傘を持っていくのを忘れた
「ハルヤ。悪いけど、きみは明日から来なくていい」
ガレスがそう言ったとき、僕は鍋の底をこすっていた。
三日ぶんの焦げつきは、思ったよりかたい。スプーンの柄がきしんで、指の腹が熱くなってくる。宿の台所はせまくて、二人も入るとどちらかの肩が棚に当たる。だから僕はいつも、みんなが食べ終わったあとにここへ来ることにしていた。
その日は、遅かった。ガレスが二度おかわりをして、セラが三度お茶を頼んだからだ。
「聞いてるか」
「聞いてるよ」
鍋を持ちあげて、水をはった桶に沈めた。ぶく、と音がした。
ガレスは戸口に立ったまま、中には入ってこない。ひとりだった。二階では、セラがもう寝ている。ここへ来て十日になる、万能の聖女。
「セラがいれば、たいていのことは足りる」
ガレスの声は、怒っているわけでも、申しわけなさそうでもなかった。明日の天気を言うのと、同じ調子だった。
「傷は治る。水も出る。火も出る。飯だって、たぶん出る」
たぶん、だ。
セラは悪い人じゃないと思う。この十日で三回、僕に「ありがとう」と言った。この宿で、そう言ったのはあの人だけだった。
「それに、そろそろ名前が売れてきた。勇者の後ろに雑用係がいるのは、格好がつかない」
そっちが本当の理由だな、と思った。でも言わなかった。
僕は鍋を桶に戻して、手をふいた。
「給金は」
「なんだ」
「四年ぶん、まだもらってません」
ガレスは、少しだけ驚いた顔をした。
驚かれるとは思っていなかった。
「宿代がある」
「はい」
「飯代もある。四年ぶんだ」
ガレスは、指を二本立てた。
「相殺だな」
「……はい」
「食わせてやってた、ということだ」
◇
僕は、しばらく桶の水を見ていた。
四年ぶん、僕が作った飯を、僕が食わせてもらっていたことになるらしい。
そういう計算のしかたがあるのは、知らなかった。
◇
「二人には」
僕は聞いた。
「なんだ」
「セラさんとユキには、なんて言うんですか」
ガレスは、戸口の柱に手をついた。
「お前が自分から抜けた、と言う」
水の音が、止まった。
「……なんでですか」
「そのほうが、話が早い」
それだけだった。
悪いことを言っている顔ではなかった。荷物の積みかたを決めるときと、同じ顔だった。
◇
僕は手をふいて、うなずいた。
「わかった」
それから、言った。
「いつか、自分の台所がほしいです」
「は?」
「せまくていいんです。棚が三段あって、窓が東を向いてれば」
ガレスは、僕をしばらく見た。
それから、笑った。
「お前に、なにができる」
◇
僕は、棚の三段目を指さした。
「塩、そこ。ふたが固いから、湯につけると開く」
「え?」
「井戸のつるべは、右に半分まわしてから引く。まっすぐ引くと縄が外れる」
「ハルヤ」
「ガレスのブーツは、夜のうちに泥を落とさないと、朝には石みたいになる。ユキの外套は洗濯ばさみを四つ使う。三つだと落ちる。ランプの芯は、寝る前に一度切る。切らないと、朝いちばんに油が――」
「もういい」
ガレスがさえぎった。
「そんなの、誰にでもできる」
たしかに、そうだ。
誰にでもできることを、僕は四年やってきただけだった。
鍋を三千回洗って、ブーツを千五百回みがいて、洗濯ばさみを四つ、四つ、四つと、数えつづけただけ。
それだけだ。
◇
部屋に戻って、荷物をまとめた。
まとめるほどのものは、なかった。
四年もいれば棚に何かが積もっているだろうと思っていた。実際には、着がえが二枚と、砥石がひとつ。それだけだった。
毎日、みんなのものを片づけていた。自分のものを増やす暇は、たぶんなかった。
◇
台所を出るとき、廊下でユキとすれちがった。
君は、何か言いかけて、やめた。口を開けて、閉じて、指先で外套のすそをつまんだ。君がそれをするのは、言葉を探しているときだ。四年も見ていれば、わかる。
「ハルヤ」
「うん」
「……かさ」
「かさ?」
君は首を横にふって、行ってしまった。
外に出たら、雨がふっていた。
冬が来る前の雨だ。冷たいというより、重い。外套の肩から先に染みてきて、そこから内側へ広がっていく。
荷物は、思ったより少なかった。着がえが二枚と、砥石と、欠けたコップがひとつ。
コップは、二年前にユキが落としかけたやつだ。ふちが少し欠けて、捨てようとしたら「まだ使える」と言われた。それから、僕が使っている。
振り返ろうかと思って、やめた。
見なくても、わかる。二階の右から二番目がガレスの部屋。その隣がセラで、いちばん端がユキ。三つとも、灯りがついている。
ランプの芯を、今日はまだ、だれも切っていない。
明日の朝、あの三つの部屋の油は、吸い上がっていない。
◇
三時間ばかり歩いて、街道ぞいの空き小屋で雨をよけた。
屋根の板が一枚なくて、そこだけ床に水たまりができている。壁のすきまから風が入ってきて、濡れた背中を通りぬけていく。
さて、と僕は思った。
明日から、どうやって食べていこう。
剣は使えない。魔法も使えない。四年ぶんで覚えているのは、塩のふたの開け方と、つるべの引き方と、洗濯ばさみの数だ。それを買ってくれる人は、たぶんどこにもいない。
僕は濡れた床にしゃがんで、荷物からコップを出した。
置く場所が、なかった。
だから、いつものように置いた。右手のとどく、ほんの少しだけ奥。宿の台所で、四年間そうしていたのと、同じ位置に。
置いた瞬間、板の上に、においがした。
湯気のにおいだ。スープの、あの塩加減の。三日前の夜、ガレスが「うまい」とも言わずに三杯おかわりした、あのスープの。
小屋には、鍋もない。火もない。
なのに、においだけが、そこにあった。
僕はしばらく動けなかった。
それから、そっと手をのばして、においのするあたりに、指を入れてみた。
あたたかかった。
◇
その夜、宿では、だれもランプの芯を切らなかった。
朝、ガレスのブーツは石みたいになっていた。ユキの外套は洗濯ばさみが三つで、庭の土に落ちていた。井戸のつるべは、まっすぐ引かれて、縄が外れた。
そして台所で、セラが首をかしげて言った。
「ねえ。朝ごはんって、何から作るの?」
その日、勇者パーティは、だれひとり「いつも通り」の作り方を知らなかった。




