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2/14

手だけがおぼえていた


 においは、夜どおし消えなかった。


 消えるのを、少し待ってみた。


 消えなかった。


 僕は板の床に膝をついて、そこへ手をかざしていた。あたたかい。指の先だけが、三日前の夜にいる。


 ためしに、コップを持ちあげてみた。


 においが、ふっと消えた。


 もどす。出る。ずらす。消える。


 右手のとどく、ほんの少しだけ奥。そこにきっちり置いたときだけ、湯気のにおいがした。宿の台所で、四年間そうしていたのと、同じ位置に。


 それ以外は、何をしても出なかった。


 試したことを、順に書く。


 コップを逆さまにして置いた。出なかった。


 砥石を同じ場所に置いた。出なかった。


 コップを、指一本ぶん右にずらした。出なかった。


 着がえを板の上に敷いて、その上に置いた。高さが変わると、出なかった。


 位置だけじゃないらしい。あの台所の、あの高さの、あの板の上に置くのと同じでなければ、だめだった。


 どうしてそうなのかは、わからない。


 四年やったことの理屈を、僕はひとつも知らない。


 においはある。あたたかさもある。


 でも、飲めない。


 何度か、そこへ口を近づけてみた。舌に残るのは雨の味だけだった。においだけで腹はふくれない。それは四年やってきて、いちばんよく知っていることだった。


    ◇


 朝になっても、雨はやまなかった。


 屋根の板が一枚ないところに、水たまりが広がっている。もう床の半分がそうなっていた。


 腹が減っていた。三日ぶんの焦げつきを落としたきり、僕は何も食べていない。


 外套はまだ濡れていて、肩のあたりが重い。指がかじかんで、うまく曲がらない。


 この先どうするかを、考えようとした。


 考えられなかった。腹が減っていると、頭は遠くのことを考えない。板の節の数とか、水たまりの広がりかたとか、そういうものばかり数えてしまう。


 立ちあがったとき、右手が勝手に動いた。


 空をつかんで、右に半分まわして、手前に引く。


 井戸のつるべの動きだった。


 なんだこれ、と思った。


 でも手は止まらなかった。四年ぶん、毎朝この順でやってきた。頭より先に、手のほうが日課をはじめてしまう。


 つるべを引いた手のさきで、水の音がした。


 桶を置くはずの場所に、桶の重さがあった。


 鍋のふちの、少し欠けたところに、指がひっかかった。


 僕はそのまま続けた。塩の壺を棚の三段目からおろす。ふたが固いから、湯につける。鍋を火にかける。ガレスのブーツを、乾く前に泥だけ落とす。


 順番を思い出そうとはしなかった。思い出そうとすると、止まる。


 考えずにやると、手のほうが先に次へ行く。四年、そうやってきた。頭は別のことを考えていていい。だいたいは、その日の夕飯のことを考えていた。


 洗濯ばさみを四つ、数えた。


 そこで指が止まった。


 四つめは、いつも君の外套のためのものだった。三つだと落ちる。四年のあいだ、君は一度もそのことに気づかなかった。気づかないままでいいと思っていた。気づかせるための四つめじゃない。


 僕は四つめを、いつもの場所にかけた。


 最後に、ランプの芯を切る。


 寝る前じゃなくて、朝いちばんに。ここだけは、だれにも教わらなかった僕のやり方だった。


 指をはさみの形にして、切った。


    ◇


 目を開けたら、小屋がなかった。


 かわりに、台所があった。


 せまくて、二人も入るとどちらかの肩が棚に当たる、あの台所。棚の三段目に塩の壺。桶に張った水。火にかけた鍋から、湯気。


 窓の外は、晴れていた。三日前の朝の空だった。


 僕は膝をついたまま、手をのばした。


 棚の板に、指が当たった。木の目が、指の腹をひっかいた。


 この棚は、右から三本目の木目だけ、ささくれている。四年、そこに触ってきた。


 ちゃんと、ささくれていた。


 僕はしゃがんだまま、しばらく動かなかった。


 それから、鍋のふたを取った。


 スープだった。あの塩加減の。ガレスが「うまい」とも言わずに三杯おかわりした、あの。


 椀に一杯ぶんだけ、そそいだ。両手で持って、飲んだ。


 熱かった。


 舌が焼けて、涙が出た。たぶん、熱かったからだと思う。


 三日前の夜、この鍋の前に立っていたのは僕だ。


 そのときの僕は、明日も明後日もここにいると思っていた。


 だから、味をていねいに見た。


 二杯目をそそごうとしたとき、鍋が薄くなった。


 棚が消えて、窓が消えて、台所の空気がすうっと引いていく。あとには、屋根の板が一枚ない小屋と、水たまりと、雨の音だけが残った。


 残ったのは、椀ひとつ。


 僕の手のなかで、まだあたたかかった。


 台所も、鍋も、窓の外の空も、全部引いていったのに、これだけ残った。


 持って出られるものと、出られないものがあるらしい。


    ◇


「ちょいと」


 声がした。


 小屋の戸口に、ずぶ濡れの女の人が立っていた。年は四十くらい。片手に荷車の綱を持っている。


 その人は、消えかけた湯気のあたりをじっと見て、それから僕を見た。


「今の、どこの台所だい」


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