手だけがおぼえていた
においは、夜どおし消えなかった。
消えるのを、少し待ってみた。
消えなかった。
僕は板の床に膝をついて、そこへ手をかざしていた。あたたかい。指の先だけが、三日前の夜にいる。
ためしに、コップを持ちあげてみた。
においが、ふっと消えた。
もどす。出る。ずらす。消える。
右手のとどく、ほんの少しだけ奥。そこにきっちり置いたときだけ、湯気のにおいがした。宿の台所で、四年間そうしていたのと、同じ位置に。
それ以外は、何をしても出なかった。
試したことを、順に書く。
コップを逆さまにして置いた。出なかった。
砥石を同じ場所に置いた。出なかった。
コップを、指一本ぶん右にずらした。出なかった。
着がえを板の上に敷いて、その上に置いた。高さが変わると、出なかった。
位置だけじゃないらしい。あの台所の、あの高さの、あの板の上に置くのと同じでなければ、だめだった。
どうしてそうなのかは、わからない。
四年やったことの理屈を、僕はひとつも知らない。
においはある。あたたかさもある。
でも、飲めない。
何度か、そこへ口を近づけてみた。舌に残るのは雨の味だけだった。においだけで腹はふくれない。それは四年やってきて、いちばんよく知っていることだった。
◇
朝になっても、雨はやまなかった。
屋根の板が一枚ないところに、水たまりが広がっている。もう床の半分がそうなっていた。
腹が減っていた。三日ぶんの焦げつきを落としたきり、僕は何も食べていない。
外套はまだ濡れていて、肩のあたりが重い。指がかじかんで、うまく曲がらない。
この先どうするかを、考えようとした。
考えられなかった。腹が減っていると、頭は遠くのことを考えない。板の節の数とか、水たまりの広がりかたとか、そういうものばかり数えてしまう。
立ちあがったとき、右手が勝手に動いた。
空をつかんで、右に半分まわして、手前に引く。
井戸のつるべの動きだった。
なんだこれ、と思った。
でも手は止まらなかった。四年ぶん、毎朝この順でやってきた。頭より先に、手のほうが日課をはじめてしまう。
つるべを引いた手のさきで、水の音がした。
桶を置くはずの場所に、桶の重さがあった。
鍋のふちの、少し欠けたところに、指がひっかかった。
僕はそのまま続けた。塩の壺を棚の三段目からおろす。ふたが固いから、湯につける。鍋を火にかける。ガレスのブーツを、乾く前に泥だけ落とす。
順番を思い出そうとはしなかった。思い出そうとすると、止まる。
考えずにやると、手のほうが先に次へ行く。四年、そうやってきた。頭は別のことを考えていていい。だいたいは、その日の夕飯のことを考えていた。
洗濯ばさみを四つ、数えた。
そこで指が止まった。
四つめは、いつも君の外套のためのものだった。三つだと落ちる。四年のあいだ、君は一度もそのことに気づかなかった。気づかないままでいいと思っていた。気づかせるための四つめじゃない。
僕は四つめを、いつもの場所にかけた。
最後に、ランプの芯を切る。
寝る前じゃなくて、朝いちばんに。ここだけは、だれにも教わらなかった僕のやり方だった。
指をはさみの形にして、切った。
◇
目を開けたら、小屋がなかった。
かわりに、台所があった。
せまくて、二人も入るとどちらかの肩が棚に当たる、あの台所。棚の三段目に塩の壺。桶に張った水。火にかけた鍋から、湯気。
窓の外は、晴れていた。三日前の朝の空だった。
僕は膝をついたまま、手をのばした。
棚の板に、指が当たった。木の目が、指の腹をひっかいた。
この棚は、右から三本目の木目だけ、ささくれている。四年、そこに触ってきた。
ちゃんと、ささくれていた。
僕はしゃがんだまま、しばらく動かなかった。
それから、鍋のふたを取った。
スープだった。あの塩加減の。ガレスが「うまい」とも言わずに三杯おかわりした、あの。
椀に一杯ぶんだけ、そそいだ。両手で持って、飲んだ。
熱かった。
舌が焼けて、涙が出た。たぶん、熱かったからだと思う。
三日前の夜、この鍋の前に立っていたのは僕だ。
そのときの僕は、明日も明後日もここにいると思っていた。
だから、味をていねいに見た。
二杯目をそそごうとしたとき、鍋が薄くなった。
棚が消えて、窓が消えて、台所の空気がすうっと引いていく。あとには、屋根の板が一枚ない小屋と、水たまりと、雨の音だけが残った。
残ったのは、椀ひとつ。
僕の手のなかで、まだあたたかかった。
台所も、鍋も、窓の外の空も、全部引いていったのに、これだけ残った。
持って出られるものと、出られないものがあるらしい。
◇
「ちょいと」
声がした。
小屋の戸口に、ずぶ濡れの女の人が立っていた。年は四十くらい。片手に荷車の綱を持っている。
その人は、消えかけた湯気のあたりをじっと見て、それから僕を見た。
「今の、どこの台所だい」




