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彼女の手は、呪いに似ていた。  作者: 森凛


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第ニ話 ー 衝立の向こう側

 次にあのサロンを訪れたのは、それから四日後のことだった。


 四日、という数字は短いようでいて、妙に長かった。


 大学へ行き、講義を受け、レポートの締切に追われ、祖母の店を少し手伝って、帰りの電車でぼんやり窓の外を見る。やっていることはいつもと変わらない。なのに、日常の表面にだけ薄い膜が一枚増えたみたいな感覚が、どうしても消えなかった。


 たとえば、改札を抜けた先で誰かの背中を見送るとき。


 たとえば、喫茶店で隣の席の会話が不意に途切れたとき。


 たとえば、自分の肩へ何気なく手をやりかけて、あの匂いのないオイル瓶のことを思い出すとき。


 あの日のことは、きれいに終わったはずだった。少なくとも、栞さんの部屋に残っていた気配はちゃんとほどけたし、言いそびれた言葉は届いた。渡しそびれたものだって、ようやく渡された形になった。


 だから、終わったと言っていい。


 言っていいはずなのに、湊の中ではどうにもそういう感じではなかった。


 終わった、というより、始まってしまった、に近い。


 見えないものを信じるようになった、というほど大げさな話ではない。ただ、見えないからないとは、もう簡単には言えなくなった。それだけで、世界のあちこちが前より少しだけ静かに、不穏になる。


 そして、その「少しだけ不穏な世界」の中心に、桐生紫月という女が平然と立っていることが、いちばん厄介だった。


 その日、湊がサロン・リュヌの扉を開けたのは、午後三時を少し回ったころだった。


 平日の街はまだ仕事帰りの時間には早く、通りには昼と夕方の中間みたいな、気だるい明るさが漂っている。洋館を改装した建物の前に立つと、相変わらず日本の街並みの中にそこだけ別の季節が置かれているようだった。


 小さく息を吐き、扉を押す。


 鈴の音が澄んで鳴った。


「いらっしゃいませ」


 聞き慣れた声に顔を上げる。


 カウンターの向こうにいた紫月は、何事もなかったみたいな顔でこちらを見ていた。


 薄いグレイッシュブルーのワンピースに、今日は髪をいつもより少しだけゆるくまとめている。窓から差し込む午後の光のせいか、黒髪の端にわずかな紫が混じって見えた。見た目だけなら、怪異だの厄払いだのと関わっているようには到底思えない。ただ上品で、綺麗で、少しだけ愛想の薄い店主だ。


 でも、湊にはもう、その見た目だけで安心することはできなかった。


 視線が無意識に手首へ向く。


 今日は長めの袖に隠れていて、痣は見えない。


「……何ですか、その確認するみたいな目は」


 いきなり言われて、湊は肩を揺らした。


「してませんよ」


「しています」


 紫月は淡々と言う。


「入って三秒で手元を見る人は、だいたい何か確認しています」


「そういう観察力、客商売としてどうなんですか」


「便利ですよ」


 あっさり返されて、湊は言い返しかけた言葉を飲み込んだ。


 前なら、彼女とこうして話すたびに、どこか足元の定まらない緊張があった。何を考えているのかわからない相手と、向こうには見透かされている気がする不公平さ。でも今日は、その感覚に別のものが混じっている。


 慣れだ。


 慣れてしまったことが良いのか悪いのかは、わからないけれど。


「それで」


 紫月が帳簿を閉じながら訊く。


「今日は本当にただ様子を見に来たんですか。それとも、肩が重いとか」


「人をそういう来店動機ばっかりみたいに言わないでください」


「違うんですか」


「……違います」


 完全には違わない気もして、少しだけ声が鈍る。


 実際、ここ数日は肩に手をやるたび、あの夜の感覚を思い出していた。重さがあるわけじゃない。ただ、前より意識してしまうようになっただけだ。


 紫月はそれをたぶん察していた。でも、そこには触れない。


「では、紅茶でも飲んでいきますか」


 何でもないことみたいに言う。


「ちょうど休憩しようと思っていたので」


 その自然さが少しずるい、と湊は思う。


 どうせ、来る前からある程度こうなると読まれていたのだろう。四日前に“少しだけ付き合ってもらうかもしれません”なんて言い方をしておいて、今日はもう店の奥へ通す気でいる。


「……客じゃないのに、いいんですか」


「いまは予約の合間ですし」


 紫月は立ち上がる。


「それに、湊くんは微妙に“客ではない人”の位置に来てしまったので」


「微妙って何ですか」


「説明しにくい関係、ということです」


 それはたしかにそうだった。


 客でもない。友人と呼ぶにはまだ妙な距離がある。かといって、もう完全に他人の顔もできない。前回のあの一件で、互いに見てしまったものが多すぎた。


 紫月は奥の小さな応接スペースへ向かいながら、振り返りもせず言う。


「ぼんやり立っていないで、扉の札を“休憩中”に替えてくれますか」


 湊は一拍遅れて、「あ」と声を出した。


「それ、俺がやる流れなんですか」


「手が空いている人がやればいいでしょう」


「……さらっと使いますよね、人を」


「使いやすいので」


 あまりにも迷いなく言われて、湊は思わず失笑した。


 たぶん前なら、もう少しむっとしていた。でも今日は、その雑な信頼の置き方が少しだけ悪くなかった。


 扉の札を返してから奥へ行くと、紫月はすでにポットに湯を注いでいた。小さな丸テーブルの上には、白磁のカップと、焼き菓子の乗った皿まで用意されている。


「準備よすぎません?」


「休憩する気だったので」


「ほんとですか」


「ほんとです」


 その横顔を見て、湊はふと気づく。


 声色も、表情も、前と変わらないようでいて、どこかだけ違う。ほんの少しだけ、湊がここにいることを前提にしている顔だ。


 それがうれしいのか、危なっかしいのか、自分でも判別がつかない。


 向かいに腰を下ろすと、紫月が紅茶を差し出した。


「今日は大学は?」


「午前だけです。三限休講で」


「なるほど。それで、ここへ」


「……別に、暇だったから来たみたいに言わないでください」


「違うんですか」


「違います」


 また同じやりとりになって、紫月がかすかに笑う。


 こうして見ると、本当に普通の午後だ。紅茶の湯気が上がって、窓の外では春の終わりみたいな光が揺れている。四日前に鏡へ浮かんだ手の跡も、手首の痣も、この部屋に持ち込まなければ全部夢みたいだった。


 でも、夢じゃない証拠がひとつだけある。


 湊がカップへ手を伸ばしたとき、紫月の袖口が少しずれた。


 白い手首の内側に、もうほとんど消えかけた紫が、細い影みたいに残っていた。


 湊の視線が止まる。


 紫月は気づいて、それでも袖を直さなかった。


「安心しました?」


「……半分くらい」


「ずいぶん厳しいですね」


「半分消えてるなら、まだ半分残ってる」


 湊が言うと、紫月は小さく息をついた。


「本当に細かいところを見るようになりましたね」


「誰のせいだと思ってるんですか」


「さあ」


 白々しい返しだった。


 でも、その白々しさも含めて、この数日で距離が一段だけ変わったのだと湊は思う。前なら、こういう話題はさらりとかわされて終わっていた。いまはかわされるにしても、かわした事実くらいはちゃんとこちらに渡される。


 それだけでも、ずいぶん違う。


「栞さん、その後どうでした」


 湊が訊くと、紫月はカップを持ったまま少し目を伏せた。


「昨日、連絡がありました」


「え」


「肩の調子は少し楽になったそうです」


 それから、ほんのわずかに間を置く。


「手紙も読んだ、と」


 胸の奥が、静かにゆるむ。


「そうですか」


「ええ」


 紫月の声も穏やかだった。


「読んだあと、泣いたけど、ちゃんと眠れたらしいです」


 それはたぶん、あの一件にとっていちばんまっとうな終わり方なのだろう。全部きれいに消えるわけではない。でも、抱えたまま眠れるなら、それで十分だ。


「……よかった」


「はい」


 短い会話のあとに、少しだけ沈黙が落ちる。


 気まずいわけではない。ただ、四日前までなかった種類の静けさだった。何も話さなくてもいい時間が、ようやく二人のあいだにできた感じ。


 湊は紅茶をひと口飲んだ。


 熱い。ほんの少しだけ渋みが強くて、でも香りは柔らかい。


「桐生さん」


「はい」


「前からこういうの、ずっと一人でやってたんですか」


 訊いてから、少しだけ後悔した。踏み込みすぎたかもしれない。


 でも紫月はすぐにははぐらかさなかった。


「……そうですね」


 窓の外を見ながら、静かに言う。


「ずっと、というほど長い時間の感覚は曖昧ですが、少なくとも誰かを横に置くつもりではなかったです」


「じゃあ今は?」


 そこまで訊いてしまってから、さすがに直球すぎたと気づく。


 紫月は少しだけ目を細めた。


「今は、置いてもいいかもしれないと思っています」


 さらりと言うのに、湊のほうが言葉を失う。


 もっとぼかすか、軽く流すかと思っていた。こんなふうに真っ直ぐ肯定されると、逆に反応に困る。


「……そういうこと、急に言わないでください」


「急でしたか?」


「急です」


「では次から気をつけます」


 そう言いながら、たぶん気をつける気はない顔だった。


 そのとき、店の表のほうで鈴が鳴った。


 二人同時に顔を上げる。


 休憩中の札に替えたはずなのに、扉が開いたらしい。


 紫月がすっと立ち上がる。その動きに無駄がない。ほんのさっきまで休憩の顔だったのに、もう店主の顔へ切り替わっている。


「すみません、出ます」


「俺も」


 反射的に湊も立つと、紫月が一瞬だけこちらを見る。


 その目に、ごく薄く迷いがよぎる。


「……では、奥へ引っ込まずにいてください」


「手伝えってことですか」


「いえ。何かあったときのために」


 その言い方は、四日前より少しだけ露骨だった。


 湊は短くうなずく。


 表へ出ると、扉の前に立っていたのは、四十代半ばくらいの女性だった。上品なベージュのスーツに、つばの広い帽子。姿勢のきれいな人で、ぱっと見にはどこかのギャラリーか美術館からそのまま抜けてきたみたいな空気がある。


 でも、顔色が悪い。


 青ざめているわけではない。ただ、数日まともに寝ていない人特有の、皮膚の薄さみたいなものが目元に出ていた。


「申し訳ありません」


 女性が言う。


「休憩中とは知らずに……でも、どうしても今日うかがいたくて」


「かまいません」


 紫月の声はやわらかい。


「ご予約のない方でも、お話だけなら伺えます。どうぞ」


 女性は礼を言って中へ入ってきた。そのとき、湊の鼻先をかすめたのは、微かな香りだった。


 香水ではない。


 もっと乾いた、木と紙のあいだみたいな匂い。


 古い家具屋に入ったときの空気に少し似ている。


 そこで湊は気づく。


 女性は黒い革の手袋を、左右とも外していない。室内なのに、帽子だけ取って、手袋はそのままだ。


 妙だ、と思うのと同時に、胸の奥で何かが引っかかった。


 紫月も気づいたらしい。視線がごく短く、その手元をなぞる。


「おかけください」


 応接スペースへ案内しながら、紫月は穏やかに続ける。


「今日はどのようなご相談でしょう」


 女性はソファに浅く腰かけたものの、背を預けなかった。


 膝の上で握った手袋越しの指先が、落ち着かないように動いている。


「……変な話なんですが」


「ええ」


「でも、誰に話しても気のせいだと言われてしまって」


 そこで一度、女性の視線が湊へ向いた。


 紫月が静かに言う。


「彼は大丈夫です。必要なら席を外させますが」


 女性は数秒迷ってから、首を横に振る。


「いえ……たぶん、聞いていただいて大丈夫です」


 その返答に、湊のほうが少しだけ居心地悪くなる。大丈夫と言われても、自分が本当に大丈夫な側なのかは未だによくわからない。


 女性は手袋をはめたまま、ようやく口を開いた。


「最近、家の中で……誰かが立っている気配がするんです」


 その一言で、空気がわずかに変わる。


 紫月の表情は変わらない。


 でも湊にはわかった。彼女の呼吸が、ほんの少し深くなる。


「どこに、ですか」


「居間です」


 女性は乾いた唇を湿らせる。


「正確には、衝立の向こうに」


 湊は思わず目を上げた。


 衝立。


 その言葉だけで、部屋の中へ古い影が差した気がした。洋館めいたこのサロンには不思議と似合う単語なのに、女性の口から出ると急に現実味が増す。


「うち、古い家で……祖母の代から使っている衝立があるんです。刺繍の入った、背の高いものが。居間と食卓のあいだに置いてあって、普段はただの仕切りなんですけど」


 女性の声が少しだけ掠れる。


「夜になると、その向こうに……誰かがいる気がするんです。見えるわけじゃないんです。でも、いる。確実に。布の向こうに、じっと立ってる感じがして」


 湊の肩が、わずかに重くなる。


 前みたいな強い反応じゃない。ただ、言葉だけで空気の輪郭が変わる感じだ。


 紫月は落ち着いた声で訊く。


「最近、家へ何か新しいものを入れましたか。あるいは、動かしたものは」


「いえ……大きくは何も。ただ、祖母の遺品整理を少し」


 女性はそこで言葉を切った。


「その衝立も、ずっと使っていなかったものを、先月から出したんです」


 やっぱり、と湊は思う。


 古いもの。仕切るもの。布の向こうに立つ気配。


 嫌な符合(ふごう)ばかりが揃っている。


 紫月はほんの少しだけ視線を伏せた。


「なるほど」


 短い返答だった。


 けれどその二文字だけで、彼女の中ではもう何かが繋がったのだとわかる。


 女性は膝の上の指先を強く組み合わせる。


「最初は気のせいかと思ったんです。でも、最近は食事をしていても、テレビを見ていても、あの向こうに誰かがいて……それも、こちらを見ているというより」


「待っている感じがする?」


 紫月が静かに言う。


 女性の目が大きく開いた。


「……はい」


 その反応だけで、湊の背中に薄いものが走る。


 まただ。


 紫月は人の話を聞いているようでいて、そのもっと先にある“言葉になる前の輪郭”を拾ってしまう。


「何か、渡される気がするんです」


 女性は、かすれた声で続けた。


「でも、布の向こうへ回るのがどうしても怖い。何もいないとわかっているはずなのに、見ると何かが決まってしまいそうで」


 その言い方に、湊は無意識に紫月を見る。


 紫月も同じように、女性の言葉の中に別の意味を聞いた顔をしていた。


 渡される気がする。


 それは、ただ脅かされている感じとは少し違う。


 あの夜の鏡みたいに、言いそびれたものが形だけ残っているときの気配に近い。


「……家へうかがうことはできますか」


 紫月が訊く。


 女性は一瞬だけ息を止め、それからすぐにうなずいた。


「はい、もちろん。もし見ていただけるなら」


「今夜は難しいですが、明日の午後なら」


「お願いします」


 即答だった。追いつめられている人の返事だ、と湊は思う。


 女性はようやく、そこで少しだけ力を抜いた。けれど手袋は外さないままだった。


 紫月は住所と連絡先を控えながら、何気ない調子で言う。


「お手元、どうかされましたか」


 女性の指先がぴくりと止まる。


「……え」


「手袋です。室内でも外されないので」


 一拍。


 女性は少しだけ困ったように笑った。


「大したことではないんです。ただ、最近……指先が冷えてしまって」


 そう言いながらも、外す気配はない。


 湊はなぜだか、その仕草に嫌なものを感じた。冷えるだけなら、こんなふうに隠し続けるだろうか。


 紫月は追及しない。


「わかりました。では明日、詳しく」


 女性が帰ったあと、扉の鈴が静かに鳴り終えるまで、二人とも少し黙っていた。


 休憩中の札が、まだ扉にかかったままだ。


 外の通りには夕方前の光が傾きはじめている。さっきまでの穏やかな紅茶の時間が、妙に遠く思えた。


「……新しい依頼」


 湊がぽつりと言うと、紫月が「ええ」と返す。


「ずいぶん早いですね」


「そういうものです」


 淡々とした口調だった。


 でも、その横顔を見ていると、彼女もほんの少しだけ気を張っているのがわかった。女性の話の中で何かを拾ったのだろう。


「衝立の向こう、って」


「境界ですね」


 紫月は短く答える。


「見える側と見えない側、人がいる場所と、いないことになっている場所を分けるものです」


「また厄介そうな」


「ええ。たぶん」


 そこで彼女は、ようやくこちらを見る。


「来ますか」


 あまりにもあっさり訊かれて、湊は一瞬言葉を失う。


「確認もなしですか」


「断らないでしょう」


「……そういう決めつけ、よくないですよ」


「では、断りますか」


 黒い瞳が、静かにこちらを見ている。


 試しているようでいて、半分はもう答えを知っている顔だ。


 湊は小さく息をつく。


「断れないようにしたの、そっちでしょう」


「そうかもしれません」


 悪びれない返事だった。


 湊は肩をすくめる。


「行きますよ」


「ありがとうございます」


「でも、今回はちゃんと最初から説明してください」


「善処します」


「またそれだ」


 思わず言うと、紫月が今度はちゃんと笑った。


 ほんの少しだけだ。けれど前より近い位置で見るその笑みは、やっぱり年齢不詳の美人店主というより、少しだけ無茶をして、それを誤魔化すのがうまい女の人の顔に見えた。


 その変化を見てしまったことが、たぶん一番厄介なのだと湊は思う。


 もう前みたいに、放って帰れない。


 ◆


 翌日の午後、依頼人の家があるのは、街の中心から少し離れた住宅地だった。


 古い洋館風の家が点在する一角で、並木の影がやわらかく道へ落ちている。新しい建売の家が増えた住宅街とは違って、このあたりの建物にはどれも少しだけ昔の名残があった。門扉の意匠や窓枠の形や、玄関先のタイルの色。どれも今では少し古風で、でも丁寧に手入れされている。


 その中でも、依頼人の家はひときわ静かだった。


 白い外壁に緑青の浮いた屋根。広すぎない庭に、きちんと刈られた低木が並んでいる。派手ではないけれど、長く同じ家族が住んできた気配がある。


「……想像より普通の家ですね」


 門をくぐりながら湊が言うと、隣の紫月が小さく答えた。


「“普通”のほうが残りますから」


「嫌な言い方ですね」


「本当のことです」


 そう返されて、湊は口を閉じる。


 インターホンを押す前に、紫月が一度だけ家全体へ視線を巡らせた。その横顔は静かだった。でも、昨日サロンで見たときより明らかに集中している。


「昨日のうちに、もう何かわかってたんですか」


 小声で訊くと、紫月は視線を門柱の先へ向けたまま答えた。


「大まかな向きだけは」


「向き?」


「今回は“見るもの”ではなく、“渡す前で止まっているもの”の気配です。だから、近づいてくるより、待っている感じが強いはず」


 その説明は、わかるような、わからないようなものだった。でも前よりはずっとましだ。少なくとも彼女が何を見ようとしているのか、その方向くらいは教えてくれる。


 インターホンが鳴り、昨日の女性がすぐに出てきた。


 家の中でもやはり黒い手袋をしている。今日は帽子はないが、髪はきちんとまとめられていて、服装にも乱れはない。なのに目元だけが、夜をいくつか失くしてきた人のそれだった。


「すみません、お待ちしていました」


「こちらこそ、お時間いただいて」


 紫月の声はあくまで穏やかだ。


 廊下を通って家の奥へ案内される。床板はよく磨かれていて、歩くたびかすかに木の鳴る音がした。壁には古い写真と小ぶりな額絵がかけられている。派手さはないのに、家全体に統一された美意識があった。


 居間へ入った瞬間、湊はわずかに呼吸を浅くした。


 部屋の真ん中に、衝立があった。


 背の高い、四曲一双の衝立だ。木枠は黒に近い濃い茶で、布地には生成りを基調にした刺繍が入っている。花や鳥をあしらった図柄らしいのに、光の加減のせいか、どこか影絵みたいに見えた。


 居間と食卓のあいだに、斜めに置かれている。


 ただの仕切りにしては、妙に存在感がある。


 たぶん、古いからだ。あるいは、この家の中でそこだけ「向こう側」を持っているからかもしれない。


「……あれ、です」


 女性が小さく言った。


「夜は、あの向こうに」


 湊は居間を見回す。ソファ、ローテーブル、サイドボード、ダイニングテーブル。どれも質のいい家具で、きちんと使われている。居心地のよさそうな空間のはずなのに、その真ん中に立つ衝立だけが、部屋の空気を二つに割っていた。


 紫月が少し歩き、部屋の中央で立ち止まる。


「……そうですね」


 低い声だった。


「悪い感じではありません」


 女性の肩が、わずかに下がる。


「本当ですか」


「ええ。ただ」


 紫月の目が衝立へ向く。


「止まっています」


 その言い方に、湊の背筋が少しだけ冷える。


「止まってる?」


「渡す手前で」


 静かな説明だった。


「あるいは、向こうから出る手前で」


 女性は何も言えずにいる。


 紫月は衝立へ近づいた。真正面ではなく、少し距離をとって、角度を変えながら見る。その歩き方が、部屋を調べているというより、誰かが立ちたがっていた位置を探しているみたいだった。


 湊も視線で追う。


「……何かわかりますか」


「ええ」


 紫月は衝立の前で足を止める。


「こちら側から見る時間が長かった」


「こちら側?」


「はい。受け取る側ではなく、待たされる側です」


 その言い方に、女性の指先がぴくりと動く。


「わたし、いつもこっちで食事をしていました」


「ええ。だから視線が合うんです」


 紫月はそう言って、食卓の椅子を一つ見る。


「でも、向こうへ回らない」


 湊も衝立のまわりに目をやった。


 たしかに、衝立のこちら側――居間側は人がよく通るせいか、床のワックスにわずかな艶の差がある。けれど向こう側、つまり食卓側からさらに奥へ回り込む動線は、妙に狭く、使われていない感じがした。


 ただの気のせいかもしれない。


 でも、前の件以降、その“ただの気のせい”を簡単に切り捨てられなくなっている。


「衝立を出してから、配置は変えていませんか」


 紫月が訊く。


「少しだけ……最初より、居間寄りにしました」


 女性は思い出すように言った。


「食卓から見るのが、なんとなく嫌で」


「なるほど」


 紫月が小さくうなずく。


「遠ざけたんですね」


「……そう、かもしれません」


 その答えに、紫月はそれ以上触れなかった。


 代わりに、今度は女性の手元へ視線を向ける。


「今も冷えますか」


「はい。とくに夕方から」


 女性は黒い手袋を見下ろす。


「外すと、指先だけひどく冷たくなるんです。痛いほどではないんですけど、何かに触れるのが妙に嫌で」


「何かを受け取る感じがする?」


 昨日と同じ問いだった。


 女性はゆっくりうなずく。


「……はい」


 部屋が静かになる。


 湊は衝立を見る。古い布地の向こうに、本当に誰かが立っているわけではない。そんなことはわかっている。わかっているのに、見続けていると、布の向こうに空気の濃い部分がある気がしてくる。


 近づいてこない。


 でも、そこにいる。


 待っている。


 その感じが、たしかにある。


「お祖母さまは、どういう方だったんですか」


 紫月が訊いた。


 女性は少しだけ驚いたように目を上げる。


「祖母、ですか」


「ええ。この衝立を大事にしていたそうなので」


 女性は視線を衝立へ戻した。


「……器用な人でした。洋裁も和裁もできて、昔は人の服を見立てたり、手直ししたりもしていたみたいです」


「手先が」


「はい。すごく綺麗でした」


 その言葉のあとで、女性は自分の黒い手袋を見下ろす。何か言いかけて、やめる。


 湊はその沈黙が少し気になった。


 祖母の手先の話をして、自分の手袋を見る。単なる偶然ではない気がしたけれど、まだ言葉にするほどの形はない。


 紫月は衝立の刺繍へ目を近づけた。


「よく見ると、細かいですね」


「ええ。祖母が気に入っていたものです」


 湊も少し近づく。


 布地には、薄い色で花枝のような刺繍が入っている。昼の光だと控えめだが、夜になれば影が濃く出そうだった。上品で綺麗だ。綺麗なのに、見ていると妙に奥行きがある。布一枚のはずなのに、その向こうにもう一枚、別の暗さがあるみたいに見える。


「……あ」


 声が出たのは、ほとんど反射だった。


 紫月がすぐにこちらを見る。


「どうしました」


「いや、たいしたことじゃないかもしれないですけど」


 湊は衝立の端へ回り、木枠と布地の境目を指さした。


「ここ、少しだけ縫い直してませんか」


 女性が目を凝らす。


「え……」


 紫月が近づき、湊の指先の少し先を見た。


 布の端、木枠に沿うように張られた部分の糸目が、途中からわずかに違っていた。色は合わせてある。でも、古い刺繍の縫い目に比べると新しい。几帳面に直したのだろうけれど、目を凝らすとそこだけ呼吸が違う。


「……本当ですね」


 紫月が低く言う。


「それに、ここの床」


 湊はそのまま視線を落とす。


 衝立の片側だけ、床板の艶が少し擦れている。立って、向きを変えて、同じ場所で何度も布の端に触れたような跡だった。


「こっちはよく触ってるのに、反対側はそうでもない」


 言いながら、自分で少しだけぞわりとする。


 前なら、こんなものはただの生活の跡としか思わなかっただろう。でもいまは、その偏りのほうが気になる。


 紫月が、ほんのわずかに目を細めた。


「……なるほど」


 その声で、部屋の空気がまた一段、静かになった。


 女性が不安そうに二人を見る。


「何かわかったんですか」


 紫月はすぐには答えず、縫い直された布端に指先を近づける。触れそうで、触れない距離で止める。その横顔に、昨日サロンで依頼の話を聞いたときと同じ集中が戻っていた。


「少しだけ」


 静かな声が落ちる。


「向こう側で、何かを隠した人がいます」


 女性の喉が、目に見えるくらい固く上下した。


 湊も、呼吸を浅くする。


 まだ何も見つかっていない。見つかっていないのに、そこに何かがあるとわかった瞬間、衝立の向こうに立つ気配が急に現実味を帯びた。


 待っていたのではない。


 隠したものの前で、止まっていたのかもしれない。


 紫月が、衝立の向こう側へゆっくり視線を向ける。


「……この先は、もう少し詳しく見ます」


 その一言で、湊の胸の奥に小さく緊張が灯った。


 ここから先が、本当の入口なのだとわかったからだ。


 ◆


 女性は、衝立と紫月を交互に見てから、ひどくゆっくりとうなずいた。


「……見ていただいて、かまいません」


 その返事は覚悟を決めたものというより、もうここで引き返せないと知ってしまった人の声だった。


 紫月は短く会釈すると、衝立のこちら側からすぐには回りこまなかった。まず居間の中央へ戻り、ソファの位置、食卓の位置、窓から入る光、部屋の出入口までを静かに見渡す。その視線の動きが、家具を見ているようでいて、実際には人の立ち位置をなぞっているのが湊にもわかった。


「湊くん」


「はい」


「食卓の椅子、いつもどおりに使われている位置がわかりますか」


 いきなり振られて、湊は一瞬だけ面食らう。


 でも、こういうときに返事を迷うと、たぶん紫月は勝手に先へ進む。四日前で学んだことだ。


 湊は食卓に目を向けた。四脚の椅子のうち、窓に近い二脚はきちんと収まっている。出入り口寄りの一脚は少しだけ斜めに引かれていて、残る一脚は衝立からいちばん遠い位置に寄せられていた。


「……この、衝立から遠い席じゃないですか」


 言うと、女性がはっとしたようにこちらを見た。


「ええ……いつも、そこに」


「やっぱり」


 紫月が小さく呟く。


「視線を避けるように座っていますね」


 女性の指先が、黒い手袋の上でぎゅっと結ばれる。


「避ける、というほどでは」


「ええ、最初は違ったでしょう。でも最近は、少しでも衝立と距離を取りたかった」


 否定しかけた女性の唇が、そのまま閉じる。


 湊は食卓と衝立の距離を見た。ほんの数歩だ。狭いわけではない。回りこむ気になれば簡単に向こう側へ行ける。それなのに、いまこの部屋では、その数歩が妙に遠く感じられる。


 紫月は衝立の正面へ戻ると、今度は布の端ではなく、木枠の脚元にしゃがみこんだ。艶の差が出ていた床板へ、指先を近づける。


「……擦れているのは、掃除のせいではありませんね」


「わかるんですか」


 湊が訊くと、紫月は床を見たまま答えた。


「ええ。拭いた跡ではなく、立っていた跡です。人が同じ位置で向きを変えたときの擦れ方なので」


 その説明を聞いた途端、湊の頭の中に、見えない人物の立ち位置が浮かぶ。


 衝立の端に手をかける。

 向こうへ回るか迷う。でも回らない。

 同じ場所で何度も足先の向きを変える。


 それはたしかに“待っている”より、“踏み切れずに止まっている”感じに近かった。


「お祖母さまは、亡くなられてどれくらいですか」


 紫月が訊く。


 女性は少しだけ視線を伏せた。


「三年前です」


「この衝立は、そのあとずっと仕舞われていた」


「はい。母が、あまり出したがらなくて」


「なぜか、理由を聞いていますか」


 少しの沈黙のあと、女性は首を横に振る。


「……はっきりとは。ただ、祖母のものは、どれも少し気をつけなさいと言われていました。古いから壊れやすい、くらいの意味だと思っていたんですけど」


 紫月はその返事に何も足さず、立ち上がった。


 それからようやく、衝立の向こう側へ回る。


 その瞬間、湊は無意識に息を止めていた。


 向こう側は、思っていたより暗かった。窓の位置のせいか、ほんの半歩回りこんだだけで光の当たり方が変わる。布地の刺繍もこちら側から見たときより色が沈み、花柄が少しだけ別物のように見えた。


 女性はその動きを目で追いながらも、自分では一歩も近づかない。


 紫月は向こう側の床を見て、布端を見て、それから木枠の裏側へ視線を滑らせた。


「……こちらには、立つ時間が短い」


「でも、気配は向こうにいるんですよね」


 湊が訊くと、紫月は頷いた。


「ええ。だからこそです。長くいる場所ではなく、“いられなかった場所”のほうに残ることがある」


「いられなかった」


「向こうへ出るには、何かを渡し終えなくてはいけなかったのかもしれません」


 言葉の意味が完全には飲み込めないまま、湊も衝立の裏へ回った。


 近くで見ると、補修された部分は思ったより細い。布端の一部だけ、糸の撚りが違う。祖母が手直ししたのか、もっと後の誰かが直したのかまではわからない。でも、元からの仕立てと同じではないことだけははっきりしていた。


「……これ、縫い直したというより」


 湊は眉を寄せる。


「一度開けて、閉じてませんか」


 言ってから、自分でぞわりとする。


 布を直すためではなく、中に何かを入れるために開けたとしたら。


 紫月の目が、わずかに細くなった。


「そうですね」


 短く肯定する。


「補修ではなく、封じ直した痕です」


 女性が小さく息を呑む。


「封じ……」


「隠した、と言い換えてもいいですが」


 紫月はそう言って、布の裏側へそっと手を這わせた。触れているのは本当に端だけで、押し探るような動きではない。それでも、指先の位置が途中で止まる。


「……ここ」


 ひどく静かな声だった。


 湊も近づく。木枠と布地のあいだ、ちょうど刺繍の影になる位置に、ごく薄い膨らみがあった。見ようとしなければ気づかない程度の、ほんのわずかなふくらみ。


「中に、何か」


「ええ」


 紫月は言った。


「紙か、布。硬くはありません」


 女性が、ようやく一歩だけ近づく。


「祖母が、入れたんでしょうか」


「わかりません。ただ、仕舞った人と、残したかった人が同じとは限りません」


 その言い方に、部屋がしんとする。


 祖母が入れたのかもしれない。祖母ではない別の誰かが、祖母の持ち物に紛れさせたのかもしれない。あるいは、祖母自身が渡されなかった何かを、自分でも開けられずに隠したのかもしれない。


 可能性が増えるほど、衝立の向こう側の暗さだけが深くなる気がした。


「開けますか」


 湊が訊くと、紫月はすぐには答えず、女性へ視線を向けた。


「どうされますか」


 問われた女性は、明らかに迷った。


 手袋の指先が揺れる。目元に、怖さと知りたさの両方が浮かぶ。


「……見たい、です」


 掠れた声だった。


「でも、少し怖い」


「ええ」


 紫月は否定しない。


「なら、ここで全部を暴くのではなく、まず何が入っているかだけ確かめましょう」


 その落ち着いた言い方に、女性が小さく頷く。


 紫月は自分のバッグから、小さな裁縫用の糸切り鋏を取り出した。こんなものまで持っているのか、と湊は半ば呆れ、半ば納得する。


「さすがに慣れてる感じですね」


「慣れたくはないですけど」


 そう返しながら、紫月は補修された糸目の一部だけを慎重に切った。古い布地を傷めないように、最低限。糸がひと筋ほどけるだけで、そこに閉じ込められていた空気がかすかにゆるむ気がする。


 湊の肩の奥が、鈍く重くなった。


 強い痛みじゃない。けれど、胸のあたりに沈んでいた何かがゆっくり浮きあがってくる感覚がある。古い紙を開く前の、あの少し湿った緊張に似ていた。


 紫月が、布端の内側へ指を差し入れる。


 しばらくして、そっと何かを引き抜いた。


 薄い包みだった。


 黄ばんだ和紙に近い質感の紙で、掌に乗るくらいの大きさしかない。紐はなく、何度も開いて閉じたような折り目がある。


 女性が、目を見開く。


「……そんなもの、入って」


「包みは軽いです」


 紫月が言う。


「でも、残り方は軽くありませんね」


 そう言って、彼女はそれをすぐには開かなかった。両手に乗せたまま、目を伏せる。その表情から余分なものが消え、呼吸だけがわずかに深くなる。


「……渡すつもりだった」


 誰にともなく、紫月が言う。


「でも、そのまま渡せなかった。開けて見てほしかったのに、見せること自体をためらっている」


 女性の唇が震える。


「手紙、ですか」


「たぶん」


 紫月は視線を落としたまま答えた。


「布も入っています」


 その一言で、女性の手袋の黒さが急に意味を持ち始める。


 湊は無意識に彼女の手元を見る。黒い革。上品で、手入れが行き届いていて、どこか古風だ。祖母の“綺麗な手”の話をしたとき、彼女が自分の手袋を見下ろしたことを思い出す。


 ひょっとして、と思う。


 でも、まだ言葉にしたくなかった。言葉にした瞬間、先入観に囚われそうな気がした。


「居間のテーブルを借ります」


 紫月はそう言って、包みを持ったまま食卓へ戻った。


 女性もついてくる。だが衝立の向こうからこちらへ戻るその数歩が、やけにぎこちなかった。見えない敷居を越えた人の歩き方だった。


 食卓に包みを置くと、紫月はしばらくそれを見つめた。


「開けます。いいですね」


 女性は頷く。


 湊は、いつの間にか自分も食卓の脇に立っていた。窓から差し込む午後の光が、包みの古い紙を平たく照らしている。何でもない古紙のはずなのに、その中心だけ色が沈んで見えた。


 紫月がそっと折り目を開く。


 中に入っていたのは、薄い便箋を二つ折りにしたものと、黒いレースの手袋だった。


 女性が短く息を呑む。


 手袋は片手分だけだった。右手用だろうか。指先の細い、古いデザインのものだ。舞踏会で使うような華やかさではなく、もっと日常に近い上品さがある。


 レースの縁に、細かな刺繍。


 それが衝立の刺繍糸の色と、どこか似ていた。


「……これ」


 女性の声が掠れる。


「祖母の、ではないと思います」


「違うんですか」


「祖母はこんな細い手ではありませんでした」


 その言い方に、湊は目を上げる。


 知っているのだ。祖母の手の形を、細さを、指の長さを。そういうことを覚えているくらいには近しい存在だったのだろう。


 紫月は手袋を持ち上げ、光にかざした。


「未使用ではありませんね」


「使った跡が?」


「ええ。ただ、長く使い込まれた感じではないです。誰かに渡すつもりで、最後に整えたもののような」


 女性の表情が、揺れる。


 手袋を渡す。


 その行為だけで、もう十分に何かを含んでいる気がした。手に触れるものを、誰かのために選ぶ。寸法を知っていないと難しいし、趣味も知らないといけない。気軽な贈り物ではない。


 紫月は便箋へ視線を落とした。


「読んでも?」


 女性が、ほんの少しだけためらってから頷く。


「……お願いします」


 紫月は便箋を開いた。


 そこに書かれている文字を目で追うにつれ、彼女の表情がほんのわずかに変わる。痛ましさに近いものが、黒い瞳の奥で静かに沈む。


 湊は息を詰めた。


 読める位置ではない。けれど、文面の温度だけは伝わる。長い手紙ではない。几帳面な字で、行間を詰めすぎずに書かれている。何度も推敲したというより、一度だけ覚悟して書いた人の字だった。


 紫月は読み終えると、すぐには何も言わなかった。


 便箋を閉じ、手袋の横へ置く。


「……恋文ですか」


 湊が自分でも驚くほど低い声で訊くと、紫月は少しだけ首を傾けた。


「恋文にしては、少し静かです」


「静か?」


「ええ。情熱より、見送りに近い」


 その表現が胸に引っかかった。


 見送り。


 栞さんの部屋にある鏡を思い出す。行ってらっしゃいと最後まで言えなかった、あの残り方。


「どういう意味ですか」


「別れの手紙ではありません」


 紫月はそう言って、女性を見る。


「でも、“これを渡して終わりにしたい”人の文面でもない」


 女性は食卓に置かれた手袋から目を離せずにいる。


「……じゃあ」


「整ったら、もう一度会いたい。そういうニュアンスの言葉です」


 部屋が静まり返る。


 終わらせるための手紙じゃない。


 かといって、すぐ会いたいとも違う。


 今ではない。でも、これで終わりにもしたくない。そういう中途半端さが、そのまま止まってしまったのだとしたら、それはたしかに“待っている気配”になるかもしれない。


「祖母に、ですか」


 女性がようやく訊く。


「……これ、祖母に宛てたものなんでしょうか」


 紫月は便箋にもう一度目を落とした。


「たぶん。少なくとも、受け取るはずだったのは、この家にいた女性です」


「でも、渡されなかった」


「ええ」


 紫月の声は静かだった。


「渡される前に、隠された。あるいは、受け取る側が受け取れなかった」


 女性の指先が、黒い手袋の上で小さく震える。


「どうして……」


「それはまだ、これらの情報では足りません」


 紫月は便箋を畳み、包みの紙の上へ戻した。


「ただ、ひとつ言えるのは、あちらに残っているのは“脅かす気配”ではないということです」


「じゃあ、何なんですか」


 湊が訊く。


 紫月は、食卓と衝立のあいだに視線を向けた。


「受け取られないまま立ち尽くしている気配です」


 その答えは、妙にしっくりきた。


 近づいてこない。襲ってもこない。ただ向こうにいて、待っている。それはたしかに、何かを手渡す直前で止まった人間の残り方に似ている。


 でも、ならなぜ今さらなのか。


 三年前に亡くなった祖母と、もっと前に書かれたかもしれない手紙。なぜそれが、いまこの女性の指先を冷やし、衝立の向こうに人影のような気配をつくるのか。


 湊がその疑問を口にする前に、紫月が女性へ訊いた。


「お祖母さまは、生前この衝立をどこに置いていましたか」


「……たしか、寝室の近くです。少なくとも、居間ではなかったと思います」


「それを今回、ここへ出した」


「はい」


「そして、あなたはこの衝立を、食卓と居間の境目に置いた」


 女性が頷く。


 紫月は、そこで小さく息をついた。


「位置がよくないんです」


「位置……?」


「ええ」


 紫月の視線は、衝立の向こう側へ向いたままだった。


「渡されなかったものを、“受け取る場所”に置いてしまった」


 その意味を理解するのに、一瞬かかった。


 食卓。家族が何かを受け取る場所。

 差し出された皿、注がれた紅茶、日々の言葉。


 そこに“渡されなかったもの”を仕切りとして置けば、残った気配が活性化してもおかしくない、と紫月は言っているのだ。


「じゃあ、わたしが……」


 女性の声が揺れる。


「毎日ここで座っていたから」


「ええ。受け取る側の位置に、あなたがいた」


 黒い手袋が、また視界に入る。


 指先が冷える。何かを渡される感じがする。でも触れたくない。


 その全部が、急につながりそうになる。


「……手袋を外したくなかったのは」


 湊が思わず口を開くと、女性がびくりと顔を上げた。


「指先が冷えるだけじゃなくて」


 そこまで言って、さすがに踏み込みすぎたかと思った。でも、もう止められなかった。


「何かを受け取る感じが、嫌だったからじゃないですか」


 女性はすぐには答えない。


 その代わり、ゆっくりと自分の両手を見下ろす。黒い革の上で、指がかすかにこわばっている。


「……そう、かもしれません」


 消え入りそうな声だった。


「最初は本当に冷えるだけだったんです。でもそのうち、素手でいると落ち着かなくなって。何かを置かれそうで……自分の手が、勝手に受け取りにいくみたいで」


 それは怖いだろう、と湊は思う。


 怪異そのものより、自分の手のほうが先に知らない何かへ応えそうになる感覚。じわじわと日常を浸食される種類の不気味さだ。


 紫月は女性の告白を静かに受け止めた。


「あなた自身にも、受け取れなかったものがありますね」


 その言葉に、女性が顔を上げる。


 驚き、というより、もうそこに触れられるとわかっていた顔だった。


「……母と、あまり折り合いがよくないんです」


 ぽつりと落ちる。


「祖母の遺品のことでも、何度か揉めました。古いものに執着しすぎるなって言われて……わたしも、わかってるつもりなんです。でも捨てたくないものがあって」


 視線が、衝立へ向く。


「それなのに、ちゃんと残したいとも言えなくて。どこかで、古いものにこだわる自分のほうが間違ってる気もして」


 部屋の空気が、少しだけ近くなる。


 祖母の代の気持ちと、いまこの家に生きている女性の迷いが、同じ場所で重なっている。その重なりが、ただの“昔の未練”では終わらせないのだろう。


 紫月は、包みの紙をそっと閉じた。


「今夜、整えます」


 女性が顔を上げる。


「今夜……?」


「ええ。日が落ちてからのほうが、あちら側の気配ははっきりするはずです」


 その一言で、湊の胸の奥に緊張が戻る。


 今夜。


 つまり、ここから先はもう準備の段階じゃない。


「何をするんですか」


 訊くと、紫月は食卓と衝立、それから女性の手元を順に見た。


「位置を戻します」


「戻す」


「ええ。待っている側と、受け取る側を」


 その説明だけで、背筋に薄く冷たいものが走る。


 紫月は続ける。


「手袋と手紙は、向こう側に。依頼人には、こちら側で一度手袋を外してもらいます」


 女性が息を呑む。


「外すんですか」


「はい。でないと、受け取る形になりませんから」


「でも……」


「怖いのはわかります」


 紫月の声は、やわらかいのに逃げ道を残さなかった。


「でも、ずっと受け取らないままにしていると、待っている気配は薄くならない」


 女性は黙る。


 黒い手袋の表面に、午後の光が鈍く反射している。その手を裸にすることが、彼女にとってどれだけ嫌なのかは、見ているだけでわかった。


 でもたぶん、ここを越えないと終わらない。


 湊はそう思いながら、紫月の横顔を見る。


 場の配置を整え、誰がどこに立つべきかを決める顔。


 そしてそういうときほど、彼女の手首の痣が頭にちらつく。


「……桐生さん」


 小さく呼ぶと、紫月は視線だけこちらに寄こした。


「なんですか」


「今回は、最初から無茶しないでください」


 思ったより真っ直ぐな声が出た。


 女性の前だ、と言ってから後悔しかけたけれど、紫月はわずかに目を細めただけだった。


「善処します」


「信用ない返事だって、自覚あります?」


「あります」


 ひどく平然と返されて、湊は思わず息をつく。


 それでも、四日前と違うのは、彼女が完全には目を逸らさなかったことだった。無理をする気はある。けれど、それを見られていることも知っている。その認識だけは、ちゃんとこちらへ返してくる。


 女性が二人のやりとりを、少しだけ不思議そうに見ていた。


 紫月はすぐに店主の顔へ戻り、落ち着いた声で言う。


「準備のあいだ、少し休んでいてください。日が落ちるころに、もう一度始めます」


「……はい」


「その前に、ひとつだけ」


 紫月は黒い手袋を見た。


「今すぐでなくてかまいません。でも、最後には外してもらいます」


 女性は黙って頷く。


 その頷きは小さかったけれど、逃げる気はもうないように見えた。


 窓の外を見ると、光の色が少しずつ変わりはじめていた。午後の白さから、夕方の影へ移る前の曖昧な時間。部屋の中では、衝立の刺繍がさっきより少しだけ濃く見える。


 待っている気配は、まだ向こう側にいる。


 ただ、それはいまや、恐怖だけのものではなかった。


 渡されなかった手袋。

 渡しきれなかった手紙。

 受け取る位置に座り続けていた依頼人。

 そして、手袋を外せなくなった指先。


 全部が揃いすぎている。


 ここから先は、きっとひどく静かなまま、もう少しだけ怖い。


 湊は、衝立の向こう側へもう一度目をやった。


 布の陰は動かない。 何も見えない。

 それでも、その向こうで誰かが姿勢を正した気がした。


 ようやく渡せるかもしれない、とでもいうように。


 その気配に、胸の奥がひやりとしたまま、湊は日が落ちるのを待つしかなかった。


 ◆


 日が落ちるころ、家の中の色はゆっくりと薄くなっていった。


 窓の外にはまだわずかに明るさが残っているのに、居間の奥から先に影が深くなる。白い壁も、磨かれた床板も、夕方のあいだだけ自分の輪郭を少し曖昧にする。その曖昧さの中心に、衝立だけが静かに立っていた。


 昼間に見たときより、布の刺繍が濃い。


 花と鳥の模様のはずなのに、いまは蔓草の影だけが先に立つ。きれいだと思うより先に、向こう側を隠すための布なのだとわかる姿だった。


 紫月は居間の灯りをひとつ落とし、代わりに床置きの小さなランプを衝立の向こうへ置いた。正面からではなく、少し斜め後ろ。布地に人の気配だけが淡く滲むような位置だった。


「明るくしすぎないんですね」


 湊が小声で言うと、紫月はランプの角度を微調整しながら答えた。


「影が見えたほうが、戻りやすいからです」


「戻るって」


「渡す前の形に」


 いつもの調子で言うものだから、内容のわりに声だけが穏やかだった。


 食卓の上には、昼間に見つけた包みの中身が並べられている。古い便箋、片手だけの黒いレースの手袋、そして包んでいた薄い紙。紫月はそれらをひとつずつ持ち、衝立の向こう側へ移した。


 待つ側に戻す、ということなのだろう。


 依頼人の女性は、居間側の椅子に腰かけたまま、その様子をじっと見ていた。黒い革手袋は、まだ外していない。けれど昼間より、指先の強張り方がはっきりしている。隠しているというより、いまはもう、それがないと落ち着かないのだと見て取れた。


 湊は衝立の正面から少しずれた位置に立つ。紫月に言われたとおり、今回は止めるより、見届ける役だ。


 そう言われたとき、微妙に納得いかなかったのを思い出す。けれど今この部屋に立ってみると、たしかにそれがいちばんしっくりくる気もした。衝立のこちら側と向こう側、そのどちらも見える位置にいる人間が必要なのだ。


 紫月が戻ってきて、依頼人の前に立つ。


「始めます」


 静かな声だった。


「最後にもう一度だけ確認します。怖くても、途中で目を逸らさないでください」


 女性は膝の上で手を重ねたまま、ゆっくりうなずく。


「……はい」


「それから、最後には必ず手袋を外してもらいます」


 その一言で、女性の指先がぴくりと跳ねた。


 わかりやすい反応だった。けれど逃げなかった。


 紫月はそれを見てから、テーブルの上へ視線を落とす。


「まずは、こちらを」


 そう言って差し出したのは、昼間見つかった古いレースの手袋だった。


 依頼人は、それを受け取らない。


 受け取れないのだろう。黒い革の指がわずかに開きかけて、すぐ閉じる。


「……触るんですか」


「いいえ。まだ見ているだけでかまいません」


 紫月はレースの手袋を、衝立のこちら側のテーブルへ置いた。


「これは渡されたかったものです。でも、渡された瞬間で止まってはいない。受け取られる直前で止まっている」


 部屋の空気が、少しずつ細く張っていく。


 湊の肩の奥にも、鈍い重さが落ちてきた。嫌な冷たさではない。ただ、どうしても息を浅くさせる種類の緊張だ。何かがこちらを見ている感じではなく、何かがようやく呼吸を合わせようとしている感じに近い。


 紫月は依頼人の右側へ回り、背後からその肩へ指先を添えた。


「……っ」


 女性が息を詰める。


「大丈夫です。今日は引き受けるというより、ほどきます」


 そう言いながら、紫月は衝立を見たまま続ける。


「ここには、渡せなかった後悔より、受け取られなかったまま止まった気配のほうが強い。だから必要なのは、追い払うことではなく、受け取る形に戻すことです」


 その声音が、少しずつ施術のときのものに変わっていく。


 低く、柔らかく、でも逃がさない声だ。


「お祖母さまは、これを隠したかったわけではなかったはずです」


 依頼人の肩がかすかに揺れる。


「ただ、見つけてしまったときに、受け取る側でいられなかった。見るだけで精一杯で、そのまま布の中へ戻してしまった」


「……どうして」


 掠れた問いに、紫月はすぐには答えない。


 代わりに衝立の向こうへ目を向けた。


「それは、たぶん怖かったからです」


 その答えに、部屋がしんとする。


「受け取ったら、返事をしなければいけない。何かを終わらせるのではなく、始めてしまうかもしれない。そういう怖さです」


 依頼人の目が、少しだけ揺れる。


 その揺れ方が、祖母の話を聞いている人のものではなかった。もっと自分に近いところを刺された顔だった。


 紫月は静かに言う。


「あなたにも、覚えがあるでしょう」


 女性は答えない。


 でも、その沈黙が答えだった。


 母親とのこと。遺品を残したいと言えないこと。古いものを大事にしたいのに、それを口にすると何かが決まってしまいそうで怖いこと。受け取る、というのは、そういうことでもあるのだろう。


 衝立の布が、かすかに揺れた。


 風は入っていない。


 それなのに、ランプの光を受けた刺繍の影だけが、ひと呼吸ぶん深くなる。


 湊は無意識に息を止めた。


 布の向こうに、影がある。


 人の形と呼ぶほどはっきりしてはいない。ただ、誰かがまっすぐ立っているときにできる空気の濃さだけが、刺繍の向こうで静かに輪郭を持ち始めていた。


「……出てきた」


 思わず零れた声に、紫月は振り返らずに言う。


「ええ。だから目を離さないで」


 言われるまま、湊は衝立を見る。


 影はまだ淡い。背の高さも、肩の広さも、曖昧だ。男とも女ともつかない。けれど確かに、向こう側で姿勢を正している“感じ”がある。


 怖い、と思うより先に、胸の奥が苦しくなる。


 待っていたのだ。


 ずっと。


 この位置で、何かを差し出す直前のまま。


「……手袋を」


 紫月が依頼人へ言った。


「外してください」


 女性の肩が強ばる。


「いま……ですか」


「はい。もう待たせすぎています」


 その言い方に、湊は小さく息を呑む。


 怪異に対して使うにはあまりにも人間的な言葉だった。待たせすぎている。たったそれだけで、この部屋に残っているものの輪郭が急に近くなる。


 女性は膝の上の両手を見下ろす。黒い革に包まれた指先が、ほんのわずかに震えている。


「怖いです」


「ええ」


「外したら、ほんとうに何か来る気がして」


「来ます」


 紫月ははっきり言った。


「でも、取られるのではなく、渡されるだけです」


 その一言が決め手になったのか、女性は長く息を吐いて、ようやく左手から手袋を外した。


 細い指が現れる。


 想像していたより、ずっと白かった。血の気が薄く、冬の朝に冷えきった陶器みたいな色をしている。右手も同じように外すと、指先だけが少し赤くなっていた。冷えているのに、内側では熱を持っているみたいな、不自然な色だった。


 紫月はその手を見て、小さくうなずく。


「右手を出して」


 女性は素直に従う。


 白い手が、膝の上から少し持ち上がる。


 同時に、衝立の向こうの影が、ほんの少しだけ近づいた気がした。


「……っ」


 女性の喉が鳴る。


 湊も背筋に冷たいものを感じた。影がこちらへ来た、というより、ようやく一歩ぶん距離が縮まった感じだった。無理に押し入る気配ではない。けれど、その“慎重さ”がかえって息苦しい。


 紫月の手が、依頼人の右手首をそっと支える。


「そのまま。握らないで。開いたまま待って」


 女性の指先が、少しずつ開く。


 受け取る形だ、と湊は思う。


 たったそれだけのことなのに、部屋全体の空気がその指先へ集中していくのがわかった。


 衝立の向こうで、影が動く。


 輪郭は相変わらず曖昧なままなのに、今度は“手を差し出す”気配だけがはっきりした。布越しに誰かが腕を上げたような、細い線の変化。


 ランプの位置のせいかもしれない。気のせいかもしれない。


 でも、湊にはもうそれを気のせいだけで片づけられなかった。


 紫月が、低く言う。


「待っていたのは、これですね」


 テーブルの上のレースの手袋を取り上げ、依頼人の右手へ静かに重ねる。


 その瞬間だった。


 衝立の布が、わずかに内側へ撓んだ。


 押されたわけじゃない。けれど、向こう側から誰かがそこに手をついたとしか思えないくらい、ほんの薄く。


 依頼人が息を呑む。


「……いる」


「ええ」


 紫月は落ち着いた声で言った。


「でも、ここで終わらせてあげて」


 女性は震える指で、レースの手袋を受け取った。完全に握るのではなく、掌に乗せるように。受け取った瞬間、彼女の白い指先の強張りがほんの少しだけ解ける。


 湊はそれを見逃さなかった。


「冷たく、ない……」


 女性自身も気づいたらしい。驚いたように自分の右手を見下ろす。


 紫月は頷く。


「受け取る側へ戻ったからです」


 それから便箋を手に取る。


「次は、こちら」


 女性の目にまた迷いがよぎる。でも、さっきよりは浅い。いったん何かを受け取ってしまった人の顔だった。


「読みますか」


「……いいえ」


 女性は小さく首を振る。


「いまは、読んでもらわなくていいです。でも」


 衝立を見た。


「届いたことは、知りたい」


 その答えに、紫月の目元がほんの少しだけやわらぐ。


「わかりました」


 便箋を開く。読み上げるのではなく、意味だけを拾い上げるみたいに、ゆっくりと言葉を落とす。


「整ったら、もう一度会いたい」


 部屋が静まり返る。


「無理に返事をもらうつもりはない」


 影が、布の向こうでわずかに揺れる。


「ただ、これを持っていてほしい」


 紫月の手元の便箋が、かすかに震えた。いや、震えたのは彼女の手首かもしれない。袖口の奥にあるはずの痣が、頭にちらつく。


 でもいまは、そちらを見る余裕がなかった。


「寒い日に、あなたの手が冷えないように」


 その一文で、依頼人の目から涙が零れた。


 黒い革手袋ではなく、レースの片手袋を握ったまま、彼女は息を詰める。


「……祖母に?」


 紫月は便箋から目を離さず答える。


「たぶん。けれど、いまはあなたにも向いています」


 そう言って、便箋を閉じる。


「受け取ってもいい、と思えたなら」


 その先を、女性はしばらく言えなかった。


 唇が震える。目元に涙が滲む。衝立の向こうを見て、それから自分の裸の手を見る。


「わたし……」


 声が掠れた。


「ずっと、受け取ったら困ると思ってたのかもしれません」


 紫月は何も言わない。


「祖母のものを残したいって言うのも、母とちゃんと話すのも。何かを渡されたら、返事をしないといけないから」


 依頼人の視線が、衝立の布をなぞる。


「でも、たぶん祖母も、そうだったんですね」


 布の向こうの影が、さらに薄くなる。


 まだ消えない。消えないけれど、さっきまでの“待っている圧”が少しずつほどけていく。


「受け取ってしまったら、答えなきゃいけない。だからしまって、見ないふりをして……」


 涙が頬を伝う。


「それで、ずっと向こう側に置いたままにした」


 その言葉は、祖母にも、自分にも向けられていた。


 紫月が最後に、依頼人の背をそっと押す。


「なら、行って」


「え」


「向こう側へ」


 女性が目を見開く。


「自分で行って、受け取りを終えてください」


 湊の胸がどくりと鳴る。


 そうか、と思う。


 これまで彼女は衝立のこちら側に座るばかりだった。待たされる側、受け取らされる側。でも終わらせるには、自分の足で境界を越えないといけない。


 女性は震える足で立ち上がった。


 レースの手袋を右手に持ち、左手は裸のまま。黒い革手袋だけが椅子の上に取り残されている。


 一歩、二歩。  衝立へ近づく。


 その数歩が、昼間見たときよりずっと長く見えた。


 布の向こうの影は逃げない。ただ、そこで待っている。渡す前の姿勢のまま。


 女性は衝立の端まで来ると、いったん目を閉じた。


「……受け取ります」


 小さな声だった。


「祖母の代わりじゃなくて、わたしが」


 それから、自分で衝立の向こうへ回った。


 その瞬間、ランプの光が布越しに揺れ、影の輪郭がふっと深くなる。湊は思わず呼吸を止めた。けれど恐怖ではなかった。ただ、長く止まっていた時計の針が、ようやくひと目盛り進むときの緊張に近い。


 向こう側で、女性が何かを見るように足を止める。


 湊の位置からは背中しか見えない。細い肩が震え、それからゆっくり下がる。頭を下げたのだと気づく。


「……届きました」


 掠れた声が、布の向こうから聞こえる。


「だからもう、待たなくて大丈夫です」


 その言葉と同時に。


 衝立の布が、ふわりと一度だけ呼吸したみたいに膨らんだ。


 風はない。誰も触れていない。


 けれど確かに、そこにあった気配が内側から静かにほどけた。


 影は、増えもせず、濃くもならず、ただランプの光へ溶けるように薄れていく。人の形に見えていた濃淡が、刺繍の蔓草に戻る。待っていたものが、ようやく待たなくてよくなったのだと、それだけでわかった。


 湊は深く息を吸う。


 さっきまで胸に乗っていた重さが、少しずつ抜けていく。完全に消えるわけではない。でも、あの息苦しい“保留”の感じがなくなっていた。


「……終わった」


 思わず漏れた声に、紫月が小さく頷く。


「ええ」


 その返事の直後、彼女の体がごくわずかに傾いた。


「っ」


 反射的に、湊はそちらへ踏み出していた。


 肘を支える。思ったより軽い。そのくせ、袖越しに触れた腕は少しだけ冷たい。


「大丈夫ですか」


「……平気です」


 声はいつもどおりに近い。近いけれど、呼吸がひとつ遅い。


 やっぱり無茶してるじゃないか、と思う。言いたい。でもいまは飲み込む。衝立の向こうから戻ってくる女性の足音が聞こえたからだ。


 彼女は目元を赤くしていた。けれど顔つきは、家へ入ってきたときよりずっと静かだった。黒い革手袋は持っていない。右手にはレースの手袋を、左手には便箋を持っている。


「……ありがとうございました」


 言いながら、食卓の椅子へ視線を落とす。そこに置き去りにされていた黒い手袋を見て、少しだけ困ったように笑った。


「これ、もう要らないかもしれません」


 紫月は、まだ湊に支えられたまま、小さく息をつく。


「寒い日は使ってください」


「え?」


「でも、隠すためには使わないで」


 その言葉に、女性はゆっくり頷いた。


「はい」


 衝立のほうを見る。


 もう、そこには何もいない。何もいない、という言い方がいちばん近いのに、消えてしまった感じではなかった。ただ、置き去りだったものが、ようやく行き先を持っただけだ。


「衝立は」


 女性が静かに言う。


「もう、ここに仕切りとして置くのはやめます」


 湊は顔を上げる。


「やめるんですか」


「はい。見える場所に置きます。隠すためじゃなくて、残しておくために」


 その決め方が、この家にはいちばん似合う気がした。


 紫月も同じことを思ったのか、短くうなずく。


「それがいいです」


 それから少しだけ間を置いて、


「お母さまとも、話してください」


 と続けた。


 女性は一瞬だけ苦そうな顔をしたけれど、逃げなかった。


「……はい。怖いですけど」


「受け取ったものは、しまい直さないほうが楽です」


 その言葉は、手紙にも、手袋にも、言えなかった気持ちにも向いているように聞こえた。


 帰る支度をするころには、窓の外はすっかり夜になっていた。


 玄関まで見送ってくれた女性は、黒い革手袋を持ってはいたが、最後まで嵌めなかった。裸の指先を、夜気に少しだけさらしながら立っている。


「本当に、ありがとうございました」


 頭を下げる。その所作は家の雰囲気に似合うくらい丁寧だったけれど、もう昼間みたいな固さはなかった。


「また何かあれば」


 紫月が言いかけると、女性は少し笑う。


「今度は、何かを隠す前に相談します」


「ええ」


 短い会話だった。


 でもそれで十分だった気がした。


 門を出て、並木道へ出る。夜の風は少し冷たい。湊は二、三歩歩いてから、ようやく紫月のほうを見る。


 彼女は何事もなかったみたいに歩いている。けれど、袖口を押さえる左手が少し不自然だ。


「見せてください」


 言うと、紫月がちらりと横目で見る。


「何をですか」


「手首」


「道端ですよ」


「そういう問題じゃないです」


 半ば呆れたように息をついてから、紫月はほんの少しだけ袖を上げた。


 白い手首の内側に、今夜も淡い紫が滲んでいる。前回ほどひどくはない。でも、まったく無傷でもない。


 胸の奥が、じくりと痛んだ。


「……やっぱり出るんじゃないですか」


「多少は」


「その“多少”が信用できないんですよ」


 思ったまま口にすると、紫月は少しだけ困ったように笑う。


「厳しいですね」


「当たり前です」


「でも今回は、ちゃんと見ていたでしょう」


 その言い方に、湊は一瞬言葉を失う。


「……何を」


「わたしだけじゃなくて、依頼人の位置も、衝立の影も、受け取るタイミングも」


 夜道を歩きながら、紫月は静かに続けた。


「だから、だいぶ楽でした」


 そんなふうに真っ直ぐ言われると、逆に返しづらい。


 褒められたのか、役に立ったと言われたのか、そのどちらもなのだろう。でも、その認め方には、前よりずっと明確に“隣にいる前提”が混じっていた。


「……なら、最初からそう言ってください」


 ようやく出てきた言葉は、それだった。


 紫月が小さく笑う。


「善処します」


「またそれだ」


「便利なんですよ、この返事」


「使わないでください」


 そんなやりとりをしているうちに、さっきまで家の中にあった静かな緊張が、少しずつ夜気へ溶けていく。


 見えないものは、たぶんこれからもある。残るものも、隠されるものも、渡しそびれるものも。


 でも今日、湊はひとつだけ前よりはっきりわかった気がした。


 紫月の隣に立つというのは、ただ怪異を見ることじゃない。人が受け取れなかったものの、形を見届けることなのだ。


「桐生さん」


「はい?」


「次も、俺が見たほうがいいなら、ちゃんと言ってください」


 紫月は足を止めないまま、ほんの少しだけ目を細めた。


「……はい」


 今度の返事は、善処します、ではなかった。


 それだけで十分だった。


 夜の並木道を、二人でゆっくり歩いていく。背中の向こうに立っている気配は、もうなかった。けれど胸の奥には、小さな引っかかりみたいなものが残っている。


 渡されなかったものは、受け取られれば消えるわけじゃない。ちゃんと届いた、という形で残っていく。


 たぶんそれは、少しだけ救いに近いと思った。

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