


 クラリッサは、少しだけ満足そうにした。


 オルタンスが静かに客間へ入ってきた。


「詳しく聞きましょう」


 クラリッサは一連の出来事を話した。


 ミロシュが子供の手を取ったこと。


 その直後に手袋を替えたこと。


 貧しい子供たちには控えめな焼き菓子を出し、寄付者には甘い菓子を出していたこと。


 善行そのものは本当であること。


 だが、それでも嫌だったこと。


 話し終えると、部屋はしばらく静かになった。


 オルタンスは、扇を開かなかった。


 今日はまだ折る必要がないらしい。


「クラリッサ」


「はい」


「あなたは、ミロシュ殿の善行を否定したのではありませんね」


「ええ」


「その態度を嫌ったのですね」


「はい」


 オルタンスは頷いた。


「ならば、よろしいでしょう」


 ベランジェが驚いて妻を見た。


「オルタンス」


「慈善をなさる方は立派です。けれど、立派な方と娘を結婚させればよいというものではありません」


「しかし、これで何度目だと思っているんだ」


「ええ」


 オルタンスは娘を見た。


「そこは、たいへん重く受け止めるべきです」


 クラリッサは胸を張りかけていたが、その途中で止まった。


「……はい」


 モルガナが小さく頷いた。


「途中で止まれましたね」


「何が?」


「調子に乗る直前でございます」


「モルガナ!」


 ジャンはその様子を見ながら、記録を整えた。


 四度目の破談。


 指輪。椅子。詩。手袋。


 一つ一つは、くだらないと言われればそれまでだった。けれど、並べると妙な筋が見えてくる。


 クラリッサは、いつも自分の損得から怒る。


 自分が粗末にされるのが嫌で、置き場所を決められるのが嫌で、名前を消されるのが嫌で、そして今日は、人が見せ物のように扱われるのが嫌だった。


 高尚ではない。


 だが、嘘でもない。


 ジャンは紙の端に、小さく書きかけた。


 白すぎる手袋。


 そして、すぐに線を引いて消した。


 欄外に書かないと決めたからだ。


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