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焦げたまま置いておく

その夜、僕は眠れなかった。


 屋根裏で、板が一枚きしんだ。君も眠っていないんだと思った。


 僕は起きて、台所におりた。


 荷物からコップを出して、置いた。


 右手のとどく、ほんの少しだけ奥。


    ◇


 湯気のにおいがした。


 今日のやつだ。


 焦げた鍋の底のにおい。割れた皿の、土のにおい。


 それから、水の音がした。


 井戸の水を、腕にかけつづける音だった。


 僕は、そこに手をかざしたまま動けなかった。


 きのうまで、においには僕しかいなかった。


 今日は、君がいる。


 君が今日やったのは、縄を外したことと、鍋を焦がしたことと、皿を割ったことだけだ。うまくやったことは、ひとつもない。


 でも、においに残ったのは、そっちだった。


    ◇


 四年間、僕は毎晩、ぜんぶ元に戻していた。


 焦げは落とす。ひびは伏せる。泥は掻く。朝になると、前の日はどこにもなくなっていた。


 あの台所のにおいに、ガレスもセラも君もいなかったのは、たぶん、そのせいだ。


 全部、僕が消していた。


    ◇


 僕は焦げた鍋を持って、屋根裏に上がった。


 板をはずしたところから、月が入っていた。


 君は壁にもたれて座っていた。左腕の布だけが、白く光って見えた。


「ハルヤ?」


「これ」


 僕は鍋を、板の上に置いた。


「君が焦がしたやつです」


 君は鍋を見て、それから僕を見た。


「……磨きに来たの」


「磨きません」


「え?」


「明日も、磨きません」


    ◇


 うまく言えなかった。


 でも、言った。


「四年間、僕は毎晩、ぜんぶ元に戻してました。焦げも、泥も、ひびも。朝になると、前の日がどこにもなくなってました」


「うん」


「だから、僕の一日には、僕しかいませんでした」


 君は動かなかった。


「君が今日やったことは、全部失敗です」


「……知ってる」


「残ってます」


 僕は鍋の底を指さした。まんなかに、黒い輪ができていた。


「ここに」


    ◇


 君はしばらくそれを見ていた。


 それから、指先で、そっと黒いところに触った。


 消えなかった。


「消えない」


「消しません」


 君は、指をそこに置いたままだった。


「明日も」


 声が、少しかすれていた。


「失敗して、いい?」


「たくさんしてください」


 少し考えて、言い直した。


「手は、出します。出さないのは、放っておくことだって言われたので」


「うん」


「でも、直しません」


 板のすきまから、風が抜けた。


 三枚はずしておいてよかった、と思った。


    ◇


 朝、階段をおりたら、トキさんが戸口に立っていた。


 外を見ていた。


「ハルヤ」


「はい」


「表に、馬車が来てる」


 トキさんは、こちらを見なかった。


「王都の紋がついてるよ。あんたに用だとさ」


    ◇


 馬車は二頭立てだった。


 扉に、白い木の紋がついていた。王都から来た印だ。四年前、ガレスが呼ばれたときに一度だけ見たことがある。


 降りてきたのは、年配の男だった。


 外套に、泥がついていなかった。


 あの街道を来て泥がついていないということは、途中で必ず一度、拭いているということだ。


「ハルヤ殿で、いらっしゃいますか」


 男は帽子を取って、頭を下げた。


「オルドと申します。王都で、台所方の人繰りをしております」


「人繰り、というのは」


「宮仕えの者の、出し入れです」


 オルドは帽子を胸に当てた。


「ついでに、勇者様がたの登録も扱っております。年に一度、更新を」


「登録」


「素行の届けも、一緒に出していただきます。給金の未払い、暴行、詐称。そういうものが出れば、称号は返上です」


 オルドは、なんでもないことのように言った。


「まあ、届けを出す者などおりませんが」


    ◇


「四十人を、一晩で」


 オルドは言った。


「そう聞きました。伝令の者が、あちこちで話しておりましてな」


「あれは、女将さんが作りました」


「あなたは、何をなさった」


「……渡しただけです」


「渡しただけ」


 オルドは、うなずいた。


「その渡しただけを、四十人ぶん、一度もぶつからずに」


    ◇


「王城の台所方に、来ていただきたい」


 オルドは言った。


「給金は、こちらの三十倍。部屋も、着るものも用意します」


 僕は断ろうとした。


 その前に、オルドが続けた。


「王城の台所には、四十人おります」


「はい」


「四十人とも、去年から来た者です。その前の四十人は、代替わりのときに、みな出ました」


 オルドは、宿の壁を見ていた。


「だれも、去年より前のやり方を知らんのです。塩をどこに置くのかも、鍋をどの順で出すのかも」


 僕は黙っていた。


「毎年、はじめからやり直しております」


    ◇


「行きません」


 言ってから、少し驚いた。思ったより早く出た。


「理由をうかがっても」


「ここで、はたらいてますから」


 オルドはうなずいた。怒らなかった。


「そうですか」


    ◇


 そのとき、オルドが僕のうしろを見た。


 ユキが、桶を持って立っていた。


「……失礼ですが」


 君は目をそらして、井戸のほうへ歩いていった。


 オルドは、それ以上何も言わなかった。


 言わなかったことのほうが、気になった。


    ◇


「三日、お考えください」


 オルドは帽子をかぶった。


「馬車は、三日後にまいります」


 それから、乗りこむ前に、街道のほうを振り返った。


「ところで」


「はい」


「橋は、来月には直ります」


 オルドは、こちらを見なかった。


「王都から石工が四十人、もう出ております。直れば、この街道の客は、半日先の宿場町まで一気に行くようになりますな」


 悪意は、なかったと思う。


 ただ、明日の天気を言うみたいだった。


 ガレスと、同じ調子だった。


    ◇


 馬車が行ってしまってから、トキさんが台所の椅子に座った。


「知ってたよ」


 トキさんは言った。


「橋が落ちたとき、うれしかったんだ。ひどい話だろ」


 僕は、何も言わなかった。


「三年、客が来なかった。屋根を葺きかえたのは、去年の蓄えを全部使ったからさ」


 トキさんは、指で台のふちをなぞった。


「来月には、元どおりだよ」


 僕は、その手を見ていた。


 なぞりかたが、君と同じだった。言葉を探しているときの手だ。


    ◇


 台所の戸が開いた。


 ユキが立っていた。まだ桶を持ったままだった。


「ハルヤ」


「はい」


「あの人、わたしの名前を呼びかけた」


 君は、桶を胸の前で抱えなおした。


「わたし、王都から逃げてきたの」


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