窓はどっちにありましたか
台所に戻ると、棚に君のコップがあった。
いちばん邪魔なところだ。
その日、僕は三度ぶつかった。
次の日は二度。その次の日も二度。
動かさなかった。
◇
十二日後、橋が直った。
朝から荷車の音がしていた。街道を、東へ、東へ、途切れずに行く。
門のところに立っていると、そのうちの一台も、こちらに曲がらなかった。
みんな、半日先の宿場町まで行く。
トキさんは、その日、門に出てこなかった。
◇
客は減った。
三人。二人。二人。
ゼロの日が、二日つづいた。
二日めの夜、トキさんが台所の椅子に座って、ランプの芯を見ていた。
「三年前も、こうだったよ」
「はい」
「そのうち、慣れる」
トキさんは笑わなかった。
「慣れちまうのが、いちばん困るんだけどね」
◇
◇
鍛冶屋が、荷車を引いて通りかかった。
雨をよけに寄っただけで、泊まりはしないと言った。
荷台に、布にくるんだ剣が二本のっていた。
「見るかい」
断る理由がなかったので、見せてもらった。
◇
一本は、根元から折れていた。
もう一本は、刃の途中に黒い筋が入っている。
僕は、柄を見た。
革の巻きかたに、見おぼえがあった。下から三周めで一度返して、そこから逆に巻く。
あれは、僕の巻きかただ。
「これ」
「王都から直しに出てきたやつだ。断ったよ」
鍛冶屋は、布をかけ直した。
「鉄が悪いんじゃない。手入れだ。研いだあとに、油を入れてない」
「はい」
「二年ぶんはたまってる。持ち主が馬鹿なんだ」
◇
二年じゃない、と思った。
三月だ。
僕がいなくなってから、三月ぶん。
でも、そう見えるらしい。
◇
三日めに、荷車が一台、こちらへ曲がった。
あの行商の男だった。
連れがいた。若いのがひとりと、年寄りがひとり。
「言ったろ」
男は綱を置いて言った。
「こいつらにも、やってやってくれ」
「ひとりずつです」
「は?」
「一晩に、ひとりぶんしか作れません」
男は口を開けて、それから笑った。
「じゃあ、三晩泊まる」
◇
それから、少しずつ来るようになった。
多くはない。一日にひとりか、ふたり。宿場町に泊まって、わざわざ半日戻ってくる人もいた。
うわさは、ゆっくり広がった。
うまい飯が出る宿だ、とは言われなかった。
そうじゃないことは、みんなわかっていた。
◇
やりかたは、毎晩おなじだ。
夕方、その人に話を聞く。豆はいつ入れるか。火はどこで弱めるか。切るのか、ちぎるのか。
みんな、最初は「知らない」と言う。
それから、少しずつ出てくる。
夜、みんなが寝てから、僕は火の前に立つ。
一度。二度。三度。
十度めで、手が迷わなくなる。
朝、出す。
◇
右手の親指の付け根は、もうふさがらなくなった。
布を巻いて、その上から巻いて、朝に取りかえる。
左手も、指の関節が固くなってきた。冷たい日は、玉じゃくしを持つのに少しかかる。
トキさんが一度、僕の手を取って見た。
何も言わなかった。
その日から、皿洗いはトキさんがやるようになった。
◇
ある夜、若い客が来た。
二十歳くらいの男だった。荷を持っていない。歩きだけで来たらしくて、靴の底がすり減っていた。
僕は、いつものように聞いた。
「どなたの、ですか」
「……おふくろの」
「はい」
「三年前に、死んだ」
◇
僕はうなずいて、それから聞いた。
「豆は、いつ入れますか」
男は、僕を見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから、下を向いた。
「覚えてない」
◇
男は、下を向いていた。
「三年、思い出そうとした。だめだった」
ユキがいれば、と思った。
君なら、たぶん聞き出せた。僕は、聞くのが下手だ。四年間、聞かずにやってきたから。
だから、料理の話をやめた。
◇
「台所に、窓はありましたか」
「……え?」
「窓です」
男が顔を上げた。
「あった」
「どっち側ですか」
「流しの、右」
男は少し目を細めた。
「朝は、まぶしかった」
「じゃあ、東ですね」
「……東だ」
◇
「床は、板ですか。土ですか」
「土だ」
「お母さんは、はだしでしたか」
「はだしだった」
男の声が、少し変わった。
「夏は。冬は、藁のやつを履いてた」
「音、しましたか」
「した」
男は自分の足元を見ていた。
「引きずるみたいな音だ。おれ、あれで目が覚めてた」
◇
「玉じゃくしは、右手ですか」
「右だ」
「鍋のふちに、置いてましたか。それとも、持ったままでしたか」
男の右手が、動いた。
膝の上で、何かを持つ形になっていた。
「……ふちに引っかけてた」
「柄は、どっち向きですか」
「こっち」
男は、右に倒した。
僕は、それを見ていた。
◇
「火から下ろすとき、何かしてましたか」
男は、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「味見してた」
「はい」
「一回だけ。それから、塩をひとつまみ足すんだ」
男の手が、つまむ形になった。
「必ず。毎回」
「はい」
「『足りないねえ』って言ってた。毎回言ってた」
男は、そこで止まった。
「毎回言ってたんだから、毎回ちがう味だったんだよな」
◇
「作ってみませんか」
僕は言った。
「作れねえよ」
「順番だけ、覚えてます」
「覚えてねえって言ってるだろ」
「さっき、右手が動きました」
男は、自分の右手を見た。
◇
男が火の前に立った。
ひどい手つきだった。豆をこぼして、湯をこぼして、玉じゃくしの持ちかたが逆だった。
でも、鍋のふちに引っかけるとき、柄を右に倒した。
考えていなかった。手が勝手にやった。
◇
できたものを、男は一口飲んだ。
「ちがう」
「はい」
「ぜんぜん、ちがう」
男は椀を置いた。
それから、動かなくなった。
しばらくして、立ちあがって、塩の壺に手をのばした。
ひとつまみ。
鍋に落として、まぜて、もう一度、椀にそそいだ。
飲んだ。
◇
「足りないねえ」
男が言った。
声が、うまく出ていなかった。
僕は、何も言わなかった。
男はそのまま、長いこと座っていた。
◇
その夜、みんなが寝てから、僕は火の前に立った。
湯を沸かす。豆を入れる。玉じゃくしを、柄を右に倒してふちに引っかける。火から下ろす前に、一度味見する。塩をひとつまみ。
一度やった。
二度やった。
十度めで、手が迷わなくなるはずだった。
ならなかった。
十一度。十二度。十三度。
毎回、どこかがずれる。
当たり前だった。
毎回ちがう味だったものに、道はつかない。
◇
十七度めで、右手が動かなくなった。
玉じゃくしが、床に落ちた。
拾おうとして、指が閉じなかった。




