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かさ

 朝、男は早くに起きてきた。


 荷を積みなおして、外套を着て、勘定をすませて、それから戸のところで振り返った。


「世話になった」


「あの」


 僕は椀を持っていた。


「これ、飲んでいきませんか」


    ◇


 男は椅子に座って、椀を受け取った。


 湯気が上がっていた。


 ひとくち飲んで、動かなくなった。


 二口めを、飲まなかった。


 椀を持ったまま、下を向いていた。


 肩が、少しずつ動きはじめた。


「なんで」


 男が言った。


「なんで、これが出せる」


「ゆうべ、十回作りました」


「……十回」


「はい」


「なんで、十回も」


 僕は、答えられなかった。


 男はそのまま長いこと座っていた。冷めても飲んでいた。


    ◇


 出ていくとき、男は財布を出した。


「いらないです」


「取れよ」


「いらないです」


 うしろからトキさんが手を出した。


「もらっとくよ」


「トキさん」


「宿代とは別だ」


 トキさんは金を数えて、前掛けに入れた。


「あんたは、そういうとこが下手だね」


    ◇


 男は荷車の綱を持って、それから言った。


「来月、また通る」


「橋、直りますよ」


「知ってる」


 男は街道のほうを見た。


「直っても、ここに寄る」


    ◇


「あんた、なにをしたんだい」


 台所に戻ると、トキさんが腕を組んで待っていた。


 僕は説明した。


 自分の手でなぞらないと、出せないこと。


 一度では足りなくて、十回くらいくり返さないと、手が道をおぼえないこと。


 一晩に、ひとりぶんが限度だということ。


 トキさんはしばらく黙っていた。


「一晩で、ひとり」


「はい」


「うちは、多いときで四十人だよ」


「はい」


    ◇


「……だから、いいのかもしれないね」


 トキさんは椅子に座った。


「四十人ぶんの飯なら、宿場町のほうがうまいよ。安いし、早い」


「はい」


「ひとりぶんは、宿場町にはない」


    ◇


「わたし、聞く係をやる」


 ユキが戸のところから言った。


「あの人、最初は知らないって言った」


「はい」


「でも、聞いてったら出てきた。豆の順番も、香草をちぎることも」


 君は、指で外套のすそをつまんでいた。


「わたし、それならできる」


「はい」


「……できると、思う」


「じゃあ、ふたつだ」


 トキさんが言った。


「聞くのはユキ。作るのはハルヤ。あたしは、金を取る」


 トキさんは前掛けを叩いた。


「あんたたち、そこが下手だからね」


    ◇


 その夜、僕は自分の右手を見ていた。


 布の下が、まだふさがっていなかった。


 毎晩これをやったら、半年はもたないと思う。


 でも、半年もてばいい。


 半年あれば、手の道は残る。


    ◇


 三日目の朝、白い木の紋のついた馬車が来た。


 オルドが降りてきた。外套に、やっぱり泥がついていなかった。


「お考えは」


「行きません」


 オルドはうなずいた。


 それから、僕のうしろを見た。


 ユキが、桶を持って立っていた。


 オルドは帽子を取って、頭を下げた。


「ユキ様」


 君の手から、桶が落ちた。


「お父上が、お待ちです」


    ◇


 桶が転がって、水が土にしみていった。


 ユキは動かなかった。


「四年、探しておられました」


 オルドは頭を下げたまま続けた。


「ひとつ、お伝えしておかねばなりません」


「はい」


「お戻りいただければ、お父上の家は残ります」


 ユキは動かなかった。


「戻らなければ」


「取り潰しです」


 オルドは、はじめて顔を上げた。


「縁組は、家の借財と抱き合わせになっております。断れば、貸し手が動きます」


 オルドは頭を下げたまま言った。


「お父上は、お体を悪くしておいでです。縁組の家も、まだ待っております」


    ◇


 僕の手が、動きそうになった。


 オルドと君のあいだに入って、なにか言おうとした。四年ぶんの手が、勝手に。


 止めた。


 それは、直すことだ。


    ◇


「ユキ」


 僕は言った。


「どうしますか」


 君はこっちを見た。


 目が、少し赤かった。


「……あなたは、どうしてほしいの」


「僕が決めることじゃないです」


「ハルヤ」


「君が決めることです」


    ◇


 君は、長いこと黙っていた。


 指で外套のすそをつまんで、離して、またつまんだ。


 三度めに、手を下ろした。


「行く」


 君は言った。


「行って、断ってくる」


 オルドが、はじめて顔を上げた。


「よろしいので」


「四年、逃げてた」


 君は、桶を拾った。土がついていた。それを、前掛けでふいた。


「逃げてるかぎり、ずっと決められてるままだから」


    ◇


「三日ぶんだ」


 トキさんが前掛けから金を出して、君の手に握らせた。


「約束だからね」


「トキさん」


「取っときな」


 トキさんは、それから奥へ引っこんだ。


 しばらくして、戻ってきた。


 手に、かさを持っていた。


 黒くて、柄の木が黒ずんでいる。ずいぶん使われたやつだ。


「うちの人のだよ」


 トキさんは、それを僕に渡した。


 僕にだった。君にじゃなくて。


「あんたから渡しな」


    ◇


 馬車の前で、僕は君の外套を縫った。


 右肩の伸びたところと、すその、ほつれたところ。


 針を通しながら、言った。


「四つです」


「うん」


「右肩に二つ。すそに二つ。右肩の二つは、指三本ぶん離してください。くっつけると、そこだけ引っぱられます」


「指三本」


「はい」


 君は自分の右肩を見ていた。


    ◇


 縫い終わってから、僕はかさを差し出した。


「あの朝」


 僕は言った。


「君が言おうとしたのは、これですか」


 君は、かさを見た。


 それから、うなずいた。


「言えばよかったのに」


「言えなかった」


「うん」


 僕はかさを、君の手に押しつけた。


「じゃあ、今度は僕が言います」


 声が、うまく出なかった。


「かさ、持っていってください」


    ◇


 君は、かさを両手で持った。


 それから、馬車に乗った。


 扉が閉まる前に、窓から顔を出した。


「ハルヤ」


「はい」


「わたしのコップ」


 君は言った。


「動かさないでね」


    ◇


 馬車が動きだした。


 少し行ってから、もうひとつ窓が開いた。オルドだった。


「ハルヤ殿」


 馬車は止まらなかった。


「三月のち、王城で祝いの席がございます。ユキ様の」


 僕は、街道に立っていた。


「台所方の口は、それまで空けておきます」


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