いつもの塩加減
鞄には、四年ぶん、僕の手の跡がついている。
留め具の位置。紐の結びかた。底の擦り切れたところに当てた革。
僕は、窓から離れた。
台所に戻って、手を洗った。指の布をほどいて、水をかけて、新しい布を巻いた。それだけのあいだに、いろんなことを考えたと思う。あとで思い出そうとしたら、ひとつも残っていなかった。
◇
トキさんが入ってきた。
「表に、勇者様御一行だとさ」
「はい」
「部屋は満員だよ」
「屋根裏があります。板を三枚はずせば、風が抜けます」
「……あんた、いつのまに屋根裏まで」
「ゆうべ、なぞりました」
トキさんは僕をしばらく見て、それからランプを持ち直した。
「入れるんだね」
「宿ですから」
◇
戸のすきまから、広間が見えた。
橋の手前まで行って、引き返してきたんだと思う。
ガレスが先に入ってきた。
ブーツが泥だらけだった。ただの泥じゃない。乾いて、また濡れて、そのうえに新しい泥がついた、あの黒さだ。革のつま先に、白いひびが入っていた。
剣の柄の革も、汗で黒くなっていた。巻きなおしていない。
次にセラが入ってきた。法衣のすそが重そうだった。泥を吸った布は、重い。
最後にユキが入ってきた。
外套のすそが、ほつれていた。
右の肩のところだけ、布が伸びている。三つでとめたから、そこに重さが集まったんだ。
君は広間を見わたして、天井を見て、それから床を見た。
◇
「王都まで、あと何日だ」
「六日です」
「二十日かかってるぞ」
ガレスが椅子に座って、足を投げ出した。
「街道の飯は、どこもまずい。王都に着いたら、まともなものを食う」
トキさんが注文を取りに行った。
「三人で、部屋はひとつでいい。あとは安くしろ」
「うちは前払いだよ」
「勇者の一行だぞ」
「前払いだよ」
僕は、戸のすきまから見ていた。
四年間、宿代を値切るのはガレスの仕事だった。値切ったぶん、あとで僕がその宿の薪を割っていた。
トキさんが注文を取って、戻ってきた。
「三人ぶん。あるもんでいいってさ」
僕はうなずいて、鍋を火にかけた。
豆を入れた。干し肉を入れた。麦を入れた。
塩の壺に手をのばして、そこで止まった。
この宿の塩加減がある。トキさんのやり方だ。今日、四十人が食べたのはそっちだった。
もうひとつある。
四年ぶん、僕がやってきたやつ。
しばらく、壺を見ていた。
それから、指が勝手に動いた。
ひとつまみ。もうひとつまみ。それから、ほんの少し。
いつもの塩加減だった。
なんでそうしたのか、自分でもわからない。たぶん、四年やったからだ。四年やったことは、そう簡単に手から出ていかない。
◇
トキさんが運んでいった。
僕は戸のすきまから見ていた。
ガレスが椀を持って、ひとくち飲んだ。
止まった。
二口めを飲んで、椀を置いて、それから、もう一度持ちあげた。
「なあ」
声が、少しかすれていた。
「これ」
「なによ」
セラが顔を上げた。
「いや」
ガレスは椀を見ていた。
「……いや、なんでもない」
◇
ユキは、椀に口をつけていなかった。
両手で持ったまま、湯気のほうをじっと見ていた。
それから、椀を置いた。
立ちあがった。
まっすぐ、台所の戸のほうへ歩いてきた。
◇
戸が開いた。
ユキが立っていた。
僕は玉じゃくしを持っていた。持ったまま、下ろすのを忘れた。
君は口を開けて、閉じた。それから指先で外套のすそをつまんだ。
言葉を探している。四年見ていれば、わかる。
僕は玉じゃくしを鍋のふちに引っかけた。柄を右に倒して。手が勝手にやった。
「ハルヤ」
「うん」
それきり、二人とも黙った。
火の音だけが、していた。
僕は、豆を混ぜた。混ぜなくてもいい豆だった。
◇
「そのスープ」
君が言った。
「うん」
「同じ味だった」
「うん」
「なんで」
僕は答えられなかった。
手が勝手に、というのは、たぶん答えじゃない。
◇
君は外套のポケットに手を入れて、何かを出した。
洗濯ばさみだった。
新しいやつだ。木の色が白い。
「三つだと落ちるって、言ってた」
君はそれを、両手で持っていた。
「あの朝」
「うん」
「街で買った。四つめ」
「どこで」
「三つめの宿場。名前は忘れた」
君は、洗濯ばさみを指でつまんで、開いて、閉じた。
「木のと、鉄のがあった。鉄のほうが、たぶんいい。落ちないから」
「はい」
「でも、あなたが使ってたのは、木だったから」
君は少しだけそれを差し出して、それからひっこめた。
「でも、どこにとめるのか、わからなかった」
◇
「ハルヤ」
「はい」
「あなた、自分から抜けたって聞いた」
鍋の底で、豆が鳴っていた。
「……そうですか」
「ちがうの?」
僕は、玉じゃくしの柄を右に倒した。
ここで本当のことを言えば、たぶん君は泣く。泣かせたところで、僕の四年ぶんの給金は戻らない。
「もう、いいです」
君は、僕の顔をじっと見ていた。
見ていたけれど、それ以上は聞かなかった。
◇
僕は、君の外套の右肩を見た。
布が伸びて、縫い目のところが白くなっている。もう少しで、ほつれが袖まで届く。
「すそも、ほつれてます」
「うん」
「縫います。脱いでください」
君は、外套の襟に手をかけた。
かけたまま、動かなかった。
「ハルヤ」
君は外套を脱がずに言った。
「戻ってきて」
鍋の底で、豆が鳴っていた。
◇
僕は返事をしなかった。
かわりに、棚から針と糸を出した。ゆうべ、なぞった場所だ。目をつぶっても取れる。
四年ぶんと、一晩ぶん。
僕の手には、二本の道がある。
どっちを歩くのかは、まだ決めていなかった。
◇
台所の戸が、もう一度開いた。
ガレスが立っていた。
僕を見て、手のなかの椀を見て、それからもう一度、僕を見た。
「……ハルヤ?」




