先に手が出てしまう
「わたしは、どうすればいい」
僕は、答えられなかった。
かわりに、こう言った。
「今夜は、泊まってください。屋根裏ですけど、板を三枚はずしたので、風は抜けます」
君は、しばらく僕を見ていた。
それから、うなずいた。
◇
朝、勇者一行が出ていった。
外に出たら、ガレスが井戸のわきにしゃがんでいた。
ブーツを片方脱いで、木の枝で泥を掻いていた。掻きかたが下手で、革のつなぎ目に泥を押しこんでいた。
教えようかと思った。
やめた。
ガレスも僕を見て、何も言わなかった。それから枝を持ちなおして、さっきより浅い角度で掻きはじめた。
「塩は、最後ですよね」
セラが荷馬車から顔を出して言った。
「最後です」
「豆が固くなるから」
「はい」
セラは何度かうなずいて、引っこんだ。
荷馬車は、二人を乗せて出ていった。
街道の土に、車輪の跡がふたすじ残った。
昼には、消えていた。
◇
十日ほどして、若い男が宿に来た。
泊まりに来たんじゃなかった。仕事はないか、と聞きに来た。
「前は、どこで」
トキさんが聞いた。
「勇者様のところで」
僕は、皿を洗う手を止めた。
「三日で辞めました」
男は床を見ていた。
「三人めだったんです。ぼくの前に、二人」
◇
「なんで辞めたんですか」
僕が聞くと、男は少し考えた。
「……ブーツを磨いたんです。初日に」
「はい」
「そしたら、置く場所がちがうって怒られて。次の日、言われたとおりの場所に置いたら、なんでここに置いたって怒られて」
「同じ場所ですか」
「同じ場所です」
男は、指で膝をこすった。
「三日めに、もういいって言われました」
◇
僕は、皿を拭いた。
ガレスのブーツは、朝は戸口の右、夜は火のそば。乾き具合で置く場所が変わる。
四年、そうしてきた。
言ったことは、一度もない。
聞かれたことも、一度もない。
「あの人、礼を言わないんですよ」
男が言った。
「はい」
「知ってたんですか」
「四年いました」
男が、顔を上げた。
しばらく、僕を見ていた。
「……よく、四年もいましたね」
僕は、答えなかった。
◇
「うちは人手はいらないよ」
トキさんが言った。
「でも、飯は食ってきな」
◇
「もうひとり、置くのかい」
トキさんが戸口で腕を組んでいた。
僕は、答えられなかった。
トキさんはため息をついて、ユキのほうを見た。
「三日、はたらくかい。飯と寝床は出す。給金は三日たってから決める」
「はい」
君は、すぐに返事をした。
僕のときより、ずっと早かった。
◇
その日、君は何もできなかった。
つるべをまっすぐ引いて、縄を外した。
火を強くしすぎて、鍋の底を焦がした。
乾いた布と濡れた布を取りちがえて、皿を六枚、拭きなおすことになった。
君は魔法使いだ。指を鳴らせば火が出る。でも、火が出るのと、火加減がわかるのは、別のことだった。
僕は、ぜんぶ直した。
直すつもりはなかった。
君が桶に手をのばすと、僕の手がもう桶を持っていた。
君が布に手をのばすと、僕の手がもう布をひろげていた。
君が「あ」と言って、手を引っこめる。
三度めに、君は手をのばすのをやめた。
僕は、それに気づいていた。
気づいていて、手を止められなかった。
止めようとすると、体のほうが先に動く。四年ぶんの道は、そういう道だった。だれかがつまずく前に、僕がそこにいる。
◇
「ハルヤ」
夕方、皿を洗っているときに、君が言った。
「わたし、なんにもしてない」
「してます」
「してない」
君は台のふちを指でなぞっていた。外套のすそをつまむのと、同じ手つきだった。
「ずっと、見てただけ」
「見てるのは、してることです」
「ちがう」
「ちがわないです」
言ってから、自分がそれを一度も信じていなかったことに気がついた。
四年間、僕は見ているだけの人だった。そしてそれを、していることだとは、一度も思わなかった。
鍋の底で、湯が鳴っていた。
◇
夜、全部を終えてから、荷物のコップを出した。
右手のとどく、ほんの少しだけ奥。
置いた。
湯気のにおいが、した。
今日のやつだ。焦げた鍋の底のにおいまで、きちんと混じっていた。
僕はそこに手をかざした。
あたたかかった。
それから、気がついた。
このにおいのどこにも、君がいない。
においが覚えているのは、僕の手が通った道だけだ。桶も、布も、火も、皿も、ぜんぶ僕がやった。だから、ぜんぶ僕のにおいがする。
君は今日、この台所に一日いた。
なのに、僕の一日のどこにも、君はいなかった。
◇
次の朝、僕は決めた。
手を出さない。
君が桶に手をのばしたら、自分の手は後ろで組む。そう決めた。
◇
つるべを、君が引いた。
右に半分まわしてから、と言いかけて、飲みこんだ。
縄が外れた。
君は井戸のふちに手をついて、しばらくそこを見ていた。それから縄を拾って、巻きなおしはじめた。
巻きかたが逆だった。あれだと、次に引いたときにまた外れる。
言わなかった。
僕は、自分の手を後ろで組んでいた。
◇
火をおこすのに、君は二度失敗した。三度めでついた。強すぎた。
鍋の底が、また焦げた。
僕は、自分の手を後ろで組んでいた。
◇
昼、客が七人来た。
君が皿を運んだ。二枚を、片手に一枚ずつ、まっすぐに持って。
持ちかたが逆だった。親指を皿のふちにかけないと、傾いたときに止まらない。
言いかけて、飲みこんだ。
三歩めだった。
戸口から三歩めの、あの場所で。
君が、つまずいた。
◇
僕は、知っていた。
そこに桶があることも、そこで人がつまずくことも、この宿の人が三年ぶん毎日つまずいてきたことも、ぜんぶ知っていた。
皿が二枚割れた。
熱いのが、君の左の腕にかかった。
◇
トキさんが走ってきて、君を井戸まで引っぱっていって、水をかけつづけた。
僕は、突っ立っていた。
手を、まだ後ろで組んでいた。
「ハルヤ」
トキさんは、君の腕に水をかけながら言った。
「あんた、なんで見てたんだい」
「……手を、出さないようにしてました」
トキさんは、僕を見なかった。
「馬鹿だね」
水の音がしていた。
「それは、放っておくって言うんだよ」
◇
夜、君の左腕には布が巻かれていた。
赤い跡が、手首から肘の手前まで残った。
セラがいれば、たぶん朝には消えている。指をひとつ鳴らすだけでよかった。
ここには、だれもいない。
僕が選んだのは、そういう場所だった。
トキさんは、水を止めなかった。
ずいぶん長いこと止めなかった。あとで聞いたら、火傷は最初の四半刻で決まるんだと言っていた。
どこで覚えたのかは、聞かなかった。
◇
「ごめん」
君が言った。
「僕のせいです」
「ちがう」
「ちがいません」
二人とも、謝りかたを間違えていた。
君は、布を巻いた腕を見ていた。
それから、言った。
「わたし、明日、出ていく」




