↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/14

押す前に、泥を掻く


「今の、どこの台所だい」


 僕は口を開けて、閉じた。


 説明できることが、ひとつもなかった。


「……前に、はたらいていたところです」


「見えたよ。棚も、鍋も、窓の外まで」


 女の人は小屋に入ってきて、僕の手のなかの椀を見た。それから、床の水たまりを見た。


「あんた、ずぶ濡れだね」


「はい」


「あたしもだよ」


 その人は笑わずにそう言って、外を指した。荷車が一台、道のわきでかたむいている。


「車輪が泥にはまってね。押してくれたら、乾いたところで飯を食わせてやる」


    ◇


 僕は綱を持つ前に、しゃがんだ。


 車輪のまわりの泥を、手で掻き出す。それから反対側の車輪の下に、平たい石をかう。


 押します、と言う前に、手のほうが先に動いてしまう。四年ぶんの癖だった。


 泥を掻いていたら、街道のほうから馬の足音がした。


 三頭。


 僕は荷車の陰にいた。しゃがんだまま、動かなかった。


 雨で、向こうからは見えないと思った。


「この先に宿は」


 ガレスの声だった。


「二里ほど先に、宿場町があるよ」


 女の人が答えた。


「予約は」


「いるね。今日は市の日だ」


「……予約」


 馬が、少し動いた。


「ガレス」


 君の声だった。


「ハルヤは、いつ取ってたの」


「知らん」


「知らないの」


「あいつは自分から抜けた。もう関係ない」


「自分から?」


「前から言っていた」


「言ってなかった」


「お前が聞いてなかっただけだ」


    ◇


 僕は、泥のなかで手を止めていた。


 立ちあがれば、二歩で届く。


 言えばよかったんだと思う。抜けてない、と。


 言わなかった。


 言ったところで、四年ぶんの給金は戻らない。それに、僕がいま握っているのは、他人の荷車の車輪だった。


 馬の足音が、遠ざかっていった。


    ◇


 荷車は、一度で出た。


 女の人は、しばらく車輪を見ていた。


 しゃがんだまま動かなかったことについては、何も聞かなかった。


「あんた、名前は」


「ハルヤです」


「トキだ。街道の先で宿をやってる」


 トキさんは綱をかつぎ直して、僕を見た。


「三日、はたらくかい。飯と寝床は出す。給金は三日たってから決める」


「なにをすれば」


「わかってるだろ」


 雨が、少しだけ弱くなっていた。


「押す前に泥を掻く人間は、うちにはいないんだよ」


    ◇


 やどりぎ亭は、街道から少し引っこんだところにあった。


 屋根は葺きかえたばかりで、板の色が新しい。けれど馬をつなぐ場所に馬はいなくて、窓の灯りは二つだけだった。


 台所は、前の宿の三倍あった。


 そして、ものの置き場所が、どこにもなかった。


 塩は流しのわきに出しっぱなし。玉じゃくしは鍋のなかに入れっぱなし。桶は、通る人が必ず足を引っかける場所にある。乾いた布と濡れた布が、同じ棚に重ねてある。


 夕飯の皿を洗い終えて、僕はしばらくそこに立っていた。


 立っていただけのつもりだった。


 気がついたら、塩の壺を持っていた。


    ◇


 全部を終えてから、荷物のコップを出した。


 右手のとどく、ほんの少しだけ奥。あの位置に置いてみる。


 何も起きなかった。


 においも、あたたかさも、湯気も。板の上には、欠けたコップがひとつあるだけだった。


 もう一度置きなおして、もう一度どけて、もう一度置いた。


 同じだった。


 ここは、僕がおぼえた場所じゃない。


 四年ぶんの手順は、あの台所の、あの窓の、あの床のためのものだ。ここでは、ただの手つきでしかない。


 僕はコップを荷物にしまって、火の始末をして、寝た。


 腹はふくれていた。それだけは、たしかだった。


    ◇


 朝、階段をおりてくる足音がした。


 台所の戸が開いて、トキさんが入ってきて、止まった。


 塩は棚の三段目にあった。桶は右手のとどく、ほんの少しだけ奥にあった。玉じゃくしは壁の釘にかかっていた。濡れた布は火のそばに広げてあって、乾いた布は棚の上に、たたんで積んであった。


 きれいだった。


 四年間、僕がそうしてきたとおりに。


「あんた」


 トキさんの声は、低かった。


「うちの台所を、勝手にさわらないで」


    ◇


 僕は手をふいて、うなずいた。


「戻します」


「戻すって、あんた」


「今日中に、全部」


 トキさんは何か言いかけて、やめた。それから台所を出ていった。


    ◇


 塩の壺は、流しのわき。ふちから、指二本ぶん。


 玉じゃくしは鍋のなか。柄を右に倒して、ふちに引っかける。


 桶は戸口から三歩めの、通る人が必ず足を引っかける場所。


 布は棚の二段目。乾いたのが下で、濡れたのが上。


 僕は全部おぼえていた。


 きのう、それを片づけたのは僕だ。片づけるということは、元がどこにあったかを、手が一度なぞるということだった。だから覚えている。覚えようとしたわけじゃない。


 一つずつ戻した。


 位置だけじゃなくて、向きも、傾きも、重なりの順も。


 濡れた布を乾いた布の上に重ねるのは、気持ちが悪かった。


 でも、そうなっていた。だから、そうした。


 夜になって、最後に塩の壺を置いた。


 ふちから、指二本ぶん。


    ◇


 朝、トキさんが台所に入ってきて、止まった。


 何も言わなかった。


 流しのわきを見て、鍋のなかを見て、棚の二段目を見て、それから戸口から三歩めを見た。


 しゃがみこんで、桶のふちを指でなぞった。


 肩が、少しだけ動いていた。


「三年前にね」


 トキさんは桶を見たまま言った。


「うちの人が死んだんだよ」


「はい」


「この置き方は、あの人のなんだ。ここに桶を置くもんだから、あたしは毎日つまずいてた。三年、つまずいてた」


 指が、ふちをもう一度なぞった。


「あんたのは、きれいだったよ。おそろしいくらい」


「すみません」


「謝るんじゃないよ」


 トキさんは立ちあがって、はじめて僕の顔をまっすぐ見た。


「きれいなのが、いやだったんだ」


    ◇


「三日の話だったね」


「はい」


「四日目も、いるかい」


 僕はうなずいた。


「おぼえます」


「なにを」


「ここのやり方を、全部」


 トキさんが鼻で笑った。


「つまずく場所も、かい」


「つまずく場所も」


 言ってから、気がついた。


 あの小屋で湯気が出たのは、四年ぶん、同じ手つきをくり返したからだ。手が道をおぼえるまで、毎朝、同じ順でなぞったからだ。


 だったら、ここでもう一度、はじめから積めばいい。


 一日ぶんじゃ足りない。十日でも足りない。四年かかるのかもしれない。


 でも、僕にできることは、それしかなかった。


    ◇


 その夜、戸を叩く音がした。


 開けると、ずぶ濡れの男が立っていた。王都の伝令の外套を着ている。肩で息をしていた。


「この先の橋が、落ちた」


 男は言った。


「街道の客は、しばらくここで足止めだ。明日の昼までに、四十人ばかり来るぞ」


 僕はトキさんを見た。


 トキさんは、僕を見ていた。


 やどりぎ亭の台所を、僕はまだ、一日ぶんしか知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。