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彼女の手は、呪いに似ていた。  作者: 森凛


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第六話 ー 色を失った肖像画(下)

橘の家は、店から歩いて十分ほどの、坂の途中にある古い洋館だった。


港の近くほど華やかではないが、この街特有の、異国の匂いを少しだけ残した家並みの中に、何でもない顔で紛れている。門扉は塗り直されているし、玄関脇の植え込みも手入れが行き届いている。けれど二階の窓枠や、雨樋の金具の古さだけは隠しきれていなくて、長く住み継がれてきた家なのだとわかった。


空はまだ曇っていた。雨は止んでいるのに、地面と壁のあいだにだけ湿り気が残っている。


橘が鍵を開ける手元は、店にいたときより少し硬かった。


「母が亡くなってから、ほとんど一人です。だから……奥の部屋も、普段は開けていなくて」


「構いません」


紫月の返事はいつも通り穏やかだったが、隣で聞いている湊には、その声音が少しだけ薄いのがわかる。さっきの肖像画で、思った以上に削られている。顔色はまだ保っている。それがかえって厄介だった。倒れそうなほど悪くないぶん、本人が平気なふりを通してしまう。


玄関へ入ると、家の中はひんやりしていた。


古い木の匂い。乾ききらなかった布の匂い。長いあいだ人が住んでいる家特有の、生活の温度が抜けきらない空気。けれどその奥に、もう少し違うものが混じっている。何かを長く見張っていた場所の静けさだった。


橘に案内されて廊下を進む。

応接間、食堂、その先に小さな書斎。どの部屋も整っている。整いすぎていると言ってもいい。使っていない場所ほど、ものは乱れずにそのまま残る。


「鏡は、二階です」


階段の前で橘が言った。


「母の寝室の隣にある、小さい化粧部屋に」


その言い方に、湊は少しだけ引っかかった。

化粧部屋。いまどきあまり聞かない呼び方だ。たぶん昔から、そう呼ばれていたのだろう。家の中だけで時間が止まっている場所には、そういう名前が残る。


二階へ上がる途中、紫月がふいに足を止めた。


「どうした」


「……ここからですね」


低い声だった。


湊も息を止める。階段の途中から、空気の質が変わっていた。一階の湿り気とは違う、乾いた冷たさ。窓が開いているわけでもないのに、皮膚の表面だけから熱を奪っていくような冷え方だった。


橘が振り返る。


「何か、ありますか」


「まだ、はっきりとは」


紫月はそう答えたが、その視線は階段の上へ向いたままだった。


「ただ、上のほうが少しだけ、鏡に近い空気です」


意味がわかるようでわからない言い方だった。けれど、わからないままでも嫌な感じだけは伝わる。


二階の廊下は、一階より暗かった。突き当たりの窓に薄いレースが掛かっていて、曇天の光がぼんやり滲んでいる。橘は一番奥の手前、半開きになっていた扉の前で立ち止まった。


「ここです」


扉を押すと、狭い部屋が現れた。


化粧部屋と呼ぶには、いまはほとんど物置に近い。小さなドレッサー。壁際の細いチェスト。布を掛けた椅子が一脚。窓は閉まっていて、カーテンの隙間からだけ弱い光が入っている。


そして、部屋の奥の壁に、鏡があった。


思っていたより大きい。


姿見ほどではないが、上半身がしっかり映る縦長の鏡だ。濃い色の木枠に、上部だけ細かい蔦模様の彫り込みがある。飾りとしては上品だが、そのぶん目を引く。いまは白布が半分だけ掛けられていて、鏡面の下半分しか見えていない。


見えている面に、三人の足元だけがぼんやり映っていた。


「ずっと、こうして」


橘が白布の端を見つめる。


「母が亡くなってからは、あまり触れていません。捨てたほうがいいと思いながら、そのままで」


「最後に使ったのは」


「……わかりません。でも、小さいころはここに入らないよう言われていました」


紫月は何も言わず、部屋の敷居で立ち止まったまま鏡を見る。

すぐには近づかない。視線だけで距離を測っているみたいだった。


湊は横から部屋の中を見回す。埃はある。けれど厚く積もってはいない。完全に放置されていたわけではなく、たまに誰かが入っていた程度の生活感がある。チェストの上には香水瓶が一本だけ置かれていた。中身は空で、ラベルも剥がれている。ドレッサーの前の床板だけが、かすかに色を失っていた。長いあいだ誰かがそこへ立っていたのだとわかる。


「……変だな」


思わず口に出すと、橘が振り返った。


「何がですか」


「使ってない部屋にしては、鏡の前だけ綺麗すぎる」


紫月が薄く目を細める。


「ええ。拭いていますね、ここだけ」


橘の顔が強張った。


「私じゃありません」


「そうでしょうね」


紫月は責めるでもなく言う。


「あなたはこの部屋に長くいたくない顔をしていますから」


その指摘に、橘は否定しなかった。


紫月が一歩、敷居を越える。


その瞬間だった。


白布の掛かった鏡の表面に、何も映っていないはずの上半分だけ、ごく薄く影が走った。


人の形というには曖昧すぎる。けれど、布の奥で誰かが顔を寄せて、こちらを覗いたようにも見えた。


湊は反射的に息を呑む。


「……見たか」


誰にともなく漏らすと、橘が小さく悲鳴のような息を立てた。


「いま、何か」


「下がっていてください」


紫月の声が、いつもより少しだけ強い。

橘は素直に一歩退き、廊下との境目近くまで下がった。湊は逆に、紫月のすぐ斜め後ろへ寄る。本人に言わせれば“見ていて”役だが、こういうときは、見ているだけで済まない気がいつもする。


紫月は白布の端へ手を伸ばした。


「待て」


湊が低く言う。


「触るのか」


「ええ。たぶん、こちらのほうが先です」


「肖像画じゃなくて?」


「はい。あちらは入口です。でも、残り方が濃いのはこっち」


そう言う声は静かなのに、指先だけが少し白い。

嫌な予感がした。


それでも紫月は躊躇せず、布の端をつまんだ。

するり、と軽い音を立てて白布が落ちる。


鏡面が全部あらわになる。


古い鏡だった。細かな曇りと、縁に近い部分の小さな黒ずみ。けれど中央だけは異様に澄んでいる。新品みたいに、ではない。長く使われすぎた鏡特有の、“映すことだけが擦り減っていない”澄み方だった。


三人の姿が映る。


湊。紫月。橘。


そのはずだった。


けれど次の瞬間、鏡の中だけで、橘の立ち位置が一歩ぶん前へずれた。


「……っ」


橘が自分の胸元を押さえる。

現実の彼女は敷居のそばにいる。なのに鏡の中では、ドレッサーの前、ちょうど床板の色が薄くなっている位置に立っていた。


それだけじゃない。


鏡の中の橘は、こちらを見ていなかった。

少し顎を引き、まっすぐ前――つまり、鏡の向こう側からこちらを覗く誰かに顔を確かめられるみたいな角度で、静かに立っていた。


ぞっとした。


あれは立ち位置のずれじゃない。

“そこに立っていた形”が、先に鏡の中へ置かれている。


「桐生さん……」


橘の声は震えていた。

鏡から目を離せないまま、今にも後ずさりしそうなのに、足が動けない。


紫月は鏡を見つめたまま低く言う。


「大丈夫です。まだ、引かれているだけですから」


まだ、という言い方が嫌だった。

湊は横目で紫月を見る。彼女の右手首の袖口に、淡い影がじわりと滲みはじめている。


「何が見えてる」


「確認されています」


それだけ返して、紫月は鏡に一歩近づいた。


鏡の中の橘が、現実の橘より先に、ほんの少しだけ首を傾ける。


人が動いたというより、昔そこに立っていた誰かの姿勢が、今の顔に重なった感じだった。


橘が息を詰める。


「やめて……」


その声とほとんど同時に、鏡の奥で、橘の肩越しにもう一人の影が立ち上がった。


黒い服ではない。喪服でもない。

ただ、淡い色の古いドレスの輪郭だけが、濁った銀色の奥にゆっくり浮く。

顔はまだはっきりしない。けれど、肩へ手を置こうとする仕草だけは、不自然なくらい丁寧だった。


まるで、鏡の前に立つ娘の姿勢を直すみたいに。


湊の背筋に冷たいものが走る。

優しく見える仕草ほど、この家ではたぶん、息苦しかったのだ。


紫月が鏡へ右手を伸ばした。


その指先が触れる寸前、鏡の中の女の輪郭が、初めてこちらへ顔を向けた。


鏡の中の女が、初めてこちらへ顔を向けた。


輪郭はまだ少し曇っている。けれど、さっきまでの“気配”ではなかった。

目元の線。頬の薄い影。口元のかすかな強張り。肖像画の中に閉じ込められていた顔が、いまは鏡の銀の底から、息だけを許されたみたいに浮かび上がっている。


その女は、橘の肩越しにこちらを見た。


正確には、橘だけを見ていたのだと思う。

湊たちは、その視線の延長線上に偶然立っているだけだ。


紫月の指先が鏡面へ触れる。


触れた瞬間、部屋の温度がすっと落ちた。冷房の冷たさではない。もっと薄くて、皮膚の上だけを撫でるような冷えだった。右手首の袖口のあたりに沈んでいた紫の影が、見る間に濃さを増していく。


「紫月」


止めるより先に名前を呼ぶ。


けれど彼女は振り返らなかった。


鏡の中の女の唇が、ゆっくり動く。


最初、声はしなかった。形だけが先にあって、そのあとから、ひどく近いところで囁かれたみたいな音が落ちてくる。


『……ちがう』


橘が息を呑む。


女の声は若くも老いてもいなかった。年齢ではなく、長く同じ言葉だけを口の中で転がし続けた人の声だと思った。


『もっと、まっすぐ』


ぞっとした。


恨み言ではない。助けを求めてもいない。

最初に出てきたのが、その言葉だ。


橘の肩が小さく震える。現実の彼女は敷居のそばに立ったままなのに、鏡の中では、ドレッサーの前に立たされた彼女の姿が、ゆっくり顎を引き、背筋を伸ばしていく。


「や、やめて……」


橘が声を絞る。

鏡の中の自分へ向けたものなのか、鏡の奥の女へ向けたものなのか、自分でもわからないような声だった。


けれど女は止まらない。


『笑って』


ひどく穏やかな口調だった。


『その顔は、だめ』


湊の背中に冷たいものが走る。

静かすぎた。怒鳴り声でも責める声でもない。だからこそ、その場で何度も繰り返されてきたのだとわかってしまう。日常の声の高さで、逃げ場のないことだけを言い続ける。そういう種類の圧だった。


紫月の呼吸が浅くなる。


「……そういうことですか」


独り言みたいな低い声だった。


「桐生さん」


橘が泣き出す手前の顔で彼女を見る。


「これ、祖母なんですか」


紫月は鏡に触れたまま、少しだけ目を伏せた。


「ええ。たぶん、百合子さん本人の残り方です」


『よく見て』


女がまた言う。


『似ているでしょう』


その言葉が落ちた瞬間、湊は本能的に鏡から目を逸らしかけた。

無理だった。視線を外したほうが負ける、と言われているわけでもないのに、なぜか見続けてしまう。確認しろ、という圧だけが、声より先に部屋へ満ちていく。


紫月が静かに言う。


「これは“鏡の中から奪う呪い”ではありませんね」


橘は肩を震わせたまま、答えられない。


「百合子さんは、あなたになりたいわけじゃない。入れ替わりたいわけでもない。ただ」


そこで紫月は一度だけ息を飲み、鏡の女を真っ直ぐ見た。


「見届けたいんですね。自分の顔が、どこまで続いているか」


鏡の中の女の表情はほとんど変わらなかった。

 けれど、橘の肩へ置こうとしていた手の輪郭だけが、ほんの少し濃くなる。


肯定だった。


湊はその瞬間、鳥肌が立つのを抑えられなかった。


恋しさでもない。怒りでもない。

血がつながっているかどうか、自分に似ているかどうか、その確認だけが死んだあとまで残る。

そんなものがあるのかと思った。あるのだろう。目の前に。


「お母さまも」


紫月の声は静かだった。


「その鏡の前に立たされていたんでしょうね」


橘が目を見開く。


「髪の分け方。口元の角度。笑うときの頬の上げ方。そういうものを、ただ何となく真似ていたんじゃない。見られて、直されて、合わせさせられてきた」


『女は、見られるものよ』


鏡の女が言う。


今度は、はっきりと。


『正しく見えるようにしていれば、大丈夫』


その言葉に、橘の唇が白くなるほど強く噛み締められた。


「大丈夫じゃ、なかった……」


漏れた声は、怒りというより、長く押し込めていたものがようやく空気に触れたときのかすれ方だった。


「母は、全然」


『あの子は、目を逸らした』


百合子の声は、少しだけ硬くなった。


『せっかく整えてあげたのに』


ぞっとするほど自然な言い方だった。


整える。

 その語に、悪意は入っていない。

 本気で“よくしてやった”と思っている声だった。


湊はそこで、ようやくこの家に残っていた嫌な静けさの正体を理解した気がした。

暴力の痕じゃない。暴力だったと名付けられなかったものの沈黙だ。

服を直すみたいに、姿勢を整えるみたいに、母から娘へ向けられた視線。

その視線の下に長く立たされるうち、人は自分の顔を自分のものとして持ちにくくなる。


紫月が低く言う。


「だから、お母さまはこの人を切り離したかった。でも切り離し方が“見ないこと”しかなかった」


橘の目に、ようやく涙が滲む。


「母は……祖母に似るのが嫌だったんでしょうか」


「たぶん、似ていることより」


紫月は続ける。


「似ているかどうかを、ずっと確かめられ続けることが嫌だったんでしょうね」


その言葉は、湊にもひどくよくわかった。

似ている、で終わるならまだいい。

でも“似ているから、こうしなさい”が続けば、それはもう自分の顔ではなくなる。


『目を逸らさないで』


百合子の声が落ちる。


『あなたは、よく似ている』


橘が後ずさろうとする。

けれど鏡の中の彼女は、現実より一歩前に出たまま動かない。

ドレッサーの前、色の抜けた床板の上にきちんと立ち、顎を引いて、見られるための顔を保っている。


それがたまらなく気味悪かった。


現実の橘が拒んでいるのに、鏡の中の彼女だけが従っている。

あれは怪異というより、家の中で何度も繰り返された“正しい立ち方”の記憶なのだ。


「紫月、もうやめろ」


思わず低く言う。


彼女の右手首は、もう隠しきれないほど色を深めていた。薄い紫ではない。雨の夜が皮膚の内側へ滲んだみたいな濃さだ。


それでも紫月は、鏡から手を離さない。


「あと少し」


「その台詞、信用できない」


「わかっています」


珍しく素直だった。

 素直なときほど危ういのを、湊はもう知っている。


紫月は百合子を見つめたまま、静かに言う。


「あなたは娘を愛していなかったわけではない。でも、“愛した形”が、視線のほうへ寄りすぎた」


鏡の中の女の表情が、初めてわずかに揺れる。


「見て、整えて、正して、似ていることを確かめる。それを愛情だと思ったんですね」


『……そうしなければ』


百合子の声が、初めて少しだけ掠れた。


『この子たちは、ひとりで立てない』


その一言で、部屋の空気がまたひとつ冷えた。


湊は息を呑む。

核心はそこだった。


娘を自分に似せたかったのではない。

自分の視線の中に置いておかなければ、娘は立てないと思い込んでいた。

だから見続けた。鏡越しにでも、死んだあとでも。


「違う」


橘が、はっきりと言った。


震えてはいたが、さっきより深い声だった。


「母は立ったよ。逃げるみたいにでも、目を逸らしながらでも、立った」


鏡の中の百合子が、初めて橘を真っ直ぐ見る。


その視線の濃さに、湊はぞくりとする。

次の言葉で、何かが決まってしまう。そんな予感があった。


紫月が低く息を吸う。


「……次は、ここですね」


その声が落ちた瞬間、鏡の表面に細いひびのような白い線が一本だけ走った。

割れてはいない。けれど、向こうとこちらの境目だけが、急に薄くなったように見えた。


白いひびは、鏡の表面を横切るように一本走ったまま、消えなかった。


割れてはいない。なのに、そこから向こう側の冷気だけが細く漏れ出してくるみたいだった。鏡面の奥行きが、ほんの少しだけ深くなって見える。銀の裏にただ壁があるはずなのに、その向こうへ、もう半歩ぶんほど足を踏み入れられそうな気がしてしまう。


嫌な感じだった。


『立ちなさい』


百合子の声が、今度ははっきりと落ちる。


鏡の中の橘が、現実より先に背筋を伸ばした。顎を引き、肩の高さを揃える。

現実の橘は敷居のそばで凍りついているのに、鏡の中だけが命令に従っていく。


「……やだ」


橘が掠れた声で言う。


けれどその拒絶は、鏡の中までは届かない。


『姿勢を直して』 『その顔はだめ』 『笑って』


同じ高さの声で、女は繰り返す。

怒鳴りもしない。責めもしない。ただ、“こうあるべき”だけを、静かに置いていく。

その優しげな声音のまま逃げ道だけを塞いでいく感じに、湊はぞっとした。


橘が一歩下がろうとして、足をもつれさせる。


湊はとっさに腕を伸ばした。触れた肩は冷たく、力が入っていない。

視線だけは鏡へ引かれている。見たくないのに、見続けさせられている顔だった。


「橘さん、こっち見て」


声をかけても、反応が遅い。


『立ちなさい』


百合子が、さっきより少しだけ強く言った。


その瞬間、鏡のひびから、細い白い線がもう一本だけ枝分かれする。

空気がびり、と鳴った気がした。音ではないのに、鼓膜の奥がきしむ。


鏡の中の女が、一歩だけ前へ出る。


鏡面の奥で、橘の肩へ置かれていた手の輪郭が濃くなる。

置かれようとしているのではない。もう何度もそうしてきた手つきだった。髪を直し、顎の角度を直し、肩を引かせて、鏡の前に“正しい顔”を立たせてきた手。


湊は、ぞくりとする寒気と一緒に、妙な現実感に襲われた。

怪異というより、家庭の中で繰り返された習慣のほうが先にある。

それが一番、気味悪かった。


「紫月」


呼ぶと、彼女は鏡へ触れたまま低く答えた。


「動かさないでください」


「何が見えてる」


「……起点です」


声が少しだけ浅い。

右手首の袖口の内側で、痣の色がさらに深く沈んでいくのが見える。夜の薄皮を何枚も重ねたみたいな色だった。


「この鏡そのものじゃない」


紫月はほとんど独り言みたいに言った。


「百合子さんが残したのは、自分の顔ではなく――“立たせる位置”ですね」


湊は思わず床を見る。


ドレッサーの前、色の抜けた床板。長いあいだ誰かが立ち続けた場所。


『そうよ』


百合子が答える。


その返事に、湊の背筋が総立ちになる。

会話が成立している。さっきまでの残響ではない。いまは、向こうがこちらの言葉を理解して返している。


『そこに立てばわかる』 『鏡は嘘をつかないもの』


紫月の目が細くなる。


「違います。鏡は、見たいものだけを正しく見せることがある」


『何が違うの』


「あなたは娘たちを見ていたんじゃない。自分の視線に合う形へ、並べていただけです」


百合子の輪郭がわずかに揺れる。

怒りではない。否定されたことへの戸惑いが、ほんの少しだけ滲んだ。


『きちんと立てば、守れるでしょう』


「守っていません」


紫月の声は静かだった。

静かすぎるぶん、ひどく冷たく聞こえた。


「この家に残っているのは、愛された記憶ではない。見られ続けた緊張です」


橘が、湊の腕の中で小さく息を呑む。


鏡の中の橘は、なおもドレッサーの前に立っている。

だがその輪郭の上へ、百合子の姿勢が薄く重なり始めていた。顎の角度、肩の線、首の伸ばし方。似るのではない。合わせられていく。


『立ちなさい』


もう一度、百合子が言う。


今度は、命令というより反射に近い声だった。そう言うことが、この女にとって一番自然だったのだとわかってしまう。


その瞬間、橘の足がひとりでに前へ出かけた。


「橘さん!」


湊は慌てて肩を引く。

軽いはずの体が、妙に重かった。前へ行こうとする重みが、身体の内側からかかっている。


「見ないで……」


橘が震える声で言う。


「見ないで、って言ってるのに」


その言葉が、湊の胸にひっかかった。

誰に向けて言っているのか、たぶん本人にもわかっていない。母へか、祖母へか、鏡へか、自分自身へか。


紫月が急に顔を上げる。


「そこです」


鋭い声だった。

いつもよりはっきりしていて、そのぶん危うい。


「呪いの起点は“百合子さんの視線”ではありません。視線を受けた側が、見られるために自分を直し始めるところです」


湊は息を止める。


「つまり」


「橘さん、自分で顎を引かないで」


紫月が言う。


橘がはっとする。


たしかに、さっきから彼女は百合子に言われるより少し早く、自分で姿勢を整えかけていた。長いあいだ身についてしまった反応なのだろう。見られていると感じた瞬間、自分から“正しい位置”へ寄ってしまう。


それが起点。


呪われているというより、自分の中で繰り返してしまう仕組みのほうが、呪いを生かし続けている。


「違う……」


橘が呟く。

 けれどその声は揺れている。否定というより、認めたくない人の声だった。


「私、そんなつもりで」


「ええ。わざとではないでしょう」


紫月の呼吸がひとつ浅くなる。


「でも、鏡の前に立つたび、あなたは“どう見られるか”のほうから自分を確かめていた。百合子さんは、その反復に乗って出てきている」


『そうよ』


鏡の中の女が、初めて少しだけ笑った。


微笑みではない。

正しく並んだものを見たときの、安堵に近い口元だった。


『よくわかっているじゃない』


その笑い方に、湊は本気で寒気がした。

悪霊みたいに歪んでくれていたら、まだわかりやすかった。

でもこれは、人を傷つけるつもりなく傷つけてきた人間の顔だ。


紫月の手が、鏡面の上でわずかに震える。


限界が近い。湊にもわかった。


「どうすれば切れる」


短く訊くと、紫月は鏡を見たまま答える。


「“立たない”ことです」


「は?」


「その位置に、正しい顔として」


そこで彼女の声が少しだけ掠れた。

湊は思わず一歩寄る。紫月のこめかみに、うっすら汗が浮いている。


「橘さん」


紫月が低く呼ぶ。


「一つだけ、言えますか」


橘は震えながら頷く。


「この人の前で、一度も言えなかったことを」


鏡の中の百合子が、ぴたりと止まる。

橘の肩越しに置かれていた手も、その場で静止した。


「私は」


橘の喉が上下する。


言葉が出ない。

けれど出ないままの時間も、いまは必要なのだと湊にはわかった。

これまでずっと、“見える形”のほうが先に整えられてきた。なら今は、整わない声のまま出すしかない。


『立ちなさい』


百合子が、焦ったみたいに繰り返す。


『ちゃんとしなさい』


「嫌」


橘がはっきり言った。


小さい。けれど今までで一番、芯のある声だった。


「私は、もうその場所に立たない」


鏡のひびが一本、さらに深く白くなる。


ぱき、と今度ははっきり音がした。


百合子の輪郭が大きく揺れる。

怒ったのではない。足場を失ったものが、初めて自分の薄さを思い出したみたいな揺れ方だった。


『だめ』


その声が落ちた瞬間、鏡の奥から冷気が吹き出す。

橘が前へ引かれかける。


湊は咄嗟に彼女を抱えるように引き戻した。

同時に、紫月が鏡へ押し当てていた手のひらを、ひびの中央へずらす。


「あなたが立たせたかったのは、娘じゃない」


紫月の声はもうかなり掠れていた。

それでも、言葉だけはぶれない。


「“見ていないと消えてしまう自分”でしょう」


百合子の動きが止まる。


その一瞬で、部屋の空気がさらに鋭く張りつめた。

核心だったのだと、湊にもわかった。


娘を整えたかったんじゃない。


娘を見ているあいだだけ、自分が母親でいられた。

 

視線を返してくれる相手がいて初めて、自分の輪郭が保てた。

だから立たせ続けた。鏡の前に。自分の視線の届く場所に。


『……ちがう』


百合子が低く言う。


だが最初のときほど強くない。

 ひびの奥で、顔の輪郭が少しずつ崩れはじめている。


「違わない」


紫月は静かに返す。


「だから、お母さまが目を逸らしたとき、あなたは終われなかった。百合子さん、あなたは娘の顔ではなく、自分の消えかける形を見ていたんです」


鏡の表面が大きく軋む。

次の瞬間、白いひびが蜘蛛の巣みたいに広がった。


橘が息を呑む。

 湊は彼女を庇うように半歩前へ出る。紫月の身体がぐらつくのも同時に見えた。


「紫月!」


呼んだ瞬間、鏡の中の百合子が、ひびの向こうからこちらへ手を伸ばした。


ひびの向こうから伸びてきた百合子の手は、骨ばっているわけでも、腐っているわけでもなかった。


ただ、ひどく整って見えた。


指先まで力の入れ方がきちんとしていて、昔はきっと綺麗な手だと言われたのだろうと思わせる形をしている。だからこそ、その手がこちらへ出てこようとする光景は、余計にぞっとした。


鏡面の縁で、爪先ほどのところが引っかかるみたいに揺れる。

白いひびは、そこを中心に細かく広がっていた。


『立ちなさい』


百合子が、もう一度言う。


今度の声はさっきまでより近い。鏡の向こうからではなく、部屋の中のどこかで囁かれたみたいな近さだった。


『そこへ』


湊は橘を庇うように腕を伸ばしたまま、紫月を見る。

彼女は鏡に手を押し当てた姿勢のまま、わずかに俯いていた。右手首の内側に滲んだ痣は、もう袖口から隠しきれない。薄い紫ではなく、濡れた夜そのものみたいな色だ。


それでも、その目だけはまだ逸れていなかった。


「……橘さん」


掠れた声だった。

 けれど、ぶれない。


「見ないで、では足りません」


橘の肩が震える。


「立たないと」


「違います」


紫月は静かに言う。


「“あなたが立つ場所を選ぶ”んです」


百合子の手が、鏡の外へ半ばまで出かかる。


空気が冷える。

ドレッサーの前の色褪せた床板だけが、そこに誰かの体温の記憶を残しているみたいに、妙に生々しく見えた。


『そこへ来なさい』


百合子の声は、怒鳴らない。

優しく命じることに慣れた声だった。


『ちゃんと立てば、大丈夫だから』


その言葉に、橘がはっきりと顔を歪めた。

怯えではない。たぶん、初めて怒りに近いものが浮かんだのだと思う。


「……大丈夫だったことなんて、ない」


小さい声だった。

でも、さっきまでとは違う。自分の中へ落として消すための声ではなく、相手へ届いてしまっても構わないと決めた声だった。


百合子の手が止まる。


橘は、湊の腕をそっと押しのけた。


「橘さん」


思わず呼ぶ。

けれど彼女はもう、さっきまでみたいに引かれている顔ではなかった。足は震えている。呼吸も浅い。それでも、自分で前へ出る人の顔をしていた。


「……平気じゃないです」


橘は鏡を見たまま言う。


「怖いし、見たくないし、逃げたいです。でも」


そこで一度だけ目を閉じる。

開いたとき、その視線は百合子ではなく、鏡の中の“立たされている自分”へ向いていた。


「私は、あの場所には立たない」


言いながら、橘はドレッサーの前へは行かず、その横へ回った。


床の色が抜けた位置を外して、鏡に対して少し斜めの場所へ立つ。

たったそれだけのことなのに、部屋の空気が軋んだ。


百合子の輪郭が、わずかに揺れる。


『ちがう』


初めて、その声に焦りが混じった。


『そこじゃ、見えないでしょう』


その言い方に、湊はぞくりとする。

やはりこの女にとって大事なのは、娘がどう感じるかではない。見えるかどうか、確認できるかどうかだけだ。


紫月が、鏡へ触れたまま低く言う。


「そうです。見えなくなるんです」


その声に百合子が顔を向ける。


「あなたが必要としていたのは、娘ではなく、“正しい角度で返ってくる顔”だった。だから、正面に立たせた。だから、自分で姿勢を直し始めるまで見続けた」


ひびがまた一本、細く鳴る。


紫月は続けた。


「でも、橘さんはもう、その位置には立たない。あなたの視線が届く場所から、自分でずれる」


『だめ』


百合子の声が、今度ははっきりと乱れた。


鏡の外へ伸びていた手が、さらに前へ出ようとする。

その瞬間、紫月が鏡面へ押し当てていた手を、ひびの中央からわずかに下へずらした。


「起点はここです」


湊には最初、何を指しているのかわからなかった。

鏡の下辺、ちょうどドレッサーの高さに近い位置。そこに彼女の指先が止まる。


「毎回、見せていたんですね」


百合子がぴたりと動きを止める。


「姿勢だけじゃない。顎の角度だけでもない。ここに立たせて、“母親の視線の中でしか輪郭を持てない顔”を繰り返し作った」


湊は息を呑む。


呪いの起点は、鏡そのものではない。

鏡の前に立たせ、見られ、直されることを何度も反復した、その位置関係だ。


「だから残ったのは、恨みじゃなく確認だった。娘を愛せなかった後悔でもない。自分の視線の届く範囲でしか、相手を生かせなかった癖だけが残った」


百合子の顔が、はじめてはっきり歪む。


『……私は』


「ええ、あなたも怖かったんでしょう」


紫月の言葉は静かだった。


「見ていないと、娘が自分と別のものになるのが。別の顔で立つのが。自分の知らないまま育っていくのが」


その一言に、百合子の輪郭が大きく揺れた。

怒りではなく、隠していた薄さを見られた人の揺れ方だった。


湊はその瞬間、ようやくわかった気がした。

呪いの形が反転する、というのは、たぶんこういうことだ。


今までずっと見ていた側を、今度は見返す。

娘たちを“正しくあるか”と確かめてきた視線の奥にあった、怯えや空白のほうを暴く。

そうなった瞬間、この呪いは支えるものを失う。


「橘さん」


紫月が呼ぶ。

声がかなり掠れている。長くはもたないと、湊にもわかった。


「一つだけ、見てください」


橘の喉が上下する。


「この人の顔を」


「……」


「似ているかどうかではなく、何を怖がっていた顔なのかを」


百合子が息を呑んだみたいに見えた。

鏡の中の空気が、さっと白く曇る。


「見なくていい、じゃなくて?」


橘の声は震えていた。


「今日は、違います」


紫月は言う。


「見ないことで切るのは、お母さまのやり方です。あなたはたぶん、もう一度同じことをすると、また別の形で引き戻される」


橘はしばらく動かなかった。

けれどやがて、自分の足で一歩だけ前へ出る。


ドレッサーの正面ではない。斜めのまま、鏡の真正面から少しずれた位置。百合子の“正しい角度”からは外れたまま、それでも逃げずに立つ。


百合子の顔が、鏡の奥で揺れる。


初めて、取り乱したように見えた。


『ちがう、そうじゃ』


「そうじゃないのは、そっち」


橘が、はっきり言った。


涙で滲んでいるのに、声は不思議なほど真っ直ぐだった。


「母も、私も、あんたの鏡じゃない」


部屋が静まり返る。


湊は息を止めた。

 たぶんその言葉は、この家の中で一度も言われなかった種類のものだ。

 反抗ではなく、拒絶でもなく、役割の否定。

 “娘”であるより前に“別の人間だ”という宣言。


『……』


百合子の唇が動く。けれど、さっきまでみたいに命令の言葉が出てこない。


紫月がその沈黙へ、最後の言葉を置く。


「あなたが見ていたのは、娘ではありませんでした」


その声はひどく静かで、ひどく残酷だった。


「だから、もう見返してもらえない」


ひびが、一気に広がった。


ぱき、ぱき、と今度は連続して音がする。

鏡そのものが割れるのではない。境界にだけ、見えない亀裂が走っていく。百合子の伸ばした手が、そこで初めて形を失い始めた。整っていた指先から、白い輪郭がほどけていく。


『だめ』


百合子が言う。

その声はもう、命じるものではなかった。

見失うことを恐れる人の声だった。


『見えなくなる』


橘は泣きながら、でも目を逸らさなかった。


「うん」


短く答える。


「見えなくなるよ。私を見てるだけじゃ」


その言葉が落ちた瞬間、鏡の中の“立たされていた橘”が、初めて動きを止めた。

 顎の角度が崩れ、肩の力が抜け、正しい姿勢を保っていた輪郭が、ただの一人の女の立ち方へ戻っていく。


百合子の顔が、そこではじめて静かに歪む。


悲しいのか、悔しいのか、湊にはわからなかった。

 ただ、それは肖像画の中で固めていた顔でも、鏡の前で娘を整えていた顔でもなかった。

 “正しい母親”でいられなくなる瞬間の、ただの人間の顔に見えた。


次の瞬間、鏡の曇りが一気に内側から広がった。


真っ白な膜が百合子の輪郭を覆い、そのまま音もなく沈んでいく。

伸びていた手が消える。

冷気が止まる。


湊が息をついたのと、紫月の身体がぐらりと揺れたのは同時だった。


「紫月!」


慌てて支える。思った以上に軽い。右手首の痣は、もう誰が見てもただの痣ではない濃さになっていた。


「……っ、大丈夫」


「信用できるわけあるか」


「今回は、少しだけ」


「毎回それだろ」


低く返すと、紫月は苦しそうに息を吐いたまま、ほんの少しだけ目を細めた。笑う余裕なんかないはずなのに、こういうときでも笑おうとするのが腹立たしい。


橘がその場に崩れるように膝をつく。


鏡はもう、ただの古い鏡に見えた。ひびは入っていない。鏡面の奥行きも戻っている。けれど中央には、曇りが手のひらほどだけ残っていて、そこだけ誰かが最後に触れた跡みたいに白かった。


部屋の冷たさが、少しずつほどけていく。


「……終わったんですか」


橘が掠れた声で訊く。


紫月は湊に支えられたまま、鏡を見た。


「完全には、まだ」


「え」


「百合子さんそのものは、もう強く出てこられないと思います。でも、この家の中にはまだ、見られることに合わせてしまう癖が残っている」


橘がゆっくり顔を上げる。


「じゃあ」


「次は、あなたがこの鏡の前に、自分の立ち方を置き直す必要があります」


その言い方は穏やかだった。

怪異を祓って終わりではなく、残った形を生きている側が直す。

この人は、やっぱりそういうところまで含めて解くのだと思った。


湊は紫月の肩を支えたまま、白く曇った鏡面を見る。


そこにはもう百合子の顔はない。

ただ、長いあいだ誰かを見すぎた場所だけが、ようやく何も映さずにいるみたいだった。


鏡の中央に残っていた白い曇りは、すぐには消えなかった。


手のひらほどの丸い曇りが、銀の奥に浅く沈んでいる。ついさっきまでそこに誰かの顔があったことを知っているから、ただの湿気だとは思いにくい。けれど、もうこちらを見返してくる気配はなかった。


部屋の冷たさが、少しずつほどけていく。


橘は床へついた膝に手を置いたまま、しばらく動かなかった。肩で息をしている。泣いているわけではないのに、泣き終わった直後みたいな呼吸だった。


紫月が、湊に支えられたまま静かに言う。


「……立てますか」


橘は顔を上げる。

鏡を見る。その視線はまだ怯えていたが、さっきまでみたいに引きずられている感じは薄かった。


「はい」


返事をして、彼女は一度だけ深く息を吸った。


すぐには立ち上がらない。まず両手を床から離し、自分の膝の上へ戻す。それから、身体の重心を確かめるみたいに、ゆっくり足裏へ力を移していった。


急がない動きだった。


湊は黙って見ていた。

さっきまでのこの部屋では、“立つ”こと自体が誰かに命じられる動作だった。だから今、橘が立ち上がるまでのわずかな時間が、不思議なくらい静かに重く見える。


橘はようやく立ち上がる。


少しふらついたが、倒れはしなかった。


鏡の前の、色の抜けた床板には立たない。

その少し横。さっき自分で選び直した、正面から半歩だけずれた位置へ、もう一度足を置く。


鏡の中に、橘の姿が映る。


さっきまでみたいに、現実より先に動く影はない。

肩越しに誰かが立つ気配もない。

ただ、少し青ざめた顔の女が、自分の呼吸の速さまで含めて、そのまま映っていた。


橘はしばらく黙って鏡を見る。


手を上げて髪を直しかけて、途中で止めた。

その仕草に、湊は小さく息を止める。無意識だったのだろう。見られるために整える癖が、まだ身体のどこかに残っている。


橘もそれに気づいたのか、苦く笑うように唇を揺らした。


「……やっぱり、すぐには消えませんね」


紫月は小さく頷く。


「ええ。でも、今のは“合わせた”んじゃなくて、“合わせかけた”ことに気づけた。そこは大きいです」


その言い方がいかにも彼女らしかった。

できたかできないかを、すぐ善し悪しで切らない。残った癖は残ったままで見て、そのうえで、どこまで自分で選べたかを拾う。


橘は鏡から目を離さないまま訊く。


「……このまま、ここに立っていても平気ですか」


「今日は、長くはおすすめしません」


紫月の声はいつも通り穏やかだったが、近くで支えている湊には、少し掠れているのがわかる。


「ただ、もう“見られる位置”に自分を置く必要はありません。鏡を見るなら、あなたが決めた立ち位置で」


橘はその言葉をゆっくり飲み込むみたいに、もう一度小さく頷いた。


「母は、最後までこの部屋に入らなかったんです」


ぽつりと落ちた声に、湊は橘の横顔を見る。


「鏡を捨てればいいのに、とは何度も思いました。でも、入らないことで済ませていた。……たぶん、それしかできなかったんですよね」


紫月は否定も肯定も急がなかった。


「そうかもしれません」


「私は、母みたいにはなれない気がします」


「ならなくていいと思います」


あまりにもさらりと言うので、橘がわずかに目を見開く。


紫月は、鏡の前に立つ橘を見つめたまま続ける。


「見ないことも一つの切り方です。でも、橘さんはたぶん、知ったうえで離れたい人なんでしょう」


部屋の中に沈黙が落ちる。

窓の外で、遅れてきた雫が軒を打つ音がした。


橘は鏡の中の自分へ向かって、低く言う。


「……私は、あの人にも、母にもならない」


宣言というほど強くはない。

けれど、自分の耳で聞くためにちゃんと言葉にした声だった。


鏡の中の橘も、同じように唇を動かす。

そこにもうずれはない。


それだけのことに、湊は妙にほっとする。

大袈裟な変化じゃない。劇的に何かが救われたわけでもない。けれど、あの鏡の前で“同じように見えること”が、今はたしかに少し違う意味を持っていた。


紫月の身体が、そこでわずかに傾いた。


湊は慌てて支え直す。


「だから、もう喋るなって」


「……そこまで弱っている顔をしていますか」


「してる」


「即答ですね」


「見ればわかる」


低く返すと、紫月は目を伏せる。困ったみたいな、少しだけ諦めたみたいな顔だった。


橘が振り向き、ようやくはっきりと頭を下げた。


「ありがとうございました」


その礼は、サロンで言ったものよりずっと深かった。

怪異が消えたことへの礼というより、自分で立つ場所を選び直せたことへの礼に近い気がした。


紫月はかすかに首を振る。


「まだ、終わりきったわけではありません。たぶん今夜、鏡をもう一度見るのは少し怖いと思います」


橘は苦笑するように息をつく。


「はい」


「でも、もし立つなら、今日と同じ場所で。正面ではなくていい。きれいに見えなくてもいい。ちゃんと整わなくても、あなたの顔です」


その言葉に、橘の目元が少しだけ揺れた。

泣きそうなのを堪えたのかもしれない。けれど彼女は泣かなかった。

ただ、鏡の前のその位置を忘れないように、足元へ一度だけ視線を落とした。


やがて部屋を出るとき、湊は最後に一度だけ振り返る。


古い鏡は、もう何も映していないように見えた。

いや、正確には映している。ただの部屋の薄暗さと、半分閉じたカーテンと、誰も立っていない空間だけを、ようやく普通の鏡らしく返していた。


それでも中央に残っていた曇りだけは、まだ完全には消えていなかった。


長いあいだ誰かを見続けた場所は、そんなに簡単には澄まないのだろうと思う。


廊下へ出ると、家の空気は二階に上がったときより少し軽くなっていた。

橘が先に階段を下りる。その足取りはまだ慎重だが、さっきまでみたいに背中を押されている感じはない。


湊は紫月の歩幅に合わせて、半歩だけゆっくり下りた。


「……次は」


小さく呟くと、紫月が隣で顔を上げる。


「何ですか」


「次は、家出る前に倒れるなよ」


紫月は一瞬だけ黙って、それから本当にわずかに笑った。


「善処します」


「信用できない」


「もう少し信じてください」


「無理」


そう返しながらも、湊は彼女の腕を離さなかった。


階段の下では、玄関の曇りガラス越しに、外の薄い夕方が滲んでいる。


家を出たら、たぶんいつもの街の匂いがする。海の湿り気と、石畳の冷たさと、人の暮らしの気配が混ざった、この街の夕方の匂いだ。


その日常のほうへ戻っていけることが、今は少しだけ救いに見えた。


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