押す前に、泥を掻く
「今の、どこの台所だい」
僕は口を開けて、閉じた。
説明できることが、ひとつもなかった。
「……前に、はたらいていたところです」
「見えたよ。棚も、鍋も、窓の外まで」
女の人は小屋に入ってきて、僕の手のなかの椀を見た。それから、床の水たまりを見た。
「あんた、ずぶ濡れだね」
「はい」
「あたしもだよ」
その人は笑わずにそう言って、外を指した。荷車が一台、道のわきでかたむいている。
「車輪が泥にはまってね。押してくれたら、乾いたところで飯を食わせてやる」
◇
僕は綱を持つ前に、しゃがんだ。
車輪のまわりの泥を、手で掻き出す。それから反対側の車輪の下に、平たい石をかう。
押します、と言う前に、手のほうが先に動いてしまう。四年ぶんの癖だった。
泥を掻いていたら、街道のほうから馬の足音がした。
三頭。
僕は荷車の陰にいた。しゃがんだまま、動かなかった。
雨で、向こうからは見えないと思った。
「この先に宿は」
ガレスの声だった。
「二里ほど先に、宿場町があるよ」
女の人が答えた。
「予約は」
「いるね。今日は市の日だ」
「……予約」
馬が、少し動いた。
「ガレス」
君の声だった。
「ハルヤは、いつ取ってたの」
「知らん」
「知らないの」
「あいつは自分から抜けた。もう関係ない」
「自分から?」
「前から言っていた」
「言ってなかった」
「お前が聞いてなかっただけだ」
◇
僕は、泥のなかで手を止めていた。
立ちあがれば、二歩で届く。
言えばよかったんだと思う。抜けてない、と。
言わなかった。
言ったところで、四年ぶんの給金は戻らない。それに、僕がいま握っているのは、他人の荷車の車輪だった。
馬の足音が、遠ざかっていった。
◇
荷車は、一度で出た。
女の人は、しばらく車輪を見ていた。
しゃがんだまま動かなかったことについては、何も聞かなかった。
「あんた、名前は」
「ハルヤです」
「トキだ。街道の先で宿をやってる」
トキさんは綱をかつぎ直して、僕を見た。
「三日、はたらくかい。飯と寝床は出す。給金は三日たってから決める」
「なにをすれば」
「わかってるだろ」
雨が、少しだけ弱くなっていた。
「押す前に泥を掻く人間は、うちにはいないんだよ」
◇
やどりぎ亭は、街道から少し引っこんだところにあった。
屋根は葺きかえたばかりで、板の色が新しい。けれど馬をつなぐ場所に馬はいなくて、窓の灯りは二つだけだった。
台所は、前の宿の三倍あった。
そして、ものの置き場所が、どこにもなかった。
塩は流しのわきに出しっぱなし。玉じゃくしは鍋のなかに入れっぱなし。桶は、通る人が必ず足を引っかける場所にある。乾いた布と濡れた布が、同じ棚に重ねてある。
夕飯の皿を洗い終えて、僕はしばらくそこに立っていた。
立っていただけのつもりだった。
気がついたら、塩の壺を持っていた。
◇
全部を終えてから、荷物のコップを出した。
右手のとどく、ほんの少しだけ奥。あの位置に置いてみる。
何も起きなかった。
においも、あたたかさも、湯気も。板の上には、欠けたコップがひとつあるだけだった。
もう一度置きなおして、もう一度どけて、もう一度置いた。
同じだった。
ここは、僕がおぼえた場所じゃない。
四年ぶんの手順は、あの台所の、あの窓の、あの床のためのものだ。ここでは、ただの手つきでしかない。
僕はコップを荷物にしまって、火の始末をして、寝た。
腹はふくれていた。それだけは、たしかだった。
◇
朝、階段をおりてくる足音がした。
台所の戸が開いて、トキさんが入ってきて、止まった。
塩は棚の三段目にあった。桶は右手のとどく、ほんの少しだけ奥にあった。玉じゃくしは壁の釘にかかっていた。濡れた布は火のそばに広げてあって、乾いた布は棚の上に、たたんで積んであった。
きれいだった。
四年間、僕がそうしてきたとおりに。
「あんた」
トキさんの声は、低かった。
「うちの台所を、勝手にさわらないで」
◇
僕は手をふいて、うなずいた。
「戻します」
「戻すって、あんた」
「今日中に、全部」
トキさんは何か言いかけて、やめた。それから台所を出ていった。
◇
塩の壺は、流しのわき。ふちから、指二本ぶん。
玉じゃくしは鍋のなか。柄を右に倒して、ふちに引っかける。
桶は戸口から三歩めの、通る人が必ず足を引っかける場所。
布は棚の二段目。乾いたのが下で、濡れたのが上。
僕は全部おぼえていた。
きのう、それを片づけたのは僕だ。片づけるということは、元がどこにあったかを、手が一度なぞるということだった。だから覚えている。覚えようとしたわけじゃない。
一つずつ戻した。
位置だけじゃなくて、向きも、傾きも、重なりの順も。
濡れた布を乾いた布の上に重ねるのは、気持ちが悪かった。
でも、そうなっていた。だから、そうした。
夜になって、最後に塩の壺を置いた。
ふちから、指二本ぶん。
◇
朝、トキさんが台所に入ってきて、止まった。
何も言わなかった。
流しのわきを見て、鍋のなかを見て、棚の二段目を見て、それから戸口から三歩めを見た。
しゃがみこんで、桶のふちを指でなぞった。
肩が、少しだけ動いていた。
「三年前にね」
トキさんは桶を見たまま言った。
「うちの人が死んだんだよ」
「はい」
「この置き方は、あの人のなんだ。ここに桶を置くもんだから、あたしは毎日つまずいてた。三年、つまずいてた」
指が、ふちをもう一度なぞった。
「あんたのは、きれいだったよ。おそろしいくらい」
「すみません」
「謝るんじゃないよ」
トキさんは立ちあがって、はじめて僕の顔をまっすぐ見た。
「きれいなのが、いやだったんだ」
◇
「三日の話だったね」
「はい」
「四日目も、いるかい」
僕はうなずいた。
「おぼえます」
「なにを」
「ここのやり方を、全部」
トキさんが鼻で笑った。
「つまずく場所も、かい」
「つまずく場所も」
言ってから、気がついた。
あの小屋で湯気が出たのは、四年ぶん、同じ手つきをくり返したからだ。手が道をおぼえるまで、毎朝、同じ順でなぞったからだ。
だったら、ここでもう一度、はじめから積めばいい。
一日ぶんじゃ足りない。十日でも足りない。四年かかるのかもしれない。
でも、僕にできることは、それしかなかった。
◇
その夜、戸を叩く音がした。
開けると、ずぶ濡れの男が立っていた。王都の伝令の外套を着ている。肩で息をしていた。
「この先の橋が、落ちた」
男は言った。
「街道の客は、しばらくここで足止めだ。明日の昼までに、四十人ばかり来るぞ」
僕はトキさんを見た。
トキさんは、僕を見ていた。
やどりぎ亭の台所を、僕はまだ、一日ぶんしか知らなかった。




