第一話 ー 香りのないオイル(下)
翌日、午後一時きっかりに、真柴湊は再びSalon Luneの前に立っていた。
昨日と違って、今日は空が明るい。海沿いの街にしては風も穏やかで、石畳の坂道には観光客らしい人影がちらほらあった。古い洋館の白壁に春の日差しが反射して、夜にはあんなに静かだった通りが、昼間は少しだけ現実寄りに見える。
それなのに、店の前まで来ると、やっぱり少しだけ息が詰まる。
昨夜のことを、夢だったことにしたかった。
鏡に浮かんだ手の跡も、背中に回ってきた見えない腕も、紫月の手首に滲んだ暗い痣も、寝て起きれば輪郭を失ってくれるんじゃないかと思っていた。
だが、朝起きたとき、左肩にはまだ薄く鈍い重さが残っていた。
息苦しさそのものは消えている。けれど、何か冷たいものが一度そこを通り抜けていった痕跡だけは、筋肉の奥に残っているみたいだった。
逃げる理由はいくらでもあった。
大学の講義があるとか、急に予定が入ったとか、体調が悪いとか。いくらでも言えた。なのに結局ここへ来ている時点で、自分はもうだいぶおかしいのだと思う。
「……付き合って、か」
誰に聞かせるでもなく呟いて、湊は扉を開けた。
小さなベルが鳴る。
昼の店内は、昨夜とはまた違う静けさを湛えていた。窓から差し込む光が床へ細長く落ちている。受付の奥の棚も、整然と並ぶガラス瓶も、夜よりずっと無害そうに見える。見える、だけだ。
「いらっしゃいませ」
聞き慣れた、と言うにはまだ早いはずの声が、すぐに響いた。
受付の向こうに立っていた紫月は、何事もなかったみたいな顔をしていた。
昨夜と違って、今日は淡い灰青のブラウスに長めのスカートだ。髪は低い位置でまとめられていて、首筋がすっきり見える。昼の光の下でも、その整いすぎた横顔は妙に目を引いた。目の下に隈はないし、立ち姿もいつも通りしなやかだ。
――だから余計に、腹が立つ。
「時間ぴったりですね」
「遅れたら帰られそうだったので」
「そんなことはしませんよ」
「信用できないです」
「ひどい」
ひどい、なんて少しも思っていない顔で言う。
湊は無言で受付の前まで歩いた。紫月は軽く目を細めて、それ以上何も言わずに内側の扉を開ける。
「どうぞ。栞さんには一時半にこちらへ来ていただくことになっています。その前に少しだけ、話をしましょう」
「……はい」
案内されたのは、昨日使った施術室ではなく、その隣の小さな応接スペースだった。丸いテーブルに二人掛けのソファ、窓辺には背の低い観葉植物。壁際のチェストの上には古い振り子時計が置かれている。昼の柔らかな光が入っていて、昨日の夜よりもずっと穏やかだ。
穏やかすぎて、かえって落ち着かない。
「お茶でいいですか」
「何でも」
「何でも、は困ります」
「じゃあ、紫月さんがまともに座って話せるやつで」
「……ずいぶん棘がありますね」
言いながらも、紫月は気分を害した様子もなく、棚からカップを二つ取り出した。その手元を見て、湊はすぐに視線を細める。
長袖の袖口が、右だけほんの少し深く下ろされていた。
隠しているつもりなのだろう。けれど、カップを持ち上げるとき、白い手首の内側にまだ薄く暗い色が残っているのが見えた。昨夜ほど濃くはない。だが、消えてもいない。
やっぱりある。
湊は自分の予想が当たったことに安心するより先に、言いようのない苛立ちを覚えた。
「見ていますね」 と、紫月が言った。
「見えますから」
「気にしすぎです」
「そう言うと思いました」
湊が即座に返すと、紫月は小さく息をついた。
「そんなに機嫌が悪いと、栞さんが気を遣いますよ」
「……機嫌は悪いです」
「正直」
「紫月さん相手に、遠回しに言っても意味ないでしょう」
「そうかもしれません」
ポットから茶を注ぐ仕草だけは、昨日のことが何一つなかったみたいに静かだ。湊はその横顔を見て、ふと、昨夜の「沈んでいました」という言葉を思い出す。
あれはたぶん、冗談でも比喩でもなかった。
「肩はどうですか」 紫月がカップを置きながら尋ねた。
「昨日よりはましです」
「息苦しさは」
「ないです」
「なら、応急処置としては上出来ですね」
「応急処置であれなら、本処置って何なんですか」
「知らない方がいいこともありますよ」
「そうやって濁すのやめてください」
湊が睨むと、紫月は数秒だけ黙った。それから、いつもより少しだけ真面目な声で言う。
「……昨日ほどではありません」
「何が」
「痕です」
右手首のことだろう。
「強いものに触れたあとは、しばらく残ります。ただ、今日は動けますし、調べものをする程度なら問題ありません」
「“程度なら”って言いましたよね」
「聞き取りはいい方に解釈してください」
いい方に解釈できる材料が少なすぎる。
湊はカップを持ち上げる。茶は薄い琥珀色で、香りもやわらかい。口に含むと、熱さより先にほっとする苦みがあった。少し落ち着く。落ち着いてしまうのが、この店はずるい。
「今日の流れを説明します」 紫月がテーブルに小さな手帳を開きながら言った。
「まず、栞さんの部屋で瓶を確認します。おそらく、昨夜ほどの反応はないと思いますが、念のため私が最初に触ります」
「俺は?」
「見ていて」
「それだけですか」
「そういう言い方をすると不満そうですね」
「いや、昨日みたいなことがあって“見てて”だけで済むと思ってるなら、だいぶ雑だなって」
「では、雑用もお願いします」
「そういう意味じゃない」
思わず即座に返すと、紫月がほんの少しだけ笑った。
その笑い方が、昨夜の最後に見せた薄いものと同じだったので、湊はそこで初めて、少しだけ肩の力を抜いた。完全にいつも通りを装っているわけではないらしい。
「……それで、栞さんの部屋の次は」
「必要なら、悠生さんの部屋です」
「必要なら、じゃなくて、たぶん必要なんでしょう」
「そうですね」
あっさり認める。
「瓶だけで終わるとは思っていません。あれは核ではありますが、核が何から染みたのかを確かめないと、結び目はまた戻ります」
「悠生さんの部屋に、まだ何か残ってるってことですか」
「たぶん。あるいは、残っていた痕跡がまだ十分に濃い」
その言い方に、湊は少し考える。
昨日の感情の流れを思い返すと、確かに瓶一つだけが原因とは思えなかった。むしろ、誰かが何度もそこへ視線を向けたり、触れようとして触れられなかったり、そういう時間そのものが染み込んでいる感じだった。
「……ところで」
ふと、紫月が手帳から顔を上げる。
「本当に来るとは思いませんでした」
「は?」
「今朝になって冷静になって、やっぱりやめます、と言われる可能性も考えていました」
「じゃあ何で呼んだんですか」
「来てほしかったからです」
あまりにためらいなく言うから、湊は一瞬だけ言葉に詰まる。
そういう言い方はずるいだろ、と昨日も思った気がする。
「……軽いですね」
「重く言った方がよかった?」
「そういう問題じゃ」
「でも、来てくれて助かりました」
そこで紫月は一度、視線を落とした。
「今日は、たぶん昨日より静かです」
「たぶん?」
「静かなものの方が、厄介な場合もありますが」
何気ない調子だったのに、その一言だけがやけに耳へ残った。
静かなものの方が厄介。
湊は窓の外を見る。昼の光、街を歩く人影、観光客の笑い声。全部、ごく普通の午後だ。その普通の裏側に、昨日のあの鏡の曇りや、肩へ触れてきた見えない手の感触がまだ薄く潜んでいる気がして、落ち着かなかった。
ベルが鳴ったのは、その直後だった。
控えめな音だった。昨夜のように切羽詰まってはいない。けれど湊の肩は反射的に強ばる。
「いらっしゃいませ」
紫月がいつもの声で立ち上がる。
扉の向こうにいた栞は、昨夜よりずっとまともな顔色をしていた。淡いベージュのブラウスに細身のパンツ、髪もきちんと整えてある。ただ、笑おうとした口元が途中で少しだけ迷う。その迷いだけが、昨夜の記憶がまだ生々しいことを示していた。
「こんにちは」
「こんにちは。よく眠れましたか」
「……少しだけ、ちゃんと」
栞はそう答えて、それから湊を見る。
「真柴さんも」
「どうも」
「昨日は、ありがとうございました。いきなり倒れかけて……」
「いや、俺はほとんど何も」
「そんなことないですよ」 と、紫月がさらっと言う。
「だいぶ役に立っていただきました」
「それ、今ここで言います?」
「あとから言うと照れるでしょう」
「……そういうところですよ」
紫月は気にした様子もなく、壁際のコートスタンドから薄手のジャケットを取った。外出用らしい。昼の光の中で見ると、その動きは昨日の夜よりもさらに静かに見える。静かなのに、袖口の奥に沈んだ痣の色だけが、まだそこにあると知っている。
栞は持ってきたバッグを胸の前で抱え、少しためらうように言った。
「瓶、持ってこようか迷ったんですけど……」
「持ってこなくて正解です」 紫月が答える。
「移動の途中で触れると面倒なので」
「面倒、ですか」
「ええ。面倒です」
その言い方に栞が少しだけ笑う。昨日、あれだけ泣いた人間が笑えるようになっていることに、湊はほんの少し安堵した。
「では、行きましょうか」 紫月が言う。
「場所はここから遠いですか」
「歩いて十分くらいです」
「ではちょうどいいですね。外の気を挟みたいですし」
「外の気って」
「店の空気を引きずったまま行くのもよくないので」
よくない、という響きが、さらりとしているくせに妙に不穏だった。
湊は無言で立ち上がる。三人で店を出る支度をしているあいだ、紫月は本当に何事もなかったみたいに鍵を確認し、照明を一部落とし、テーブルの上の花の向きを少し直した。
その仕草のひとつひとつが落ち着いていて、少し怖い。
昨夜あれだけ削れて、どうして今日も普通に立っていられるのか。あるいは、立っていられるように見せるのがうますぎるのか。
◆
店の外へ出ると、昼の風が思ったより柔らかかった。潮の匂いがする。観光客の話し声も、坂の途中を走る配送トラックのエンジン音も、全部ちゃんと現実のものだ。
紫月は鍵を閉め、振り返って穏やかに言う。
「行きましょう、栞さん。案内をお願いします」
「はい」
三人で坂を下り始める。
前を歩く栞の歩幅は昨夜よりずっと自然だ。けれど、ときどき無意識に肩へ手がいく。そのたび、湊は目で追ってしまう。もう大丈夫なのか、それとも、まだ何か残っているのか。確かめようがないから余計に気になる。
紫月はその一歩後ろを歩いていた。陽の下では、その横顔は夜よりも人間らしく見える。けれど、白い指先だけは相変わらず温度が低そうだった。
「湊くん」 不意に呼ばれる。
「何ですか」
「そんなに睨まないで」
「睨んでません」
「では、見張っているのかしら」
「昨日そう言ったの、誰でしたっけ」
「よく覚えていますね」
「忘れませんよ」
紫月が少しだけ目を細める。
「頼もしいね」
「褒めても何も出ません」
「では、あとでお茶でも」
「買収ですか」
「そうとも言います」
前を歩いていた栞が、肩越しに小さく振り返った。
「二人、ほんとにそんな感じなんですね」
「だから違います」 湊は即答したが、
「そう見えるのなら、そうなんでしょう」 と紫月がしれっと重ねる。
やめてほしい。栞の気が少しでも軽くなるなら、それでいいのかもしれないが。
坂を下り、一本細い道へ入る。観光客の姿が少なくなり、代わりに生活の匂いが濃くなる。コインランドリー、古いクリーニング店、シャッターの半分下りた文具店。異国情緒のある街並みから、住んでいる人間の時間が色濃く滲む裏通りへ入っていく感じだった。
「この先のマンションです」 と、栞が言う。
「築は古いんですけど、駅にも近いし、仕事場にも出やすくて」
見上げた先に、低層のマンションがあった。洒落た建物ではない。だが手入れはされているらしく、エントランス脇の植え込みに季節の花がいくつか咲いている。
その、ごく普通の建物を見た瞬間だった。
湊は足を止めるほどではない違和感を覚えた。
寒気、というには薄い。むしろ、どこか匂いに近い感覚だった。無香料のオイルを一滴だけ、遠くで開けたときのような、乾いた透明な気配。
隣を歩く紫月も、ほんの僅かに視線を上げる。
「……ありますね」 と、彼女が言った。
「え」 と、栞が振り返る。
「何か」
「まだ、少し」
その言葉はあまりに静かで、かえって余計に不穏だった。
マンションのガラス扉の向こうには、昼の光を受けた白っぽい床が見えている。ただのエントランスだ。誰かが立っているわけでもない。鏡があるわけでもない。
それなのに、湊はなぜか、扉の向こう側からこちらを見返されている気がした。
気のせいだと思いたいのに、左肩の奥が、昨夜よりずっと薄い痛みでひとつ脈を打つ。
紫月は気づいたように、ほんの少しだけこちらへ顔を向けた。
「呼吸を忘れないで」
「……今ので分かるんですか」
「顔に出てます」
「最悪だ」
「安心して。私もです」
その返しに、湊は思わず彼女を見る。
紫月はいつものように微笑んでいた。けれど袖口の内側、隠しきれていない痣の影が、昼の光の中でかえって鮮やかに見えた。
静かな午後だった。
だからこそ、その建物の中にまだ昨夜の余韻が薄く留まっていることが、どうしようもなく嫌な形で際立っていた。
栞が鍵を取り出す。
「……行きましょうか」
「ええ」 と、紫月が答える。
「今度は、ちゃんとほどきましょう」
ガラス扉が開く。
冷房の入っていないはずのエントランスから、ひやりとした空気が一筋、三人の足元へ流れ出てきた。
◆
ガラス扉が開く。
冷房の入っていないはずのエントランスから、ひやりとした空気が一筋、三人の足元へ流れ出てきた。
それは冬の冷たさとは違った。もっと薄くて、透明で、なのに皮膚の内側へ直接触れてくるような冷えだった。湊は無意識に左肩を押さえかけて、途中でやめる。
栞は気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか、そのまま先に立ってオートロックを解除した。
「三階です」
「はい」 と、紫月が答える。
ごく普通のマンションだった。
白っぽいタイルの床に、管理の行き届いた郵便受け。壁際には観葉植物がひとつ。どこにでもある、静かな集合住宅のエントランスだ。昼下がりらしい、生活の途切れた時間が流れている。小さな子どもの声も、テレビの音も、どこからも聞こえない。
聞こえない、という事実だけが、妙に息苦しい。
エレベーターの中でも、三人ともほとんど喋らなかった。
箱の中は狭く、鏡張りの壁が自分たちの姿を増やしている。昨日のことを思い出して、湊は視線を真正面の表示灯へ固定した。鏡はただの鏡だ。分かっている。分かっているのに、視界の端で何かが曇るんじゃないかという嫌な予感が、どうしても消えない。
三階で扉が開く。
廊下は陽が差さず、エントランスより少し暗かった。風もないのに、奥の方の空気だけがわずかに淀んで見える。栞が立ち止まり、バッグの中から鍵を取り出す。その指先にほんの少し迷いが滲んだ。
「……ここです」
角部屋だった。
どこにでもある白い玄関扉。その前に立つだけで、湊の喉の奥が少し乾く。昨日みたいな明確な息苦しさではない。もっと軽い、けれど確実に不快な圧迫感だ。オイル瓶の匂いに似た、乾いた透明な気配が、扉の隙間からごく薄く滲んでいる気がした。
栞が鍵を差し込む。
金属の擦れる音が、廊下にやけに大きく響いた。
扉が開く。
「お邪魔します」 と、紫月が先に言う。 湊も続いて靴を脱いだ。
室内は整っていた。
一人暮らしの女性の部屋として、ごく普通に小綺麗だ。薄いグレーのラグ、小さめのソファ、丸いローテーブル。テレビボードの横には背の低い棚があり、雑誌と仕事用らしい分厚いファイルが几帳面に並んでいる。ベランダ側の窓には白いレースカーテン。昼の光がそこを透けて、部屋全体へやわらかく広がっていた。
なのに、居心地が悪い。
普通の生活の匂いの中へ、ほんの一滴だけ違うものが混ざっている。洗濯洗剤や柔軟剤や、置きっぱなしのハンドクリームの甘い香り。そういう生活の匂いの下から、ほとんど無臭に近い、あのオイルの気配だけがかすかに浮いている。
紫月は玄関から入ったところで一度立ち止まり、部屋の奥を静かに見渡した。
ただ見ているだけにしか見えない。けれど昨日の施術を見たあとでは、その沈黙が単なる観察ではないと分かってしまう。
「……昨夜よりは静かですね」 と、彼女が言う。
「じゃあ、もうだいぶ」
「浅くなっているだけです」
その返答に、栞の表情が少し強ばる。
「まだ、いるんですか」
「いる、という言い方は難しいですね」
「……」
「残っている、と言った方が近いかもしれません」
紫月はそう言って、靴を揃えたまま廊下を進む。寝室と洗面所が続く短い通路だ。部屋の中央まで来たところで、彼女は足を止めた。
湊にも分かる。
そこで空気が少しだけ重い。
重い、というより、呼吸が深く入りにくい。まるで夜更かしの翌朝、泣いたあとの部屋へ入ったみたいな、湿った息苦しさだった。強烈な怪異の気配ではない。ただ、感情が居座りすぎた場所の、抜けきらない密度みたいなもの。
「瓶は洗面所です」 栞が小声で言う。
案内された洗面所は、それこそ生活感に満ちていた。鏡の前にはスキンケア用品、ヘアゴム、細い香水瓶。きれいに並べてあるのに、どれも使っている人間の手の温度が残っている。洗濯機の上には畳みかけのタオルが置かれ、脱衣籠にはまだ昨夜の部屋着らしいものが覗いていた。
その、生きた生活の真ん中にだけ、不自然な場所がある。
洗面台の一番下、引き出しの取っ手だった。
そこだけ、誰かが毎日触れているのに、開けるのを少し躊躇しているみたいな気配がある。目に見えないのに、そうとしか思えない。
栞が引き出しの前でしゃがみ込み、振り返る。
「……開けますね」
「ええ」
「紫月さん」
「はい」
「もし、また昨日みたいになったら」
「そのときは止めます」
「本当に?」
「本当に」
紫月は答えた。けれどその“本当に”が、昨日のそれよりずっと頼りなく聞こえてしまうのは、たぶん湊がもう彼女を信用しきれなくなっているせいだ。
引き出しが開く。
静かな音だった。
その瞬間、洗面所の空気が、ごくわずかに変わった。
冷えたわけではない。むしろ温度はそのままなのに、喉の奥だけがきゅっと狭くなる。まるで、誰かがそこで深く息を吸うのをためらった痕跡が、まだ残っているみたいだった。
引き出しの中には、予想よりずっと普通のものが入っていた。未使用のコットン、ヘアアイロンのコード、買い置きのシャンプー、パッケージの開いた入浴剤。そういう雑多なものの片隅に、小さなガラス瓶が一本だけ立っている。
透明な瓶だった。
ラベルは剥がれていて、液体は半分ほど残っている。光を受けても、ほとんど色がない。水より少しだけ重たそうな、静かな透明。
見ただけでは、何の変哲もない。
何の変哲もないのに、そこだけが妙に目を引く。
湊は息を詰めた。瓶の周囲だけ、引き出しの中の空気が薄く違う。気のせいだと笑い飛ばせる程度の差なのに、視線を逸らそうとすると逆に意識を引っ張られる。
「……これです」 栞が言う。
「昨日の夜から、触ってません」
「そうですね」
紫月は屈み込み、引き出しの縁へ片手を置いた。
その指先が、ほんの一瞬だけ止まる。
昨日の施術のときに見た、あの止まり方だ。肌で何かを読む人間の、ためらいではない停止。
「紫月さん」 と、湊は思わず低く呼んだ。
「分かっています」
振り向きもせずに返される。
分かっている、って何がだよ、と思う。だが今はそれを口に出すより、彼女の手元から目を離せなかった。
「栞さん、あなたは少しだけ離れていてください」
「はい」
「湊くんはそのまま」
「そのまま、って」
「見ていて」
またそれだ。
けれど昨日と違って、今回はその“見ていて”の意味が少し分かる。紫月はたぶん、ただ眺めさせたいわけではない。彼女が何に触れて、どの程度引っ張られるのか、それを見ていてほしいのだ。
栞が一歩、洗面所の外へ下がる。狭い空間に、紫月と湊だけが残る形になる。こうしてみると洗面所は思ったより狭く、息遣いひとつで空気が揺れそうだった。
紫月が右手ではなく、左手を伸ばした。
そのことに湊はすぐ気づく。痣の残る右を避けたのだ。
細い指が瓶の肩へそっと触れる。
ぞ、と空気が鳴った。
実際に音がしたわけではない。けれど、そうとしか言いようのない震えが、洗面所全体を薄く走った。鏡も、棚の上の香水瓶も、何も動いていない。ただ、湊の喉だけがひどく乾く。
紫月の睫毛が伏せられる。
彼女は瓶を持ち上げない。ただ触れているだけだ。それだけなのに、その横顔から昼の光が少しずつ遠のいていくみたいに見えた。
「……やっぱり」 と、彼女が小さく言う。
「強いですか」 と、湊が訊く。
「強い、というより、濃い」
濃い。
その表現が、妙にしっくり来る。匂いも色もほとんどないのに、この瓶には確かに濃度がある。誰かが何度も何度も思い返した感情だけが、底へ沈殿しているみたいな濃さだ。
紫月の指が瓶の表面をわずかに撫でる。
「これは……」
そこで彼女は言葉を切った。
湊は息を詰める。紫月の声に、昨夜ほどではないが、微かな掠れが混じっていた。
「何ですか」
「待って」
「またそうやって」
「……静かにして」
きつい言い方ではない。けれど、余計な音を立てるだけで何かが壊れそうな響きだった。
湊は口を閉ざす。
洗面所の鏡に、三人の姿が映っている。外で待つ栞の不安げな顔。瓶へ触れたまま目を閉じている紫月。少し後ろに立ち尽くす自分。その光景はあまりに普通で、だからこそ現実感がなかった。
紫月の呼吸が、ゆっくりと深くなる。
そのたび、洗面所の中の空気が少しずつ重くなる。いや、重いというより、湿ってくる。水気ではない。人が泣きそうになる寸前の、喉と胸のあいだへ溜まる息の温度に似ていた。
湊の左肩が、鈍く疼く。
次の瞬間、胸の奥へ、また何かが流れ込んできた。
昨日ほど強くはない。けれど、同じ種類の感情だ。
疲れてる。痛い。でもまだ大丈夫そうに笑う。言えばいいのに、言えない。触れてほしいと頼めばいいのに、忙しい相手にそんなことを言うのはわがままな気がして、結局また笑ってしまう。
それを見ていた。
ずっと見ていた。笑って誤魔化されるたび、もっとちゃんと気づきたかった。触れたかった。肩へ手を置いて、ここが痛いんだろうと、勝手にでも言ってしまいたかった。
でも、まだ早い気がした。
そんなふうに勝手に踏み込むのは、きっと嫌がられると思っていた。
その“まだ”のまま、終わってしまった。
「……っ」
湊は思わず壁へ片手をついた。
昨日より薄いのに、だからこそ逃げ場がない。悲鳴を上げるほどではない感情が、薄く広く肺のあたりへまとわりついてくる。
紫月が目を開ける。
その瞳は、瓶ではなく、どこかもっと遠いものを見ていた。
「見ていたんですね」 と、彼女がぽつりと言う。
「え」
「ずっと。肩に手をやるたび、首を回すたび、痛そうな顔をするのを」
「……」
「でも、気づいていると告げるには、少し遅すぎた」
紫月の声は、自分へ向けたものではないようにも聞こえた。瓶の中へ沈んでいる感情を、言葉へ変換しているのだと分かる。
洗面所の外で、栞が息を呑む気配がした。
「……悠生」 と、彼女が小さく呟く。
紫月は答えず、瓶へ触れたまま続ける。
「これは怒りではありません。未練ではあるけれど、引き止めたい執着とも少し違う」
「じゃあ、何ですか」 と、湊は訊いた。
紫月はそこでようやく、ほんの少しだけこちらを見る。
「身体に残った“やり損ねた優しさ”です」
「……」
その言葉が、洗面所の狭い空間に静かに落ちる。
やり損ねた優しさ。
あまりにも正確で、残酷な言い方だった。
栞が扉の外で、かすかに嗚咽を漏らす。声を殺したものだったが、ここでは十分すぎるほど大きく聞こえた。
紫月は瓶を持ち上げないまま、指先だけでその輪郭をなぞる。
「繰り返していますね」 と、彼女が言う。
「何を」
「触れるつもりで、触れない。言おうとして、言わない。何度も、その一歩手前で止まっている」
「……」
「だから濃いんです。強い感情が一度残ったのではなく、同じ逡巡が何度も積み重なっている」
湊は思わず、自分の喉元へ手をやりそうになる。
息がしづらい。
泣き叫ぶような感情じゃないのに、だからこそ余計に詰まる。言えなかった分だけ、喉の奥に少しずつ沈殿していくような息苦しさだった。
「紫月さん」
「……なに」
「その瓶、離した方が」
「まだ」
「でも」
「まだ読める」
低い声だった。
危うい、と直感する。昨日ほどあからさまじゃない。けれど、紫月はたぶん今も、自分の身体を媒介にして瓶の中の感情を引き出している。
右手首の袖口が、わずかに下がった。
そこに残る痣の影が、昼の光の中で少しだけ濃く見えた気がした。
やめさせるべきだ、と思う。
でも同時に、ここで彼女の手を止めたら、瓶の中に沈んだままのこの感情は、また形を変えて栞の身体へ戻るのかもしれない、とも思ってしまう。
黙って見ているしかない自分が、また腹立たしかった。
紫月が小さく息を吸う。
「……これは、肩だけではないですね」
「え?」
「部屋です」
そう言って、彼女はやっと瓶から指を離した。
その瞬間、洗面所の息苦しさがほんの少しだけ薄まる。湊は気づかれないように深く息を吸った。胸の奥に溜まっていたものが、わずかにほどける。
紫月は振り返り、洗面所の外の栞を見る。
「瓶だけでは足りません」
「え……」
「ここに残っている感情は、瓶を中心にしています。でも、染みているのは部屋全体です」
「部屋全体……」
「正確には、“この部屋で言えなかった時間”に近い」
栞の顔色がまた少し白くなる。
それでも逃げなかった。唇を引き結び、小さくうなずく。
「……じゃあ、どうすれば」
「まず、悠生さんが普段どこに座っていたか、どこであなたを見ていたか、教えてください」
「……」
「そのあと、できれば彼の部屋も見せてほしい」
静かな口調なのに、その言葉だけで、この部屋のどこか深いところにまだ何かが沈んでいるのだと分かってしまう。
湊は洗面所の鏡へ目をやる。
何も映っていない。ただ自分たちの姿があるだけだ。それなのに、鏡の奥のもう一枚向こうに、まだ言葉にならなかった呼吸だけが薄く貼りついている気がした。
紫月は瓶を引き出しの中へそっと戻した。
「触れないでください。今はまだ」 と、栞に言う。
「……はい」
「少しずつ辿りましょう。焦ると、また同じ形で締まります」
締まる、という表現に、湊の左肩がまた鈍く疼いた。
静かな部屋だった。
昼の光が差して、生活用品が並んでいて、誰が見ても普通の一人暮らしの部屋だ。なのにその普通さの中へ、言えなかった言葉と、触れられなかった優しさだけが濃く沈んでいる。
それが何より、息苦しかった。
「少し歩きます。何を見ても、なるべく声を上げないでください」
「……はい」
「触れられた感じがしても、こちらから呼ぶまで振り向かないで」
その言葉に、栞の喉がこくりと鳴る。湊もつられて息を呑んだ。
紫月は音を立てずに歩き出した。まず向かったのは、窓際に置かれた二人掛けのソファだった。背もたれは淡いグレーで、片側の肘掛けにブランケットが雑にかけられている。誰かが昨夜までそこにいたみたいに、形が生々しかった。
紫月はソファの前には立たない。背後にまわり、少し離れた位置で止まった。
その立ち方に、湊は違和感を覚える。
見るなら正面じゃないのか。
けれど彼女は、ソファそのものではなく、その先にいるはずの誰かを見るみたいに目を細めた。
「……ここは、落ち着いています」
独り言のように、紫月が言う。
「押しつける感じがない。待っているだけ。けれど、よく見ています」
湊は思わず栞を見る。彼女は不安そうに唇を結んでいた。
「座っていたんですか……? 悠生が、そこに」
「ええ。たぶん長い脚を少し投げ出して、背もたれに浅くもたれていました」
あまりに自然に言うものだから、湊の脳裏に一瞬、実際の姿が浮かんでしまった。見たこともない男が、夕方の薄い光の中、ソファに腰かけている。くつろいでいるふうで、視線だけは絶えず部屋の奥へ向いている。
ぞっとした。
「……見てたって、何を」
湊の問いに、紫月はソファから視線を外さないまま答えた。
「栞さんの日常です」
静かな声だった。静かなのに、耳に刺さる。
「帰宅して、バッグを置いて、髪を結び直して、冷蔵庫を開ける。そういう、誰にも見せないはずの仕草を」
栞が小さく息を呑む。
「っ……」
「とくに、疲れているときの様子をよく見ていたようですね。肩を押さえる癖があるでしょう」
栞の手が反射みたいに右肩へ上がった。それを見て、紫月はようやく彼女を振り返る。
「無意識に触れましたね。たぶん、その仕草が始まりでした」
「始まり……?」
「彼は、あなたの痛みにいちばん敏感だった」
部屋が、しんとする。
その言葉は優しさの説明みたいでもあり、執着の告発みたいでもあった。どちらともつかないからこそ、余計に苦しい。
紫月は次にソファの正面へ移動した。ローテーブルを回り込み、今度はテーブルの端に指を置く。指先が木目をなでたとき、彼女の眉がほんの少し寄った。
「ここは違います。ここは会話の場所ですね」
「会話?」
「ええ。何気ない話。今日のこと、仕事のこと、買い物のこと。あなたがソファに座って、彼がこちら側にいた」
栞が戸惑ったように首を振る。
「でも、悠生、うちで食事することは……あまり」
「食事ではなく、届け物のついでや、少し寄っただけの日です」
即答だった。
「コートを脱ぐほど長居はしない。けれど帰る前に、少しだけここで話す。その短い時間が、彼には大事だった」
湊はローテーブルを見つめた。マグカップを置いた跡みたいな薄い輪がある。二つではなく、一つ。日常に溶けきらない短い滞在。たしかに、それは“わざわざ残るほどではない記憶”の顔をしていた。
なのに、残っている。
残ってしまっている。
紫月はふいに視線を上げ、今度はダイニングの椅子を見た。四脚あるうち、壁際の一脚だけがわずかに引かれている。誰かが腰かけて戻すのを忘れたというより、もともとそこが中途半端な位置に落ち着く場所みたいな、不思議なずれ方だった。
彼女はそちらへ歩く。
足音が妙に小さい。室内履きじゃなく、影だけが移動しているみたいだった。
湊もついていこうとして、一歩遅れて止まった。床のある一点を跨いだとき、ぞわ、と背筋が粟立ったからだ。
視線。
そう思った。
誰かに見られた、という確信だけが先に来る。振り返っても、もちろん何もいない。玄関も、廊下も、閉じたままだ。なのに首の後ろだけが熱を失って、肩甲骨のあいだを細いものがなぞった気がした。
「……っ」
思わず息が漏れる。
紫月がすぐにこちらを見た。
「そこです」
「え」
「今、湊くんが立ったところ」
胸の奥が音を立てた。なんだそれ、と思うより先に、彼女の視線が床に落ちる。そこはリビングとダイニングの境目、ちょうどキッチン側から部屋全体を見渡せる位置だった。
紫月が低く言う。
「彼はよく、ここに立っていました」
栞が目を見開く。
「立って……?」
「ええ。座らずに。帰ると言いながら、もう少しだけ見ていたかったのでしょう」
言われた瞬間、湊の脳内に景色が組み上がる。
部屋の灯り。仕事帰りの栞さん。ダイニングで水を飲む背中。ソファに投げた上着。疲れて結び直した髪。そんな何気ない動きを、玄関へ向かう途中の男が足を止めて見ている。
ただ見ているだけなら、まだいい。
けれどその“ただ”の中に、言えなかった何かが混じっていたら。
部屋の空気が一段、重くなる。
「……嫌な見方ですか」
栞の声は細かった。責めるようでも、庇うようでもない。ただ、答えを先に恐れている響き。
紫月は少しだけ考えてから、首を横に振った。
「嫌、とは違います。けれど、健やかでもない」
はっきり言う。
「見守ることと、見続けることは似ていて、違いますから」
その区別は、湊にもわかった。
心配で視線を向けることはある。放っておけなくて見てしまうこともある。けれど、相手が知らないうちに、相手の疲れや弱り方ばかりを覚えてしまうのは、たぶん優しさだけでは済まない。
紫月は椅子の背に指を置いた。
「この位置からは、キッチンもソファも見えます。彼は、あなたがどこへいても目で追えた」
「そんな、いつもじゃ……」
「ええ。いつもではありません」
紫月の声は穏やかだった。
「でも、頻度は増えていったのでしょう。亡くなる少し前から」
栞が黙る。
その沈黙が答えだった。
湊は気づく。否定したいのに否定しきれないとき、人はこんなふうに言葉を失うのだと。
「……事故の前、忙しかったんです」
やがて栞がぽつりと言った。
「悠生、仕事でずっと余裕がなくて。それなのに、わたしが肩痛いとか、寝れてないとか、そういうこと言うと、すごく気にして……」
紫月は続きを促さない。ただ聞いている。
「大丈夫だよって言うんです。自分のほうがよっぽど大変なのに。わたしが平気なふりすると、余計に見てくるというか……ちゃんと休んでるか確認するみたいに」
栞は視線を落としたまま、乾いた声で笑った。
「それ、優しい恋人だと思ってました」
湊は返す言葉を持たなかった。
優しかったのだろう。たぶん実際に。けれど優しさって、いつでも綺麗なまま終わるわけじゃない。間に合わなかった後悔や、置いていかれる苦しさや、守れなかった自分への執着が混じれば、形が変わる。
紫月はダイニングからキッチンへ目を向けた。流し台の前には小さなマットが敷いてあり、シンクの横に食器を乾かすラックがある。何も特別じゃない生活の隅だ。
彼女はそこへ近づき、マットの端で止まった。
「ここは、もっと近いですね」
湊の喉がひりつく。
「近い?」
「ええ。見ていた、というより、背後に立っていた」
栞の肩が跳ねた。
「……背中」
「洗い物をしているときです。あるいは飲み物を用意しているとき。あなたが流しに向かっている、その後ろ」
言いながら、紫月はゆっくりと自分の右手を持ち上げた。誰かの肩へ伸ばしかけて、寸前で止めるみたいな角度だった。
「こうして手を出す。でも、触れない」
部屋の静けさが、急に生々しくなる。
湊は自分まで息を詰めていたことに気づいた。想像したくないのに、してしまう。細い背中。洗い物の水音。背後に立つ男。肩に触れそうで、触れない手。
それは愛しさにも見えるし、言いようのない未練にも見えた。
「……なんで、触らなかったんでしょう」
気づけば、そう口にしていた。
紫月の手が空中で止まる。
彼女は答える前に、一度だけ目を伏せた。
「触れたら、壊れると思っていたのかもしれません」
湊は眉をひそめる。
「壊れる……?」
「ええ。自分が」
その一言で、意味が変わる。
栞ではなく、悠生自身が。
「失う予感があった人は、ときどきこうなります」
紫月の声音はどこか遠かった。
「手を伸ばしたいのに、伸ばした先で二度と戻れなくなる気がして、止めてしまう。そのくせ目だけは離せない」
栞が口元を押さえる。
「そんなの……」
「本人にも、自覚はなかったでしょう」
紫月はゆっくり手を下ろした。袖がわずかにずれて、手首の内側が覗く。白い皮膚の上にある暗い痣が、薄闇の中でにじんで見えた。
湊の心臓が嫌な音を立てる。
やっぱり濃くなっている。
昨夜より、確実に。
「桐生さん」
思わず呼ぶと、紫月はほんの一瞬だけこちらを見た。大丈夫です、と言いそうな顔だったので、湊は先回りして口を開く。
「大丈夫じゃないでしょう」
声が少し強くなった。
栞がはっとしたように二人を見る。けれど今は気にしていられなかった。紫月はいつもと同じみたいな顔で、ひとりだけ無理を曖昧にする。
「その手首……」
「あとで話します」
「でも」
「湊くん」
静かな呼び方だった。きつくない。なのにそれ以上踏み込む足を止める響きがあった。
「今は部屋のほうが先です」
その目が、少しだけ困っていた。
湊は唇を噛む。言いたいことは山ほどある。あるのに、ここで食い下がるのは違うとわかってしまう。栞の部屋で、栞の前で、紫月の痛みだけを追及するのは、順番が違う気がした。
くそ、と心の中で毒づいて、湊は息を吐いた。
「……わかりました」
紫月は小さくうなずくと、また室内へ意識を戻した。
「まだもう少しあります」
「まだ?」
湊が訊くと、彼女はソファとダイニングの中間を見たまま答えた。
「ええ。見る場所がひとつ増えています」
「増える……?」
「最初は、ただ目で追うだけだった」
紫月の声が低くなる。
「ソファから見る。ダイニングから見る。キッチンの後ろで、触れずに見る。それだけだったはずです」
そこで彼女は、ゆっくりと玄関のほうへ視線を向けた。
「けれどある時期から、彼は“見送る”ようになった」
栞の指先が、ぎゅっとスカートを掴む。
「見送る……」
「あなたが部屋を出るときです。仕事へ行く朝、あるいは外出するとき。玄関で靴を履く背中を、少し離れた位置から見ている」
湊は玄関とリビングを隔てる短い廊下を振り返った。たしかにあそこなら、こちらを覗き込まずに様子が見える。人を送り出すには中途半端で、黙って見つめるには都合がいい。
嫌な確信が、静かに深まっていく。
「待って」
栞がかすれた声を出した。
「それ……わたし、何回か……ある。出かけるとき、まだ見られてる気がして、振り返ったこと」
言い終える前に、自分で答えに辿り着いたのか、顔色が変わる。
「でも、誰もいなくて……悠生はもう、いないのに」
「ええ」
紫月は否定しない。
「だから残ったんです。見送れなかった感情が」
窓の外で、どこか遠くの車の音がした。生活の音だ。普通の街の、昼の音。なのにこの部屋に届く頃には、ずいぶん薄くなっている。まるでここだけ別の水の底に沈んでいるみたいに。
紫月は部屋の中央へ戻った。ソファ、ダイニング、キッチン、そのすべてが視界に入る位置だ。
「悠生さんは、栞さんを怖がらせたいわけではなかった」
「……はい」
「苦しめたいわけでもない。むしろ逆です。痛みから遠ざけたかった。疲れを見逃したくなかった。ひとりで我慢させたくなかった」
栞の目に薄く涙が溜まる。
「でも、だからこそ残ってしまった」
紫月の声は静かだった。
「助けたい気持ちが強すぎて、相手の“ひとりでいる時間”の輪郭まで曖昧にしてしまったんです」
その言葉は部屋そのものへの診断みたいだった。
湊は、ぞわりとするものを感じた。怪異の説明を聞いているはずなのに、そこには妙に人間らしい生々しさがある。死んだから恐ろしいんじゃない。生きていた頃から、少しずつ形を変えた感情が、行き場を失って残っている。そのほうがよほど息苦しい。
「……桐生さん」
湊はゆっくり訊いた。
「悠生さんは、どこから栞さんを見ていたんですか」
紫月は一拍置いてから、ひとつずつ数えるように答えた。
「ソファから、くつろいだふりで。ダイニングの境目から、帰るふりで。キッチンの後ろから、触れたいのを我慢しながら。そして玄関の手前から、見送ることをやめられないまま」
その並べ方に、呼吸が浅くなる。
点だったはずのものが、線になる。
部屋のあちこちに散っていた視線が、ひとりの男の癖として繋がってしまう。
紫月は最後に、栞をまっすぐ見た。
「彼は、あなたの弱っている姿ばかりを覚えてしまったんです」
栞の肩が震える。
「……そんなの、優しくない」
零れた声は、泣き声の少し手前だった。
「ええ」
紫月は否定も慰めもしない。ただ、淡々と受け止める。
「でも、愛情と優しさは、ときどき別々に傷みます」
湊は黙っていた。
何か言えば、たぶん軽くなる。けれどここで安い慰めを差し込むのは違う気がした。栞が今向き合わされているのは、“愛されていた”という綺麗な事実じゃない。その裏で、見られすぎていたこと、守られようとされすぎていたこと、その息苦しさまで含めた現実だ。
紫月が静かに息をつく。
「……まだ終わりではありません」
その一言で、湊は顔を上げた。
彼女の視線は、ソファでもダイニングでもなかった。もっと奥、部屋の端――誰も意識していなかった壁際へ向いている。
そこには小さな姿見が立てかけられていた。外出前に身だしなみを確認する鏡だった。
背の低い木枠の姿見が、壁にぴたりとついているわけでもなく、わずかに角度をつけて立てかけられている。そこだけ妙に生活感があった。毎朝そこに立って、髪を整えたり、口紅の色を確かめたり、コートの襟を直したりしていたのだろうと想像できる、ごく当たり前の場所だった。
当たり前すぎて、いままで気にも留めていなかった。
けれど紫月は、その鏡を見ていた。
部屋の空気がまた少し、薄くなる。
「……あそこ?」
湊が訊くと、紫月はすぐには答えなかった。代わりに、ゆっくりと姿見の前まで歩いていく。靴音はほとんどしないのに、その一歩ごとに空気の張りが変わるのがわかった。
栞も鏡を見たまま、かすれた声を落とす。
「そこ、毎朝使ってます。出る前に……」
「ええ」
紫月は鏡の正面には立たない。少し斜め、鏡の中に部屋全体が映りこむ位置で止まった。
そこからなら、玄関のほうも、ソファも、ダイニングも、全部少しずつ見える。
湊はぞくりとした。
「……ここは、見られる場所じゃない」
紫月が小さく言う。
「見る場所です」
それはただの言い換えみたいでいて、決定的に意味が違った。
見られる場所は、そこにいる人間が主役だ。けれど、見る場所は違う。そこに立つ人間のほうが、相手を一方的に捉える側になる。
紫月は鏡面から少しだけ顔をそらした。
「彼は、ここで確認していたんですね」
「確認……?」
「栞さんが、ちゃんと笑えているか。ちゃんと立てているか。外へ出る顔をしているか」
栞が息を詰める。
「そんな……」
「でも、同時に」
紫月の声がひどく静かになる。
「自分が見えていないことも、確かめていた」
湊は眉を寄せた。
「見えていない?」
「ええ。鏡の中には、栞さんは映る。でも彼は映らない。そこにいないからです」
言われた意味を理解するのに、一拍遅れた。
理解した瞬間、喉がひやりと冷える。
その位置に立って、鏡越しに相手を見る。けれど自分は映らない。自分の不在だけが、毎回そこではっきりする。
それはひどく、残酷だ。
いないことを見せつけられながら、それでも目を離せない。
「……ずっと、ここにも」
栞の声が震える。
「そうですね」
紫月は否定しなかった。
「たぶん最後の頃には、ここがいちばん濃かった」
窓の外で、かすかに風が鳴った。昼間の部屋なのに、陽射しの色が急に遠くなった気がする。湊は無意識に腕をさすった。寒いわけではない。ただ、皮膚の下に細い水が一筋流れたような感覚があった。
紫月は鏡の前に立ったまま、そっと目を閉じた。
「……息を潜めていた」
ひとりごとのように、彼女が言う。
「呼び止めたいのに呼べない。行かないで、と言いたいわけでもない。でも、無事でいてほしい。気をつけて、と言いたい。帰ってきてほしい、とも」
湊の胸がじわりと重くなる。
それはどれも、たぶん恋人なら自然な言葉だ。
自然なはずなのに、こうして言葉にならずに残ると、別のものに変わっていく。
「言えなかったんですか」
気づけば訊いていた。
紫月は目を閉じたままうなずく。
「ええ。言えば、自分のほうが壊れてしまいそうだったんでしょう」
またその言い方だ、と湊は思う。
自分が壊れる。
守りたい相手を前にして、なぜそっちの発想になるのか。理解できないわけじゃない。理解できないわけじゃないからこそ、余計に苦しい。
栞が小さく首を振る。
「でも、悠生はそんな人じゃ……」
言いかけて、止まる。
そんな人じゃなかった、と言い切れないのだろう。
忙しかった。余裕がなかった。事故の前、何かに追い立てられているようだった。昨日から聞いてきた断片が、そこで静かに繋がる。
紫月はようやく目を開けた。黒い瞳に鏡の光が薄く映る。
「悪い人だった、という話ではありません」
「……はい」
「ただ、愛情の向き方が少しずつ狭くなっていった。栞さんを思う気持ちが強くなるほど、栞さんの世界の輪郭より、自分が見ている栞さんばかりが現実になっていったんです」
言葉が、部屋の壁に静かに染みていく。
湊は鏡を見た。木枠の端が少し剥げている。長く使っていた証拠だ。鏡面には、昼の部屋がぼんやり映っている。ソファ。テーブル。立ち尽くす自分たち。
もしここに、いないはずの誰かの視線まで重なっていたら。
そう思った瞬間、肩のあたりがちくりと痛んだ。
「……っ」
思わず息を呑む。
紫月がすぐに視線だけを寄越した。
「湊くん?」
「なんでも……ないです」
嘘だった。なんでもなくない。左肩の奥に、昨夜と同じ鈍い重さがひっかかる。押さえられたわけじゃない。ただ、そこに“気づいてほしい”みたいな存在感がふっと触れた。
紫月は何か言いかけて、やめた。代わりに、鏡から半歩だけ離れる。
「ここで見ていたものは、栞さんの顔だけではありませんね」
「え?」
湊が聞き返すと、彼女は鏡に映る玄関の方向へ顎を向けた。
「出ていく背中です。振り向くかもしれない、という期待。そのたびに何も起きない失望」
栞が唇を噛む。
「わたし……たまに振り返ってました」
「ええ」
「なんとなく、呼ばれた気がして」
その言葉に、湊の背筋が粟立った。
部屋の温度が変わったわけではない。なのに空気が一段、深く沈んだ気がする。呼ばれた気がした。そういう曖昧な感覚は、今の湊にもわかる。さっきからこの部屋には、そういう“はっきりしないのに無視できないもの”が多すぎる。
紫月は静かに尋ねた。
「そのとき、鏡を見ましたか」
栞は少し考えてから、はっとした顔になる。
「……見た、かも。玄関で靴履きながら、一瞬」
「何かありました?」
「いえ、別に……でも、なんか、気持ち悪くて。自分の顔が変に見えたというか」
自分の顔が変に見える。
それだけなら、疲れていたのだと思える。けれどこの部屋で聞くと、別の意味を帯びる。
「桐生さん」
湊は喉の渇きを覚えながら言った。
「この鏡、何か……」
「媒介になっています」
今度ははっきり言った。
「瓶だけじゃない。瓶はきっかけです。でも、残る場所を与えたのはこの部屋で、その中でもこの鏡は、いちばん都合がよかった」
「都合がいいって」
「映るからです。見えないものにとって、見える形を借りやすい」
鏡は、ただ姿を映すものだ。誰でも知っている。毎日使う。だからこそ、そこに知らないものが“まぎれる”余地があるなんて考えもしない。
栞が一歩、無意識に後ずさる。
「じゃあ、わたし……ずっとそれ見てたんですか」
「ずっとではありません」
紫月は落ち着いた声で言う。
「けれど、心が弱ったときほど、拾いやすかったはずです。疲れているとき、眠れていないとき、ひとりで帰ってきた夜」
栞は何も言えなくなる。
その代わりみたいに、部屋の中が妙に静かになる。外の音まで遠い。冷蔵庫のかすかな唸りだけが、やけに現実的に聞こえた。
紫月は鏡の前で、そっと右手を上げた。触れそうで触れない距離で止める。
その手首の内側にある痣が、袖の下からまた少し覗いた。湊の胸がぎゅっと縮む。
こんな状態で、まだやるつもりなのか。
「桐生さん、それ以上は」
「少しだけです」
「少しでも」
「湊くん」
また同じ呼び方だった。柔らかいのに、こちらの焦りを一度だけ受け止めて返すような声音。
「いま見ておいたほうが、夜が軽くなります」
夜。
その言葉に、湊は嫌な予感を覚えた。
今でこんなに息苦しいのに、夜になったらどうなるのか。想像したくない。けれど紫月の言い方は、もうある程度見えている人間のものだった。
「……わたし、ここにいないほうがいいですか」
栞が恐る恐る訊く。
紫月は首を振る。
「いいえ。いてください。これはあなたの部屋で、あなたの感情も混ざっていますから」
「でも」
「逃げ続けると、残るものはかえって強くなります」
静かに、断言する。
栞は泣きそうな顔のままうなずいた。
紫月は鏡に触れる代わりに、掌をほんの数センチ近づけたまま、目を閉じる。長い睫毛が落ちて、彼女の表情から余分なものがすっと消えた。サロンで施術に入る前の顔に少し似ていたけれど、あのときよりもずっと張り詰めて見える。
数秒。
あるいはもっと短かったのかもしれない。
その沈黙のあとで、紫月の眉がわずかに動いた。
「……あ」
声にならないくらいの小さな反応だった。
湊は反射的に一歩踏み出しかける。
「何が」
「だめ」
紫月が低く言った。
「動かないで」
ぴたりと足が止まる。
彼女の声音が変わっていた。静かなままなのに、芯が細く鋭くなる。昨夜、栞の施術中に聞いた声に近い。余裕を削って、必要なものだけを残した声。
鏡の前の空気が、かすかに歪んだ気がした。
気のせいだと言えない程度に、鏡面が曇る。
ほんの一瞬だった。呼吸を吹きかけたみたいに、中心が白く曇って、すぐに薄れる。
栞が喉を鳴らす。
「……いま」
「見えなくていいです」
紫月が言う。
「まだ、ただの反応です」
ただの反応。
そんな言い方で済ませていいものには思えなかった。湊は鏡から目を離せない。曇りはもう消えている。昼の部屋が普通に映っている。なのに、そこだけ現実が一枚薄い気がする。
紫月は目を閉じたまま、途切れ途切れに言葉を拾った。
「ここでは……帰る背中を見ている。それから、振り返るかどうか待っている。待って、来ないと……少しだけ傷つく」
その表現が生々しすぎて、湊は息苦しくなる。
感情の残滓なんてもっと曖昧なものだと思っていた。けれど紫月の口から出てくるそれは、ほとんど“人の気持ちそのもの”だった。
「それでも、行かせる。止めるつもりはない。止める資格もないと思っている」
紫月の掌がわずかに震える。
「……けど、帰ってきてほしい。無事で。できれば、少しだけ、自分を思い出してほしい」
栞の目から、とうとう涙がこぼれた。
「そんなの」
掠れた声が落ちる。
「そんなの、聞いてない……」
聞いていない。言われてもいない。見せられてもいない。ただ視線だけが残っていた。
それがいちばん、たちが悪い。
言葉にしていれば、受け取るか拒むかができた。けれど感情だけが部屋に沈んで、いまさらこんな形で伝わるなんて、あまりにも遅い。
紫月が、ふっと息を漏らした。
その瞬間だった。
鏡の表面に、また白い曇りが差した。
今度はさっきよりはっきりしていた。中心からゆっくり広がるように曇り、その上に、ごく薄く、筋のようなものが浮く。
湊の全身がこわばる。
指だ、と思った。
指を揃えて押し当てたみたいな、細長い痕。
けれど完全な手の形にはならない。まだ曖昧で、見間違いだと言い張れる程度だ。言い張れる程度なのに、いちどそう見えてしまうと、もうただの曇りには戻らない。
「っ……」
栞が息を呑む音がした。
紫月は目を開けないまま、低く言う。
「大丈夫。まだこちらを試しているだけです」
「試すって何を」
湊の声が思ったより固かった。
「誰が見えていて、誰が気づくかを」
背筋に冷たいものが走る。
見えていて、気づく。
その条件に、いま自分も含まれてしまっているのだと悟る。昨日まではただ巻き込まれた側だったはずなのに、今日はもう違う。部屋に入ったときから肩が痛み、視線を感じ、位置まで言い当てられた。
紫月が、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……やはり、湊くんに反応していますね」
「俺?」
「ええ。あなたは気づいてしまうから」
その言い方に、妙な寒気がした。栞が拾うのは“呼ばれた感じ”くらいだ。けれど湊はもう少し近い。位置の気配や、温度の変化や、感情の圧を、うっかり受け取ってしまう。
怪異にとって、それは都合がいいのかもしれない。
「そんなの、ありがたくないんですけど」
半分自分に言うみたいに呟くと、紫月の口元がほんの少しだけ動いた。笑いそうになって、笑わなかった顔だった。
「ええ。知っています」
その短いやりとりのあいだにも、鏡の曇りはじわじわと形を持ちかけていた。
薄い。
けれど確実に、誰かの手の輪郭へ近づいていく。
五本の指がそろって、鏡の内側から押されたみたいに。
湊の喉がからからになる。昨夜見たものよりはまだ弱い。弱いはずなのに、昼の部屋で見ると現実との距離が近すぎて、逆に息が詰まる。
紫月が、やっと目を開けた。
鏡を見る。その黒い瞳が細くなる。
「……今日はここまでですね」
「ここまで?」
湊が思わず聞き返す。
「ええ。これ以上起こすと、夜に引きずります」
そう言って、彼女は鏡から手を離した。離しただけなのに、部屋の張りが少しだけ緩む。曇りもゆっくり薄れていき、鏡面はただの鏡に戻った。
戻った、ように見えた。
でも完全ではない。見つめていると、さっきそこに何かがいた痕跡だけが視界に残る。気のせいだと片づけるには、湊の肩がまだ重かった。
紫月は一歩下がり、わずかに息を整える。
その仕草があまりにさりげなくて、逆に湊はいらだった。平気なふりをするな、と言いたくなる。案の定、袖口から覗く痣はさっきより色を深くしたように見えた。
「桐生さん」
「あとで」
「またそれですか」
思わず強くなる。
紫月が視線だけでこちらを見る。その目には疲れがあった。けれどそれ以上に、まだ部屋の中の何かを計っている顔だった。
「怒るのはあとにしてください」
「怒ってるわけじゃ」
「少し怒っています」
静かに言われて、湊は言葉に詰まった。
怒っている。たしかにそうだ。心配と苛立ちがごちゃごちゃになって、自分でも整理できないまま声に出ていた。紫月に無茶をしてほしくない。けれど彼女が止まらないことも、どこかでわかってしまう。
それがまた腹立たしい。
栞が、おそるおそる口を開く。
「……これ、どうしたら」
紫月はゆっくり彼女に向き直った。
「今日はもう、この鏡を一人で見ないでください」
「え」
「布をかけてもいいですが、完全には隠さないほうがいいです。隠されたと感じると、別の場所へ逃げます」
「別の場所って」
「人の目につきやすいところです。窓や、テレビの黒い画面、水回りの金属面」
聞くだけで嫌な想像が広がる。
栞も同じだったのか、顔色を失ってうなずいた。
「夜はなるべく明かりを落としすぎないで。ひとりで眠るのが難しければ、友人に来てもらうか、今夜だけ別の場所でもいい」
「はい……」
紫月は引き出しからオイル瓶を取り出し、ダイニングテーブルの端に置いた。
「ただし、瓶はこのまま置いておいてください」
「動かすと感情が散ります。まだ“形”を把握している段階なので、いまはそのままがいい」
湊は瓶を見る。小さい。拍子抜けするほど小さい。こんなもので部屋の空気が変わるなんて、未だに信じきれない。けれど信じきれないまま、もう十分すぎるほど見せられている。
紫月はそこで、ふっと表情を薄くした。
「……次は、彼の部屋のほうですね」
「悠生の?」
栞が顔を上げる。
「ええ。こちらだけでは足りません。残っている感情の起点がどこで偏ったのか、向こうを見たほうが早い」
栞は不安と迷いのあいだで揺れたあと、かすかにうなずいた。
「鍵、あります。ご家族に、片づけを頼まれていて……まだ少し、そのままのところもあるんです」
「助かります」
紫月はそう言ってから、ほんの一瞬だけ壁に手をついた。
本当に一瞬だった。
けれど湊は見逃さなかった。支えるための動きだ。呼吸もわずかに浅い。胸の奥がざらつく。
「……もう十分です」
半ば強引に言うと、紫月は小さく息をついて、今度こそ完全にこちらを見た。
「そうですね」
その認め方が素直すぎて、逆に拍子抜けする。
「じゃあ、一度出ましょう」
そう言って歩き出した彼女の袖の中で、痣の色だけが静かに残っていた。
湊は最後にもう一度、姿見を見た。
昼の光を返すだけの、ただの鏡。
なのにそこには、さっきまで誰かが確かに“待っていた”気配だけが、薄く貼りついているように思えた。
振り返るかどうかを、確かめるために。
そしてたぶん――帰ってくるかどうかも。
部屋を出る直前、背中にひやりとした感覚が走った。
呼ばれた、と思ったのは、気のせいだったのかもしれない。
けれど湊は振り返らなかった。
振り返ったら、鏡の中に何が映るのか、知りたくなかったからだ。
◆
悠生の部屋は、駅から少し離れた古いマンションの同じ三階にあった。
栞の部屋より築年数があるのか、共用廊下の床はところどころ色が擦れていて、外階段には雨風に削られた白っぽい跡が残っていた。昼過ぎの光はまだ明るいのに、その建物だけ時間の流れが少し遅い。そんな印象があった。
鍵を差し込む栞の手元を、湊は黙って見ていた。
金属の擦れる音が、やけに大きく響く。
「……そのままのところも、あるので」
栞が、振り返らないまま小さく言った。
「ごめんなさい。ちゃんと片づける気になれなくて」
「謝ることではありません」
紫月は柔らかく返した。柔らかいのに、少しも気を緩めていない声だった。
「今日は、無理に思い出そうとしなくて大丈夫です。見えるものだけで足ります」
栞は短くうなずき、鍵を回した。
玄関扉が開く。
その瞬間、湊は思わず呼吸を浅くした。
寒い、と思ったわけではない。ただ、空気の密度が違った。人がしばらく住んでいない部屋特有の、閉じた匂いがある。埃っぽさと、洗剤の残り香と、よくわからない乾いた匂い。それ自体は普通だ。普通なのに、その奥に、栞の部屋とは別の息苦しさが混じっている。
こっちは“見られている”というより。
何かを、押し殺したまま蓋をしている感じだ。
栞が先に靴を脱ぎ、そっと言う。
「……どうぞ」
玄関は一人暮らしの男の部屋らしく簡素だった。黒い靴箱、小さな消臭剤、壁に掛けられた折りたたみ傘。几帳面に整えられているというほどではないが、雑でもない。生活が途切れた瞬間の形が、そのまま残っている。
湊は靴を脱ぎながら、部屋の奥を見た。
短い廊下の先に、リビング兼寝室らしい空間がある。扉は開いていて、薄いカーテン越しに午後の日が差していた。明るいはずなのに、光がやけに平板に見える。
紫月はすぐには中へ入らなかった。玄関の上がり框の手前で一度立ち止まり、目を細める。
その横顔を見た瞬間、湊の背筋に細いものが走った。
サロンで施術前に見せる集中とは少し違う。もっと無意識に、空気の奥へ耳を澄ませている顔だ。
「……入っただけで、わかるんですか」
小声で訊くと、紫月は視線を部屋の奥に向けたまま答えた。
「ええ。こちらは、残り方が素直なので」
「素直?」
「隠れていません」
それは安心材料には聞こえなかった。
栞は玄関脇でバッグを抱えたまま、口を閉ざしている。ここへ来ると決めたのは本人なのに、部屋に入った途端、言葉の量が一気に減った。無理もない。亡くなった恋人の部屋だ。いまさら“整理の途中です”なんて顔で立てる場所じゃない。
紫月は「失礼します」とだけ言って、中へ入った。
湊もそのあとに続く。
廊下を二歩、三歩進んだところで、左手に小さな洗面所、右手にトイレがあった。どちらもドアは閉まっている。正面の部屋に入ると、生活の跡がいっそう濃くなった。
ワンルームに近い間取りだった。壁際にシングルベッド、その向かいにローテーブルと二人掛けのソファ。窓際には簡素なデスクがあり、ノートパソコンが閉じたまま置かれている。横には本棚。雑誌、文庫本、仕事関係らしいファイル。さらに小さな冷蔵庫と、申し訳程度のキッチン。
どこを見ても、不自然なくらい普通だ。
普通で、ちゃんとしていて、だからこそ落ち着かない。
「……部屋、きれいですね」
湊が言うと、栞は少し間を置いてから「元々、片づける人だったので」とだけ答えた。
それきり黙る。
紫月は部屋の中央まで進み、まずベッドを見た。次にデスク、本棚、窓。視線をひとつずつ置いていくみたいに、ゆっくりと確認する。どこかを凝視しているわけではないのに、部屋の空気がその動きに合わせて薄く波立つ気がした。
「……こちらは、栞さんの部屋と逆ですね」
唐突なその言葉に、湊は眉を寄せる。
「逆?」
「ええ。向こうには、“見ていた”感情が残っていた」
紫月はベッド脇に立ったまま言う。
「でもこちらは、“見せないようにしていた”気配のほうが強い」
栞が、わずかに顔を上げた。
「見せない……?」
「はい。散らかさない、弱って見せない、考えすぎているのを悟られない。そういう方向の整え方です」
湊は室内を見回す。
たしかに整っている。脱ぎ散らかした服もなければ、洗いものをためた形跡もない。仕事が忙しかったなら、もっと雑然としていてもおかしくないのに、この部屋には“最低限のきちんと”が残りすぎていた。
まるで、誰かに見られても困らない部屋を最後まで維持していたみたいに。
「……なんでそれがわかるんですか」
訊いてから、変な質問だと思った。今さら何を言ってるんだ、という感じだ。けれど紫月は気を悪くした様子もなく、デスクへ歩きながら答えた。
「気配の向きが違うからです。栞さんの部屋は、相手に向かって伸びていた。こちらは、自分の内側へ押し込んでいる」
デスクの前で、彼女は立ち止まる。
閉じたノートパソコンの脇には、ペン立てとメモ帳、それからコンビニのレシートが一枚だけ置かれていた。日付は湊の位置からは見えない。けれど残し方が妙に雑で、部屋全体の整い具合からすると、そこだけが小さな乱れに見えた。
紫月はメモ帳には触れない。ただ、少し顔を寄せて、視線だけを落とす。
「ここは、考えすぎていますね」
「考えすぎる?」
「はい。何度も同じことを巡っている感じがする。言うべきか、言わないべきか。会うべきか、今日はやめるべきか。そういう足踏みです」
栞の指先が、バッグの持ち手をきつく握る。
その反応で、湊はなんとなく察した。たぶん心当たりがあるのだ。
「……最近、連絡の返事、遅いときありました」
栞がぽつりと言った。
「忙しいんだろうなって、思ってて……」
そこでまた口を閉じる。
それ以上は語らない。語れないというより、語ると何かが決定的になるのを避けている感じだった。
紫月はうなずきもせず、デスクから少し離れた。次に向かったのは本棚だった。文庫本の背表紙を順に見て、仕事用のファイルの端に視線を止める。
「面白いですね」
その呟きに、湊は反射的に「何がですか」と返した。
「読むものと、読まれるものが分かれている」
「……すみません、よくわからないです」
「自分のために読んでいた本と、誰かに説明するために整えた資料が、はっきり分かれているんです」
紫月は一冊の文庫本の背に指を近づけて、触れずに止めた。
「こちらは息抜き。あちらは義務。境目がきれいすぎる」
たしかに、本棚の左半分には小説や雑誌が雑多に並び、右半分にはラベルを貼ったファイルや専門書がすっきり収まっている。几帳面な人ならそれで終わる話だ。けれどいまは、その仕分けの丁寧さ自体がどこか窮屈に見えた。
湊は自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていた。
部屋には何も起きていない。鏡が曇るわけでも、手の跡が浮かぶわけでもない。それなのに、さっきからずっと小さな違和感が積み重なっていく。
紫月が見ているところは、どれも派手じゃない。
部屋の整い方、物の分け方、乱れの位置。
そういう普通の範囲に見えるものばかりだ。ばかりなのに、それをひとつずつ言葉にされるたび、この部屋にいた人間の息苦しさが浮いてくる。
まるで、静かな部屋の中で、誰かがずっとひとりで呼吸を浅くしていたみたいに。
紫月は次に、ベッドへ向かった。
シーツはきれいに張られていた。枕も、乱れていない。ホテルほどではないが、朝起きて一度整えた人間の形だ。
彼女はベッドの端に立ち、少しだけ目を伏せる。
「……眠れていませんね」
その一言で、湊の胸の奥がざらりとした。
「わかるんですか、それも」
「ええ。寝た形跡が浅い」
ベッドを見て、そんなことがわかるのか。そう思うのに、紫月の口調には迷いがなかった。
「横になっても、沈みきっていない。何度も起きる人の使い方です」
栞がかすかに息を呑む。
「……電話、したとき。たまに、声が変だった」
また、短い告白だけが落ちる。
「寝てた? って聞くと、寝てたって言うのに、全然そんな声じゃなくて」
部屋がしんとする。
その会話の続きを、もう聞けないのだと思うと、妙に現実味がない。聞けないものばかりが積み重なって、こうして後から別の形で表に出てくる。
紫月は枕元を見た。サイドテーブルには何もない。スマホの充電器も、読みかけの本も、水のグラスも置かれていない。
「夜を長引かせないようにしていたみたいです」
「長引かせない?」
「考える時間をつくらないように。必要なものを近くに置かない。横になったらそのまま目を閉じるしかないようにしている」
湊は息を止めた。
そういう寝方をする人間を、知っている気がした。自分でも少しだけ身に覚えがある。考え出すと止まらない日、スマホを遠ざけて無理やり眠ろうとしたことがある。けれどこの部屋には、それが癖になっていた痕跡がある。
紫月は、そこで初めてわずかに眉を寄せた。
「……でも、眠れない」
低い声だった。
「眠れないまま、朝まで待つ。その感じが、ここには残っています」
湊は口の中が乾くのを覚えた。
外は昼だ。明るい。現実的な光が差している。なのにこの部屋の中で“朝まで待つ”という言葉を聞くと、時間の感覚が妙にねじれる。
悠生はここで何を考えていたのか。
何を言えなくて、何を押し込めて、何から目を逸らしていたのか。
「……事故の前の日とか、そのへんですか」
湊が訊くと、紫月はすぐには答えなかった。部屋の空気を測るみたいに、ゆっくり視線をめぐらせる。
「いいえ。もっと前から少しずつです」
そして静かに言った。
「最後に一気に強まっただけで、下地は前からあります」
栞の顔が白くなる。
でも彼女は何も言わない。ただ、部屋の入口近くで立ったまま、そこから先へ入ってこない。まるで自分が踏み込むと、部屋の中のものがもっとはっきりしてしまうとでも思っているみたいに。
湊はその姿を見て、なんとなく位置をずらした。栞と部屋の奥のちょうど中間くらいに立つ。
守るとか、そういう大げさなものじゃない。ただ、紫月が部屋の奥へ進み、栞が入口に残るなら、自分はそのあいだにいたほうがいい気がした。
紫月はそんな湊を一瞬だけ見て、何も言わなかった。
それから、ゆっくりと窓際へ向かう。
カーテンは半分ほど開いている。外には隣の建物の壁と、少しだけ空が見えた。よく晴れているはずなのに、この部屋に入る光は薄い。窓ガラスが曇っているわけでもないのに、不思議と色がない。
紫月はカーテンの端に指をかけて、少しだけ揺らした。
「ここは、外を見ていませんね」
「え?」
「見ているふりをしているだけです」
その言い方に、湊は背筋が冷えた。
外を見ているふり。
それはつまり、別のことを考えていたということだ。
「窓辺に立つ時間は長かった。でも、風景は頭に入っていない」
紫月の視線が、窓ガラスではなく、その手前の空間へ落ちる。
「考え事をしているというより、思考を止めようとしていた感じです」
ごく普通の部屋なのに、そこにいた人間のしんどさだけがじわじわ染み出してくる。その気味の悪さに、湊は喉の奥が重くなるのを感じた。
見えないものが暴れるほうが、まだわかりやすい。
こういう静かな部屋のほうが、逃げ場がない。
紫月は窓際から離れ、今度は冷蔵庫の前で止まった。上にはコンビニの袋が置かれ、中に未開封のペットボトルが二本入っているのが透けて見える。
「食べることも、後回しになっています」
「それも気配で?」
「ええ。けれど、こちらはもっと単純です」
紫月は袋を見たまま言う。
「楽なもので済ませている。選ぶ余裕がない」
栞がかすかに目を閉じた。知っていたのだろう。もしかしたら心配して、何か言ったこともあるのかもしれない。けれど今はそれを口にしない。
口にしないことが、この部屋では多すぎる。
湊はふいに、自分の左肩をさすった。
さっきからじわじわと重い。栞の部屋にいたときのような、はっきりした冷たさではない。もっと鈍い、疲労に似た重さだ。誰かに触れられているわけじゃない。ただ、ここでずっと考え込み、眠れず、食べられずにいた気配が、肩の内側に沈んでくる。
紫月が、その動きに気づいたらしくこちらを見た。
「きますか」
「……ちょっとだけ」
「無理をしないでください」
その言葉に、なぜか少し苛立ちそうになる。
無理をしているのはそっちだろう、と思ったからだ。でも今は言わない。言ったところで、たぶん紫月は流す。そしてこの部屋では、感情をぶつけるほうが何かに飲まれそうだった。
代わりに、湊は訊いた。
「ここ、何がいちばん変なんですか」
紫月は少しだけ考えてから、部屋を一周するように見渡した。
「偏っていないことです」
「……偏ってない?」
「ええ。本来なら、もっと濃い場所があるはずなんです。怒った場所、眠れなかった場所、考え込んだ場所。そういうものは普通、どこかに溜まる」
そこで彼女は、デスク、ベッド、窓辺を順に見る。
「でもこの部屋は、全体が均一すぎる」
均一。
その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
「全部の場所で、同じように気を張っていた……ってことですか」
湊がそう言うと、紫月は小さくうなずいた。
「そうです。どこでも休めていない」
胸の奥が、ひやりとする。
部屋というのは、普通どこかに気が抜ける場所がある。ベッドでも、ソファでも、キッチンでもいい。けれどこの部屋にはそれがない。どこにいても、同じように少しだけ身構えていた。
そんな暮らし方があるのか、と一瞬思って、すぐにあるのだと気づく。
外側から見れば普通に生活していても、内側でずっと張りつめている人間はいる。
たぶん、見えないだけで。
紫月は部屋の中央に戻ると、今度は天井ではなく、床のあたりへ視線を落とした。
「……それに、移動が少ない」
「移動?」
「はい。考え込む人は、部屋の中を歩くことがあります。でもここは、決まった位置しか使っていない」
言われてみれば、家具の配置に対して動線がまっすぐすぎた。ベッド、デスク、冷蔵庫、玄関。必要な場所だけを最短で往復するための部屋に見える。
「忙しかったからじゃなくて?」
湊が問うと、紫月は静かに首を振った。
「忙しいだけなら、もっと荒れます。これは……立ち止まるのが怖かった人の部屋です」
その一言で、部屋の空気がまた重くなった気がした。
立ち止まるのが怖い。
考え始めたら止まらないから、動線を最短にして、考える余白を減らす。そんな生活を続けていたなら、この部屋がこんなふうに“均一に息苦しい”のもわかる気がする。
栞が入口のほうで、小さく息を吸った。
何か言いかけて、結局何も言わない。
湊はその沈黙の意味を考えないようにした。たぶん彼女も、自分の知らなかった恋人の部屋を、いま初めて見せられているのだ。
紫月がふいに動きを止めた。
視線の先は、デスクの横。床に置かれた細いゴミ箱だった。白いビニールが内側にかけられていて、中身はほとんど見えない。なのに彼女の表情だけが、少しだけ硬くなる。
湊の緊張が、一段高まる。
「……何かありますか」
声が思ったより低くなった。
紫月はすぐには答えず、ただゴミ箱の前でしゃがみこむ。その手首が袖の奥でかすかに止まり、湊の胸が嫌な音を立てた。
部屋は静かだ。
静かなのに、次に何が出てきてもおかしくない気配だけが、じわじわと近づいてくる。
紫月はビニール袋の口を見つめたまま、ひどく小さな声で言った。
「……ここからですね」
その言い方が、あまりにも静かだったせいで。
かえって、湊の背中を冷たいものがゆっくり這い上がっていった。
◆
紫月は、すぐにはゴミ箱に手を入れなかった。
床にしゃがみこんだまま、白いビニール袋の口を見つめている。その横顔は静かで、ただ少しだけ輪郭が鋭かった。目の前のものを見ているというより、その奥に沈んだ気配の層を一枚ずつ剥がしているような顔だった。
湊は無意識に息を潜める。
部屋は相変わらず、変に静かだ。冷蔵庫の低い駆動音と、窓の向こうの車の気配だけが遠い。なのに、ゴミ箱の前だけ空気が薄く張っている。
「……何があるんですか」
訊いた声は、自分で思ったより小さかった。
紫月は視線を落としたまま答える。
「捨てたもの、というより」
一拍。
「捨て方ですね」
その言い方に、喉の奥が乾く。
ゴミ箱の中身じゃなく、捨て方。
そんなところまで、残るのか。
紫月はようやく指先を動かし、ビニール袋の口をほんの少し広げた。かさ、と軽い音がして、それだけで湊の肩が強張る。中に見えたのは、丸めたティッシュ、レシート、コンビニの包装、薬のPTPシートみたいな銀色の切れ端。どれもありふれた、ひとり暮らしの男の部屋らしいゴミだ。
ありふれているはずなのに、胸のあたりがひどく落ち着かなかった。
紫月は袋の上から中身の位置を確かめるように、そっとビニール越しに目を細めた。
「……上は普通です」
「普通?」
「ええ。食べたもの、買ったもの、ついでに捨てたもの」
彼女の声は低い。
「でも、その下が違う」
栞が入口のほうで小さく息を呑んだのがわかった。彼女は何も言わない。ただ、その場から一歩も動かない。
紫月はゆっくりと、上のティッシュを二、三枚ずらした。触れているのは最低限で、まるで物そのものより、そこに残った“手つき”を乱したくないみたいだった。
見えたのは、くしゃくしゃに丸められた紙だった。レシートより少し厚い、白いメモ用紙の切れ端。さらにその下に、銀色のPTPシートが二枚、重なるように沈んでいる。どちらも空だ。
「……薬?」
湊が言うと、紫月は首肯した。
「睡眠導入剤の類か、市販の鎮静系。強いものではありません」
「見ただけでわかるんですか」
「いえ、形でだいたいです」
それから彼女は続けた。
「ただ、問題はそこではありません」
またその言い方だ、と思う。
問題はそこではない。じゃあどこなんだよ、と苛立ちに近い焦りが喉まで上がって、けれど紫月の声が静かすぎて、強く遮ることができない。
「薬を飲んだことではないんです」
紫月はPTPシートを見たまま言う。
「飲んだことを、隠したことのほうが問題です」
部屋の空気が、すっと沈んだ気がした。
栞が、ようやくかすれた声を出す。
「……隠した?」
「ええ」
紫月は顔を上げない。
「見られないように、上から何枚もかぶせています。急いで押し込んだというより、見つけられたくなくて沈めた感じです」
湊はゴミ箱を見つめた。たしかに上のティッシュや包装の置かれ方は妙だった。自然に積もったというより、“覆う”ために乗せたように見える。言われて初めてそう見える、という程度の差なのに、それがいまはひどく気味が悪い。
紫月は丸めた紙のひとつをそっと持ち上げた。
紙は何度も握りつぶしたのか、角が柔らかくなっている。広げる前から、そこに迷いの気配がこびりついている気がした。
湊の肩が重くなる。
いやな感じだ。
鏡のときみたいなはっきりした冷えじゃない。もっと鈍くて、頭の奥にじわじわ溜まる圧に近い。見てはいけないものを、もう見始めている感覚。
紫月は紙を完全には開かず、折れ目の隙間を覗き込んだだけで止めた。
「……文章です」
「文章?」
「ええ。長くはない。書き出しか、途中まで」
栞が入口で、バッグの持ち手をぎゅっと握り直した。
「メモ……とかですか」
「メモというより、伝えるための言葉ですね」
紫月の声音が少しだけ遠くなる。
「ごめん、から始めようとしている。あるいは、大丈夫だから、と書こうとしている。でも、どちらも途中で止まっている」
湊は反射的に栞を見た。
彼女は唇を引き結んだまま、顔色だけを失っている。
「それ、ほんとに……そう書いてあるんですか」
「いいえ。全部は見えていません」
紫月は正直に答えた。
「ただ、残り方がそうです。“言葉を選び直した跡”が強い」
言葉を選び直した跡。
そんなものまで残るのかと、湊は半分呆れて、半分ぞっとする。丸めて捨てた紙にさえ、書いた内容より、書けなかった迷いのほうが濃く染みるなんて。
紫月は紙をもう一つ持ち上げる。こちらはさらに細かく潰されていて、開こうとしただけで端が裂けた。
「……同じです」
低く言った。
「何度も書き出して、何度もやめている」
「何を」
湊の問いに、紫月は少しだけ黙った。
その沈黙のあいだに、部屋の静けさが一段重くなる。
「会う前の言葉です」
やがて彼女はそう言った。
「たぶん、栞さんに伝えるための」
栞の喉が、目に見えそうなくらい固く上下した。
でも、彼女は“そんなもの見ていない”とも、“心当たりがある”とも言わない。言えないのだろう。もしここで何か言えば、部屋に残ったものが急に本物になってしまう。
湊は視線をゴミ箱へ戻した。
PTPシート、丸めた紙、細かなレシート。どれも動かない。何も起きない。それなのに、この部屋のどこかで、誰かがぎりぎりのところで言葉を飲み込み続けていた気配だけが濃くなっていく。
「……忙しいとか、そういう話じゃなかったんですね」
気づけば、そう口にしていた。
紫月は小さくうなずく。
「ええ。忙しさは理由のひとつでしかない」
それから、彼女はゴミ箱の底近くを見つめたまま続けた。
「直前まで隠していたのは、余裕のなさそのものです」
湊の背筋に冷たいものが走る。
「余裕のなさ……」
「はい。疲れている、眠れていない、食べられていない。その程度なら、まだ“ただ忙しい”で済ませられる。でも、ここにあるのはもう少し進んでいる」
紫月の指先が、ビニール袋の縁を静かになぞる。
「会ったときに普通の顔ができるか、自信がなくなっていた」
その一言が、妙に重く落ちた。
普通の顔ができるか、自信がない。
それは病名なんかよりよほど具体的で、よほど切実だった。誰かに心配をかけるかもしれないとか、変だと思われるかもしれないとか、そういう不安が積もり積もって、会う前に言葉を選び直す。
何度も。
何度も。
そして結局、捨てる。
「……そんなの」
栞の声が、かすかに漏れた。
その先は続かない。
紫月は彼女のほうを振り返らずに言う。
「気づかせないようにしていたんでしょう」
責める口調ではない。ただ事実を置くような声だ。
「むしろ、気づいてほしくなかった。会ったら大丈夫な自分でいたかった」
湊は、部屋の整い方を思い出す。均一に片づいた空間。ベッドも、デスクも、窓辺も、どこにも気が抜けた形跡がない部屋。あれは几帳面さじゃなく、“取り繕いの癖”だったのかもしれない。
紫月が、紙のひとつを少しだけ開いた。
開いたといっても、文字が読めるほどではない。折れ目の隙間から、黒いインクの線が数本覗いただけだ。それだけなのに、湊の左肩がずしりと沈む。
「っ……」
思わず息が漏れる。
紫月の目が、一瞬だけこちらへ向いた。
「きついですか」
「……平気です」
反射で言ってから、たぶん平気じゃないと自分で思う。けれどここで弱音を吐きたくなかった。紫月の手首の痣が頭にちらつくせいで、なおさらだ。
彼女は何も言わず、紙へ視線を戻した。
「……ああ」
その小さな声に、湊の心臓が跳ねる。
「何が見えたんですか」
「消そうとしている感じがありました」
「消す?」
「ええ。自分の状態を、言葉にした途端に本当になるのが怖かった」
部屋の温度が変わったわけじゃない。なのに、喉から胸にかけて、じわじわ冷える。
言葉にした途端、本当になる。
たぶん誰にでも、少しは覚えがある感覚だ。不安を不安だと認めたら、それまで誤魔化せていたものが一気に輪郭を持つ。だから言わない。書かない。見ない。
けれどこの部屋では、その“言わなさ”がどこにも逃げずに積もってしまった。
「……何を、隠してたんでしょう」
湊は自分でも驚くくらい静かな声で訊いた。
紫月は紙をゆっくり元の形に戻し、ビニールの上へ置いた。
「壊れ方です」
短い答えだった。
「壊れかけている、ではなく、どう壊れるか」
湊は意味を取りきれず、眉を寄せる。
「どう、って……」
「苛立つのか、黙るのか、急に会いたくなくなるのか、逆に執着するのか。自分でもわからないまま、誰かに見せるのが怖くなっていた」
そこで初めて、紫月は栞のほうを見た。
「とくに、好きな相手には」
栞が、声もなく目を伏せた。
それ以上説明はいらなかった。
好きだから見せたくない。見せたら軽蔑されるかもしれないし、困らせるかもしれない。あるいは、思っていたよりずっと弱い自分を、相手の目で確かめることになるかもしれない。
だから隠す。
でも隠すほど、相手の様子ばかり気にするようになる。
自分が崩れそうなとき、人は自分より先に、失いたくないもののほうを凝視してしまうのかもしれない。
湊の肩に、また鈍い重さが落ちてくる。
眠れていない朝。コンビニの袋。書いては丸めた紙。見せないために片づけた部屋。そういう断片が、まるで自分の中にまで入りこんでくるみたいだった。
「……桐生さん」
気づくと、少し掠れた声になっていた。
「まだ、何かあるんですか」
紫月はすぐには答えない。
代わりに、ゴミ箱の底へもう一度視線を落とす。今度は少しだけ躊躇いが混じって見えた。それが逆に、湊の緊張を高める。
彼女が躊躇うのは珍しい。
少なくとも、湊が見てきた範囲ではそうだ。危ういことをする前でも、紫月はもっと静かに割り切る。なのに今は、その静けさの下にごく薄い逡巡があった。
「……あります」
ようやく出てきた声は、やはり低かった。
「ただ、これは少し、嫌な残り方です」
背筋が粟立つ。
「嫌なって」
「責める感じがある」
その一言で、空気が変わった気がした。
責める。
これまでこの部屋にあったのは、押し殺した疲れや、隠した不安や、言えなかった言葉だった。全部、内側へ向くものだ。けれど“責める”は違う。矢印が外へ向く。
栞もそれを感じ取ったのか、顔を上げた。
「……誰を」
かすれた声で問う。
紫月は視線をゴミ箱に落としたまま、ゆっくり言う。
「まず、自分を。次に、うまくできない状況を」
そして、ほんのわずかに間を置く。
「そのあとで――たぶん、栞さんの前で普通でいられない自分を、いちばん強く」
栞の指が、バッグの革に食い込む。
沈黙が落ちた。
責めた、といっても、怒鳴ったとか恨んだとか、そういう直接的なものではないのだろう。もっと静かで、もっとやっかいなやつだ。こんな顔を見せたら困らせる、こんな気持ちを持った自分は駄目だ、会う資格がない。そういうふうに、自分を何度も削る責め方。
紫月はビニール袋の底から、薄い紙片を一枚だけ摘み上げた。
レシートに見えた。けれど普通の店のレシートより紙質が少し違う。細長くて、上部が破れている。印字も半分消えかけていた。
湊の呼吸が浅くなる。
「それ、なんですか」
「領収の切れ端……でしょうか」
紫月は紙片を透かすように持った。
「薬局ではありませんね。もっと……事務的な場所の紙です」
その曖昧な言い方に、嫌な予感がじわじわ広がる。病院か、相談窓口か、そういうものを連想しかけて、湊は勝手にそれを振り払いたくなった。まだ決めつけるな、と自分に言い聞かせる。
けれど紫月の顔は、確実に核心へ近づいていた。
「文字は読めません。でも、これを捨てたときの感情ははっきりしています」
「どんな」
訊いた自分の声が、少し尖っていた。
紫月は紙片から目を離さず、静かに答えた。
「見られたくない、です」
短い。
短いのに、やけに深く刺さる。
「忙しいからでも、忘れたからでもない。ただ、見つかったら説明しなくてはいけない。説明すると、隠していたものが全部つながってしまう。その怖さ」
湊はごくりと唾を飲みこんだ。
説明すると、全部つながる。
眠れていないこと。薬を使っていたこと。言いかけの紙を何度も捨てたこと。会う前に普通の顔を作れなくなっていたこと。
それらがひとつの線になったら、相手に何を知られるのか。
「……知られたくなかったんですね」
栞が、ほとんど呟くみたいに言った。
紫月は否定しない。
「ええ。少なくとも、この時点では」
紙片を見つめる彼女の横顔に、わずかな疲労が滲む。湊はそれを見て、胃のあたりがきしむような感覚を覚えた。紫月はきっと、ただ物を見ているんじゃない。捨てた瞬間の感情にまで触れている。そのたびに何かを受けているのだろう。
止めたい、と思う。
でも、もうここで止めたら、逆にまずい気もした。核心の手前で蓋をしたものは、夜になって別の形で噴き出す。そんな気配が、部屋の空気に確かにある。
「桐生さん」
湊は少しだけ踏み出した。
「その紙、開けますか」
紫月が初めて、はっきりとこちらを見る。
黒い瞳は静かだった。静かなのに、その奥に緊張が細く張っている。
「いいえ。今はまだ」
「でも」
「開くと、栞さんが先に“意味”を探してしまうでしょう」
視線だけで、入口の彼女を示す。
「そうなると、感情より情報に引っ張られます。今はその前の段階を見ておきたい」
湊は口をつぐむ。
たしかにそうだ。病院の紙だった、相談の記録だった、何かの連絡票だった。そういう“答え”が一個出た瞬間に、人間の頭はそっちへ飛びつく。でも紫月が拾っているのは、それより手前の、隠すときの気持ちのほうだ。
紫月は紙片を元に戻すと、ゆっくり立ち上がった。
その動作の途中で、ほんのわずかに体が揺れた。
湊の心臓がひやりとする。
「っ」
反射的に手を出しかけたが、紫月は自分で立ち直る。何事もなかったみたいに見せるのが、やっぱりうまい。
けれどいまの一瞬で、湊の緊張はさらに切れなくなった。
紫月は部屋の中央へ戻り、ゴミ箱、デスク、ベッドを見渡した。
「……つながりました」
静かに言う。
「彼は最後まで、栞さんを怖がらせたくなかった。だから疲れも不眠も、自分の揺れも隠した。でも隠すほど、会うこと自体が怖くなっていった」
栞が動かない。
湊も、息を潜めたままだった。
「その怖さのまま会えば、きっと余計に相手を見るようになります。自分が崩れないか確かめるために。相手の機嫌や様子に、必要以上に敏感になる」
紫月の声が低く、細くなる。
「栞さんの部屋に残っていた“見ていた気配”は、その延長です。優しさだけではありません。自分を保つためでもあった」
その言葉が落ちた瞬間、部屋のどこかで空気がわずかに軋んだ気がした。
音ではない。
けれど湊は確かに感じた。均一に張っていた息苦しさの膜が、どこか一か所でよれたような感覚。
紫月も同時に顔を上げる。
視線の先はデスクだった。
正確には、デスクのいちばん下の引き出し。
さっきまでは何も言わなかった場所だ。けれど今は、そこだけ空気の色が違って見える。見える気がする、という程度なのに、目を離しづらい。
「……まだある」
紫月が、ごく低く言った。
湊の左肩が、ずしりと沈む。
今度の重さは、これまでよりはっきりしていた。疲労ではなく、嫌な予感そのものが肩に乗ったみたいな重みだ。
「どこに」
わかっていても訊いてしまう。
紫月は引き出しを見たまま、答えた。
「隠したかったものの、いちばん近くに」
それが何を意味するのか、完全にはわからない。
でも、ゴミ箱に捨てた紙や薬の気配だけでは終わらないのだと、体が先に理解してしまった。捨てることで消そうとしたものがあり、その手前で何度も言葉を丸めて、それでも隠しきれなかった何かが、まだこの部屋の奥に残っている。
紫月が一歩、デスクへ向かう。
その後ろ姿を見た瞬間、湊は自分でも驚くほどはっきりと感じた。
ここから先は、たぶん軽くない。
ゴミ箱の中身は前触れだ。悠生が直前まで隠していたものの輪郭が、ようやく部屋の中に浮き始めただけだ。
そして、その輪郭はきっと、栞の部屋に残っていた視線の意味まで変えてしまう。
紫月が引き出しの前で止まる。
白い指先が、取っ手に触れる寸前で静止した。
部屋の静けさが、今度こそ息苦しいほど濃くなる。
湊は呼吸を浅くしたまま、次の動きを待った。
待ちながら、背中のどこかで、まだ見えていないはずのものにじっと見返されている気がしていた。
◆
紫月の指先が、引き出しの取っ手に触れた。
ただそれだけの動作なのに、部屋の空気がひどく張る。
湊は自分でもわかるくらい浅い呼吸のまま、デスクの前に立つ彼女の背中を見ていた。白い指は細くて、力なんてなさそうなのに、いまこの部屋でいちばん危ういものへ触れようとしているのは、その手だ。
袖口の奥に隠れている痣のことが、また頭をよぎる。
「……無理なら、俺が」
半歩だけ踏み出しかけて言うと、紫月は振り返らずに小さく首を振った。
「いいえ」
静かな返事だった。
「これは、わたしが先に見ます」
その言い方があまりに穏やかで、かえって反論しづらい。
湊は奥歯を噛みしめたまま、手を下ろした。
引き出しは、ほとんど音もなく開いた。
ごく普通のデスクの、いちばん下の引き出しだ。中には書類や充電器のコード、封筒、使いかけのノート、文房具が収まっている。乱雑ではない。むしろきれいに整えられているほうだ。ここだけ見れば、几帳面な社会人の机にしか見えない。
なのに、開いた瞬間、湊の左肩がずしりと重くなった。
「っ……」
思わず息が漏れる。
冷たいわけじゃない。ひたすら重い。誰かの眠れない夜が、そのまま肩の上に落ちてきたみたいな圧だった。
紫月は引き出しの中を見下ろしたまま、低く呟く。
「……ありますね」
湊も無意識に身を乗り出しかけた。
けれど視線が届くより先に、部屋の空気のほうが変わる。さっきまでこの部屋全体に均一に張りついていた息苦しさが、いまは引き出しの中へ集まっている。そこだけ、見えない熱を持っているみたいだった。
紫月は上に乗っていたノートを一冊、横へずらした。黒い表紙の、どこにでもあるメモ帳。その下から、白い封筒の角が覗く。
封筒は薄い。
けれど中身が空ではないことは、見ただけでわかった。
さらにその脇に、小さなクラフト紙の袋がある。薬局のものでも、コンビニのものでもない。もっと古風な、紙の手触りがよさそうな袋だ。細い紐で口を留めてある。
そしてその下に、半分だけ隠れた診察券サイズのカード。
白地に青い文字が印刷されていて、上のほうに「睡眠外来」と読める気がした。
胸の奥が、ひどく静かに沈んだ。
「……やっぱり」
口にしたのが自分だと、一瞬わからなかった。
紫月がほんの少しだけ目を細める。
「ええ。最後まで見せたくなかったものが、まとめてここにあります」
栞が入口のほうで息を呑む。
「何、が……」
その声はもう、問いかけというより恐れに近かった。
紫月はすぐには答えない。代わりに、まず白い封筒へ手を伸ばした。表には何も書かれていない。宛名もない。ただ、封はされていなかった。差し込むだけで閉じられたまま、ずっとここに隠されていたらしい。
紫月がそれを持ち上げた瞬間、湊の肩にのしかかっていた重さが、少しだけ質を変える。
重いだけじゃない。
焦っている。
そんな気がした。
「……桐生さん」
思わず呼ぶと、紫月は封筒を見たまま小さくうなずいた。
「ええ。急いで隠していますね」
「急いで?」
「迷った末に、です」
封筒の紙を、彼女は指先でそっとなぞった。
「出していた。書こうとしていた。あるいは、もう中身までは用意していた。でも、最後にまたしまった」
その説明に、湊の脳裏に光景が浮かぶ。
夜の部屋。机の前に座る男。眠れていない顔のまま、何度も文面を考えて、ようやく一枚を封筒に入れる。けれど翌朝なのか、出かける直前なのか、結局それをまた引き出しへ戻す。
渡せなかった。
見せられなかった。
その気配が、紙にまで残っている。
「……手紙、ですか」
栞が、ほとんど掠れた息みたいな声で言った。
紫月は封筒から目を離さず答える。
「ええ。たぶん」
その一言だけで、栞の顔色がまた変わる。けれど彼女は入口から動かない。動けないのだろう。
紫月は次に、クラフト紙の袋へ視線を落とした。細い紐をほどく手つきが、さっきよりもさらに慎重になる。
袋の中から出てきたのは、小さなガラス瓶だった。
掌に収まるくらいの、透明な瓶。
ラベルはない。
中の液体は、薄い琥珀色。
匂いは、しない。
息が止まる。
「……同じ、だ」
湊がそう呟くと、栞がはっと顔を上げた。
紫月の手の中にあるそれは、栞の部屋の引き出しから出てきた無香のオイル瓶と、ほとんど同じだった。
大きさも、形も、光の返し方まで似ている。
「もう一本……?」
栞の声が震える。
紫月は瓶を光に透かし、静かにうなずいた。
「ええ。未開封ですね」
「未開封って」
「こちらは、使っていません」
ひどく静かな声だった。
「栞さんの部屋にあったものは、渡したあと、使われた。こちらは手元に残したままです」
湊の頭の中で、何かがかちりと噛み合う。
瓶は一つじゃなかった。
悠生は最初から二本持っていたのか、あるいは予備を買っていたのか。どちらにしても、あの無香のオイルは偶然そこにあったものじゃない。
意図して用意されていた。
誰かのために。
紫月はクラフト紙の袋の底を確かめ、さらに一枚、小さな紙片を取り出した。店名らしきものと、手書きのメモがある。
彼女がそれを見る目が、ほんのわずかに柔らかくなる。
「……ああ」
「何ですか」
湊の問いに、紫月は紙片を見たまま答えた。
「使い方です」
「使い方?」
「ええ。たぶん店の人に聞いて、書き留めたものですね」
そう言って、彼女はその小さな紙を少しだけこちらへ向けた。
全部は読めない。けれど、湊の位置からでも短い文字が目に入る。
――肩、首筋。少量。 ――温めてから。 ――強く押さない。 ――眠れない夜にも可。
喉の奥が、ひりついた。
栞の部屋にあった瓶は、ただの気味の悪い媒介じゃなかった。
もともとは、彼女の肩の痛みを気にして、悠生が用意したものだったのだ。
「……そんな」
栞が、目を見開いたまま呟く。
「わたし、これ……知らない」
「ええ」
紫月が言う。
「渡す前に、説明しようとしていたはずです。どう使えばいいか、どういうつもりで持ってきたか」
そして封筒を、もう一度見た。
「その言葉ごと、しまってしまった」
部屋がしんと静まる。
ここまで来て、ようやく“触れたいのに触れられなかった”気配の輪郭が見えた気がした。悠生は栞の肩を気にしていた。実際にオイルまで買っていた。痛みを少しでも和らげたくて、やり方までメモしていた。
なのに、渡せなかった。
ただ気遣うだけなら簡単なはずなのに、それすらできなかった。
それは優しさだけでは片づかない。
自分の状態を見せたくない気持ちと、彼女の痛みを見過ごせない気持ちが、最後のところでぶつかっていたのだ。
紫月はそこで、引き出しの奥に半分隠れていたカードを指先で引いた。
白い予約票だった。
印字された文字は細く、病院名までは湊の位置からはっきり読めない。でも「睡眠外来」「初診」「予約日」の文字だけは見えた。
事故の少し前の日付。
湊の胸のあたりが、じわじわ冷える。
「行こうとしてたんだ……」
自分でも意識しないまま、そう口にしていた。
病院へ。
少なくとも、何かがおかしいと自覚して、どうにかしようとはしていた。
眠れないことを、ただの忙しさで終わらせない程度には。
紫月が、その予約票を静かに見つめる。
「ええ。完全に諦めていたわけではありません」
「じゃあ、なんで……」
そこから先の言葉を、湊は飲み込んだ。
なんで栞には言わなかったのか。なんであんな見方になったのか。なんでオイルを渡さず、手紙を隠し、普通の顔だけを保とうとしたのか。
でも、もう半分はわかっていた。
好きだったからだ。
好きだったから、壊れかけた自分を先に見せるのが怖かった。
会えば見てしまう。見ればますます気づいてほしくなくなる。そのくせ相手の痛みには、誰より敏感になる。
ひどく厄介で、ひどく人間くさい。
紫月は封筒の中身を抜き出した。
白い便箋が一枚。二つ折りにされている。
完全に開く前から、湊の肩がまた重くなる。さっきまでの圧に、今度は“見られたくない”という硬さが混じっていた。
「桐生さん」
思わず声が強くなる。
「それ、無理して見なくていいです」
紫月は一瞬だけこちらを見た。
その目に、ほんの少し疲れがあった。けれど首は横に振られる。
「いえ。ここがいちばん大事です」
「でも」
「これを残したまま、栞さんの部屋に戻ると、向こうの気配だけが強くなります」
静かな説明だった。
「“見ていた理由”と、“触れたかった理由”を、同じ場所で結ばないといけない」
その言葉は、湊には半分くらいしかわからない。でも、わからないまま信じるしかない響きがあった。
紫月は便箋をゆっくり開く。
綺麗な字だった。
几帳面というほど硬くはないけれど、急いで書いた字でもない。消した跡も、書き直した跡も少ない。何度も丸めた紙の先に、ようやく一度だけ、まとまった言葉に辿りついた字だ。
紫月は声に出して読まない。
目で追うだけなのに、その横顔が少しずつ変わる。
痛ましさ、みたいなものが混じる。
湊はたまらず、踏み込みすぎない程度に一歩だけ近づいた。文字の全部は見えない。ただ、最初の行だけが視界の端に入る。
――栞へ。
その下。
――最近、少しだけ、君の前でうまく笑えない日がある。
そこまで見えた瞬間、胸の奥がひどく重くなった。
読んだわけじゃない。ほんの一部だ。なのに、それだけで充分だった。
栞が息を詰める音がした。
「……何て、書いてあるんですか」
声が震えている。
紫月はすぐには答えない。最後まで目を通してから、便箋を丁寧に畳み直した。
「全部を、いまここで読み上げる必要はないと思います」
「でも」
「ただ」
紫月は便箋を両手で持ったまま、静かに言った。
「隠していたものは、栞さんを遠ざけたい気持ちではありません」
栞の目に、涙が滲む。
「じゃあ……」
「逆です。近づきたいのに、近づき方がわからなくなっていた」
その一言で、部屋の空気がかすかに揺れた。
湊にはわかった。
いま、何かが動いた。
見えるわけじゃない。音もしない。でも、引き出しの中に固まっていた気配が、少しだけ形を変えたのがわかった。責めるような硬さが薄れて、代わりに、行き場をなくした焦りと未練だけが浮いてくる。
紫月が続ける。
「手紙には、ちゃんと書いてあります。肩のことを気にしていたこと。オイルを渡したかったこと。最近眠れていないこと。少し様子がおかしい自覚があること」
そこで、ほんの少しだけ間を置いた。
「それから――しばらく会う頻度を減らしたい、と」
栞の肩がびくりと震える。
「……減らしたい」
「ええ。嫌いになったからではなく、壊れたまま会いたくないから」
部屋が静まり返る。
その言葉はたぶん、いちばん栞が聞きたくなかった類のものだ。距離を置きたい。頻度を減らしたい。そう書かれていたなら、もし生前に受け取っていたとしても、きっと傷ついただろう。
でも、いまならその裏にあったものが見える。
会いたくないんじゃない。
会って、相手を見すぎてしまう自分が怖かった。
気遣いと執着の境目がわからなくなっていたからこそ、一度離れようとした。
そのための手紙であり、オイルであり、予約票だった。
「……最初から、終わらせるつもりじゃなかったんですね」
湊は、ひどく静かな声で言った。
紫月がこちらを見る。
「ええ。終わらせるための整理ではありません」
白い便箋の上に、彼女の指がそっと重なる。
「戻るための準備です。少し整えてから、ちゃんと会うための」
その言葉に、湊の胸の奥が痛む。
間に合わなかったのだ。
どうにかしようとはしていた。壊れる前に、壊れたまま見せる前に、少しでも整えようとしていた。でも、その途中で途切れた。
だから手紙は引き出しにしまわれたままで、オイルは説明されないまま栞の部屋へ渡り、触れたい気持ちだけが半端に残った。
あの部屋で感じた“見ていた気配”が、ようやく一本の線になる。
「……わたし」
栞が、入口で立ったまま絞り出す。
「わたし、何も知らなかった」
責めるでもなく、泣き叫ぶでもない、薄い声だった。
「肩が痛いって言ったら、すぐ大丈夫って言うから。忙しそうで、でもちゃんとしてて……だから、平気なんだと思ってた」
紫月は栞を見た。
「ええ。そう見せていたんでしょう」
「どうして、言ってくれなかったんだろう」
その問いには、誰もすぐに答えられなかった。
答えはもう見えているのに、言葉にするとあまりにも遅い。
好きな相手だから。
弱っているところを見せたくなかったから。
見せたら、相手の中の“自分”まで変わってしまう気がしたから。
でも、黙ったまま残ったものは、優しさだけでは済まなかった。
紫月が、ゆっくりと息を吐く。
「まだ、終わっていません」
その一言で、湊は顔を上げた。
紫月の視線は、便箋とオイル瓶のあいだを静かに行き来している。
「これで、向こうの部屋に残っていたものの意味が変わります」
「意味が変わる?」
湊が問うと、彼女はうなずく。
「ただ見ていたのではない。様子を見ていた。痛みを見逃したくなかった。けれど、自分の状態を知られたくなくて、触れる代わりに視線だけが残った」
紫月の声は、少しずつ硬さを失っていた。
「だから鏡に出たんです。見送るために。振り返ってほしかったわけではなく、本当は、ちゃんと行ってらっしゃいと言いたかった」
湊は息を呑む。
鏡の前に立っていた気配。玄関の背中を見送る感じ。振り返るかどうかを待つ気配。
あれは、ただの執着じゃなかった。
言えなかった挨拶の残りかすでもあったのだ。
「……じゃあ、栞さんが言うべきことも」
気づけば、そう口にしていた。
紫月が、ほんの少しだけ笑うような目になる。
「ええ。だいぶ見えてきました」
その表情に一瞬だけ安堵しかけて、すぐに湊は彼女の手首を見た。袖が少し上がっていて、白い肌の上の痣が、前より濃い。笑っている場合じゃないだろ、と言いたくなる。
けれど今は言わない。
たぶん、もうすぐ終わりが見えるからだ。
紫月は便箋を封筒へ戻し、未開封のオイル瓶と一緒にそっと抱えた。
「これを持っていきます」
「栞さんの部屋に?」
「ええ。あちらに残っている感情は、“渡せなかったこと”と“見送れなかったこと”で固まっていますから」
そして静かに、はっきり言った。
「最後は、渡しそびれたものを、ちゃんと渡された形に戻してあげたほうがいい」
栞が泣きそうな顔でうなずく。
「……わたし、読んだほうがいいですか」
「はい。でも、いまではありません」
紫月は落ち着いた声で言う。
「向こうの部屋で。残っている気配が、ちゃんと聞ける位置に戻ってからです」
湊は、封筒と瓶を見る。
どちらも小さい。驚くほど小さい。なのにその二つが、この話のほとんど全部を抱えている気がした。
渡せなかった手紙。
使い方まで書いた、無香のオイル。
眠れない夜の予約票。隠した薬。
そして、見ていた視線。
全部がようやく一本に繋がった。
あとは、それを終わらせるだけだ。
そう思った瞬間、湊の左肩にのっていた重さが、ほんの少しだけ軽くなる。消えたわけじゃない。ただ、さっきまでの“見られたくない”硬さが薄れた。
代わりに残ったのは、ひどく静かな願いだ。
ちゃんと伝わってほしい。
それだけが、部屋の空気の底に沈んでいる。
紫月が引き出しを閉める。音はほとんどしなかった。
それなのに、部屋の均一な息苦しさが少しだけ崩れたのを、湊は確かに感じた。まだ終わっていない。でも、もうこの部屋で立ち尽くしているだけではない。
行く場所が決まった。
帰る場所も。
「……行きましょうか」
紫月が言う。
声は静かで、少しだけ掠れていた。
湊はその掠れに気づいて、胸の奥がざらつく。でもいまはそれを押し込める。まずはここを越えるしかない。
「はい」
答えてから、栞を見る。
彼女は目元を赤くしながら、それでもゆっくり頷いた。
玄関へ向かう紫月の背中を追いながら、湊は一度だけ部屋を振り返った。
さっきまで均一に張りつめていた空気が、ほんの少しだけ変わっている。
眠れない夜も、言えなかった手紙も、気づかせたくなかった弱さも、まだ消えてはいない。けれどもう、この部屋の中でただ押し込まれたままではない。
あとは向こうで、渡しそびれたものを渡して、言いそびれた言葉に触れるだけだ。
そこまで考えたところで、背中の奥にまた、ひやりとした感覚が走った。
けれど今度のそれは、最初にこの部屋へ入ったときのような嫌な重さとは少し違う。
ためらいに近い、静かな緊張。
終わりの手前に立った人間の、最後の怖さみたいなものだった。
◆
栞の部屋へ戻ったとき、窓の外の光はもう少しだけ色を失っていた。
昼の白さがゆっくり薄まりはじめて、部屋の中に落ちる影の輪郭だけが、かえって静かに整って見える時間だった。リビングの空気は、出ていく前より重いわけではない。けれど軽くもなっていない。鏡の前、ソファの背、ダイニングの椅子、キッチンの境目。部屋のあちこちに残っていた“見ていた気配”が、こちらを待っているのがわかった。
ただし今は、その待ち方が少し違う。
さっきまでの息苦しさには、意味のわからない圧があった。見られている感じ、振り返りたくなる感じ、肩の奥へ沈んでくる冷たさ。けれど悠生の部屋を見たあとでは、その全部が“何を言えなかったのか”の手前にあるものだとわかってしまった。
わかってしまった分だけ、逃げ場がない。
「窓、少しだけ開けてもいいですか」
紫月が、部屋へ入ってすぐにそう言った。
栞は黙ってうなずく。
紫月はカーテンを大きく動かさないように、そっと窓を数センチだけ開けた。夕方へ向かう風が細く入りこむ。冷たいわけではない。けれど閉じた部屋の空気をひと撫でして、どこか曇っていた輪郭を少しだけ整えた。
それから彼女は、ダイニングテーブルの上へ、悠生の部屋から持ってきたものを順に置く。
白い封筒。未開封のオイル瓶。
使い方の走り書き。
そして、栞の部屋にもともとあった、少しだけ中身の残った無香の瓶。
小さなものばかりだ。
なのに、それらが並んだ瞬間、この部屋の空気の重心がすっとそこへ集まったのがわかった。鏡やソファに散っていたものが、ようやく帰る場所を見つけたみたいに。
「……これで、届くんですか」
湊の問いに、紫月はすぐには答えなかった。テーブルの配置をほんの少しだけ整え、封筒と瓶の位置を入れ替えてから、小さく息をつく。
「届く、というより」
静かな声だった。
「届きやすい形に戻します」
「形に、戻す」
「ええ。渡したかったものと、言いたかったことが、別々に残ってしまっていますから」
紫月は、未開封の瓶に指先を置く。
「こちらは“渡したかったもの”。向こうの瓶と、手紙は“渡せなかったまま残ったもの”です。鏡には、“言えなかった見送り”が残っている」
そして、黒い瞳で鏡のほうを見た。
「ばらばらのままだと、見ているだけの気配になる。でも本来は、そうじゃなかった」
栞が、テーブルの端を見つめたまま訊く。
「……わたし、何をすればいいですか」
その声はまだ細い。泣きそうなのを堪えているというより、もうずっと前から泣く手前のところで息を止めていた人の声だった。
紫月はやわらかく言う。
「受け取ってください」
「受け取る……」
「はい。怖くても、曖昧にしないで」
紫月の声音は静かで、どこまでも穏やかだった。
「これは栞さんを責めるためのものではありません。置いていかれた未練ではあるけれど、恨みではない。だから、怖がるより先に“受け取る”と決めたほうが、たぶん楽です」
その言葉に、栞はしばらく答えなかった。
ただ、鏡のほうを一度だけ見て、それから封筒へ視線を落とす。そこに入っている便箋の重みなんてたかが知れている。でも彼女にとっては、いま部屋の中でいちばん重いものなのだろう。
「……はい」
やがて、栞は小さくうなずいた。
紫月はそれを見て、リビングの中央へ視線を戻した。
「湊くん」
名前を呼ばれて、肩がわずかに強張る。
「はい」
「今日は、昨夜みたいに無理に前へ出なくて大丈夫です」
「昨夜みたいに、って」
「でも、近くにはいてください」
さらりと言われて、返す言葉に一瞬困る。
役に立てると言われているのか、巻き込まれやすいから警戒しろと言われているのか、両方な気がした。
「……どっちですか」
思わずそう訊くと、紫月はほんの少しだけ口元を緩める。
「両方です」
それが冗談なのか本気なのか判断がつきにくくて、余計に困る。けれど、さっきまで張りつめていた胸の奥が、その短いやり取りで少しだけほどけた。
ほんの少しだけ、だ。
紫月はすぐに、施術の顔へ戻る。
「栞さんはソファへ。鏡に背を向けない位置に座ってください」
「はい」
「手紙はまだ開かなくていいです。まず、瓶を受け取って」
栞は未開封のオイル瓶を、恐る恐る両手で包んだ。その手つきが、自分で思っていたよりずっと震えていることに、本人もたぶん気づいたのだろう。唇をきつく引き結ぶ。
紫月は、残量の少ないほうの瓶を自分の手に取った。
ラベルのない、無香のオイル。
部屋の空気が、その瓶に反応するようにわずかに沈む。
湊は思わず鏡を見た。まだ何も起きていない。起きていないのに、鏡面だけが部屋の光を少し鈍く返している。
「始めます」
紫月がそう言って、栞の背後へ回った。
ソファの後ろに立つ姿は細くて、頼りなさそうにさえ見える。なのに空気は、彼女が一歩動くたびにきちんと従う。昨夜からずっとそうだ。この人は危ういのに、場を整えることだけは妙に迷いがない。
「手を」
栞は言われるまま、未開封の瓶を胸の前で抱えた。
「そのまま、まだ開けないで。先に古いほうを終わらせます」
紫月は栞の肩へ、残量の少ない瓶からごくわずかだけオイルを垂らした。音もしないほど少量だ。匂いは、やっぱりない。
それなのに、湊の肩の奥が鈍く脈打つ。
紫月の掌が、栞の右肩へ静かに触れた。
「……っ」
栞が息を詰める。
「大丈夫です。昨夜ほど強くはありません」
紫月の声は落ち着いていた。
「ただ、いまは“見られていた感覚”が戻りやすい。目を閉じてもいいですが、呼ぶまでは振り向かないで」
栞がうなずく。
湊はソファの斜め前、鏡もテーブルも見える位置に立った。足元から、じわじわと冷えに似たものが這い上がってくる。怖いのかと訊かれたら、怖い。けれど、前みたいなわけのわからなさだけではない。いまは少なくとも、この重さが“悪意そのものではない”と知っている。
知っているだけで、息はしづらいままだった。
紫月の右手が、肩から首筋へ、ほんの少しずつ滑る。
「……見ていたのは、痛みを見逃したくなかったから」
施術というより、言い聞かせるみたいに彼女は言った。
「でも、見すぎた。言えないまま見てしまったから、視線だけが残った」
部屋の空気が少しずつ変わる。
ソファの背後、ダイニングとの境目、キッチンの手前。さっきまでばらばらに感じていた場所の気配が、ひとつの線でつながっていくのがわかった。
視線の線だ。
ここで座っていた。あそこで立ち止まった。玄関のほうまで見送った。鏡越しに確かめた。
断片だったものが、ゆっくりと同じ人間の癖へ戻っていく。
紫月が低く息を吐いた。
「もう、見ているだけでいなくていい」
その声に合わせるみたいに、鏡の表面がふっと曇る。
昨夜みたいにいきなりではなかった。内側から淡く息を吹きかけたように、中心が白くにじんでいく。湊の喉がひやりと縮む。
栞も気づいたのか、肩を震わせた。
「桐生さん……」
「大丈夫。まだ大丈夫です」
紫月の手は止まらない。
「渡したいものは、ここにある。言いたいことも、もう隠さなくていい」
白い曇りの上に、ゆっくりと、指の形が浮かびかける。
手の跡だ。
大人の男のものらしい、長い指。
ただし昨夜みたいな不気味さは少し薄かった。押しつけるように濃く現れるのではなく、そこに確かに触れようとして、けれど寸前でためらっているみたいな輪郭だった。
湊は自分の左肩を押さえたくなる衝動をこらえる。重い。けれど今日は、腕に抱きつかれるみたいな冷たさではない。代わりに、焦りと迷いが皮膚の下へ沈んでくる。
言うべきだった。でも言えなかった。
触れてよかったのか、わからなかった。
そんな感情が、言葉より先に流れこんでくる。
「……湊くん」
紫月に名を呼ばれて、はっとする。
「そこから、鏡を見ていて」
「俺が?」
「ええ。逃げないで」
逃げるつもりはない、と言いたかったけれど、喉が乾いて声にならなかった。鏡を見つめる。曇りはゆっくり広がり、手の跡はまだ一つだ。
昨夜二つになったときのことを思い出して、背筋が冷える。
でも今日は違う。違うはずだと、自分に言い聞かせる。
紫月の声が、さらに低く落ちる。
「見送りたいなら、見送る言葉まで」
その瞬間、栞の肩越しに、紫月の手首が見えた。袖がずれて、白い肌の上の痣が覗く。昨日より、確実に濃い。黒ずんだ紫が手首の内側で花のように滲んでいる。
胸の奥がひどくざらつく。
そんなものを受けながら、まだ彼女は声を乱さない。
「栞さん」
紫月が、静かに呼ぶ。
「目を開けて」
栞がゆっくり目を開けた。
「鏡を見てください」
「……こわい」
「大丈夫。もう逃げないで」
紫月の声音は、やわらかいのに容赦がなかった。
栞の呼吸が浅くなるのが、背中越しにもわかる。それでも彼女は、震えるまぶたを上げて鏡を見た。
曇った鏡面の中央に、薄い手の跡がある。
それだけだ。
それだけなのに、部屋の空気は一気に張る。
「……いた」
栞の声は細かった。
「ずっと、あそこに」
「ええ」
紫月は否定しない。
「でも、怖がるだけでは足りません。受け取って」
その言葉と同時に、紫月が栞の肩を押さえる手に、わずかに力を込めた。
栞の喉から、短い息が漏れる。
「これ、痛かったでしょう」
紫月の声は穏やかだった。
「悠生さんは、それを知っていた。気づいていた。だから渡したかった」
テーブルの上の未開封の瓶へ、栞の視線が揺れる。
「開けてください」
「……いま?」
「はい。自分で」
栞は震える指で、瓶の蓋を回した。
小さな音がする。
開いたところで、やっぱり香りはしない。けれど、部屋の空気は確実に変わった。古い瓶にこびりついていた重さとは違う、もっと静かで、まだ形になる前の優しさみたいなものがほどける。
紫月が言う。
「少しだけ手に取って、肩にのせて」
栞は言われたとおりにする。透明な雫が指先に乗り、それをおそるおそる肩へ伸ばす。自分で触れる、その動きだけで目元が揺れた。
「……これ、ほんとは」
栞が息混じりに言った。
「わたしのために、買ってたの」
「ええ」
紫月が答える。
「あなたが平気なふりをするから、直接触る代わりに」
その一言で、曇った鏡の手の跡が、ほんの少しだけ輪郭を濃くした。
湊は、ぞくりとするのに、不思議と目を逸らせなかった。
怖いだけじゃない。
見てしまえば、その手が本当に何をしたかったのかがわかる気がした。締めつけるためではなく、肩に触れて痛みを確かめたかった。少しでも楽にしたかった。ただ、それをやる資格が自分にあるのかどうか、最後まで自信が持てなかった。
「封筒も」
紫月が言う。
「いま、開けて」
栞の指が止まる。
「でも」
「全部を読む必要はありません。最初だけでもいい」
紫月の手首の痣が、また少しだけ目に入る。湊は無意識に拳を握っていた。早く終わってくれ、と喉の奥で思う。これ以上彼女に触れさせたくないのに、いまここで止めたら、たぶん何も届かない。
栞はテーブルの封筒へ手を伸ばした。
便箋を引き抜く手つきがひどくぎこちない。そこに書かれた字が、すでに知っている誰かのものだとわかった瞬間、彼女の目に涙が浮く。
でも、ちゃんと読む。
「……栞へ」
声はかすれていた。
「最近、少しだけ、君の前でうまく笑えない日がある」
そこで、栞の声が詰まる。
部屋の空気が、静かに震えた。
紫月が背後から、ごく低く言う。
「その先を、無理に読まなくていいです。もう届きますから」
届く。
その言葉が落ちた瞬間、鏡の曇りがふっと深くなった。
手の跡はまだ一つのまま。その下に、もう一つ何かが浮かぶかと思って、湊の背中に緊張が走る。けれど増えなかった。
代わりに、手の跡の指先が、ごくわずかに下へずれた。
押しつけるのではなく、離れるみたいに。
その動きに合わせて、栞が息を呑む。
「……わかった」
涙声で、彼女が言う。
「気づいてたんだ。わたしが痛いの、ちゃんと」
紫月の手が、肩からそっと離れそうになって、また留まる。
「ええ」
「なのに、わたし……平気って言ってた」
栞の声が震える。
「言えば心配かけると思って。忙しそうだったし、大丈夫だよって言うから……それで終わりにしてた」
その言葉は誰に向けたものなのか、はっきりしなかった。悠生に対してでもあるし、自分自身に対してでもあるのだろう。
紫月が静かに促す。
「なら、いま言ってください」
「……何を」
「言えなかったことを」
部屋が、しんとする。
湊は鏡を見つめたまま、胸の奥がゆっくり締まっていくのを感じていた。たぶんもう少しだ。あと少しで、この気配は形を変える。
栞は便箋を握りしめたまま、目を閉じる。
「痛かった」
零れた声は、泣き声に近かった。
「ずっと少しずつ痛かった。肩も、たぶん、ほかのことも」
鏡の曇りが、微かに揺れる。
「でも、平気なふりしてた。あなたが大変そうで、言えなかった。わたしも、ちゃんと言えなかった」
言葉が落ちるたびに、部屋の張りつめたものが少しずつほどけていくのがわかる。
見ていた。
見てほしかったわけじゃない。
でも、気づいてほしかった。
そういう面倒な感情の結び目が、ようやく人の言葉に触れて、ひとつずつほどかれていく。
栞は鏡を見たまま、涙を拭わなかった。
「それから」
喉を震わせて、続ける。
「もし、距離を置きたいって言われてたら、たぶん傷ついたと思う。でも、ちゃんと聞いた。聞けたよ。いまなら」
湊は息を止める。
その言葉に反応したみたいに、鏡の手の跡がふっと薄くなる。
消える、のではない。力を抜くみたいに、曇りの奥へ沈んでいく。
紫月が、最後に言った。
「栞さん。出かける前、いつもここで鏡を見ていたでしょう」
「……はい」
「なら、いつももらえなかった言葉を、いま受け取って」
その瞬間、鏡面の曇りが、すっと縦に流れた。
誰かが内側から掌を滑らせたみたいに。
そして、ほとんど声ではないのに、確かに意味だけが部屋へ落ちてきた。
――いってらっしゃい。
湊は、ぞくりとした。
耳で聞いたわけじゃない。聞こえたと断言するには曖昧すぎる。けれど、意味だけが胸の内側へ静かに入ってきた。見送る言葉。最後まで言えなかったはずの、ごく普通の、だからこそ一番残ってしまった言葉。
栞が泣きながら笑うみたいな顔になる。
「……うん」
掠れた声で、彼女は言った。
「行ってくる、じゃないな。もう、違う」
そこで一度、言葉を探す。
紫月は急かさない。
湊も動かなかった。ただ、鏡を見ていた。手の跡はもうほとんど残っていない。白い曇りの向こうに、ごく薄い輪郭があるだけだ。
栞は便箋を胸に抱え、静かに言う。
「受け取ったよ。ちゃんと。だから……安心して」
涙が一筋、頬を落ちる。
「わたしも、平気なふりばっかりしない」
その言葉が、最後の鍵だったのかもしれない。
鏡の曇りが、ふっとほどける。
手の跡は、今度こそ増えずに、にじむように消えた。押しつける形ではなく、ただ光の中へ溶けていくみたいに。部屋のどこにあったのかわからない視線の気配も、ソファの背後も、ダイニングの境目も、玄関へ続く見送りの線も、いっせいに静かになる。
終わった、と思った。
派手な音もなければ、何かが弾けるような変化もない。ただ、ずっと薄く張っていた膜がようやく取り払われて、部屋が本来の広さに戻った。それだけだ。
それだけなのに、湊はさっきまでより深く息を吸えた。
「……桐生さん」
振り返ろうとして、声が止まる。
紫月の手が、ソファの背にもたれかかっていた。
大きく崩れたわけじゃない。でも、明らかに力が抜けている。手首の痣は袖口から半分以上覗いていて、色がひどく濃い。
「っ」
考えるより先に、湊はそちらへ回り込んでいた。
「大丈夫ですか」
「……ええ」
答える声が、少しかすれる。
全然大丈夫に見えない。
思わずその腕を支えると、紫月の体温は思ったより低かった。冷たい、というほどではない。でも、人の手としては少しだけ温度が足りない。
彼女は一瞬だけ目を細めて、それから諦めたみたいに小さく息をつく。
「今回は、だいぶ素直でしたから」
「何がですか」
「残っていたものが、です」
そんな言い方をする余裕がまだあるのかと、少し腹が立つ。けれどその腹立ちの底に、安堵が混ざっているのもわかってしまって、うまく怒れない。
栞がソファから立ち上がる。
「桐生さん、大丈夫ですか」
「平気です。少し休めば」
紫月はそう言ったあと、テーブルの上を見た。
古い瓶は、もうただの小瓶にしか見えなかった。未開封だったほうのオイルも、封筒も、そこに残っているのに、さっきまでみたいな圧はない。重たいのはもう物そのものではなく、中に入っている言葉のほうだけだ。
「それは、今夜か、明日でいいので、ちゃんと最後まで読んでください」
紫月が封筒を見て言う。
「読んだあと、しまわないで。見える場所に置くか、必要なら燃やしてもいい」
「……はい」
「オイルは使ってください。もともと、そのためのものですから」
栞は未開封の瓶を見つめて、ゆっくりうなずいた。
「使います」
それから、便箋を両手で包んだまま、湊と紫月のほうを見た。
「……ありがとうございました」
その言い方には、まだ泣き声の名残がある。でも、さっきまでみたいな、どこへ向ければいいのかわからない苦しさだけではなくなっていた。
「わたし、怖かったんだと思います」
栞が言う。
「見られてるのも。でも、それ以上に、何も知らなかったかもしれないことが」
紫月は静かに聞いている。
「でも、知らなかったんじゃなくて……たぶん、お互いに隠してただけなんですね」
その言葉に、湊は息をつく。
そうなのだろう。
悠生は弱っていることを隠し、栞は痛みを隠した。気遣いのつもりで黙ったもの同士が、最後には相手の様子ばかり見て、言葉だけを置き去りにした。その残りが、あの鏡にも、瓶にも、部屋の空気にも残っていた。
「ええ」
紫月がようやく答える。
「だから、届いてよかった」
その一言だけで、栞の目からまた涙が零れた。けれど今度のそれは、さっきまでの怯えとは少し違って見えた。
部屋を出るころには、外はもう夕方の色になっていた。
廊下へ出ると、さっきまでの息苦しさが嘘みたいに薄い。マンションの外階段を降りる途中、湊は何度も紫月の横顔を見た。彼女は何事もなかったみたいに歩いている。でも、手首の痣も、少し遅い呼吸も、見えてしまう側からすれば誤魔化しきれていなかった。
マンションの前まで来たところで、栞がもう一度頭を下げる。
「本当に、ありがとうございました」
「こちらこそ」
紫月はいつもの店主らしい微笑みをつくる。
「もし肩がひどいときは、今度は普通に予約してください」
その言い方に、栞が少しだけ笑った。
「はい。……今度は、ちゃんと痛いって言います」
「それがいいです」
短いやりとりだった。けれどそれだけで、この話はもう終わっていい気がした。
栞がマンションへ戻っていく背中を見送りながら、湊はふいに気づく。
見送る、という行為が、さっきまでと少し違って見える。
黙って目で追うだけじゃなく、言葉があって、戻ってくる場所もあって、初めてただの見送りになるのだ。
「……桐生さん」
栞の姿が見えなくなってから、湊は低く呼んだ。
「なんですか」
「手首、見せてください」
紫月は露骨に嫌そうな顔はしなかった。ただ、ほんの少しだけ目元がやわらかく曇る。
「見せたところで、何も変わりませんよ」
「それでもです」
自分でも驚くくらい、声が強かった。
紫月は数秒だけ黙って、それから諦めたように袖を少し上げた。
痣は、思っていたよりひどかった。白い手首の内側に、細い指で掴まれたような紫が幾重にも滲んでいる。怪我というより、触れた感情の濃さがそのまま跡になったみたいな色だった。
胸の奥が、ひどく嫌なふうに疼く。
「……毎回ですか」
「毎回ではありません」
「でも、こういうのがあるんでしょう」
問い詰めるみたいになってしまう。
紫月は目を逸らさない。
「ええ。多少は」
「多少って」
「湊くん」
静かな声だった。
「それを気にしすぎると、わたしは仕事になりません」
もっともらしい言い方だ。正しいのかもしれない。でも、正しいから納得できるわけでもない。
「だったら、一人でやらないでください」
言ってから、自分で少しだけ目を見開く。
紫月も、ほんのわずかに意外そうな顔をした。
「……一人でって」
「今日だって、あの部屋、最初から一人じゃ危なかったでしょう」
勢いのまま続ける。
「俺が何をできるかはまだわからないですけど、少なくとも見てるだけよりはましです。呼ばれたら動けるし、鏡も見られるし、ああいうとき支えるくらいはできます」
言葉にすると、妙に恥ずかしい。自分で自分を売り込んでいるみたいだ。でも一度口にしたら、もう止められなかった。
「それに」
少し息を吸う。
「もう、知らないふりで帰るの無理です」
紫月が黙る。
街灯がぽつぽつ点きはじめた通りに、しばらく風の音だけが抜ける。
やがて彼女は、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「……それは、困りましたね」
「困らないでください」
「でも、本当に危ないこともありますよ」
「知ってます」
「巻き込まれ体質ですし」
「それは今さらです」
言い返すと、紫月の目がわずかにやわらいだ。
最初にサロンで会ったときより、少しだけ人間らしい顔だった。綺麗で、どこか年齢のわからないひとではあるけれど、その奥に、ちゃんと疲れていて、少しだけ安心したような気配が見える。
「……少しだけなら」
やがて彼女は言った。
「付き合ってもらうかもしれません」
その言い方が、前に聞いたときよりずっと軽くなかった。
社交辞令でも、気まぐれでもない。ちゃんと一度考えて、少しだけこちらへ預けると決めた声だった。
湊はそれに、短くうなずく。
「はい」
それで十分だった。
通りの向こうでは、夕方の車がいつもどおりに流れている。人も歩いている。どこにでもある日本の街のはずなのに、石畳に似た歩道の色や、古い建物の影が少しだけ異国みたいに見えた。
その横で、紫月がいつもの調子に戻ったみたいに言う。
「ではまず、温かいものでも飲みましょうか。さすがに少し疲れました」
湊は思わず息をつく。
「最初からそう言ってくださいよ」
「言いましたよ。少し休めば平気だと」
「それ、言ってないのとあんまり変わらないです」
「そうですか?」
「そうです」
そんなやりとりをしながら歩き出す。
夜の手前の風は少し冷たくて、でももう、背中を見られている感じはしなかった。
ただ、胸のどこかに、小さな引っかかりだけが残っている。
渡しそびれたものは、ちゃんと届いた。 言いそびれた言葉も、ようやく言葉の形になった。 けれど、そのたびに紫月の手首には痣が残る。
あの静かな痛みを、次も見過ごせる自信はなかった。
だからたぶん、これで終わりじゃない。
終わらないからこそ、湊は彼女の少し前を歩いて、角を曲がる前に一度だけ振り返る。
「桐生さん」
「はい?」
「今度は、無理しそうになったら先に言ってください」
紫月は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。
「善処します」
「それ、信用できない返事です」
「よく言われます」
その笑みが消えないうちに、二人は夕暮れの通りへ溶けていく。
その日のことをあとから思い返すたび、湊はまず、匂いのないオイルのことを思い出す。
香りはなかった。
けれど確かに、誰かが触れたかった優しさだけは、最後までそこに残っていたのだ。
そしてたぶん、自分が彼女の隣に立つことになったのも、あの日、あの“残り方”を見てしまったからだった。




