今度はお前が決めろ
朝、僕は男の前で頭を下げた。
「出せません」
「そうか」
男は、怒らなかった。
椅子に座って、鍋のほうを見ていた。
「あんた、ゆうべ、おれに思い出させた」
「はい」
「三年、思い出せなかったんだ」
男は立ちあがって、荷を持った。持ち物は、ほとんど無かった。
「毎朝、自分で作る」
それだけ言って、出ていった。
◇
薬師は、街道の先の村から来た。
僕の右手を取って、指を一本ずつ曲げて、それから離した。
「使いすぎだね」
「治りますか」
「三月、休みな」
薬師は道具をしまいながら言った。
「休まなきゃ、戻らないよ。次に固まったら、そのままだ」
◇
三月。
オルドが言っていたのと、同じだった。
◇
「休みな」
トキさんが言った。
「客が来ます」
「休みな」
「一日ひとりです。それくらいなら」
トキさんが台に手をついた。音がした。
「ハルヤ」
「はい」
「あたしはね」
トキさんの声は、低かった。
「あんたに、死んだ人の代わりをさせたいわけじゃないんだよ」
◇
僕は、何も言えなかった。
三年前、この宿の桶は、戸口から三歩めにあった。
トキさんは毎日つまずいていた。それでも、動かさなかった。
動かさないというのは、そういうことだ。
◇
その夜、僕は台の前に座って、ずっと考えていた。
右手は、まだ言うことをきかなかった。
棚の、いちばん邪魔なところに、君のコップがあった。
◇
次の客が来たとき、僕はいつものように聞いた。
豆はいつか。火はどこで弱めるか。窓はどっち側か。玉じゃくしは右手か。
客が話し終わってから、僕は言った。
「作ってみませんか」
「え?」
「僕は、手を悪くしていて」
僕は右手を上げた。布が巻いてあった。
「かわりに、横で言います。順番を、全部」
◇
その人は、自分で作った。
こぼした。焦がした。指を焼いた。
できたものは、たぶん、その人の家のものとはちがった。
でも、その人は椀を両手で持って、長いこと座っていた。
◇
それから、宿の形が変わった。
僕は作らなくなった。
夕方、話を聞く。窓の向き。床の音。手の向き。だれの、どんな朝だったか。
夜、その人が自分で火の前に立つ。僕は横で順番を言う。
朝は、何も出さない。
もう出す必要が、なかった。
◇
「へんな宿だね」
トキさんが言った。
「はい」
「飯が出ない宿なんて、聞いたことがないよ」
「出ます。自分で作れば」
「それを、飯が出るとは言わないんだよ」
トキさんは笑った。三年ぶりに笑ったような笑いかただった。
◇
二月が過ぎた。
右手は、少しずつ動くようになった。玉じゃくしは、まだ持てない。
客は、多くはない。でも、途切れなくなった。
王都からは、何も来なかった。
◇
三月めの、二十日ほど前。
馬に乗った男が、封をひとつ置いていった。
白い木の紋がついていた。
開けると、紙が一枚だけ入っていた。
二行、書いてあった。
『洗濯ばさみを四つ、指三本ぶん離してとめました。落ちませんでした』
僕は、それを二度読んだ。
それから、下の行を読んだ。
『祝いの席には、来ないでください』
◇
行かないことにした。
君が決めたことだ。僕が決めることじゃない。
そう自分に言ったら、それ以上、考えることがなくなった。
◇
右手は、少しずつ動くようになっていた。
でも、夜になると固くなった。薬師が言うには、それはまだ治りかけということらしい。
僕は毎晩、客の横に立って、順番を言った。
豆を入れる。灰汁を取る。火を弱める。
言いながら、たまに、王都のほうを見た。
◇
手紙が来て、六日めの夕方。
街道から、二頭の馬がこちらへ曲がってきた。
ガレスとセラだった。
◇
ガレスのブーツを、まず見た。
泥が落ちていた。つなぎ目にも入っていない。掻きかたが、変わっていた。
つま先の白いひびは、まだあった。あれは、もう戻らない。
セラの法衣は、洗ってあった。
「久しぶり」
セラが笑った。
「塩、最後に入れられるようになったよ」
「豆は」
「固くない。ちゃんと」
「よかったです」
◇
ガレスは、椅子に座らなかった。
台の上に、革の袋を置いた。
音でわかった。金だ。
「四年ぶんだ」
「……なんですか、これ」
「給金だ」
僕は、袋を見た。
「宿代と飯代で相殺だと」
「取り消された」
ガレスは、僕を見なかった。
「宮内府がそう言った。だから払う」
◇
「謝りに来たわけじゃない」
「はい」
「未払いを残すと、返上が受理されん」
「返上」
「した」
ガレスは、そこではじめてこっちを見た。
「おれは、勇者ではなくなった」
「……なんで」
「セラが、書いたものを出した」
◇
「あの晩、あなたが言ったことを、全部書いてありました」
セラが言った。
「ブーツも、洗濯ばさみも、給金のことも」
「はい」
「わたし、それを持って王都に行きました」
セラは、僕を見なかった。
「四年ぶんの給金を、この人が払っていないこと。あなたが自分から抜けたと、わたしたちが聞かされていたこと」
台所が、静かになった。
「勇者の登録に、素行の届けというのがあるそうです」
セラは言った。
「王都の人繰り係の人が、教えてくれました」
オルドさんだ、と思った。
「出す者などおりませんが、って言われました」
セラの声は、震えていなかった。
「だから、出しました。だれにも頼まれていません」
◇
僕は、ガレスを見た。
ガレスは、床を見ていた。
「あれは、効率の話だった」
「はい」
「……効率の話だったんだ」
二度言った。
二度言うと少しだけ本当になる気がするのは、たぶん僕だけじゃない。
◇
「王都にいた」
「はい」
「ユキは、三度断った」
僕は、手を止めた。
「三度めに、父親が倒れた」
◇
「家の者が、あいつのせいだと言っている」
ガレスは、正確に話した。ひとつずつ、順番に。感情を混ぜなかった。
「縁組の家は、まだ待っている。断られたことになっていない」
「なってない」
「向こうがそう扱っている。祝いの席は、そのまま開かれる」
ガレスは、はじめてこっちを見た。
「あいつは、家から出られない」
◇
「手紙が来ました」
僕は言った。
「来ないでくださいと、書いてありました」
「読んだ」
「え?」
「あいつが書くのを見てた」
ガレスは、腕を組んだ。
「三度、書きなおしてた」
◇
台所が、静かになった。
鍋の底で、湯が鳴っていた。
「ハルヤ」
ガレスが言った。
「おれは、お前に、来なくていいと言った」
「はい」
「あれは、おれの判断だ」
ガレスは、まっすぐ僕を見ていた。
「お前の判断じゃない」
◇
僕は、何も言えなかった。
「お前は、おれが決めたことに従って、出ていった」
「……はい」
「今度も、あいつが決めたことに従うのか」
ガレスは、そこで少し黙った。
「それは、決めたことになるのか」
◇
セラが、ガレスの袖を引いた。
「言いすぎ」
「言いすぎか」
「言いすぎだけど」
セラは僕を見た。
「……合ってる」
◇
その夜、僕は荷物を作った。
着がえが二枚。砥石。薬師にもらった布。
トキさんが台所の戸口に立って、それを見ていた。
「行くのかい」
「はい」
「馬車代は」
「歩きます」
「馬鹿だね」
トキさんは前掛けから金を出して、台に置いた。
「三月ぶんだ。取っときな」
◇
最後に、僕は棚の前に立った。
いちばん邪魔なところに、君のコップがあった。
三月のあいだ、僕は何度もそこにぶつかった。数えていない。数えるようなことじゃなかった。
動かさないでね、と君は言った。
僕は、手をのばした。
布を巻いた右手で、君のコップを取った。




