第十二話 愛の詩には名前を書けですわ!!
テオバルド・ド・リュザンクールとの顔合わせは、三日後に行われた。
場所はリュザンクール家の小さな館ではなく、王都南区にある文芸サロンだった。
貴族の若者や夫人たちが集まり、詩を読み、音楽を聴き、絵について語り、時には何もわかっていないのにわかっている顔をする場所である。
クラリッサは、淡い菫色のドレスを着ていた。
前回の薔薇色よりも少し落ち着いている。
だが、本人の気分は落ち着いていなかった。
「詩人ですわ」
馬車の中で、また言った。
ジャンは向かいに座り、書類鞄ではなく薄い手帳を持っていた。
「三日前から聞いている」
「詩人と婚約する令嬢というのは、なかなか絵になりますわね」
「絵になる人生は、住んでみると寒いことが多い」
「ジャン、またそういうことを」
「僕は暖炉と領収書の方を信用している」
モルガナは、クラリッサの手袋の皺を直した。
「お嬢様。本日はまず相手の言葉をよくお聞きください」
「わかっていますわ」
「よく聞くとは、ご自分に都合よく聞くことではございません」
「モルガナ、あなたはわたくしを何だと思っていますの」
「長年お仕えしているお嬢様でございます」
「それは答えになっているの?」
「十分に」
馬車が止まった。
文芸サロンの館は、白い壁に蔦が絡み、窓には薄い緑のカーテンがかかっていた。
庭には小さな噴水があり、その周囲に、香りの強い花が植えられている。
クルシュナ家の屋敷とはまるで違う。
すべてが柔らかく、軽く、少し浮ついていた。
クラリッサは、それだけで機嫌を直しかけた。
「よい館ですわ」
ジャンは窓を見上げた。
「逃げ道が多そうだね」
「なぜまずそこを見るの」
「君と来る時の習慣だ」
中へ入ると、薄い音楽が流れていた。
広間には丸いテーブルが置かれ、菓子と果実酒が並んでいる。
令嬢たちは扇を手に、青年たちは詩集や楽譜を持ち、誰もが少しずつ自分を美しく見せようとしていた。
その中心に、テオバルド・ド・リュザンクールがいた。
美しい青年だった。
シリルの美しさが磨いた銀食器なら、テオバルドの美しさは薄い絵具で描かれた水彩画だった。
金色がかった栗色の髪が額に柔らかくかかり、灰緑の目は、相手の言葉を最後まで聞いてくれそうな色をしていた。
服装は少しだけ崩している。
崩しているのに、崩れすぎていない。
そういうところまで計算されている。
「クラリッサ・ド・ラ・ギーズ嬢」
テオバルドは彼女に近づき、一礼した。
「お目にかかれて光栄です。あなたは、手紙で想像したよりも、ずっと鮮やかな方だ」
クラリッサは、明らかに悪くない気分になった。
「まあ」
ジャンが横で小さく言った。
「鮮やかという言葉は便利だね。褒めてもいるし、騒がしさにも使える」
クラリッサは肘で彼をつついた。
「黙っていなさい」
テオバルドは微笑んだ。
「シャトノワ殿ですね。ラ・ギーズ家とは古いご縁があるとか」
「ええ。古すぎて断りづらい縁です」
「面白いことをおっしゃる」
「笑い話にしないと、少し重いので」
テオバルドは軽く笑った。
その笑い方は、シリルのように硬くはなかった。
ラドヴァンのように規律もなかった。
ただ、相手を気持ちよくするためによく磨かれている。
クラリッサはそれに気づいたが、悪い気はしなかった。
「クラリッサ嬢。先日の詩は、お読みいただけましたか」
「ええ。読みましたわ」
「お気に召しましたか」
クラリッサは少し顎を上げた。
「ええ。ただ、一つだけ」
「何でしょう」
「わたくしの名前が、ありませんでしたわ」
テオバルドは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
だがすぐに柔らかく笑った。
「詩において、名は時に輪郭を狭めます。あなたを一つの名に閉じ込めたくなかったのです」
広間にいた何人かの令嬢が、小さく感嘆した。
クラリッサも、一瞬だけ揺れた。
美しい言い訳だった。
少なくとも、言い訳としてはよく磨かれていた。
ジャンが横で低く言った。
「便利な答えだ」
クラリッサは笑顔のまま、足の踵でジャンの靴を踏んだ。
ジャンは顔色ひとつ変えなかった。幼なじみとして、そういう攻撃には慣れている。
「では」
クラリッサは言った。
「次は閉じ込めてくださいませ」
テオバルドは目を瞬いた。
「はい?」
「わたくしは、名前で呼ばれるのが嫌いではありませんの。むしろ、誰宛てかわからない美しい言葉より、わたくし宛ての少し不器用な言葉の方が好ましいですわ」
ジャンは少しだけ彼女を見た。
モルガナも、後ろで静かに目を細めた。
テオバルドは、すぐに微笑んだ。
「なるほど。では今宵、あなたのために新しい詩を読みましょう」
「楽しみにしておりますわ」
クラリッサは満足そうだった。
この時点では、まだ半分ほど。
朗読は、夕刻に始まった。
窓の外が薄紫に沈み、広間の燭台に火が入る。
人々は椅子に座り、テオバルドが中央に立つ。
彼は詩集を持っていなかった。
自分の言葉を暗記しているという姿勢が、いかにも詩人らしい。
クラリッサは、前列の少し右に座っていた。
隣にはジャン。後ろにモルガナ。
クラリッサは胸を張っていた。
今度こそ、名前が出るはずだった。
クラリッサ。ド・ラ・ギーズ。
できれば美しく、やや長めに、しかし節度を持って。
彼女は心の中で、どのあたりで頬を染めるべきかまで考えていた。
テオバルドが朗読を始める。
声はよかった。
低すぎず、高すぎず、柔らかく、少しだけ憂いがある。
「――夜明け前の湖に、星はひとつ落ちる」
クラリッサは、ぴくりと動いた。
聞いたことがある。
「その水面に映るものは、空ではなく、魂の奥に咲く薔薇――」
聞いたことがある。
というより、読んだ。
三日前に。
彼女宛ての手紙で。
クラリッサはゆっくりとジャンを見た。
ジャンも、彼女を見た。
その顔には、ほらね、と書いてあった。
クラリッサはさらに足を伸ばし、ジャンの靴を踏もうとした。だがジャンは先に足を引いていた。
長年の経験である。
テオバルドは続ける。
「美しき人よ、あなたの眼差しは――」
その時、クラリッサの斜め前に座っていた令嬢が、小さく息を呑んだ。
リゼット・ド・フレルモン。
社交界で人気のある令嬢で、栗色の髪を白いリボンで結んでいる。
クラリッサとは特に親しくはない。
どちらかといえば、互いに相手を面倒そうな女だと思っている関係だった。
そのリゼットが、扇の陰で固まっていた。
クラリッサは、それを見逃さなかった。
さらに後方では、ヴィオレーヌ・ド・クルセルが、面白そうに目を輝かせていた。
彼女は噂好きで、社交界の小さな火種を見つけると、油ではなく香水を注ぐような女だった。
クラリッサは嫌な予感を覚えた。
テオバルドは朗読を終えた。
広間に拍手が広がる。
彼は優雅に一礼した。
「この詩を、今宵もっとも鮮やかな方へ」
視線がクラリッサに向いた。
悪くない。
普段なら悪くない。
だが今は、非常に悪い。
クラリッサはゆっくり立ち上がった。
ジャンが低く言った。
「クラリッサ。手順を思い出して」
「ええ」
「怒るなとは言っていない。順番を守ろうと言っているんだ」
「順番なら心得ておりますわ」
彼女は、テオバルドに微笑んだ。
「すばらしい詩でしたわ」
テオバルドは満足げに一礼した。
「あなたにそう言っていただけるなら、これ以上の喜びはありません」
「ええ。本当に」
クラリッサは便箋を取り出した。
「三日前にいただいた時と、ほとんど同じ感動がありましたもの」
広間の空気が止まった。
テオバルドの笑顔も止まった。
ジャンが小さく目を閉じた。
「順番は守ったけど、火はつけたね」
モルガナが後ろで静かに言った。
「お嬢様にしては、導火線を少し長めにされました」
クラリッサは続けた。
「ただ、わたくしには一つ疑問がございますの」
テオバルドは、なんとか笑みを保った。
「何でしょう」
「この詩は、今宵もっとも鮮やかな方へ贈られたのですよね」
「もちろんです」
「では、三日前のわたくしは、今宵だったのかしら」
数人が扇で口元を隠した。
ヴィオレーヌ・ド・クルセルは、明らかに楽しんでいた。
リゼット・ド・フレルモンは顔を伏せている。
クラリッサは、そこでリゼットを見た。
「リゼット様」
呼ばれたリゼットが、びくりとした。
「何でしょう、ラ・ギーズ様」
「あなたも、この詩をご存じなのではなくて?」
リゼットの顔が、薔薇色から白へ変わった。
周囲がざわめく。
「わ、わたくしは」
ヴィオレーヌがすっと扇を閉じた。
「あら。わたくしも存じておりますわ」
クラリッサは振り返った。
「あなたも?」
「ええ。先月、テオバルド様からいただきましたの。『夜明け前の湖に、星はひとつ落ちる』。たいへん印象的でしたから、覚えております」
広間のざわめきが大きくなった。
テオバルドは、青ざめた顔で笑おうとした。
「詩というものは、時に同じ主題を別の方へ――」
「同じ主題ではありませんわ」
クラリッサは遮った。
「同じ詩です」
ジャンは、静かに言った。
「文面の確認ならできる。ラ・ギーズ家に届いた便箋は、僕も見ている」
ヴィオレーヌが楽しげに手を挙げた。
「わたくしの手紙も、館に戻ればございますわ」
リゼットは少し震えながら言った。
「わたくしも……持っております」
テオバルドの顔から、優雅さが剥がれていった。
「皆さま、誤解です。これは、私の代表作であり――」
「代表作を婚約候補に贈る時は」
クラリッサは一歩前に出た。
「せめて名前を入れるべきですわ」
広間が静かになった。
「わたくしは、詩の良し悪しはよくわかりません。星も湖も薔薇も、使い方によっては綺麗なのでしょう。けれど、誰にでも贈れる言葉を、わたくしだけに向けた顔で差し出されるのは、不愉快です」
テオバルドは唇を噛んだ。
「あなたは、詩を理解していない」
「ええ、そうかもしれません」
クラリッサはあっさり認めた。
「でも、わたくしは自分の名前くらい理解しておりますわ」
ジャンがわずかに息を吐いた。
モルガナの表情は変わらない。
だが、ほんの少しだけ、目元が柔らかかった。
「テオバルド様」
クラリッサは言った。
「わたくしを愛するなら、せめてわたくし宛てに怠けなさいませ」
ジャンが横で呟いた。
「怠け方にまで注文をつけるのか」
「黙っていなさい、ジャン」
「はい」
テオバルドは、なおも何か言おうとした。
だが、その前にリゼット・ド・フレルモンが立ち上がった。
「テオバルド様。わたくしにも、同じことをおっしゃいましたわ。『この詩は、あなたのためだけに書いた』と」
ヴィオレーヌも続いた。
「わたくしには、『この世で一番静かな魂へ』でした。静かと言われたのは初めてでしたから、嘘だと思うべきでしたわね」
小さな笑いが起きた。
テオバルドの立場は、完全に崩れた。
詐欺というほど大げさではない。
財産を奪ったわけでも、契約を偽造したわけでもない。
けれど、令嬢たちの心をそれぞれ特別扱いしたふりで撫で、同じ言葉を配っていた。
ジャンは内心、よくこの場で朗読出来たものだと半ば関心すらしていた。
「この顔合わせは、なかったことにいたします」
クラリッサは言った。
「リュザンクール家には、後日、父から正式にお返事いたしますわ」
ジャンがすぐに低く言った。
「父から、ではなく、ラ・ギーズ家から」
「同じですわ」
「同じにすると伯爵が倒れてしまうよ」
「では、ラ・ギーズ家から」
クラリッサは優雅に礼をした。
「ごきげんよう、テオバルド様。次に詩を贈る時は、名前を書くことをおすすめいたします」
そして、少し考えたあとで付け足した。
「もちろん、相手ごとに違う名前を」
ジャンは顔を覆った。
「最後に余計な親切をした」
モルガナが静かに言った。
「お嬢様にしては、実用的な助言でございました」




