最終話 いつも通り
十日かけて、歩いて帰った。
雨は、三日でやんだ。
途中の村で、かさを一本買った。二人で一本だったので、片方の肩がいつも濡れていた。交代で濡れることにした。
四日めの宿で、君が湯を沸かした。
強すぎた。鍋の底が焦げた。
宿の人が困った顔をしたので、僕が謝って、代金を払った。
君は謝らなかった。
部屋に戻ってから、「あれ、わたしがやったって残るのかな」と聞いた。
「残ります」
「よかった」
君は、それだけ言って寝た。
◇
やどりぎ亭が見えたとき、門のところにトキさんが立っていた。
街道を見ていた。いつからそうしていたのかは、聞かなかった。
「遅いよ」
それだけ言って、中に入っていった。
◇
台所には、椅子が三つあった。
「三月前に買っといた」
トキさんは、前掛けで手をふきながら言った。
「馬鹿だね、そんな顔しなさんな」
君は、その椅子に座った。
座って、しばらく立たなかった。
三つめの椅子は、脚が一本だけ短い。
床の石が凹んでいるところに、その脚がちょうど入る。だから座っても、がたつかない。
そこに置く前提で買ったんだと思う。
三月前に。
◇
王都からは、それきり何も来なかった。
君は、それでいいと言った。
◇
僕の右手は、半分だけ戻った。
玉じゃくしを持てる日と、持てない日がある。冷たい朝は、だめだ。
だから、作るのは君とトキさんになった。
僕は、横で順番を言う。
豆を入れる。灰汁を取る。ここで火を弱める。香草は、手のひらであたためてからちぎる。
言うだけなら、口はまだ使える。
君の火加減は、まだ荒い。
でも、灰汁を取るのがうまくなった。あれは根気の作業で、根気は教えられない。自分で身につけるしかない。
トキさんは、それを「見どころがある」と言った。
君はその日、いちにち機嫌がよかった。
◇
春に、僕は台所の権利を半分、買った。
四年ぶんの給金を、そのまま使った。
「安く売ってやったよ」
トキさんはそう言ったけれど、たぶん、そんなことはない。
「あたしはもう、火の番はいいよ」
「はい」
「その代わり、金はあたしが取る」
「はい」
◇
棚は三段ある。
窓は、東を向いている。
四年前、それを言って笑われた。
笑った人が払った金で、いま、それを買った。
◇
月に一度、君は封をひとつ出す。
中身は、その月に働いたぶんの半分だ。
宛先は、王都の貸し手。
四十年ぶんのうちの、一月ぶん。
はじめての月、封を出したあと、君はずいぶん長いこと井戸のふちに座っていた。
二月めからは、出したらすぐ台所に戻ってくるようになった。
三月めは、出す日を忘れていて、僕が言った。
君は「あ」と言って、走っていった。
◇
宿は、あいかわらず飯が出ない。
夕方、その人に話を聞く。窓はどっち側でしたか。床は板ですか、土ですか。玉じゃくしは右手ですか。
夜、その人が自分で火の前に立つ。
朝は、何も出さない。
うまい宿だとは、だれも言わない。
でも、来月また通る、と言って出ていく人が、少しずつ増えた。
◇
いちど、料理人が来た。
宿場町でいちばん腕がいいと言われている人らしい。うちの飯を食いに来たと言うので、出ませんと答えた。
その人は、二晩泊まった。
二晩めに、自分で鍋の前に立った。
できたものを食べて、長いこと座っていた。
帰りぎわに、「あれは母親のじゃなくて、女房のだった」と言った。
自分でも意外だったらしい。
◇
ガレスとセラは、たまに寄る。
ガレスは、ブーツを自分で磨くようになっていた。相変わらず下手で、つなぎ目に泥を押しこんでいる。
教えていない。
あれは、あの人が自分でつけた道だ。
セラは、来るたびに台所に入ってくる。豆の固さを僕に見せて、それから塩を最後に入れる。
◇
冬が終わるころ、王都から封がひとつ来た。
白い木の紋がついていた。
開けると、一行だけ書いてあった。
『塩は、棚の三段目に置きました』
僕は、それを二度読んだ。
オルドさんが、はじめて自分で決めたんだと思う。
三十年、探したあとで。
◇
紙を裏返したら、追伸があった。
『元勇者ガレス殿を、台所方の下働きとして雇い入れました。
塩の場所を、まだ覚えられずにおられます』
僕は、それも二度読んだ。
棚の三段目だ、と思った。
教えたことがある。四年のあいだに、たぶん十回は。
◇
手紙を火にくべようとして、やめた。
棚の、いちばん上の段に置いた。
そこは、僕の手がとどかない高さだ。踏み台がいる。
たまに見返すくらいで、ちょうどいいと思った。
◇
その夜、みんなが寝てから、僕は台所におりた。
棚の、いちばん邪魔なところに、君のコップがある。
今日も一度ぶつかった。
僕のコップは、右手のとどく、ほんの少しだけ奥に置いてある。
◇
置いた。
においがした。
豆と、香草と、焦げた鍋の底の。
それから、皿の割れる音。トキさんの舌打ち。椅子の脚が石でこすれる音。
君が、鍋のふちで指を焼いて、小さい声を出す音。
◇
僕はそこに、手をかざした。
あたたかかった。
四年間、僕はこの湯気に、ひとりで立っていた。
毎晩ぜんぶ元に戻して、朝には前の日がどこにもなくなっていて、だからにおいには僕しかいなかった。
いまは、ちがう。
焦げも、ひびも、割れた皿も、ぜんぶ残してある。
残してあるから、みんないる。
トキさんの旦那さんの桶は、いまも戸口から三歩めにある。
だれもつまずかなくなった。よけかたを、みんなが覚えたからだ。
覚えたということは、あの人がまだそこにいるということだと思う。
◇
僕がおぼえているのは、いまでもコップの置き場所だけだ。
剣は使えない。魔法も使えない。四年ぶんと、四月ぶんの手つきがあるだけだ。
でも、それでいい。
置き場所は、いま、二つある。




