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彼女の手は、呪いに似ていた。  作者: 森凛


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第三話-踊り場の青い椅子

 梅雨には少し早いはずなのに、その週の街はずっと湿った空気を引きずっていて、午前中から空が低かった。講義をひとつ終えて大学を出るころには、石畳に似せた歩道の色まで鈍く沈んで見えて、湊は折りたたみ傘を鞄から出すか少し迷った。


 迷ったまま、結局出さなかった。


 降るなら本降りになるだろうし、ならそのとき考えればいい。そんなふうに考えるのは、たぶん祖母の店を手伝うようになってからの癖だ。空模様も人の顔色も、じっと見すぎると、先回りばかりして身動きが取れなくなる。


 ――見すぎる。


 その言葉に、なんとなく別の顔が浮かぶ。


 桐生紫月。


 ここ最近、気がつくと考えている相手としては、あまり健全じゃない気がした。


 サロン・リュヌへ向かう坂道は、雨の前だけ妙に静かになる。港のほうから吹く風が湿っていて、古い洋館の壁や、アンティークショップのショーウィンドウに並んだ真鍮の色が、曇り空の下で少しだけ暗く見えた。


 湊がサロンの扉を押したとき、鈴の音はいつもより低く響いた。


「いらっしゃいませ」


 声がして、顔を上げる。


 カウンターの向こうに立つ紫月は、今日も変わらず綺麗だった。


 黒に近い紫のワンピースに、細いベルト。髪は肩のあたりでゆるくまとめられていて、窓の白い光がその輪郭だけを淡く縁取っている。見た目だけなら、雨の日の午後に静かな店を切り盛りする上品な店主だ。


 問題は、その見た目がだいぶ信用できなくなっていることだった。


「……何ですか、その“また無茶してないか確認してます”みたいな顔」


 開口一番それを言われて、湊は口をつぐむ。


「してません」


「しています」


 紫月は即答した。


「最近、入ってすぐ手元を見る回数が増えました」


「人の悪い癖みたいに言わないでください」


「悪いとは言っていません」


 そう言いながら、紫月は帳簿を閉じる。その左手の動きが妙に自然で、だからこそ湊は少しだけ安心した。袖口はいつもどおり長い。痣があるかどうかまでは見えない。でも少なくとも、前みたいな露骨な無理の残り方ではなさそうだった。


 それだけで安心してしまうのもどうかと思う。


「今日は講義、早かったんですね」


「午前で終わりです」


「ちょうどよかった」


 その返しに、湊は眉を上げた。


「ちょうど?」


「ええ」


 紫月は何でもないことみたいに言う。


「これから少し外へ出るので」


 嫌な予感がした。


「……依頼ですか」


「はい」


「俺が来る前提で話してません?」


「来なかったら連絡しようと思っていました」


 それはもう、来る前提ではないのか。言いかけて、やめる。たぶん言っても意味がない。


 紫月はカウンターの下から小さなメモを取り出した。


「喫茶と簡易宿を兼ねた洋館です。読書室の椅子が、朝になると別の場所に移っているそうで」


「椅子」


「ええ」


 その単語だけで、部屋の空気に乾いた木の匂いが混じった気がした。


「勝手に動くってことですか」


「らしいです。ただ、見た人はいません」


「それ、だいぶ嫌ですね」


「そうですね」


 紫月は穏やかにうなずく。


「でも、嫌な感じというより、“落ち着かない”に近いそうです」


 椅子が落ち着かない、のか。人が、なのか。そこがまだわからない。


「場所はどこですか」


「旧居留地の坂をもう少し上がったところです。白楓館という宿」


 白楓館、と湊は頭の中で繰り返す。聞いたことがあるような、ないような名前だ。この街には、観光客向けに古い洋館を改装したカフェや宿がいくつかある。どれも似た空気をまとっているのに、一軒ずつ癖が違う。


「支配人の方が困っているそうです。客の前で表立って騒ぎになるほどではないけれど、スタッフのあいだではもう“家出椅子”って呼ばれているらしいので」


 紫月がそう言ったとき、不覚にも湊は少し笑いそうになった。


「家出椅子」


「あまり怖くないでしょう」


「全然です」


「でも、その呼び方をする人たちは、たぶん本気で怯えてはいない」


 その一言で、笑いかけた気分が少しだけ引っ込む。


「つまり?」


「脅かされている感じが弱い、ということです。怖いというより、理由がわからなくて気持ち悪い。そういう怪異のほうが、かえって長引きます」


 たしかにそうかもしれない。悲鳴を上げるほどでもない違和感のほうが、人は対処するタイミングを見失いがちだ。


 湊が鞄を持ち直すと、紫月がそれを見て少し目を細めた。


「行くんですね」


「そこ、確認するんですか」


「一応」


「……行きますよ」


 言いながら、自分でもあきらめが早いと思う。


 でも、もうここまで来ると否定するのも面倒だった。そもそも、椅子が勝手に動く話を聞かされて、一人で大学へ引き返せるほど気持ちの切り替えがうまくない。


「傘、持っていますか」


 店を出る前に紫月が訊いた。


「ありますけど」


「ならよかった」


「桐生さんは」


「あります」


 そう言って彼女が見せたのは、細身の濃紺の傘だった。持ち手の金具まで無駄に上品で、妙に似合うのが腹立たしい。


「それ、最初から持って出る気満々じゃないですか」


「依頼に行くので当然です」


「俺も来る気満々だったみたいな扱い、やめてください」


「違ったんですか」


 またそれか、と思いながら、湊は先に扉を開けた。


 ◆


 白楓館は、坂の上の住宅街と観光地区のちょうど境目にあった。


 洋館を改装した建物はこの街では珍しくないが、ここはその中でも少しだけ古い匂いがする。白い外壁は雨の前の曇天の下で青みを帯び、玄関脇には古い真鍮のランプが左右一対で下がっていた。庭は広くないがよく手入れされていて、濡れかけた石畳の隙間に植えられたタイムが、雨の匂いに混じってわずかに香る。


 玄関のドアを開けると、乾いた木と珈琲と、古い本の匂いがした。


 それだけなら、好きな空気だ。


 でもその奥に、もう一つだけ落ち着かないものがある。古い家具屋に入ったときとも少し違う、誰かが立ち去りそびれた部屋の匂いに近いもの。


「いらっしゃいませ」


 フロントの奥から現れたのは、三十代半ばくらいの女性だった。紺のワンピースに白いエプロン、髪はきっちりとまとめていて、見た目には隙がない。けれど目の下にうっすら影がある。眠れていないわけではないのだろうが、何かを気にし続けている顔だった。


「お待ちしておりました。お電話した水城です」


 支配人らしい落ち着いた声音だったが、最後のほうだけ少し乾いていた。


 紫月が軽く会釈する。


「桐生です。こちらは真柴さん」


「真柴です」


 水城は二人を読書室へ案内しながら、小さく息をついた。


「こんなご相談をするのは正直どうかと思ったのですが……スタッフも気味悪がっていて。お客様の前では何も起きないのに、朝だけ場所が変わっているんです」


「どの椅子ですか」


「青いビロード張りの一脚です」


 読書室は二階にあった。


 階段を上がる途中で、湊は自然と足を止めかける。踊り場のあたりだけ空気が少し薄い。寒いほどではない。でも、窓のない廊下を誰かが静かに横切った直後みたいな、かすかな気配の乱れがあった。


 紫月も同時にそれを感じたらしく、視線だけを一度こちらへ寄越す。


 何も言わない。


 でも、その一瞬で“たぶんここだ”という認識が共有される。


 読書室は思っていたより広かった。窓際に低い本棚が並び、中央には丸テーブルと椅子が数脚。壁際には長椅子とスタンドランプ、古い蓄音機まで置いてある。宿の共用スペースとしては凝っていて、観光客が喜びそうなつくりだ。


 その中で、一脚だけ、青い椅子が少し離れていた。


 深い青のビロード張り。背は高くなく、肘掛けもない。けれど脚の曲線と背もたれの細工が上品で、どこか舞台の小道具みたいな椅子だった。


 本来置かれるべき場所から、半歩ぶんだけずれている。


 その“半歩ぶん”が、妙に気持ち悪い。


「昨夜は、あそこです」


 水城が指したのは読書室の隅ではなく、開いたままのドアの外――階段へ続く廊下の途中だった。


「朝、清掃に入ったら、踊り場の手前にありました」


「毎回、似た位置ですか」


 紫月が訊く。


「ええ。読書室の中で動いている日もありますけど、だいたいは廊下側です。ときどき踊り場まで出ていることもあって」


 湊は椅子を見る。


 車輪がついているわけではない。人が持ち上げれば運べる重さではありそうだが、勝手に動くにはあまりにも普通の一脚だ。


「誰かのいたずらは」


「最初はそう思いました」


 水城が少し苦く笑う。


「でも、夜勤のスタッフが二人いる日も、誰も動かしていないんです。防犯カメラは一階だけですし、二階の廊下までは映りませんが……少なくとも、こんなことをする理由のある人はいません」


 紫月は椅子の前に立ち、すぐには触れずに目を細めた。


「座った方はいますか」


「います」


 水城の答えは早かった。


「お客様ではなく、スタッフです。気味悪いから逆に座ってみようと言い出した子がいて」


「どうなりました」


「十分もしないうちに、ひどく落ち着かなくなったそうです。別に何か見えたわけでも、痛くなったわけでもない。ただ、ここに座っていると“待たされている気がする”と」


 その表現に、湊の肩の奥が鈍く重くなる。


 待たされている。


「誰を、ですか」気づけばそう訊いていた。


 水城は困ったように眉を寄せる。


「それが、本人にもわからないらしくて。ただ、読書なんてしていられなくなるそうです。ページをめくるたび、何かを聞き逃している気がして」


 その答えに、紫月の視線が少しだけ動いた。


「聞き逃している」


「ええ。呼ばれる音とか、階段を上がってくる足音とか……そういうものを、待っているような気分になると」


 部屋が静かになる。


 湊は青い椅子の背もたれを見る。美しい曲線だ。やわらかそうで、座り心地も悪くなさそうに見える。なのに、話を聞いた途端、そこへ腰を下ろしたい気持ちが消えていた。


 誰かを待つ椅子。


 あるいは、待たせる椅子。


「この椅子、もともとどこに」


 紫月が訊く。


「読書室の窓際です」


 水城が窓辺を示す。


「開業当初からそこに置いてありました。古い館を引き継いだときの備品のひとつで、ほかの家具と一緒にそのまま使っていて」


「最近、位置を変えましたか」


「少しだけ。春先に模様替えをして、窓際から中央へ寄せました」


「なるほど」


 紫月の声が、わずかに低くなる。


「離されたんですね」


 水城が目を瞬かせる。


「え?」


「窓際から」


 そう言って紫月は、今度は窓辺のほうを見る。


 湊もつられて視線をやった。読書室の窓は縦に長く、白いレースのカーテン越しに曇った空が見える。椅子一脚が置かれていたなら、座ったまま階段の踊り場は見えない。でも、廊下の音なら少しは拾えるかもしれない。


「この椅子は、どなたか特定の方が気に入っていたものですか」


 紫月がそう訊いたとき、水城は少し考えこんだ。


「昔のことは……ただ、前のオーナー夫人がよく使っていたとは聞きました」


「夫人」


「ええ。もう亡くなっています。喫茶を切り盛りしていた方で、午後になるとよくここで本を読んでいたとか」


 湊は椅子と階段の位置関係をもう一度見た。


 ここに座って、本を読む。

 でも耳は本ではなく、別の音を拾っている。

 階段を上がってくる足音か、扉の開く音か。


 そんな気配が、青いビロードの上にまだ残っているのだろうか。


 紫月が椅子の横にしゃがみこむ。


「湊くん」


「はい」


「脚元を見てください」


 言われて、湊も近づく。四本脚のうち、手前の二本だけ床との擦れ方が違っていた。単に長年使った傷とは少し違う。何度も同じ向きに引かれたような、細い弧の跡がある。


「前に引いてる」


 湊が言うと、紫月が頷く。


「ええ。持ち上げて運ぶより、少しずつずらしている」


「でも、勝手に?」


「そこまではまだ」


 紫月は椅子の背へ触れずに、指先を布地のすぐ上で止めた。


「……これは、自分で動きたい感じではありませんね」


「じゃあ何ですか」


「元の位置に戻りたい」


 静かな声だった。


「戻るたび、また離される。それを繰り返している」


 水城の表情が固くなる。


「模様替えをしたのが、いけなかったんでしょうか」


「原因のひとつかもしれません」


 紫月は立ち上がる。


「でも、椅子はただのきっかけです」


「きっかけ?」


「ええ。残っているのは椅子そのものの意思ではない。そこに座っていた人の“位置への執着”のほうです」


 位置への執着。


 湊はその言葉を胸の中で転がす。


 誰かが好きだった場所。誰かを待ちやすい角度。あるいは、誰かを見送りやすい距離。その場所に意味があったからこそ、離されるたびに違和感が増したのかもしれない。


 紫月は読書室の中をゆっくり歩いた。窓辺、本棚、丸テーブル、そして廊下へ続くドア。どこか一点を見るというより、視線の線を探しているみたいだった。


 その途中で、踊り場の手前で止まる。


 湊もあとを追い、廊下へ出た。


 二階の廊下は読書室より少し暗い。壁にかかった古い風景画の額縁が、窓からの薄い光を鈍く返している。踊り場には小さな窓があり、その下に本来なら何もないはずの空間がある。


 ここに青い椅子が朝になると来ている。


「……ここ、ですね」


 紫月が低く言う。


 湊の肩の奥が重くなる。読書室の中より、こっちのほうが反応が強い。怖いというより、呼吸のリズムが少しだけ他人のものに引っぱられる感じだ。


「待っているのは、読書室じゃない」


 紫月が窓の外も見ずに言う。


「階段です」


「階段を?」


「上がってくる音を」


 湊は下を見た。一階の玄関ホールまでは見えない。けれど、古い木の階段だから、誰かが上ってくれば音はよく響きそうだった。


 ここに椅子を置けば、待てる。

 座って、耳を澄ませて、足音を数えられる。


 読書室の青い椅子が、もともとそういうふうに使われていたのだとしたら。


「前のオーナー夫人は、誰かを待っていたんですか」


 湊が訊くと、水城は少し困ったように視線を泳がせた。


「そこまでは……ただ、夫人には長く留守にしていたご主人がいたと聞いたことはあります」


「留守?」


「商船の仕事だったとか、海外を行き来していたとか……昔の話なので曖昧ですけど」


 その答えで、階段と椅子の意味が急に具体的になる。


 帰ってくる人を待つ位置。

 聞き逃したくない足音。

 窓辺ではなく、踊り場の近くへ動いてしまう椅子。


 でも、それだけなら切ない話で終わるはずだ。いまこうして“気味の悪いこと”として残っているなら、どこかで何かが止まったのだろう。


 紫月は踊り場の床板を見下ろした。


「……湊くん」


「はい」


「ここ、少し沈みます」


 言われて足元を見る。たしかに一枚だけ、色味の違う床板がある。古い修繕跡だろうか。他の板よりわずかに新しく見えた。


「直してますね」


「ええ。しかも一枚だけ」


 紫月がそっと足先で確かめる。


「椅子がここへ来るのなら、毎回この前で止まっているはず」


 水城が首を傾げる。


「それが何か」


「止まり方が自然すぎるんです」


 紫月は静かに言った。


「偶然の位置ではなく、見えない線の前で止まっている」


 見えない線。


 その言葉に、湊は無意識に息を詰めた。


 たしかにそうだ。朝見つかる位置が踊り場“の手前”で止まるのなら、それはただ外へ家出しているのではない。行きたい場所に届く前で、毎回止められていることになる。


「……その先に何があるんですか」


 訊くと、紫月は廊下の突き当たりを見た。


 そこには、古びた真鍮のプレートのついた扉が一つだけある。他の客室より小さく、宿の導線から少し外れた位置だった。


「使っていない部屋がありますね」


 水城が一瞬だけ目を見開いた。


「……旧客室です。今は倉庫に近くて」


「鍵は」


「あります」


 そこまで答えて、水城ははっとしたように口を閉じる。


 つまり彼女も、その部屋を意識していたのだろう。意識していたが、開けたくはなかった。


 紫月はそれを責めるでもなく、ただ言った。


「あとで見せてください」


 その声は穏やかだったが、もう半分以上答えに近づいている響きがあった。


 湊は扉を見つめる。


 青い椅子は、踊り場まで来て、そこから先へは行けない。

 待っているのは階段の音。

 そして、その先に使われていない小さな部屋がある。


 嫌なほど線がつながりかけているのに、まだ核心だけが見えない。


 雨が、ようやく降りはじめた。


 小さな窓に細い雫が走り、廊下の空気がひとつだけ冷える。湊はその音を聞きながら、次に何が出てきてもおかしくない気配の中で、自分の呼吸だけがやけに大きいことに気づいていた。


 ◆




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