手に道をつける
「無理だよ」
伝令が出ていったあと、トキさんは台所の椅子に座ってそう言った。
「四十人だ。うちは、多くて十人の宿だよ」
「鍋は」
「え?」
「鍋は、いくつありますか」
トキさんが僕を見た。
「……大きいのが二つ。小さいのが四つ」
「豆と、干し肉と、麦は」
「蔵にある。半月ぶんは」
「なら、足ります」
僕は袖をまくった。
「足りないのは、僕がここを知らないことだけです」
◇
トキさんは、しばらく僕を見ていた。
「あんた、なんでそんなに落ち着いてんだい」
「落ち着いてないです」
「そうは見えないよ」
「四十人ぶんの皿なら、洗ったことがあります」
「いつ」
「去年の、王都の祝いのときに。あのときは、二百人でした」
トキさんが、口を開けた。
「洗ったのは、僕ひとりです」
「……作ったのは」
「作るのは、料理人がやります。僕は、渡して、洗うだけです」
◇
「トキさん」
「なんだい」
「給金の話ですけど」
「三日たってからだって言ったろ」
「半分、預かっててもらえませんか」
トキさんが眉を上げた。
「なんでだい」
「いつか、自分の台所を持ちたいので」
言ってから、また少し恥ずかしくなった。
二度めだった。二度言うと、少しだけ本当になる気がした。
「……ふうん」
トキさんは前掛けで手をふいた。
「じゃあ、四十人ぶん、ちゃんとやりな」
◇
その夜、僕は台所のものを、全部いっぺんに片づけた。
塩の壺を持ちあげて、流しのわきから、棚の三段目へ。そしてすぐに、流しのわきへ戻す。ふちから、指二本ぶん。
玉じゃくしを鍋から出して、壁の釘にかけて、また鍋に戻す。柄を右に倒して、ふちに引っかける。
桶をどけて、戻す。戸口から三歩め。
意味のない作業に見えると思う。
でも、そうじゃなかった。
片づけるというのは、元がどこにあったかを手が一度なぞるということだ。四年ぶんの道は、そうやってできた。毎朝、同じところを通ったから、手が勝手に歩けるようになった。
なら、一晩で四年ぶんを通ればいい。
同じところを、何度も。
◇
小さい鍋を四つ。玉じゃくしを三本。木のさじを十一。皿を六十二枚。椀を四十。塩、こしょう、干した香草の束が五つ。麦の袋、豆の袋、油の甕。まな板を二枚。包丁を四本。
持ちあげて、置く。持ちあげて、置く。
三度めまでは、数えていた。
四度めから、数えるのをやめた。数えると遅くなる。
同じところを何度も通っても、はじめは道が見えない。土を踏んでいるだけだ。
でも、二十度、三十度と通ると、草が寝る。
そこから先は、暗くても歩ける。
途中で指がすべるようになった。皿のふちで、右の親指の付け根が切れていた。
布を巻いて、また持ちあげた。
窓の外が青くなってきたころ、僕は最後の一枚を棚に戻した。
目をつぶって、手をのばした。
塩の壺があった。見なくても、そこにあった。
◇
昼から、人が来た。
荷馬車が三台。徒歩の行商が六人。子ども連れが二組。橋を渡るはずだった人たちが、みんなここで止まった。
トキさんが火の前に立って、僕はそのうしろで動いた。
塩を出す。玉じゃくしを渡す。空いた鍋を下ろして、次を上げる。皿を出す前に布で拭く。子どもの椀だけ、先に少し冷ましてから出す。
トキさんが手をのばした先に、いつも僕の手があった。
一度も、ぶつからなかった。
四年、それをやってきた。
ガレスが手を出す前に布を渡して、ユキが探しはじめる前に外套を出した。
礼を言われたことは、あまりない。言われるようなことだと、僕も思っていなかった。
「あんた」
三度目に鍋を替えたとき、トキさんが前を向いたまま言った。
「昨日の晩、寝てないだろ」
「はい」
「馬鹿だね」
そう言って、玉じゃくしを僕に渡した。
「味は、あんたが見な」
◇
子ども連れの母親が、椀を返しにきた。
「これ、うちの子が全部食べたんです」
「はい」
「この子、豆を食べないんですよ。四年、一度も」
僕は、椀を受け取った。
「冷ましてから出したので」
「え?」
「熱いと、においがきつくなるので」
母親はしばらく僕を見て、それから頭を下げて戻っていった。
そう言われたのは、たぶん、はじめてだった。
◇
夜になって、最後の客が二階へ上がった。
六十二枚の皿を洗い終えたとき、指の布は赤くなっていた。もう一度巻きなおして、僕は荷物からコップを出した。
右手のとどく、ほんの少しだけ奥。
置いた。
湯気のにおいが、した。
あの宿のスープじゃなかった。
豆と、干し肉と、香草の。今日、四十人が食べたやつだ。
僕はそこに手をかざした。
あたたかかった。
しばらく、そうしていた。
四年かかると思っていた。一晩でよかった。ただし、こういう一晩を、これから何度もやることになるんだろう。
それでもいい、と思った。
◇
外で、馬の足音がした。
三頭。門の前で止まった。
僕は椀を置いて、裏の窓から表を見た。
いちばん手前の馬の鞍に、鞄がくくりつけてあった。
濃い茶色で、留め具が片方だけ新しい。去年の冬に、僕が付け替えたやつだ。
四年間、毎朝おろして、毎晩積んだ鞄だった。




