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彼女の手は、呪いに似ていた。  作者: 森凛


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第五話 ー 色を失った肖像画(上)

白楓館を出たとき、雨はまだ細かった。


傘を差すほどでもないような、けれどこのまま歩けば肩や前髪の先から確実に濡れていくとわかる種類の雨だった。洋館の石段を下りるあいだ、濡れた靴底が浅く鳴る。背後では、古い宿の扉が静かに閉まった。


あの青い椅子は、もう動かないだろう。


そう思っているのに、踊り場へ残してきた気配の輪郭だけが、まだ肩の奥に薄く残っていた。待っていた時間は消えない。消えないまま、ようやくあの場所に置き直されたのだと、さっき自分で思ったばかりだった。


隣を歩く紫月は、館を出てからほとんど喋っていない。


無言が気まずいわけではない。ただ、彼女が静かすぎるときは、だいたい身体のどこかをやり過ごしている。歩幅は乱れていない。顔色も、雨に煙る光の中では普段と変わらなく見える。けれど、左手で傘の柄を持つ角度がわずかに硬い。右手首を庇っているのだと、もう気づくくらいには見慣れてしまった。


「……平気」


まだ何も言っていないのに、紫月が前を向いたまま言った。


「訊いてないけど」


「訊かれそうな気配がしたので」


「便利だな」


「湊くんの顔がわかりやすいだけです」


そう返されて、少しだけ肩の力が抜ける。いつも通りに言い返せるなら、今すぐ倒れるほどではないのだろう。そう思う反面、そうやって誤魔化せる程度にはきついのだともわかってしまう。


坂を下りきる手前で、紫月がふと足を止めた。


港のほうから、潮の匂いを含んだ風が吹き上がってくる。細い雨粒が、その風に少しだけ斜めに流れた。


「どうした」


「……少しだけ」


返ってきた声は低い。彼女は道端の煉瓦塀へ軽く手を添え、そのまま目を閉じた。


湊は言葉を選ばず、先に傘を寄せた。濡れるのを気にしたわけではない。単に、こういうときのこの人は、放っておくと“少しだけ”を必要以上に小さく言う。


「座る?」


「そこまででは」


「じゃあ、せめて深呼吸くらいしろ」


紫月が薄く目を開ける。呆れたような、困ったような、でも拒まない表情だった。


「命令が雑ですね」


「丁寧に言う余裕あるように見える?」


「……ありません」


素直に認めるのは珍しい。雨音の向こうで、船の低い汽笛が一度だけ鳴った。港町の夕方に溶けるような音だった。


しばらくそうしてから、紫月はようやく塀から手を離した。


「もう大丈夫です」


「それ、今日何回目」


「数えていたんですか」


「数えたくもなるだろ」


紫月は返事の代わりに、ごく小さく笑った。


その横顔を見て、湊はふと、白楓館の旧客室で彼女が言った言葉を思い出す。

 ――待っていたことは、なくなりませんから。


ああいう言葉を、この人はいつも誰かに向けて言える。けれど自分に向けるぶんだけは、最後まで持っていないのだろう。


坂を下りると、街は夕方の灯りをひとつずつ点しはじめていた。石畳の道沿い、古い洋館を改装した店の窓に、雨粒をまとった明かりが滲んでいる。サロン・リュヌへ戻るころには、細かった雨は少しだけ粒を増していた。


店の鍵を開ける前に、紫月が振り返る。


「今日はここで」


「送らなくていいのか」


「そこまで子どもではありません」


「その台詞、この前も聞いた」


「同じ相手に同じことを言わせないでください」


軽く言って、彼女は扉を開けた。鈴の音が小さく鳴る。けれど店へ入る直前、紫月はなぜかもう一度だけ振り返った。


「……でも」


「ん?」


「明日、来られますか」


予想していなかった言葉に、湊は一瞬だけ黙る。


「大学終わりなら」


「では、そのころに」


それだけ言って、彼女は店内へ消えた。


理由を説明しないところまで含めて、この人らしいと思う。けれど、呼ばれたこと自体は少しだけ胸の奥に残った。


翌日、講義を終えてサロンへ向かう坂道は、まだ昨日の雨を引きずっていた。石畳の継ぎ目に水が残り、海からの風は湿っている。空は明るいのに、街の色だけがどこか一枚薄い布をかけられたみたいに鈍い。


サロン・リュヌの扉を押すと、すぐにいつもの静かな香りのなさが迎えた。オイルも花も、匂いを主張しない店だ。けれど今日は、それとは別に、何か乾いたものの気配が混じっている。


リビングのほうへ進んで、湊は足を止めた。


ソファの向かい、普段なら何も置かれていない壁際に、大きな絵が立てかけられていた。


黒に近い木枠。古びた金の縁飾り。女の肖像画だった。淡い色のドレスに、まとめ上げた髪。顔立ちは整っているのに、妙に印象が残らない。見ているそばから、細部だけが少しずつ薄れていくみたいだった。


「……これ、何」


声を落として訊くと、窓際にいた紫月が振り向く。


「今日の相談品です」


「相談“品”って言い方するんだな」


「依頼人がまだ来ていないので」


その返しはいつも通りだったが、紫月の視線は一度だけ、絵からすぐ逸れた。


「アンティークショップから預かったそうです。昨日から店内の鏡にだけ、絵の中の女性が少し違って映ると」


「違って?」


「表情が」


短く答えて、紫月はそれ以上言わなかった。


湊はもう一度、肖像画を見た。

 正面から見れば、ただ静かな女の絵だ。けれど斜めに立つと、口元がわずかに硬く見える。さらに一歩ずれると、今度は目だけが妙に濡れているように見えた。


気のせいだと片づけるには、見え方が不自然すぎる。


「……昨日の続きみたいなの、やめてくれない?」


「私もできればそうしたいです」


紫月はそう言って、絵の前に置かれた封筒へ目を落とした。店名入りではない、くすんだクリーム色の便箋が一枚だけ覗いている。


「ただ、今回は少し」


「少し?」


「見られている、というより。見られた顔を、奪われる感じがします」


その言い方に、湊は無意識に眉を寄せた。


紫月は気づいていたのかいないのか、淡い声のまま続ける。


「依頼人は、自分の顔が鏡の中だけ少しずつ知らないものになる、と言っていました」


窓の外で、乾ききらなかった雫が軒先から落ちる。


部屋の中は静かだった。静かなのに、壁際の肖像画だけが、その沈黙から半歩ずれた場所に立っているように見えた。


まるで、こちらがまだ気づいていない何かを、先に知っているみたいだ。


◇ ◇ ◇


来客を告げる鈴の音は、雨上がりの空気のせいか、いつもより少しだけ乾いて聞こえた。


紫月が玄関のほうへ向かう気配を、湊はソファ脇で立ったまま追う。壁際の肖像画は、さっきと同じ位置にある。なのに、扉が開く音がした途端、その場の空気だけがわずかに張った気がした。


入ってきたのは、三十代の半ばくらいの女性だった。


髪は肩につかない長さで、きちんと内側へ巻かれている。淡いグレーのワンピースに、薄手のカーディガン。上品というほど気負ってはいないが、安易に気を抜いた感じもない。たぶん普段から、身なりを整えることを習慣にしている人なのだろうと思う。


けれど、顔色だけが少し悪かった。


具合が悪い、というより、眠れていない人の青さだ。目の下に濃い隈があるわけではない。化粧も崩れていない。ただ、鏡を見る回数だけが増えすぎた人の顔をしていた。


「お待たせしました。橘です」


名乗った声は細く整っていたが、最後の一音だけがわずかに掠れた。


「桐生です。こちらへどうぞ」


紫月に促され、橘はソファへ腰を下ろしかけて、ほんの一瞬だけ手を止めた。


その視線が、壁際の肖像画へ吸われる。


見た、というより、見ずにいられなかったような止まり方だった。


湊はその短い躊躇を見逃さなかった。本人はすぐに視線を外し、何でもない顔で腰を下ろしたけれど、膝の上で重ねた指先だけが落ち着きなく動いている。


紫月はその向かいに座り、いつものように穏やかな声で言った。


「預かった絵はこちらでお間違いないですか」


「はい」


「今日は、まずお話だけ聞かせてください。触れたり動かしたりは、そのあとで」


橘は小さく頷いた。了承しているというより、そう言ってもらって少しだけ息をついたように見えた。


「……変な話なんです」


最初の言葉は、これまでの依頼人たちと同じだった。怪異に関する相談は、たいていこういう前置きから始まる。変だと自分でわかっている。だからこそ、他人に言うには少し勇気がいる。


紫月は急かさない。


「ええ」


それだけ返す。その短い相槌だけで、相手が次の言葉を出しやすくなるのが不思議だった。


橘は膝の上の指を組み直す。


「港の近くで、小さなアンティークショップをしています。そんなに大きい店ではなくて、主に小物や額絵が多いんですけど……この絵は、先週、常連のお客様から預かったもので。買い取るかどうか見てほしいって」


「由来は聞いていますか」


「昔、外国人居留地の近くにあった家から出たとだけ。詳しいことは、私もまだ」


外国人居留地、という言葉に、この街らしい湿り気が混じる。古い洋館、海を越えてきた品、持ち主のわからないまま残ったもの。そういうものが、ここには多すぎるくらい多い。


紫月は軽く頷いた。


「最初に異変を感じたのは、いつですか」


「店に運び込んだ日の夜です」


橘はそこで一度だけ、背後の肖像画を振り返りそうになって、やめた。


「閉店前に値札をつけようと思って、レジ横の鏡の近くに立てかけておいたんです。最初は、ただ少し印象の薄い絵だな、と思っただけでした。綺麗な人の肖像なのに、目を離すとすぐ顔を忘れてしまうみたいで」


湊は黙って聞きながら、さっき自分も似たことを思ったのを思い出す。整っているのに、印象が定まらない。顔立ちが曖昧なのではなく、記憶に留まることだけを拒んでいるような薄さ。


「でも、鏡に映ったほうだけが」


橘の声が少しだけ低くなる。


「違って見えたんです」


紫月は何も言わない。沈黙を挟むことで、相手に続きを言わせる。たぶん意識してやっているのだろうが、毎回少しだけ残酷だと思う。


橘は視線を落としたまま続けた。


「正面から見るぶんには普通なんです。なのに、鏡越しだと、口元が……笑っていないというか。いいえ、違う。笑うのをやめたあとの顔みたいに見えて」


湊は無意識に壁際を見た。


肖像の女は、相変わらず静かに座っている。薄い色のドレス、まとめた髪、こちらを見ているようでいて、焦点は少し外れている。けれど今、橘の話を聞いたあとだと、たしかに口元の線だけがわずかに硬く感じた。


「最初は気のせいだと思いました。でも、その次の日には、鏡の中の自分の顔が少し違って見えるようになって」


「違う、というと」


「説明しにくいんですけど……自分じゃない人に寄っていく感じがするんです」


その言葉で、室内の温度が一度だけ落ちた気がした。


湊は反射的に紫月を見る。彼女は表情を変えなかった。ただ、膝の上に置いた指先が、ほんの少しだけ止まっている。


橘は話し続けた。


「最初は目だけでした。鏡を見ると、ほんの一瞬だけ、自分の目元が少しだけきつく見えるんです。疲れているせいかと思っていたんですけど、そのうち、口元や頬も……。化粧のせいでも、照明のせいでもなくて」


「ほかの鏡でも?」


「はい。店の鏡だけじゃなく、家でも。電車の窓に映った顔まで、時々」


そこで彼女は唇を噛む。


「それで、昨日」


紫月が静かに促す。


「何がありましたか」


橘は少しだけ息を吸ってから言った。


「店を閉める前に、値札を書き直していたんです。ふと、誰かに見られている気がして振り返ったら、店の奥にある姿見に、私じゃない角度で立っている私が映っていて」


湊は思わず眉を寄せた。


「角度?」


「……実際の私は、レジの中にいたんです。でも鏡の中では、絵のすぐ隣に立っていました」


その場の空気が、そこではっきりと変わった。


さっきから感じていた乾いた気配が、少しだけ近くなる。肖像画そのものから何かが出ているわけではない。けれど、部屋の輪郭が一枚ずれるみたいな感覚がある。鏡の中だけ、立つ位置が別になる。見られているというより、立ち位置を奪われる。紫月が最初に言った言葉の意味が、ようやく少しわかった気がした。


「そのとき、絵はどこを向いていましたか」


紫月が訊く。


「え?」


「視線です。あなたを見ていましたか。それとも鏡のほうを」


橘は目を閉じて思い返す。


「……鏡、だったと思います。いえ、違うかもしれない。でも、私を見ていた感じはしませんでした」


紫月は小さく頷いた。


「では、店にある鏡は、絵の正面ですか」


「真正面ではありません。少し斜めの壁に。だから、絵と鏡がちょうど向かい合う形ではなくて……」


「それでも、視線は届く」


紫月の声は低かった。


湊はその横顔を見る。依頼人の前ではいつも通り静かなのに、その目だけが少しだけ冷えている。あまり良くないと判断したときの顔だ。


「桐生さん」


橘が不安そうに呼ぶ。


「これ、やっぱり、絵が原因なんでしょうか」


紫月はすぐには答えなかった。代わりに立ち上がり、壁際の肖像画へ近づく。額縁の前で足を止め、そのまま真正面には立たず、少し斜めから見た。


湊もつられて立ち上がる。


そのときだった。


部屋の隅にある小さな鏡台の鏡が、まだ誰も触れていないのに、かすかに白く曇った。


ほんの一瞬のことだった。雨上がりの湿気のせいだと言えなくもない。だがこの部屋の空気で、そこだけが呼気を受けたみたいに曇るのは不自然すぎた。


湊の背中に薄いものが走る。


鏡はすぐ元に戻る。けれど、その一瞬だけ、曇った面の奥に女の横顔みたいな影があった気がした。


「……いまの」


思わず声が漏れる。


橘がびくりと肩を震わせた。


「見えましたか」


紫月は鏡台のほうを見たまま、低く言う。


「ええ。最初の違和感としては、十分です」


その言い方が妙に静かで、湊はかえって嫌な予感がした。


まだ何も始まっていない。それなのに、部屋の中の“映るもの”だけが、もうこちら側の手順を待っていない気がした。


紫月は鏡台の曇りが消えるのを待たずに、壁際の肖像画へ歩み寄った。


額縁の前に立っても、すぐには触れない。いつものことだった。彼女は、物に宿ったものを読むときほど、最初の一瞬を慎重に扱う。相手が人でも椅子でも鏡でも、その癖だけは変わらない。


黒に近い木枠。角の金飾りは細かい蔦模様で、長い年月のあいだに擦り減っている。正面から見れば、上等だが特別珍しいほどではない額だ。けれど近づくと、塗装の下にもう一度だけ色を重ねた痕があるのがわかった。補修というより、何かを隠すような塗り方だった。


紫月の指先が、その上で止まる。


「……絵そのものではなく、まずこちらですね」


低い声だった。


橘が息を詰める。


「額ですか」


「ええ。画布より先に、こちらに触れたほうがよさそうです」


その言い方に、湊は少しだけ眉を寄せた。よくないものほど、紫月は妙に静かになる。怖がらせないためでもあるのだろうが、本人の中で警戒が強まっているときほど、声だけがきれいに整う。


紫月は右手を上げた。


その瞬間、湊は反射的に彼女の手首を見た。袖口の奥に隠れているはずの痣が、今日はまだ薄い。昨日の白楓館のあと、夜の底みたいな色まで落ちたのを見たばかりだったから、少しだけ安堵する。少しだけ、だ。


「湊くん」


視線だけで呼ばれて、湊は我に返る。


「なに」


「見ていてください」


「それ、見てると止めたくなるやつだろ」


「必要なら止めてください」


さらりと言われて、返す言葉に詰まる。依頼人の前でそういうことを言うなと思うのに、たぶん本人は困らせている自覚がない。


紫月の指先が、ようやく額縁の左側へ触れた。


触れた、というより、最初は木に熱を預けるみたいな置き方だった。爪の先ほどの接触なのに、部屋の空気がそこで浅く沈む。湊の左肩に、鈍い重みがひとつ落ちた。


「……っ」


思わず息が詰まる。


昨日の椅子のときは、待ち続けた時間の重さだった。けれど今のこれは、もう少し薄く、冷たい。重さそのものより、長く見つめすぎて視界の焦点がずれていくときの気分に近い。


紫月の睫毛がわずかに揺れた。


「痛い?」


湊が訊くより先に、橘が怯えた声を出した。自分の持ち込んだもののせいで、という負い目が滲んでいる。


紫月は目を閉じたまま、静かに首を振る。


「……まだ」


まだ、という言い方が気に入らなかったが、いま止めても意味がないのもわかる。湊はソファの背に手をかけたまま、その横顔を見守った。


白い。


もともと血の気の薄い人ではあるが、触れた直後の紫月の指先は、それとは別種の白さになる。人の手というより、古い便箋の端みたいな、体温から切り離された色だ。


額縁に触れたまま、紫月が低く言う。


「この絵は、飾られていたというより……閉じこめられていたんですね」


橘が顔を上げる。


「閉じこめる?」


「ええ。描かれた人の感情だけではありません。見る側の視線も、ここに残っています」


言いながら、紫月の指先が少しだけ位置を変えた。今度は肖像の女の肩のあたり、額縁越しに画布の気配を読むように。


その瞬間、彼女の呼吸がひとつ浅くなる。


湊の左肩に落ちていた重みが、今度はゆっくり喉のほうまでせり上がってきた。誰かの顔を長く見つめすぎて、自分の表情まで引っ張られそうになるような、嫌な近さ。


紫月は小さく息を吐く。


「……見られたかったわけではない」


独り言みたいな声だった。


「むしろ逆です。見られたくなかった。けれど、隠しきれなかった」


橘の指先が膝の上で強く組まれる。


湊はその動きを横目で捉えた。依頼人は、自分の相談が思ったより早く別の場所へ届き始めたことに動揺している。まだ何も明言されていないのに、先回りで刺さる言葉だけは避けられない顔をしていた。


「桐生さん」


橘が、乾いた声で呼ぶ。


「この絵の人……何か、言いたいことがあるんでしょうか」


紫月はすぐには答えなかった。


触れたままの手が、わずかに震えている。痛みなのか、密度の高い感情に触れたせいなのか、いまの湊には判断がつかない。ただ、右手首の袖口あたりに、薄墨みたいな影がじわりと滲み始めているのだけは見えた。


「言いたい、というより」


紫月はゆっくり言葉を選ぶ。


「言えなかったまま、ずっと見られていた感じです」


「見られていた」


「ええ。見ていた側ではなく、見られる側の緊張が強い。だから鏡に移るんでしょうね。鏡は、向き合うためのものですから」


そこで紫月が初めて、橘を見た。


「この方の顔と、あなたの顔は少し似ていますか」


橘の肩がはっきり揺れた。


その反応だけで、湊には十分だった。たぶん、ただの偶然ではない。


「……少しだけ、と言われたことはあります」


「家族に?」


問いかけは淡いのに、逃げ道がない。紫月の聞き取りはいつもそうだ。相手が黙っている部分だけを、水の底から拾い上げるみたいに静かに触る。


橘はすぐには答えなかった。視線が肖像画と紫月のあいだで揺れる。やがて彼女は、諦めたように息をついた。


「店を始める前……少しだけ調べたことがあるんです」


声が細くなる。


「この絵を持ち込んだ方が、“たぶんあなたの家に縁のあるものだと思う”と言っていて。でも、うちはそういう古い家ではありませんし、思い当たることもなくて」


湊は黙って聞きながら、さっき見た絵の顔を頭の中でなぞる。印象が定まらないはずなのに、橘と並べられると、目元の線だけがどこか似ている気がしてくる。そう思った途端、逆に肖像のほうの輪郭が薄れていくのが気味悪かった。


「血縁を疑ったんですか」


紫月が訊く。


「疑った、というほどでは……ただ、祖母の実家がこの街にあったとは聞いていたので」


「でも、詳しくは知らない」


「はい」


橘はそこで口をつぐんだ。


知らない、だけではないのだろう。知ろうとしてやめた気配がある。調べれば何か出てきそうだとわかった時点で、引き返した人の黙り方だ。


紫月の指先が、絵から離れた。


離れたはずなのに、空気の沈み方はまだ戻らない。むしろ、彼女が触れて得たものが、部屋の中で静かに形を持ちはじめている感じがした。


「……この方は」


紫月は絵を見たまま言った。


「怒っているわけではありません。恨んでいる感じでもない。ただ、ずっと“見届けられなかった”ことが残っている」


「見届けられなかった」


「ええ。誰かの顔を」


その一言で、橘の指先から血の気が引いたのがわかった。


湊は思わず紫月を見る。彼女は相変わらず静かだったが、その横顔には、読みすぎたとき特有の薄い痛みが差している。こめかみのあたりに小さな汗が滲んでいた。


「もういい」


湊が低く言う。


紫月は聞こえないふりをして続けた。


「似ているからではありません。似ていく前の顔を、確かめたかったんでしょうね」


橘の喉が小さく鳴る。


「それは……どういう」


「あなた、最近、鏡を見る角度を変えていますね」


紫月の声が、少しだけ柔らかくなる。追いつめるためではなく、言いにくいことを言わせる前の緩み方だった。


「真正面では、あまり見なくなっている。少し斜めから確認して、すぐ離れる。店の鏡も、家の洗面台も」


橘は返事をしなかった。


でも、それが返事だった。


「似てしまうのが怖いんですね」


紫月は断定しない。けれど、断定しないぶんだけ逃げ場がない。


「この絵の人に、というより。あなたがまだ言葉にしていない、家の側の誰かに」


長い沈黙が落ちた。


窓の外で、乾ききらなかった雨粒がまたひとつ落ちる。さっきまでただ静かだった部屋が、今は誰かの息を待っているみたいに見えた。


橘は膝の上の手を強く握りしめたまま、ようやく口を開く。


「……母が、昔から」


そこまで言って、声が止まる。


紫月は急かさない。湊も何も言わない。ただ、いまにも崩れそうなその沈黙のそばに立っているしかできない。


橘は俯いたまま、もう一度だけ息を吸った。


「母が、祖母のことを話したがらなかったんです。写真もほとんど残っていなくて……残っていても、私には見せないようにしていました」


紫月の目がわずかに細くなる。


依頼人がまだ全部は話していないのがわかった。けれど輪郭はもう見えているのだろう。肖像画に残っているのは、ただの視線ではない。見届けられなかった顔。似ていくことへの恐れ。知らないままではいられないのに、知るのも怖い血の気配。


湊は無意識に壁際の絵を見る。


肖像の女は、相変わらず静かだった。けれど最初より少しだけ、目の奥に焦りがあるように見えた。泣いているわけでも、怒っているわけでもない。ただ、置いていかれた時間だけがまだ終わっていない顔だった。


紫月がそっと右手を下ろす。


袖口の奥に沈んだ痣は、さっきより濃い。淡い紫というより、薄く打った夜の影みたいな色だった。


「今日は、ここまでで十分です」


紫月は静かに言った。


「いま見えているのは、感情の輪郭だけです。けれど、この絵はあなたの家の事情と、たぶん無関係ではありません」


橘が青ざめたまま顔を上げる。


「……やっぱり」


「ええ。ただし、“誰かに似ているから取り憑かれた”という単純な話ではない」


そこで紫月は、ほんの少しだけ言葉を切った。


「むしろ逆です。あなたが見たくないものを、この絵が先に映してしまっている」


その一言が落ちた瞬間、部屋の隅の鏡台がまたごく薄く曇った。


今度は一瞬ではなく、呼吸一回分だけ長く。


誰も動かなかった。


曇りの奥で、ぼやけた女の輪郭が、こちらではなく橘のほうだけを見ている気がした。


鏡の曇りは、呼吸一回ぶん遅れて晴れた。


白い膜が薄く消えていくあいだ、誰も口を開かなかった。

 曇りの奥にいたはずの女の輪郭は、もう見えない。けれど見えなくなったからといって、そこに何もなかったことにはならない。そういう消え方だった。


橘が、膝の上で握りしめていた手を少しだけ緩める。


「……すみません」


何に対する謝罪なのか、本人にも曖昧なのだろうと思った。相談の最初から全部を話していないことか。あるいは、絵をここへ持ち込んだ理由が、さっき口にしたものだけではなかったことか。


紫月は、曇りの消えた鏡台を一度だけ見てから、静かにソファへ戻った。歩き方はいつも通りだったが、近くで見ると、右手を下ろしたままにしているのがわかる。触れたあと、すぐには指先の感覚が戻らないときの癖だった。


「少し、話を変えますね」


紫月が言う。


橘はこわばったまま頷いた。


「この絵を預かったのは先週だとおっしゃいました。でも、あなたは持ち込まれる前から、この人の顔を知っていたんじゃないですか」


橘の喉が、はっきり鳴った。


否定が先に出るかと思った。けれど彼女はすぐには首を振らず、代わりに視線だけを落とした。その沈黙が、答えより先に何かを認めている。


「……少しだけ、です」


やがて、絞るような声で言う。


「はっきり覚えていたわけじゃありません。ただ、見た瞬間に、初めてではない気がして」


「どこで」


「母の部屋です」


湊は壁際の肖像画を見た。最初よりも、少しだけこちらを見ている感じが弱くなっている。代わりに、部屋の中の誰か一人だけへ注意を向けているような、妙な偏りがあった。


橘は言葉を探すように、唇を湿らせる。


「子どものころ、一度だけ。母が古い箱を開けているのを見たことがあるんです。中に写真が何枚か入っていて、その中に、この人とよく似た顔の女の人が写っていました。叱られて、すぐ取り上げられて……それきりです」


「その話を、お母さまに訊いたことは」


「ありません」


返事は早かった。早すぎるくらいに。


紫月が一拍だけ黙る。


「……“ありません”ではなく、“訊けませんでした”ですね」


橘の肩が揺れる。


その言い直しを否定しないところを見ると、図星なのだろう。紫月はそうやって、相手の嘘そのものを責めるのではなく、言葉の置き方だけを少しずつ正す。正されるたびに、本音の輪郭だけが浮いてくる。


「母は、その……家の話を嫌っていました」


橘が続ける。


「祖母の実家がこの街にあったことも、詳しくは話したがらなくて。私が何か訊いても、昔のことだからって」


「でも、完全に知らなかったわけではない」


「……はい」


部屋の空気が、そこで少しだけ重くなる。湿っているわけではない。ただ、何かを長く伏せていた人が、ようやくその重みを持ち上げはじめたときの沈み方だった。


紫月は橘の手元を見た。


「この絵が店に来てから、最初にしたのは値札をつけることではないですね」


橘が顔を上げる。


「え」


「すぐに裏を見たでしょう」


静かな声だった。


「吊り金具の古さや、キャンバスの張り替え跡を確かめたかったわけではない。何か、名前のようなものが残っていないか探した」


橘の指先がぴくりと動く。


湊はその小さな反応を見ながら、なるほどと思った。アンティークショップをやっている以上、品を確かめるのは自然だ。けれど今の言い方だと、職業としての確認より前に、“個人的に知りたくて見た”感じが強い。


「……少しは、見ました」


橘がやっと認める。


「ただ、裏には何も」


「“何もなかった”ことを、残念がりましたか」


橘は答えない。


その代わり、視線だけが、ほんの少しだけ肖像画の女の喉元あたりへ寄った。自分でも気づいていない癖なのだろう。人は本当に気にしている場所ほど、見るのを避けようとして、かえって目だけが先にそこへ向く。


紫月もそれを見ていたらしい。


「首元ですね」


橘が、はっとしたように息を止める。


「そこに何かあると思った」


「……思った、というか」


「昔、見た写真ですか」


橘は唇を噛んだ。


湊には、さっきからこの人が“少しずつしか言わない”理由がわかってきていた。隠しているというより、順番を間違えると、自分で認めたくないところまで一気に繋がってしまうのが怖いのだ。だから安全そうなところからしか喋れない。


「写真の人は」


橘がようやく口を開く。


「この絵より、もっと若かったと思います。でも、首に細いチェーンをつけていて……母がそれを見たときだけ、顔色が変わったんです」


「お母さまが」


「はい」


「嫌悪ですか。それとも恐れ」


橘はすぐには答えられなかった。


たぶん、その二つをきれいに分けられないのだろう。やがて彼女は、視線を伏せたまま言う。


「……たぶん、両方です」


その言葉が落ちたあと、部屋の隅の鏡台が、またごく薄く曇った。今度はさっきほどはっきりしていない。ただ、気配だけが、会話の節目を待っていたみたいに寄ってくる。


湊は無意識に、紫月のほうへ一歩だけ寄った。


彼女は気づいているはずなのに、何も言わない。代わりに、ソファの肘掛けへ置いた右手の指先だけが、わずかに力を失っている。触れたあとの余韻が、まだ抜けきっていないのだろう。


「そのチェーンに、見覚えがあるんですね」


紫月が言う。


橘は、そこで初めてはっきりと動揺した顔をした。


「どうして」


「あなた、さっきからこの絵の顔より、首元ばかり見ています」


ごく淡々とした指摘だった。責める響きはない。ただ、隠す理由のほうを先に見抜いてしまう言い方だった。


「それに、“顔が似ていくのが怖い”とおっしゃいましたけど、本当に怖いのは顔だけではないですね」


橘の呼吸が浅くなる。


「身につけるものや、選ぶ癖まで似てしまうんじゃないかと、あなたは気にしている」


「……」


「その人が、自分の家にとって、ただの昔の親族ではなかったから」


湊はそこで、ようやく輪郭を掴みかける。


血縁の話だけではない。もっと具体的で、もっと私的ななにかだ。母が嫌った。写真を隠した。けれど完全に処分はしなかった。見たくないのに、残していた。その矛盾が、いま橘の前に絵になって戻ってきている。


「母は」


橘が、かすれた声で言った。


「母は、あの人のことを“祖母”とは呼びませんでした」


沈黙が落ちる。


外では、雨の名残が軒先から一滴ずつ落ちていた。規則的なのに、聞いていると少しだけ不安になる音だ。


「名前で?」


紫月が訊く。


「……いえ。ほとんど何も。たまに、“あの人”とだけ」


橘の指が、膝の上の布を握る。


「でも、一度だけ聞いたんです。母が酔った父に言っていたのを。私がまだ高校生のころでした。“あの人は、母親の顔をしていただけだ”って」


湊は小さく息を呑む。


それは、家族の悪口としては妙に具体的で、だからこそ重かった。母親ではなかった、と言うのではなく、母親の顔をしていただけ。外から見える役割だけをまとって、中身は別のものだったという言い方だ。


紫月の目が、わずかに細くなる。


「なるほど」


「だから、私も」


橘はそこで言葉を切った。言いたくないのか、言葉にしてしまうと形が固まるのが嫌なのか、その両方なのだろう。


「私も、母が嫌うなら、嫌ったほうがいいんだと思っていました。知らない人だし、関係ないって。でも、この絵を見たとき」


彼女は震える息をひとつ吐く。


「……懐かしいと思ってしまったんです」


その本音は、たぶんここへ来て最初の、本当に嘘の少ない言葉だった。


紫月はすぐには何も返さなかった。


否定も慰めもしない。ただ、その言葉の重さが沈むのを待つように、静かに座っている。


橘は、自分で言ってしまったことに驚いたみたいな顔で、肖像画を見た。


「おかしいですよね。会ったこともほとんどないのに。なのに、怖いのに、気持ち悪いのに……少しだけ、わかる気がしたんです。鏡の中で顔が寄っていくのも、嫌なのに、全部が嫌なわけじゃなくて」


「ええ」


紫月の声は、少しだけ柔らかかった。


「そこに嘘はないと思います」


橘が、泣き出す手前みたいな顔で目を閉じる。


「でも」


紫月は続ける。


「“まったく知らない人です”という最初の言い方は、やっぱり嘘でしたね」


優しいのに逃がさない声だった。


「あなたは最初から、この人をただの品物として見ていませんでした。値札をつける前に、由来を知りたかった。店に置いたのも、売るためだけではない。少しのあいだ、自分の近くで見て確かめたかったんでしょう」


橘は抵抗しなかった。


それが、認めたということなのだろう。


紫月はさらに低く言う。


「ただし、もう一つだけ、まだ言っていないことがありますね」


空気が、そこでまた静まる。


湊は思わず紫月を見る。彼女の横顔は青白いままだったが、目だけは冴えていた。人の言葉の継ぎ目に引っかかった小さな違和感を、ひとつも見落としていない顔だった。


「あなたは、この人のことを“祖母かもしれない”と思っているだけではない」


紫月の視線が橘を射抜く。


「もっと具体的な名前を、もう知っているでしょう」


橘の顔から、すっと血の気が引いた。


今度こそ、言い逃れは出なかった。沈黙の長さだけが、そこに残っている本音の深さを示していた。


橘の顔から血の気が引いたまま戻らないのを見て、湊はようやく、紫月がいま何を見ているのかを少しだけ理解した。


怪異そのものではない。


怪異に触れた人間の、言葉の継ぎ目だ。


全部を隠し通す気があるなら、もっときれいに嘘をつける。けれど本当は、ここへ来た時点で半分は見つけてほしかったのだろう。だから言葉の端だけが、何度も本音のほうへずれている。


橘はしばらく俯いたまま、膝の上で握っていた手をゆっくり開いた。


「……知っています」


声は細かったが、今度は最初より嘘が少なかった。


「母のものを整理したとき、古い手帳が出てきたんです。中に、その人の名前が書いてありました」


紫月は何も言わず、その先を待つ。


「鷺沢百合子」


部屋の空気が、その名前のところでかすかに沈んだ気がした。


肖像画の女は相変わらず静かな顔をしている。なのに名前を与えられた途端、ただの“誰か”だった輪郭に、急に体温のない生々しさが宿る。名前というのは、それだけで少し残酷だ。


「お母さまの、お母さまですね」


紫月の確認に、橘は小さく頷いた。


「たぶん」


「たぶん、ですか」


「戸籍まで見たわけじゃありません。でも、手帳には“母・百合子”って」


そこで言葉が止まる。

 “母”という一文字を、自分の口で言うのがまだ少し難しいのだろう。母が嫌った相手を、自分も嫌うつもりでいた。そのはずなのに、鏡の中で似ていくことが怖かった。怖いのに、どこかで懐かしいと思ってしまった。そういう矛盾は、たぶん簡単には整わない。


紫月はソファの背にもたれずに座ったまま、静かに言う。


「お母さまは、その人のことを悪く言っていましたか」


「……ほとんど何も言いませんでした」


「でも、沈黙の仕方が穏やかではなかった」


橘は苦く笑うみたいに、少しだけ口元を歪めた。


「はい。話したくないというより、話すこと自体がもう嫌そうで」


「憎んでいたんですね」


紫月はさらりと言った。


断定というより、感情の形に名前を置いただけの声音だった。けれどその静かさのせいで、かえって逃げ場がない。


橘はしばらく黙り、それから低く答える。


「……そうだと思います」


「では、この肖像画の女――百合子さんは、お母さまにとって“優しい母親”ではなかった」


湊は息を潜めたまま紫月の横顔を見る。

 推理というより、彼女がやっているのはもっと静かな作業だ。散らばった感情の向きを揃えて、言葉にしなかったものへ、ひとつずつ名前を当てていく。


「ただし」


紫月は続ける。


「ひどくわかりやすい虐待や、露骨な暴力だった感じはありません」


橘が顔を上げた。


「……わかるんですか」


「少しだけ。残っている感情の質で」


紫月は壁際の肖像画を見る。


「この人に強いのは、怒りではなく、確認です。確かめること。似ているか、正しいか、自分の思ったとおりに育っているか。そういう視線が強い」


その言い方に、湊の背中が薄く冷えた。


鏡の中の顔が、少しずつ寄っていく。

 見られているのではなく、比べられている。

 その感覚は、恨みや憎悪よりずっと静かなぶん、妙に逃げにくい。


「母親の顔をしていただけ、という言葉がいちばん近いんでしょうね」


紫月はごく低く言った。


「愛情がなかったわけではないのかもしれません。でも、その人が見ていたのは、お母さま本人ではなく、“娘であるという役割”のほうだった」


橘の喉が小さく鳴る。


「役割……」


「ええ。自分に似ていること。正しく受け継ぐこと。母親らしく振る舞わせること。そういう“形”ばかりを確かめていた。鏡は、そのためにちょうどよかったんでしょう」


湊は思わず鏡台のほうを見る。


鏡はただそこにあるだけだ。曇りもいまは消えている。けれど、あの白い膜の奥から見ていたものを一度知ってしまうと、ただの鏡だとは思いにくい。


「……この絵は」


橘が声を絞る。


「祖母が、自分で描かせたものなんでしょうか」


「おそらく」


紫月は頷いた。


「描かれた顔そのものより、残っているのは“見られる顔を保とうとした感じ”ですから。誰かに愛されたかったというより、見ている相手に崩れたくなかった。少なくともこの絵の中では」


湊は肖像画の女の口元を見る。

 最初に感じた“笑うのをやめたあとの顔”という印象が、少しだけ腑に落ちた気がした。あれは微笑み損ねた顔ではなく、崩れないように表情を止めたまま固まった顔なのかもしれない。


「じゃあ、どうして私に」


橘の声が震える。


「母じゃなくて、どうして今、私なんでしょう」


その問いに、紫月はすぐには答えなかった。

 代わりに、自分の右手首へ一瞬だけ視線を落とす。袖口の内側に沈んだ痣の色を確かめるみたいな、短い仕草だった。湊はそれを見て、喉の奥が少し固くなる。ここから先はたぶん、彼女にとっても軽くない。


「お母さまは」


紫月が静かに口を開く。


「この人から目を逸らし続けたんでしょうね」


「……はい」


「似ている自分を認めたくなかったし、似せられてきた時間も見たくなかった。だから切った。写真を隠し、名前を口にしないことで、境界を作った」


そこまでは、湊にもなんとなくわかる。

 見ないことでやっと保てる距離が、家族にはある。


「でも、切っただけでは終わらなかった」


紫月の声が、ほんの少し低くなる。


「この人に残っているのは、“娘を愛せなかった後悔”ではありません。もっと手前のものです。自分の顔が、血の中でどこまで続くのか確かめたい。その確認が、途中で止まっている」


ぞっとした。


その感覚が、湊にはひどく具体的にわかった。

 死んだあとまで誰かを恋しがっているのではない。

 誰かを憎んでいるのでもない。

 ただ、自分に似たものがどこまで続いているのか、見届けたい。

 それだけの視線が、鏡の中に残る。


静かな執着だった。

 静かすぎるぶんだけ、息苦しい。


「お母さまは見ないことで逃げた。でもあなたは、知らないままではいられなかった」


紫月が橘を見る。


「だから、この絵はあなたのほうへ向いたんです。似ているから、ではありません。見ようとしてしまったから」


橘の肩が小さく震えた。


「……私が、見たから」


「ええ。あなたは嫌いきれなかった」


その言葉は責めていないのに、橘は傷ついた顔をした。

 嫌いきれなかった。

 それはたぶん、母を裏切ることに少し似ているのだろう。


紫月は淡く続ける。


「この現象は、いわゆる憑依とは少し違います。あなたを祖母に変えたいわけではない。鏡の中で顔が寄っていくのは、“似ているところ”だけを強く映しているからです」


「似ているところだけ……」


「ええ。血のつながりや、仕草の癖や、選ぶものの傾向。そういうものを、鏡が拾ってしまう。絵そのものが入口で、鏡が増幅している」


そこで紫月は、壁際の肖像画と、部屋の隅の鏡台を順に見た。


「おそらく百合子さんは、生前から鏡をよく使っていたんでしょう。自分を見るためでもあるし、娘を見るためにも。真正面からではなく、鏡越しに確認するほうが楽だった」


湊は背筋に薄いものが這うのを感じた。


真正面から見れば、相手もこちらを見る。

 でも鏡越しなら、自分は“ただ確認しているだけ”で済む。

 愛しているふりも、気にかけているふりも、少しだけしやすい。

 その卑怯さまで想像できてしまって、嫌だった。


「だから、今起きているのは」


湊は自分でも驚くくらい低い声で訊いた。


「絵の中の女が、橘さんの顔を……確認してるってことか」


紫月はすぐには答えなかった。

 少しだけ目を伏せ、それから静かに頷く。


「たぶん。しかも“今の顔”だけでは足りない。幼いころの面影や、お母さまに似ていた時期の気配も、まとめて見たがっている。だから鏡の中の角度がずれるんです」


「角度」


「あなたが立っていない位置に、あなたが映るのは――“そこに立っていたはずの顔”を、向こうが探しているからでしょう」


湊は思わず鳥肌が立つのを感じた。


店の鏡の前で、実際にはレジにいた橘が、絵の隣に立って映った。

 あれは未来の位置ではない。

 過去に、誰かが立たされていた位置を、鏡が勝手に再生している。


そう考えた瞬間、ただ不気味だった現象に、急に生活の匂いが混じった。

 誰かが昔、鏡の前に立たされて、顔や姿勢や表情を確かめられていた。

 そういう時間があったのだとしたら、ぞっとするほど現実的だった。


「……母も」


橘の声が、ほとんど息みたいに落ちる。


「そうやって見られていたんでしょうか」


紫月は即答しなかった。


「断定はできません。でも、残り方としては近いです」


その優しさが、かえって残酷だった。

 違いますよ、と嘘をつかない代わりに、逃げ道も作らない。


部屋の中に沈黙が落ちる。

 長くはないのに、その数秒だけで空気がひどく冷えた気がした。


やがて紫月は、少しだけ背もたれに身体を預けた。ほんのわずかな動きだったが、湊にはそれで十分だった。負担が来ている。呼吸が浅い。


「じゃあ、どうすれば」


橘が訊く。


「このままだと、本当に……私、あの人に寄っていくんですか」


「顔そのものが変わるわけではありません」


紫月は静かに言う。


「でも、見られ続けることで、あなたが自分の顔を信じにくくなる。そうなると、鏡のほうが強くなる」


それがどういうことか、湊にもわかった。

 “本当の自分”より、“映された似姿”のほうを信じてしまう。

 怪異としては派手じゃない。けれど、静かに人を削るには十分すぎる。


「止めるには、百合子さんが見届けられなかったものを、別の形で終わらせる必要があります」


橘が紫月を見る。


「別の形で」


「ええ。肖像画だけでは足りません。この絵は入口ですが、結び目は別にある」


そこで紫月は一度、言葉を切った。


「家に、鏡がありますね」


橘の目が大きく開く。


「古いものが。普段は使っていないけれど、捨てていない。たぶん、お母さまが最後まで処分できなかったものです」


沈黙が、答えになった。


湊はその顔を見て、これで終わりじゃないと悟る。今日の話は、肖像画の正体と現象の仕組みの輪郭を見せただけだ。本当にほどくためには、まだ家の奥に残っている“視線の置き場所”まで辿らなければならない。


紫月は低く言う。


「次は、その鏡を見せてください」


部屋の隅の鏡台が、まるで合図みたいに、もう一度だけごく薄く曇った。今度の曇りはすぐには晴れず、白い膜の奥に、女の口元だけがかすかに浮いた気がした。


笑っているわけではない。

ただ、こちらがようやく正しい場所へ近づいたのを知っているみたいに、静かに形を持っていた。

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