いちばん邪魔なところ
十日、歩いた。
朝は手が固かった。歩いているうちに、少しずつ動くようになった。
荷物のいちばん上に、君のコップを入れていた。布で二重に巻いて、着がえのあいだにはさんだ。
◇
王都に入って、僕が最初に見たのは、屋台の水がめの位置だった。
どの屋台も、店の左に置いていた。右手で柄杓を取るからだ。
街の名も、塔の高さも、覚えていない。
◇
オルドは、驚かなかった。
「お待ちしておりました」
帽子を取って、頭を下げた。外套に、やっぱり泥がついていなかった。
「三月のちに、と申しましたので」
「席には出られませんか」
「客としては、無理でございます」
オルドは、僕の右手を見た。布が巻いてあった。
「台所方としてなら、入れます」
◇
「なぜ、僕だったんですか」
歩きながら、僕は聞いた。
オルドは、しばらく答えなかった。
「わたしは、三十年ここにおります」
石の廊下を、まっすぐ歩いていた。
「台所方は、三十回入れかわりました」
「はい」
「一度も、続いたことがありません」
◇
「代がわりのたびに、みな出ます。新しい者が入って、また一年で出ます」
オルドの声は、平らだった。
「新しい者は、必ず言います。前のやり方は古い、と」
「はい」
「そのたびに、塩の場所が変わります」
オルドは、そこで足を止めた。
「わたしは、三十年、塩を探しております」
◇
祝いの席までは、四日あった。
◇
台所は、広かった。
やどりぎ亭の十倍はあった。竈が六つ。人が四十人。
みんな、動いていた。速かった。腕は、たしかにいい。
でも、ぶつかっていた。
鍋を運ぶ人と、皿を運ぶ人が、同じところで三度すれちがって、三度とも肩が当たった。
だれかが「塩は」と叫んだ。三人が別々の場所を指さした。
◇
僕は、手が出そうになった。
桶の位置を変えれば、ぶつからなくなる。棚の三段目に塩を置けば、みんな探さなくなる。
止めた。
ここは、僕の台所じゃない。
僕がやったら、明日にはまた、だれかが探す。
◇
四日のあいだ、僕は隅で皿を拭いた。
右手が動かないので、左手だけで拭いた。遅かった。だれも文句を言わなかった。だれも僕を見なかった。
四十人のなかで、僕はいないのと同じだった。
四年間、そうやってきたから、慣れていた。
◇
広間の扉が、少しだけ開いていた。
僕は、そのすきまから見た。
四か月前は、逆だった。台所から広間を見ていた。あのときは、君が入ってくるのを見ていた。
◇
君は、いた。
長い卓のまんなかに座っていた。
着ているものは、白かった。見たことのない色だ。髪も、結ってあった。あんなふうにしているのを、四年で一度も見たことがなかった。
両側に人が座っていた。座る場所は、決まっているんだと思う。
君の前に、皿があった。手はつけていなかった。
◇
君の右手が、動いた。
袖のすそを、指先でつまんでいた。
離して、またつまんだ。
言葉を探している。
四年見ていれば、わかる。
◇
だれも、それを見ていなかった。
両側の人も、正面の人も、卓についた三十人も、だれも。
僕は、扉から離れた。
◇
台所に戻って、荷物をほどいた。
布を二重に外した。
欠けたコップが出てきた。ふちの欠けたところが、十日前と同じ角度でこっちを向いていた。
僕は、盆を一枚取った。
その上に、コップを置いた。
ほかには、何ものせなかった。
「ハルヤ殿」
オルドが、うしろに立っていた。
「それは、なんです」
僕は盆を持ちあげた。
左手だけで持つと、少し傾いた。
「置き場所です」
◇
オルドは、しばらく盆を見ていた。
それから、僕の前を歩いた。
「わたしが、扉を開けます」
「止めないんですか」
「三十年、塩を探しました」
オルドは、こちらを見なかった。
「探すのは、もう飽きました」
◇
扉が開いた。
広間が、静かになった。
卓についていた三十何人かが、いっせいにこっちを見た。
僕は、歩いた。
盆を左手だけで持っていたので、少し傾いていた。コップが盆の上ですべって、かたん、と鳴った。
その音だけが、広間に響いた。
◇
君が、顔を上げた。
◇
卓の前に立った。
君の前には、白い皿が三枚、きれいに並んでいた。銀の匙が二本。硝子の杯がひとつ。全部、置く場所が決まっているんだと思う。
僕は、盆からコップを取った。
欠けたやつだ。ふちが少し欠けて、二年前、君がまだ使えると言ったやつ。
それを、皿と皿のあいだに置いた。
いちばん邪魔なところに。
◇
「なんだ、これは」
君のとなりに座っていた男が言った。
僕は答えなかった。
君に言った。
「三月のあいだ、これ、うちの棚にありました」
君は、コップを見ていた。
「いちばん邪魔なところです」
「……うん」
「毎日、ぶつかりました」
「うん」
「動かさないでと言われたので、動かしませんでした」
僕は、少し息をした。
「今日だけ、動かしました」
◇
だれかが立ちあがった。奥のほうだ。
「つまみ出せ」
声が上がった。
僕は、動かなかった。
左手で持った盆が、まだ少し傾いていた。
◇
君が、手をのばした。
コップを、両手で持った。
持ちかたが、変わっていた。
三月前は、桶を胸の前で抱えていた。今日は、指をふちにかけていた。傾いても止まるように。
どこかで覚えたんだと思う。だれかに教わったんじゃなくて。
◇
君が、立ちあがった。
椅子が、石の床でこすれて鳴った。
「お父さま」
君は、卓の奥に向かって言った。
白い髪の人が、椅子に深く座っていた。顔色が悪かった。
「三度、お断りしました」
「ユキ」
「四度めです」
◇
「家がなくなるぞ」
卓の奥から、声が上がった。
「借財は、どうする」
「わたしが払います」
「払えるものか」
「四十年かかっても払います」
君は、コップを持ったまま言った。
「家がなくなって困るのは、わたしじゃない」
「ユキ」
「困るのは、わたしをここに座らせた人たちです」
◇
「わがままを言うな」
となりの男が、君の袖をつかんだ。
「席は、もう用意してある」
「はい」
君は、袖を引かなかった。
つかまれたまま、言った。
「用意してくださいました」
「そうだ」
「着るものも、座る場所も、食べるものも」
君は、コップを胸のあたりで持っていた。
「十七年、ぜんぶ用意してもらいました」
◇
男の手が、少しゆるんだ。
「わたしのコップだけ、なかったんです」
君は言った。
「一度も」
◇
広間は、静かだった。
だれかの椅子が鳴った。だれかが咳をした。
君は、袖を引き抜いた。
破れる音がした。すそのところが、少し裂けた。
僕が縫ったところじゃなかった。
◇
「ハルヤ」
君が言った。
「はい」
「これ、まだ使える?」
僕は、コップを見た。
ふちの欠けたところが、四月前と同じ角度でこっちを向いていた。
「使えます」
◇
君は、歩きだした。
僕は盆を卓の上に置いて、うしろについた。
扉のところで、オルドが立っていた。
扉を、片手で押さえていた。
僕たちが出るまで、そうしていた。
◇
廊下に出て、石の階段をおりて、門を抜けた。
外は、雨だった。
冬が来る前の、あの重いやつだ。
君が立ち止まって、空を見た。
それから、僕を見た。
「かさ」
「はい」
「持ってきてない」
「僕もです」
君は、笑った。
四年で、はじめて見る笑いかただった。




