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彼女の手は、呪いに似ていた。  作者: 森凛


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第七話 ー 空き瓶のセレナーデ(上)

橘がもう一度サロン・リュヌを訪れたのは、それから四日後の午後だった。


その日、港町は久しぶりに少しだけ晴れていた。海からの風はまだ湿っていたけれど、坂道の石畳には前みたいな鈍い冷たさがなく、古い洋館の窓硝子にも薄い光がきちんと乗っている。


講義を終えて店へ来た湊は、玄関を入るなり、窓際に立つ紫月の横顔を見た。


今日は立っている。


それだけで少し安心する自分が、なんとなく癪だった。


「何ですか、その“今日は倒れてないか確認してます”みたいな顔」


「入って三秒でわかるの、もうやめない?」


「やめません」


さらりと返される。

顔色は前回よりいい。けれど、右手首の袖口を無意識に気にしている仕草がまだ残っていて、完全に戻ったわけではないのだとわかる。


ソファの前のローテーブルには、小ぶりの紙箱が一つ置かれていた。

浅い生成り色の箱で、リボンも何もかかっていない。店の雰囲気には合っているのに、どこか“用事だけを置いていった”みたいなそっけなさがある。


「来てるのか」


「ええ。少し前に」


紫月がそう言った直後、奥の応接スペースから立ち上がる気配がした。


橘は先日より少しだけ柔らかい顔で出てきた。

疲れが全部消えたわけではない。目の下にはまだ薄く影があるし、笑おうとすると口元が少し固い。けれど、鏡の中の誰かに表情を確かめられている人の顔では、もうなかった。


「こんにちは」


「どうも」


湊が軽く頭を下げると、橘も小さく会釈する。その仕草が、前より自然だった。整えたというより、力を抜く場所を少し思い出したみたいに見える。


「ご報告に来ました」


橘はソファへ戻りながら言った。


「先日は、ありがとうございました」


紫月は向かいに座る。湊もその隣へ腰を下ろした。


「その後、鏡は」


紫月の問いに、橘は一度だけ息を整える。


「最初の二日は、正直、かなり怖かったです。部屋の前を通るだけで足が止まってしまって……でも、閉めきったままにすると、母と同じになってしまう気がして」


その言い方に、紫月は小さく目を細めた。否定も肯定も急がない、いつもの聞き方だった。


「だから、一日に一度だけ、昼間にあの部屋へ入ることにしました。長くは見ません。でも、ちゃんと自分で立つ位置を決めて」


橘の声はまだ慎重だったが、嘘は少なかった。


「正面には立たない。少しずれる。整えようとしたら、その前に一回呼吸をする。……それを繰り返していたら、三日目くらいから、鏡の曇りが出なくなったんです」


湊は無意識に、あの部屋の冷たい空気を思い出す。

白いひびの走った境界。肩へ置かれそうになった百合子の手。

あれがいまは、ただの古い鏡に戻っているのだろうかと思うと、少しだけ現実味がなかった。


「家の中は?」


「軽くなりました」


橘はすぐに答えた。


「音が違います。前は二階へ上がると、どこかで息を潜められているみたいだったんですけど、今はただ、古い家の音しかしない」


その表現が妙にしっくりきて、湊は心の中だけで頷く。

怪異が強い家は、静かすぎる。暮らしの音が引いて、その代わりに何か別のものが残っている。前の家出椅子のときも、たしかそうだった。


橘は続ける。


「それと……母の部屋を少し整理しました。無理に全部ではなくて、触れられるところだけ」


「何か出てきましたか」


「古い手帳と、写真が何枚か。それから」


橘はそこで、テーブルの上の生成りの箱へ視線を落とした。


「これを」


紫月が箱を引き寄せる。

蓋を開けると、中には薄い布に包まれたものが一つ入っていた。銀の手鏡だった。持ち手のない、掌に収まる楕円形のもの。縁の飾りは控えめだが、細かな蔦模様の擦れ方が、家の化粧部屋にあった大きな鏡とよく似ている。


湊は思わず眉を寄せた。


「……また鏡か」


橘が苦笑する。


「私も最初はそう思いました。でもこれは、ドレッサーの引き出しの奥に布で包まれていて。たぶん、百合子……祖母のものだと思います」


“祖母”と呼ぶ前に、ごく小さな間が入った。

けれど前より自然だった。嫌悪も懐かしさも、まだどちらもあるのだろう。その混ざり方を、今は無理に整えないのだとわかる声だった。


「処分してもよかったんですけど、何となく、先に見てもらったほうがいい気がして」


紫月は布越しにその手鏡へ触れた。


ほんの一瞬、彼女の睫毛がわずかに揺れる。


湊はそれを見逃さない。


「……何」


「いえ」


紫月はすぐに手を離した。

その早さが逆に気になった。


「鏡そのものは、もう強く残っていません。百合子さんの気配も、ほとんど」


橘がほっとしたように息をつく。


けれど湊は、紫月の言い方の端に小さな引っかかりを感じた。

ほとんど。

では、残りの少しは何だ。


「ただ」


紫月が、今度は箱の底を見た。


手鏡の下に、折りたたまれた紙が一枚入っている。薄く黄ばんだ、小さなカードだった。店の札のようにも見える。


紫月がそれを持ち上げる。


橘が言う。


「たぶん、店の管理札です。母が若いころ、祖母の遺品を一度だけまとめて古物商へ持ち込もうとしたらしくて。そのときのものじゃないかと」


カードには、かすれたインクで店名らしきものが書かれていた。

読めるのは、最後の二文字だけだ。


――堂。


それだけ。


紫月の表情が、そこでほんの少しだけ変わった。


「どうした」


湊が訊くと、彼女はすぐには答えなかった。

代わりにカードをもう一度見て、それから橘へ視線を戻す。


「この古物商、どこにあったかわかりますか」


「いえ。母も詳しくは……ただ、港の近くだったと」


その返事の直後、玄関の鈴が小さく鳴った。


全員の視線がそちらへ向く。

客にしては、間の悪いタイミングだった。紫月が立ち上がるより先に、外からもう一度だけ、控えめなノックが重なる。


その音が妙に硬くて、湊はなぜか背筋が冷えた。


紫月が玄関へ向かう。

橘はソファに座ったまま、無意識に箱の中の手鏡へ視線を落としている。もう怯えてはいないが、完全に他人行儀でもない目だった。


やがて扉が開く音がして、誰かと短く言葉を交わす気配がした。


戻ってきた紫月の手には、茶色い包みがあった。

古い本を入れるみたいな、平たい包みだ。差出人の名前はない。表には、サロン・リュヌの住所だけが丁寧な字で書かれている。


「お届け物?」


湊が訊く。


「ええ。先ほどのカードと、同じ店名が裏にありました」


紫月が静かに言う。


空気が、そこでわずかに変わる。


橘が息を呑むのが聞こえた。


紫月は包みをすぐには開けなかった。

 ただ、その平たい表面へ指先を置いて、少しだけ目を伏せる。


「……海の匂いがします」


その一言に、湊は意味もなく喉の奥が冷えるのを感じた。


港町では珍しくもないはずの匂いなのに、いま聞くとそれは、濡れたまま届いた昔のものの気配にしか思えなかった。


紫月は、包みをテーブルの上へそっと置いた。


茶色い紙は古びているわけではない。けれど、角の折れ方だけが妙に柔らかかった。何度も持ち直されて、ようやくここへ届いたものの紙だと思った。


橘もソファから立ち上がりかけたが、途中でやめた。

座ったままの姿勢で、包みだけを見ている。手鏡の件が終わったばかりなのに、また別の何かが開きかけている気配を、たぶん彼女も感じているのだろう。


「開けます」


紫月は誰にともなくそう言って、封の端を静かに剥がした。


紙の擦れる音が、店の中でやけに大きく聞こえる。

包みの中から出てきたのは、薄い油紙に包まれた細長いものと、小さな封筒、それから店の札らしき厚紙だった。


油紙の端が少しだけ濃く変色している。

水濡れの跡、というほどはっきりしていないのに、見た瞬間、湊の鼻先にほんのわずかな塩気が触れた気がした。


海の匂い。


潮風そのものではない。もっと閉じた匂いだ。

木箱の中に長くしまわれていた布や紙が、ある日ふいに湿気を吸い返したときのような、遅れてきた海の匂いだった。


紫月の指先が、油紙へ触れる。


その瞬間、彼女の睫毛がわずかに震えた。


「……紫月?」


湊が声をかけるより先に、彼女は小さく息を吸う。

前回みたいに強く触れたわけではない。なのに、その反応は、最初から感情の密度が濃いものに当たったときのものだった。


「大丈夫です」


即座に返ってくる。

大丈夫だと言うときの速さが信用できないのは、もう今さらだった。


紫月は油紙をゆっくり開いた。


中から出てきたのは、小さな青いガラス瓶だった。

香水瓶、というほど華やかな形ではない。掌に収まる細身の瓶で、栓は真鍮。飾り気は少ないが、ガラスの青だけが妙に深い。海の底を薄く切り取って固めたみたいな色だった。


橘が息を呑む。


「……見たことがあります」


紫月が顔を上げる。


「どこで」


「母の整理をしていたとき、手帳の間に古い紙片があって。そこに、たしか“青い瓶は返してもらえなかった”って」


その言葉に、場の空気がひとつ沈んだ。


紫月は何も言わず、今度は瓶ではなく、小さな封筒へ指を伸ばす。

封はされていない。中には折り畳まれた紙が一枚だけ入っていた。


取り出すと、それは売買の控えのようだった。

品名の欄には、掠れた字でこうある。


――青硝子小瓶 一点

――預り


売却ではない。

預り。


その一文字が、妙に冷たく見えた。


「これ、買い取り票じゃないんですね」


湊が言うと、紫月が静かに頷く。


「ええ。手放したのではなく、いったん預けた。戻ってくる前提です」


橘の顔色が変わる。


「でも、母は処分したつもりだったんじゃ……」


「そのつもりで店へ持っていったのかもしれません」


紫月は低く言った。


「でも店の側は、売り物として受けなかった」


「どうして」


湊の問いに、彼女はすぐには答えない。

代わりに、青い瓶の栓に触れた。


触れた瞬間、湊の左肩へ、ひどく薄い重みが落ちた。

重い、というより、引かれる感じだった。

誰かが海辺で風に煽られながら、それでも何かを落とさないように胸元へ抱えている。そんな焦りだけが、急に自分の呼吸へ重なってくる。


紫月の指先が、ほんの少しだけ白くなる。


「返すつもりだったんでしょうね」


彼女の声は、ごく低かった。


「でも、返せなかった」


その言い方に、湊は無意識に瓶を見る。

小さい。軽い。なのに、その中に残っているのは、香りではなく、もっと別のものらしい。


「海の匂いがするのは」


橘が、細い声で言う。


「港に持っていったからですか」


「それだけではありません」


紫月は瓶をテーブルへ戻した。

乱暴に置かない。その慎重さが、かえって嫌な予感を強める。


「これは、長く海辺にあった感じではない。海へ行くつもりで持ち出されて、その途中で止まったものです」


湊は眉を寄せる。


「途中」


「ええ。渡すつもりだった。返すつもりだった。けれど、渡し先か、持ち主か、そのどちらかが海の手前で止まっている」


橘が言葉を失う。


紫月は目を伏せたまま続けた。


「感情として強いのは、恋情ではありません。懐かしさでもない。もっと切迫したものです。急いでいた。遅れてはいけないと思っていた。けれど、間に合わなかった」


店の中がしんと静まる。

窓の外の光はまだ明るいのに、青い瓶の周りだけが少し暗く見えた。


湊はふと、テーブルの端に置かれた店札へ目をやる。

厚紙の裏に、黒い鉛筆で短い走り書きがあった。


「これ……」


声に出すと、紫月と橘が同時に振り向く。


裏書きの文字は乱れていたが、読めなくはない。


――潮見坂下、旧波止場手前

――夕方までに


それだけだった。


時刻も日付もない。

誰が誰に宛てたのかもわからない。

なのに、その短い指示だけで、何かが急に具体的になる。


港。坂の下。旧波止場。

この街の中に、たしかにある場所だ。


「……来る途中で書かれたみたいですね」


紫月が静かに言う。


「誰かに品を預けるためではなく、誰かに届けるために」


橘が息を呑む。


「じゃあ、この古物商は」


「ただの買い取り先ではなかったのかもしれません」


紫月は札を裏返し、表の店名を見る。

掠れた文字の最後の二字だけが、相変わらず読める。


――堂。


「預かった品を、必要な相手へ戻す店だった可能性があります」


その言い方はひどくこの街らしく聞こえた。

売るでも捨てるでもなく、手放しきれなかったものだけが流れ着く店。

海の近くには、そういう曖昧な役割の場所があってもおかしくない気がした。


橘が、青い瓶を見つめたまま言う。


「母が持ち込んだ鏡の遺品と、この瓶が同じ店を通っていたなら……」


「ええ」


紫月は頷く。


「百合子さんの遺したものの一部は、処分されずに、そこへ留まっていたんでしょうね」


そして少しだけ間を置いて、付け加える。


「問題は、この瓶がいま、わざわざここへ届いたことです」


湊は喉の奥が冷えるのを感じた。


たしかにそうだ。

昔の預り票なら昔のまま埋もれていてもおかしくない。

なのに今、橘が手鏡を持ってきたその日に合わせるみたいに、この瓶が届いた。


「呼ばれた、ってことか」


紫月はすぐには頷かなかった。

ただ、青い瓶の栓へもう一度だけ視線を落とす。


「近いですね」


その声は低かった。


「鏡の件がほどけたことで、止まっていた流れの一部が動き出した感じがします。百合子さん個人の視線ではなく、この店を経由して預けられた“返せなかったもの”の流れが」


橘が青ざめる。


「私の家のせいで」


「違います」


紫月は静かに遮った。


「橘さんの家だけの問題ではなかった、ということです」


その一言で、湊は青い瓶を見る目が少し変わる。

これは百合子の遺品の一つかもしれない。

けれどそれだけではない。

この街のどこかで、誰かが渡し損ねて、預けたままになって、海の匂いだけを残したもの。その連なりの一つが、いまここへ戻ってきている。


紫月が、瓶の栓に触れずに指先だけを近づけた。


「……夕方です」


ぽつりと呟く。


「この感情が強くなるのは。旧波止場の手前で、誰かを待っていた時間に近づくと」


窓の外の光は、まだ午後の明るさを保っている。

それなのに、湊はなぜか、もうすぐ日が傾く気配を皮膚の上で先に感じた。


橘が、ごく低く言う。


「行くんですか」


紫月は青い瓶から目を離さなかった。


「たぶん、行かないといけません」


その返事は静かだったが、拒む余地はほとんどなかった。


テーブルの上で、青い瓶の底だけが、窓の光を受けてかすかに濡れたように光っていた。

まるでその小さなガラスの中に、まだ乾ききらない海辺の夕方が閉じこめられているみたいに。


港へ行くと決まってからも、紫月はすぐには立ち上がらなかった。


青い瓶をテーブルの中央へ置いたまま、その周囲の空気だけを確かめるみたいに、しばらく指先を近づけたり離したりしている。触れてはいない。けれど、近づくたびに彼女の睫毛がごくわずかに揺れるのがわかった。


窓の外の光はまだ白い。けれど、この街の夕方は落ちるときが早い。港へ下る坂道に影がたまりはじめると、海から来る風まで少し質を変える。その前に準備を整えておかなければならないのだろう。


「何がいる」


湊が訊くと、紫月はようやく瓶から目を離した。


「いつものオイルと、布を少し。あとは……」


そこで言葉を切り、自分の右手首へ一瞬だけ視線を落とす。


「無茶しない約束」


「それ、守ったことある?」


「努力はしています」


「いま訊いたの、結果のほうなんだけど」


低く返すと、紫月は困ったように目を細めた。冗談めかしているが、顔色の薄さはまだ抜けきっていない。鏡の件から四日経っても、完全には戻らないくらいには削られていたのだと思うと、湊は喉の奥に小さな苛立ちが残る。


橘が、ソファの端で静かに口を開く。


「私も行ったほうがいいですか」


紫月は少しだけ考えるように間を置いた。


「本当は、置いていけるならそのほうが安全です」


その言い方に、橘の肩がわずかに落ちる。

無理もない。鏡の件が終わってまだ日が浅い。やっと呼吸の仕方を取り戻しかけたところで、また別の怪異の気配へ近づくのは、普通なら勧められないだろう。


けれど紫月は、そのまま続けた。


「ただ、この瓶が今日ここへ届いたのは、あなたが手鏡を持ってきたことと無関係ではない気がします。百合子さん個人の視線はもう強くありません。でも、遺されたものの流れの中に、あなたの家が一度触れてしまっている」


「……だから、ですか」


「ええ。何が結び目になっているのかを見る意味では、いてもらったほうが自然かもしれません」


橘は頷いた。

怖がっていないわけではない。指先が膝の上でまだ少し強張っている。それでも、前みたいに“見られるための顔”ではなく、自分で決めて残る人の顔をしていた。


紫月が立ち上がる。


「少し準備します。湊くん、手伝ってもらえますか」


「はいはい」


奥の施術室へついていくと、いつものように匂いの薄い空気が少しだけ濃くなる。棚から無色のオイル瓶を二本、柔らかい白布を数枚、細いリボンのついた小箱を一つ。紫月は無駄なくそれらを選んでいく。手つきは落ち着いているが、右手を上げる角度がまだ少し硬い。


「持つよ」


湊が布を受け取ると、紫月は素直に渡した。

こういうときだけは、変に意地を張らない。


「……海は、あまり好きではありません」


不意に紫月が言う。


手を動かしたままの、独り言みたいな声だった。


「珍しいな。嫌いなもの、ちゃんと言うんだ」


「嫌いというより、境目が多いので」


棚の扉を閉めながら、彼女は続ける。


「来るものと帰るもの、生きているものと流れたもの、渡せたものと渡せなかったもの。港は、それが混ざりやすいんです」


その言い方に、湊はさっきの青い瓶を思い出す。

海辺へ行くつもりで持ち出され、届かないまま止まったもの。

港という場所は、本来なら人や物を繋ぐはずなのに、繋がり損ねたものも同じだけ溜め込んでしまうのかもしれなかった。


「だから顔色悪いのか」


「半分くらいは」


「半分で済むのか」


「済ませたいです」


返しながらも、紫月は薄く笑った。

その笑い方が、少しだけ昔より自然になった気がして、湊は妙に落ち着かない。距離が縮まったのか、こちらが勝手に見慣れてきただけなのか、自分でもまだよくわからない。


準備を終えて応接スペースへ戻ると、橘は手鏡の入った箱を膝の上に抱えていた。

青い瓶のほうは、テーブルの上で午後の光を受けている。海の色というには深すぎて、むしろ日が沈みきる前の、沖の暗さに近い。


「その鏡、持っていくのか」


湊が訊くと、橘は少し迷ってから頷いた。


「置いていってもいいのかもしれません。でも、今日ここで聞いたことを、また家に残していく気になれなくて」


その答えが、今の彼女にはひどく似合っていた。

見ないで切るのではなく、持てる重さまで持っていく。

それはたぶん、母のやり方とは違うし、百合子のやり方とも違う。


紫月は小さく頷き、青い瓶を白布で包んだ。


「旧波止場までは、坂を下って十分ほどです。まだ明るいうちに着けますが、感情が強くなるのはもう少し後でしょうね」


「夕方までに、って書いてあったもんな」


「ええ。間に合わなかった時間が残っているなら、近い時刻ほど反応しやすいはずです」


その言い方が静かなのに、湊の胸の奥へひやりと落ちる。

“間に合わなかった”という感情は、ただ寂しいだけではない。急いだ息や、迷った足取りや、引き返せなかった瞬間まで一緒に残る。そういうものは、鏡の視線よりもっと生々しく人に触れてきそうだった。


店を出る前、紫月はふと橘へ視線を向けた。


「無理だと思ったら、すぐ言ってください」


橘は手鏡の箱を抱え直す。


「はい」


「見ないで済ませるのも、今日はありです」


その言葉に、橘はほんの少し考えてから、静かに首を振った。


「……たぶん、見たほうがいい気がします」


その返事に、紫月はそれ以上何も言わなかった。

止めるでもなく、褒めるでもなく、ただ頷く。

相手が自分で決めたことを、自分の言葉で上書きしないところが、彼女らしいと思った。


玄関の扉を開けると、午後の空気がゆるく流れ込む。

晴れてはいるのに、海のほうだけが少し白く霞んでいた。遠くで船の低い音が一度だけ鳴る。今日のうちに帰ってくるものと、帰ってこないものを、いっしょくたに運んでいくみたいな音だった。


坂の上から港を見下ろすと、旧波止場のあたりはまだ小さくしか見えない。

それでも湊には、そこだけ光の沈み方が少し遅い気がした。待っているというより、時間の端だけが引っかかったままになっているみたいに。


紫月が白布に包んだ瓶を持ち、橘が手鏡の箱を抱える。

湊はその二人の少し前へ出て、石畳の最初の段差を下りた。


誰のために急ぐのか、まだはっきりしない。

けれど、夕方までに、としか書けなかった誰かの焦りだけは、もう三人の足もとへ静かに追いつきはじめていた。


旧波止場は、いまはもう使われていない船着き場だった。


港の新しい埠頭から少し外れた場所に、石積みの岸壁だけが古い形のまま残っている。錆びた鎖、背の低い街灯、半分だけ消えた白線。海に面しているのに、どこか閉じた場所のように見えるのは、ここが“出ていくため”より“待つため”の場所として長く残ってしまったからかもしれなかった。


夕方の光は、もうかなり傾いていた。


海の色が青から鈍い鉛色へ移りはじめる、その境目の時間だ。風は強くない。けれど湿っていて、肌の上に長く残る。紫月は岸壁へ近づく前に一度だけ立ち止まり、白布に包んだ青い瓶を両手で持ち直した。


「このあたりです」


低い声だった。


橘が周囲を見回す。

何もない。古い倉庫の壁と、石段と、波の小さな音だけ。けれどその静けさの中に、誰かがまだ“来ていない”ものを数え続けているみたいな、薄い緊張がたしかにあった。


湊は自然と、紫月の半歩後ろに寄る。

彼女の横顔は店を出る前より白かった。無理をしている顔ではなく、無理をしないように整えた顔だ。だから余計に危うい。


紫月は岸壁の端までは行かず、古い街灯の根元で足を止めた。

石畳の一角だけが、長い年月で少しだけ色を失っている。誰かがそこに立ち続けていたのだと、見ればわかる擦れ方だった。


「待っていたのは、ここですね」


そう言って、彼女は青い瓶を胸の高さへ持ち上げる。

栓はまだ抜かない。ただ、海へ向けるみたいに少し傾けた。


その瞬間、風向きが変わった。


潮の匂いが、一段だけ濃くなる。

海そのものの匂いではなく、古い布へ染みた塩気や、濡れた木箱の奥に閉じこもった湿り気まで混じった匂いだった。


湊の左肩に、鈍い重さが落ちる。


「……っ」


今度の感情は、鏡のときみたいに視線で縛るものではなかった。

もっと切迫している。胸の奥で何度も何度も時刻だけを確かめて、まだ大丈夫だと自分に言い聞かせながら、それでも足元から崩れていく感じ。待つ、というより、待っていなければ立っていられない人の感情だった。


紫月の呼吸が浅くなる。


「返したかったんですね」


独り言みたいに、彼女が言う。


「これを」


青い瓶が、夕方の光を吸い込んで冷たく光る。


橘がその横顔を見つめたまま、低く訊く。


「誰に、ですか」


「たぶん……娘、ではありません」


紫月の声が少し掠れる。


「恋人とも少し違う。もっと曖昧で、でも切実な相手です。置いていってしまった人。先に海を渡る側の人に」


湊は眉を寄せる。

別れの場面は見えない。ただ、渡しそびれた焦りだけが強い。青い瓶を返すこと自体が目的ではなく、それを返すことでようやく“ここで終わるはずだった何か”を終わらせたかったのだと感じる。


紫月が続ける。


「誰かがこの街を離れることになった。たぶん急に。戻ってくる約束はあったのかもしれません。でも、待っていた側はそれを信じきれなかった」


風が吹く。岸壁の下で、波が石へ低く触れる音がした。


「だから、返す口実を持ってきた」


紫月の指先が、瓶の栓へかかる。


「会うための理由として。謝るためでも、引き止めるためでもなく。ただ、“返さなければいけないものがあるから”と自分に言い訳して」


その言い方に、橘が小さく息を呑んだ。


湊は横目で彼女を見る。

橘の顔は青ざめていたが、鏡の前で見せた怯え方とは違っていた。見られて削られる顔ではなく、自分の中のどこかに、ひどく似た言い訳を思い出した人の顔だった。


「……わかる気がします」


橘が、ほとんど風に紛れる声で言う。


「ちゃんと話したいわけじゃないのに、何か一つだけ理由を作って、会ってしまう感じ」


紫月が橘を見る。

けれど促しはしない。ただ、その言葉の続きを待つ。


橘は岸壁の色の抜けた石を見つめたまま続けた。


「母が亡くなる前、私は何度か病院へ通っていたんです。用事なんて、本当は毎回なくてもよかった。でも、洗濯物とか、書類とか、小さい理由を作って行っていました。顔を見たいだけだと、認めるのが嫌で」


湊は何も言わなかった。

ここで口を挟むと、その細い本音がすぐに閉じてしまいそうだった。


「たぶん、似ているんですよね」


橘が苦く笑うみたいに言う。


「本当に返したかったのは瓶じゃなくて、別のものだったのに。ちゃんと渡したいことほど、理由をつけないと持っていけない」


紫月の目が、少しだけ柔らかくなる。


「ええ」


その短い相槌のあと、彼女はようやく瓶の栓を抜いた。


微かな音がする。

香りはない。けれど瓶の口が開いた瞬間、港の空気がひどく近くなる。

潮、濡れた石、遠くの汽笛、夕方の冷え。そういうものの中へ、たった一つ、言いそびれた言葉だけが長く取り残されていたのがわかった。


紫月の身体がわずかに揺れる。


湊はすぐにその肩へ手を添えた。

細い。冷たい。けれど内側では熱を持っている。その危うい均衡ごと支えるみたいに、湊は半歩だけ彼女の前へ出た。


「無理するな」


「……あと少し」


「毎回それだな」


「知っています」


掠れた声でそう言って、紫月は瓶を胸の前に持ったまま海を見た。


「待っていたのは、帰りではないんです」


その一言に、橘が顔を上げる。


「え」


「戻ってくることを、最後まで信じきれなかった。だから本当に待っていたのは、“別れをちゃんと受け取れる瞬間”のほうだった」


湊は息を止める。それは残酷なくらい静かな理解だった。


会えたら返そう。返して、それで、きっと何かを言おう。

でも本当は、相手が戻るかどうかより先に、戻らなかったとき自分がどこで諦めるのか、その境目だけをずっと探していた。


「……だから、夕方なんですね」


橘が呟く。


「はい」


紫月の声はもうかなり細い。


「出ていく船を見送る時間に近いから。明るすぎる昼ではだめで、夜になってしまっても遅い。この半端な時間だけが、まだ“間に合うかもしれない”と“もう遅い”の両方を持っている」


風が、三人のあいだを抜けた。


青い瓶の底が、最後の光を受けてかすかに濡れる。

湊は紫月の肩を支えたまま、橘のほうを見る。

橘は泣いていない。けれど、目元の硬さだけがほどけていた。母のことも、祖母のことも、きれいにわかるわけではない。ただ、渡しそびれた感情が、人を支配する形だけではなく、待ち続ける形にも残るのだと、いまようやく自分の中へ落ちてきた顔をしていた。


湊はその二人を見て、ふと気づく。支えなければならないのは、たぶんどちらか一人じゃない。

紫月は触れすぎる。橘は重ねすぎる。そのあいだで、いまここに残っている感情が、ただ過去のものとして沈めるまで立っている役が必要なのだ。


それが自分なのだと、言葉にする前に身体のほうが先に理解していた。


「紫月」


低く呼ぶと、彼女はわずかに顔を向ける。


「やるなら、二人とも倒れない範囲で」


紫月が、苦しそうなのにほんの少しだけ笑う。


「難しい注文ですね」


「守れ」


短く返すと、橘がその隣で小さく息をついた。

笑ったのかもしれない。泣きそうなのをやり過ごしただけかもしれない。どちらでもよかった。


夕方の港に残っていたのは、誰か一人の未練だけではない。

返せなかったもの、言えなかったこと、待つしかなかった時間。

それらを紫月が読み解き、橘が自分の中の傷へ重ね、湊が現実の側へ繋ぎ止める。


その形が、ようやく三人のあいだで静かに立ち上がりはじめていた。


紫月は、栓を抜いたままの青い瓶を両手で包みこんだ。


瓶の口から、香りは何も立たない。

それでも、そこに残っているものが少しずつ形を失いはじめているのはわかった。潮の匂いに紛れていた焦りが、同じ場所をぐるぐる回るだけのものではなくなっていく。待つしかなかった時間が、ようやく前へ流れはじめたみたいだった。


「……返したかったんですね」


紫月が、海へ向けたまま低く言う。


「会えなかったとしても。遅れていたとしても。あなたは、これを持ってここまで来た」


答える声はない。

けれど、岸壁のあたりに張りついていた見えない気配だけが、少し緩んだ気がした。


紫月は目を伏せる。


「だから、もう十分です」


その言葉が落ちたとき、風が一段だけ強く吹いた。

瓶の口をかすめた風は冷たくはなかった。むしろ、長く閉じていた部屋の窓をようやく少し開けたときみたいな、こもったものを外へ逃がす風だった。


湊は隣で、紫月の肩へ置いた手に少しだけ力を足す。

彼女はそれを振りほどかなかった。いつもなら、ひと呼吸ぶんだけ距離を戻そうとするのに、今日はそのまま支えられている。


「どうするんですか」


橘が静かに訊いた。


紫月は青い瓶を見つめ、それから岸壁の下の暗い水面へ視線を移した。


「捨てる必要はありません」


「でも……」


「これは海に返れば終わるものではないですから」


声は掠れていたが、言葉はまっすぐだった。


「返せなかったのは瓶そのものではなく、返しに来た事実のほうです。それはもう、ここに届いています」


橘が息を呑む。


湊にも、その言い方は腑に落ちた。

青い瓶を海へ投げたところで、この感情はきっと綺麗には消えない。大事だったのは、誰かがここまで持ってきたこと、間に合わなかった夕方まで含めて、確かに“返そうとした”ことなのだ。


紫月は瓶の栓をゆっくり閉める。


小さな音がして、その瞬間、空気の張りつめ方が変わった。

消えたわけではない。ただ、同じ場所に立ち続けるための緊張ではなくなった。誰かがようやく立ち去ったあとの静けさに近い。


橘は海を見ながら、少しだけ目を細めた。


「母も……」


ぽつりと零れた声は、風に攫われそうなほど小さい。


「こういうのを、どこかでわかっていたのかもしれません。だから、処分しきれなかったのかな」


紫月はすぐには答えなかった。

その沈黙ごと受け止めるみたいに、少しだけ肩の力を抜く。


「かもしれません」


やがて返ってきた声は柔らかかった。


「見たくないものと、捨ててしまいたいものは、必ずしも同じではありませんから」


橘が、そこでようやく小さく笑った。

ほんの少しだけ、泣き疲れたあとの人みたいな笑い方だった。


「難しいですね」


「ええ」


「昔から、こういうふうに言葉にできるんですか」


橘の問いに、紫月は一瞬だけ目を瞬いた。

それから、珍しく答えるまでに少し間があいた。


「……いいえ」


短い返事だった。


「できなかったから、今こうしているのかもしれません」


その言い方に、湊は横目で彼女を見る。

紫月の横顔は薄い夕方の光の中でひどく静かだった。海風に髪の先だけが揺れている。いまの言葉がどこまで橘に向けたものなのか、どこから自分自身に返っているのか、たぶん本人にも曖昧なのだろうと思った。


橘も、そこまでは踏み込まなかった。

ただ、白布に包まれた手鏡の箱を抱え直し、青い瓶へ視線を落とす。


「これ、預かっていてもいいですか」


紫月が顔を上げる。


「ご自分で?」


「はい」


橘は少しだけ迷ったあと、続けた。


「百合子のものだから、ではなくて……今日ここまで来た誰かの気持ちとして、残しておきたいです。きっと、家の鏡みたいに、ずっと見つめ続けるものにはしません。でも、なかったことにもしたくない」


その言葉に、湊は小さく息をつく。

前なら、橘はたぶん“処分したほうがいいでしょうか”と訊いたはずだった。怖いものを怖いまま他人へ渡すのではなく、自分の置き方を選ぼうとしている。その違いは、たぶん小さくない。


紫月は頷いた。


「それがいいと思います」


「もし、また変なことがあったら」


「来てください」


即座に返ってきたその言葉に、橘が少し驚いたように目を瞬かせる。

客商売としての愛想ではない。かといって特別甘い響きでもない。ただ、ここへ来ることを“依頼”だけにしない返し方だった。


「……ありがとうございます」


橘は今度、前より自然に頭を下げた。


港を離れるころには、空はもうかなり薄暗くなっていた。

街灯が一つずつ灯りはじめ、海の色はほとんど夜に近い。旧波止場に残っていたあの見えない張りつめ方は、もう感じなかった。代わりに、出ていく船も戻らない人も、全部まとめて夕方の向こうへ沈めてしまうような、ただの港の静けさがある。


坂を上がりはじめてすぐ、紫月の足取りがわずかに鈍った。


湊は何も言わず、その半歩前へ出る。

彼女が転びそうなら受け止められる距離だ。


「……言っておきますけど」


しばらくして、紫月が前を向いたまま言った。


「倒れません」


「何も言ってないけど」


「言いそうな顔です」


「思ってはいる」


「正直ですね」


「そっちが無茶しなきゃ、もっと穏やかにできる」


低く返すと、紫月は小さく息だけで笑った。

その笑い方に、もう前ほどの張りつめた強がりはない。寄りかかりすぎない程度に、支えられることを少しだけ覚えた人の顔だった。


橘がその少し後ろを歩く。

手鏡の箱と青い瓶を抱えた姿は、まだ危ういところもあるのに、不思議と最初よりしっかり見えた。客として連れてこられた人ではなく、自分の足でこの坂を上がっていく人の背中だった。


港から吹く風は、下るときより少しだけやわらかい。

返せなかったものが全部返せたわけじゃない。言えなかったことも、待ち続けた時間も、きっと完全には消えない。けれど、消えないまま置き直せるものもあるのだと、今日の海は静かに示していた。


坂の途中で、湊はふと振り返る。


旧波止場のあたりは、もう暗くてよく見えない。

ただ、その見えない場所へ向けて、さっきまでそこにあった“待つしかなかった想い”だけが、ようやく同じ形のまま留まり続けることをやめたのだと、なぜかはっきりわかった。


その感覚を胸の奥へしまいながら、湊は再び前を向く。


紫月がいて、橘がいて、自分はその少し前を歩いている。

たったそれだけの並びなのに、少し前までとはもう同じじゃない気がした。


言葉にしなくても、誰かを支える立ち位置は、たぶんこうして少しずつ決まっていくのだろう。

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