用意される側
「わたし、王都から逃げてきたの」
君は桶を床に置いて、その上に座った。
椅子が二つしかない台所だ。ひとつはトキさんの、ひとつは僕の。
君の椅子は、まだない。
◇
「家は、大きかった」
君は言った。
「使用人が、十九人いた」
「十九人」
「数えたことがある。一度だけ」
◇
「朝、起きると、着るものが決まってた。畳んで、寝台のわきの台に置いてあるの。着る順番も決まってた」
「はい」
「食べるものも決まってた。時間も。座る場所も」
君は、自分の手のひらを見ていた。
「全部、だれかが用意してくれてた」
◇
「ハルヤ」
「はい」
「わたし、自分の家のコップが、どこにあるか知らないの」
僕は、手を止めた。
「十七年住んでたのに」
君は笑った。うまく笑えていなかった。
「一度も、自分で出したことがないから」
◇
「四年前の春に、縁組が決まった」
「はい」
「相手の家も大きかった。使用人が二十四人いるって聞いた」
君は、桶のふちを指でつまんだ。
「そこでも、着るものが台に置いてあるんだと思う。順番も決まってて、座る場所も決まってて」
「……」
「わたしの置き場所だけ、どこにもなかった」
◇
そのとき、はじめてわかった。
僕と君は、四年間、同じ台所にいた。
僕は用意する側で、君は用意される側だった。
僕は、みんなの明日を用意していた。君は、だれかに明日を用意されていた。
どっちも、自分の一日のなかに、いなかった。
◇
「魔法は」
僕は聞いた。
「魔法だけは、自分で覚えたんですか」
君はうなずいた。
「本を、こっそり読んだ。誰も見ていないところで」
「だから、火が出せる」
「でも、火加減はわからない」
君は自分の左腕を見た。布はもう取れている。赤い跡だけが残っていた。
「だれも、教えてくれなかったから」
「教えます」
僕は言った。
「でも、直しません」
「うん」
◇
君はしばらく黙っていた。
それから立ちあがって、棚のほうへ歩いていって、途中で止まって、振り返った。
「ハルヤ」
「はい」
「わたしのコップの置き場所、自分で決めていい?」
僕はうなずいた。
「決めてください」
「あなたが決めたほうが、たぶんうまくいくよ」
「うまくいかなくていいです」
少し考えて、言い足した。
「そこ、僕がいちばん使う棚ですけど」
「じゃあ、そこにする」
君は、いちばん邪魔なところにコップを置いた。
わざとだと思う。
僕は、それを直さなかった。
◇
朝、外が騒がしかった。
戸を開けると、街道を荷車が通っていた。石を積んだやつだ。一台、二台、三台。
トキさんが門のところに立って、それを数えていた。
「石工だとさ」
「はい」
「来月って話だったろ」
トキさんは、荷車から目を離さなかった。
「あれ、もう橋に向かってるよ」
◇
荷車は、六台通った。
トキさんは最後の一台が見えなくなるまで、門のところに立っていた。
「三年、また待つだけさ」
そう言って、中に入っていった。
僕はしばらく街道を見ていた。
三日後に、白い木の紋のついた馬車が来る。
◇
その夜、客が七人来た。
行商の男が、汁物を三口飲んで、椀を置いた。
「うちのかみさんのほうが、うまい」
悪気はなさそうだった。ただ、そう思ったから言っただけの顔だった。
「どう作るんですか」
僕が聞くと、男は笑った。
「知らねえよ。食ってるだけだ」
◇
「豆は、いつ入れますか」
「は?」
「先ですか、あとですか」
男は口を開けて、閉じた。
「……先だな」
「水からですか」
「水から……いや、湯からだ。湯を沸かしてから、かみさんが豆をざるごと持ってくる」
「干した魚は」
「あれは最後だ。ばらばらにして、上からかける。煮ちゃいけねえ。煮ると苦くなるって言ってた」
男は、自分でしゃべりながら、だんだん前のめりになっていた。
「香草は、ちぎるんだ。切るんじゃなくて。あいつは包丁を使わねえ」
「なんでですか」
「知るかよ」
男は少し黙って、それから言った。
「……たぶん、音がうるさいと、子どもが起きるからだ」
◇
言われたとおりに作った。
湯を沸かして、豆を入れて、香草をちぎって、最後に干した魚をばらばらにしてかけた。
男が椀を持って、飲んだ。
黙った。
「……ちがう」
「どこがですか」
「わからん」
男は椀を見ていた。
「わからんが、ちがう」
◇
男が立ちあがった。
「貸せ」
「え?」
「鍋を貸せって言ってんだ」
男は火の前に立って、しばらく動かなかった。
それから、湯を沸かしなおした。
手つきは、ひどかった。玉じゃくしの持ちかたが逆で、豆をこぼして、鍋のふちで指を焼いた。
でも、順番だけは、迷わなかった。
豆。灰汁を取る。ここで一度、火を弱める。香草をちぎる。ちぎってすぐ入れない。手のひらで少しあたためてから入れる。
僕が聞かなかったことまで、手が勝手にやっていた。
「あんた」
僕は言った。
「作ったこと、ないんですよね」
「ねえよ」
男は鍋を見たまま言った。
「二十年、見てただけだ」
◇
できたものを、男は一口飲んで、また黙った。
それから、椀を両手で持ったまま、長いこと座っていた。
「これだ」
声が、少しおかしかった。
「これだよ」
僕は、何も言わなかった。
ユキが、戸のところに立って見ていた。
◇
その夜、みんなが寝てから、僕は火の前に立った。
湯を沸かす。豆を入れる。灰汁を取る。火を弱める。香草を、手のひらであたためてから、ちぎって入れる。干した魚は、最後に。煮ない。
一度やった。
二度やった。
十度めで、手が迷わなくなった。
右の親指の付け根が、また切れていた。布を巻いて、もう一度やった。
◇
◇
十度めで、手が迷わなくなった。
ならなかった。
どこかがずれている。豆でも、香草でもない。
僕は火を落として、板の間に座った。
思い出す。あの人の右手。玉じゃくし。灰汁。
灰汁だ。
あの人は「灰汁を取る」と言ったけれど、取る前に一度、火を弱めていた。
僕は、それを聞かずに、順番だけ書き写した。
◇
もう一度、はじめからやった。
湯。豆。火を弱める。それから灰汁。
六度やって、手が迷わなくなった。
聞き落としがひとつあるだけで、道はつかない。
だからユキが要る、と思った。
僕は、聞くのが下手だ。
◇
窓の外が青くなってきたころ、僕はコップを出した。
右手のとどく、ほんの少しだけ奥。
置いた。
においがした。
豆と、香草と、干した魚の。
うちの台所のにおいじゃなかった。
あの人の家の、朝のにおいだった。




