置き場所
ガレスは、しばらく戸口から動かなかった。
それから台所に入ってきた。四年間、一度も入ってこなかった場所に、二歩で入ってきた。
入ってきて、天井を見た。
それから棚を見て、竈を見て、流しを見た。
はじめて見る顔だった。
四年、この人は毎日ここで作ったものを食べていた。作っている場所を見たのは、たぶん今日がはじめてだ。
「なんでここにいる」
「はたらいてます」
「はたらく」
ガレスは手のなかの椀を見た。空になっていた。
「これを作ったのは、お前か」
「はい」
◇
「ちょうどよかった」
ガレスは椀を台に置いた。
「戻ってこい」
僕は手をふいた。
「セラは飯が作れない。おれのブーツは石になる。ユキの外套は落ちる。井戸の縄は外れた。二十日かけて、六日ぶんしか進んでいない」
ガレスは指を折って数えた。ひとつずつ、正確に。
「効率が悪い。お前がいれば直る。だから戻れ」
「給金は」
僕は聞いた。
「前と同じだ」
「はい」
「上げてほしいのか」
「いえ」
上げてほしいわけじゃなかった。
ただ、そこを一度も考えたことがない人なんだな、と思っただけだった。
謝らなかった。
たぶん、謝ることだと思っていない。ガレスはそういう人だ。悪気がないぶん、まっすぐ刺さる。
◇
「ごめんなさい」
セラが戸口に立っていた。いつからいたのか、わからない。
「わたしが来たから」
「ちがいます」
「ちがわない」
「ちがいます」
僕は棚から塩の壺を取った。
「塩は、最後です」
「え?」
「豆と肉を入れて、麦を入れて、煮えてから、最後に塩。いっぺんに入れると、豆が固いままになります」
セラの目が、少し赤くなった。
「……知らなかった」
「知らなくていいことです。だれかが知っていれば」
◇
「ひとつ、聞いていいですか」
僕は言った。
「僕がここにいること、二人はどう聞いてました」
「自分から抜けたって」
セラが答えた。
ユキも、うなずいた。
僕は、ガレスを見た。
ガレスは、僕を見なかった。
「四年ぶんの給金は」
「……なんの話だ」
「宿代と飯代で相殺だと、言いましたよね」
台所が、静かになった。
「ガレス」
セラの声だった。
さっきまでとは、ちがう声だった。
「……効率の話だ」
ガレスは、それだけ言った。
◇
「わたし、聞かなかった」
セラは、床を見ていた。
「十日いて、一度も。あなたが何をしてるのか」
「聞かれても、答えることはなかったです」
「そんなことない」
「塩のふたが固い、くらいですよ」
「それが、知りたかった」
◇
それから、全部言った。
ブーツの泥は、その日のうちに。乾かすなら、火からこぶし二つぶん離す。近すぎると革が割れる。
外套の洗濯ばさみは四つ。右肩に二つ、すそに二つ。三つだと、右肩に重さが集まって布が伸びる。
つるべは、右に半分まわしてから引く。
ランプの芯は、朝いちばんに切る。夜に切ると、朝、油が吸い上がっていない。
セラは、日に当たると背中が赤くなる。昼の行軍のときは、薄いほうの外套を出す。
ユキは水を飲むのが遅い。水袋はいちばん最後に渡す。先に渡すと、忘れて空にする。
ガレスは、負けた日に飯を残す。その日は量を半分にして、二回に分けて出す。
全部、言った。
ガレスは、途中で手を上げた。
「もういい」
「まだあります」
「そんなものは覚えられん」
ガレスは、僕の言葉をさえぎった。
「覚える必要もない。お前が来ればいい話だ」
◇
セラが、卓の上の紙を引き寄せた。
炭を持って、書きはじめた。
「セラ」
「書きます」
「時間の無駄だ」
「書きます」
セラは顔を上げなかった。
僕は、もう一度、はじめから言った。
ゆっくり言った。書ける速さで。
◇
「じゃあ、戻れ」
ガレスが言った。
「戻りません」
台所が、静かになった。
自分でも、思ったより静かな声だった。
先週だったら、たぶん言えなかった。三日前でも無理だったと思う。
言えたのは、ゆうべ、この台所が僕の手に道を一本くれたからだ。
道が一本しかない人間は、断れない。
◇
「なぜだ」
ガレスの声に、はじめて怒りが混じった。
「全部、お前がやってたことだろう。お前の場所だろう」
場所、と言われて、少し考えた。
四年間、あの宿で僕に決まっていた場所は、二つあった。
台所の、流しの前。
それから、廊下の、みんなが通り終わったあと。
僕は荷物からコップを出した。
欠けたやつだ。二年前、ユキが落としかけて、まだ使えると言ったやつ。
それを、台の上に置いた。
右手のとどく、ほんの少しだけ奥。
「四年間」
僕は言った。
「僕は、みんなの明日を用意していました」
「ああ」
「でも、このコップの置き場所は、あの台所のどこにもありませんでした」
ガレスが口を開けた。
「ここには、あります」
◇
だれも、何も言わなかった。
鍋の底で、豆が鳴っていた。
ガレスはしばらく僕を見て、それから椀を持って、流しに置いた。
置く場所は、合っていた。
いつも僕がそこに置いていたからだ。四年のあいだに、一度くらいは、見ていたんだと思う。
見ていて、覚えていて、それでも、誰にでもできると言った。
どっちも本当なんだと思う。
人は、毎日見ているものを、見ていないことにできる。
「……そうか」
ガレスはそう言って、出ていった。
セラが一度こちらを見て、頭を下げて、続いた。
◇
ユキだけが、残っていた。
まだ外套を脱いでいなかった。右肩の布が、伸びたままだった。
君は、手のなかの洗濯ばさみを見ていた。
それから、顔を上げた。
「じゃあ」
声が、かすれていた。
「わたしは、どうすればいい」
僕は、答えを持っていなかった。
四年間、だれからも、その質問をされたことがなかった。




