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彼女の手は、呪いに似ていた。  作者: 森凛


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第八話 ー 空き瓶のセレナーデ(下)

港から戻ったころには、街の灯りはもう雨の名残みたいに滲んでいた。


坂道の石畳は昼間より深い色になっていて、洋館の窓から漏れる明かりだけが、ところどころ水気を残した路面へ細く落ちている。海の匂いはまだ薄くついてきていたが、旧波止場で感じたような張りつめ方は、もうなかった。


サロン・リュヌの前で、橘は一度だけ立ち止まった。


白布に包まれた青い瓶と、手鏡の入った箱を両手で抱えている。その持ち方が、最初に店へ来た日の“どうすればいいかわからないから、とりあえず両手で持っている”感じとは少し違って見えた。


「ここで大丈夫です」橘が言う。


紫月は頷いたが、すぐには扉を開けなかった。


「今夜、鏡の前に立つなら」


「正面には立ちません」


橘が、先に答える。


その返事に、紫月の目がほんの少しだけやわらいだ。


「ええ。それでいいと思います」


橘は一瞬だけ迷うように口を閉じて、それから静かに続けた。


「……怖くないわけじゃないです。でも、たぶんもう、“見られるために立つ”のと、“自分で見るために立つ”のは違うんだって、少しだけわかった気がします」


紫月はそれにすぐ返事をしなかった。

かわりに、橘の抱えた箱と瓶へ一度だけ視線を落とし、それからまた本人を見る。


「わからなくなったら、また来てください」


「依頼がなくても?」


橘の問いは、半分だけ冗談めいていた。

けれど本気でもあったのだろう。ここへ来ることが、“何かがおかしくなったときの相談”だけではない形になるのかを、確かめるみたいな訊き方だった。


紫月は少しだけ瞬きをして、それから言う。


「ええ。そういう日があっても、たぶん構いません」


橘は小さく笑った。

疲れているのに、前よりもずっと力の抜けた笑い方だった。


「ありがとうございます」


それだけ言って、彼女は坂の上のほうへ歩いていく。

手鏡と瓶を抱えた背中はまだ細く見えたが、見送っているあいだに不安だけで折れてしまいそうな感じは薄かった。夜の中へ戻っていくというより、自分の家へ、自分の足取りで帰っていく人の背中だった。


その姿が角を曲がって見えなくなってから、紫月がようやくドアノブへ手をかける。


「入りますか」


「送るつもりだったけど」


「ここまでで十分です」


「その台詞、何回目だろうな」


「数えているんですか」


「数えたくもなるさ」


扉を開けると、店の中は昼間と同じ匂いの薄さで静まっていた。

外の海気を引きずってきた身体には、その静けさが少しだけ不自然なくらいだった。


紫月は玄関を閉めたあと、すぐには奥へ進まない。

背を扉へ預けたまま、ほんの短く目を閉じる。


「……やっぱりきついじゃん」


低く言うと、紫月は目を開けた。


「少しだけです」


「もう聞き飽きた」


「でも本当です」


「本当でも嫌だ」


そう返すと、紫月は困ったように目を細めた。

その表情を見ると、さっきまで港で立っていた緊張が少しだけ解ける。完全には解けない。手首の痣も、顔色の薄さも、消えていない。けれど、この人がもう無理をしなくていい場所へ戻ってきたのだとは思えた。


「お茶くらい淹れる」


「客扱いが雑ですね」


「客じゃないって言ってたの、そっちだろ」


「説明しにくい関係、でした」


「便利な言い回しだなそれ」


言いながらキッチンへ向かう。

湯を沸かす音がしはじめると、店はようやく“怪異のあと”ではなく、ただ夜に入る前のサロンの静けさへ戻っていく。


湊は湯気の立ち上がるやかんを見ながら、旧波止場のことを思い出していた。

待ち続けた想い。返せなかった瓶。間に合わなかった夕方。

あれは鏡のように、人を形の中へ閉じこめる怪異ではなかった。もっと曖昧で、もっと優しい顔をした執着だった。そのぶん、自分の中に重ねやすい。橘が言ったみたいに、用事なんてなくても会いたい相手に、小さな理由をつけてしまうような感情に。


だから、少しだけ厄介だった。


「……何ですか、その顔」


急須を用意しながら、紫月が言う。


「また見てるなと思って」


「見られたくないわけではありません」


「じゃあ倒れそうなら先に言って」


「善処します」


「だから信用できないって」


やり取りはいつも通りなのに、その“いつも通り”の中へ、今日の港で見えたものがまだ薄く残っている。

紫月は人の残した感情をほどく。でも、自分のものはほとんど言葉にしない。

それでも最近は、完全に隠しきれなくなっている気がする。港で彼女が言った“できなかったから、今こうしているのかもしれません”という言葉が、湯気みたいにまだ胸の内側へ残っていた。


そのころ、橘は自宅の二階の廊下に立っていたのかもしれない、と湊はふと思う。


化粧部屋の扉の前。

手鏡の箱と青い瓶を抱えたまま、一度だけ呼吸を整えてから、中へ入る。

鏡の正面には立たない。少しだけずれた場所に足を置いて、自分の顔を見る。百合子に似ているかではなく、母に似ているかでもなく、今夜の自分が疲れていることや、泣きそうで泣かなかったことや、それでも帰ってこられたことを確かめるために。


そうやって、同じ鏡の前でも別の立ち方を覚えていくのだろう。


紫月が湯呑みを二つ運んでくる。

一つをテーブルへ置き、もう一つを自分の前へ。いつもより少し慎重な手つきだった。


「今日は」


湯呑みに触れながら、紫月が言う。


「橘さんがいてくれてよかったです」


「珍しいな。ちゃんと言うんだ」


「あなたがいないと沈んでいた、のほうがいいですか」


「それも嫌だけど」


思わず返すと、紫月はほんの少しだけ笑った。

その笑い方が、前より少しやわらかい。支えられることを受け入れた人の顔に近いのだと、たぶん湊はもう気づいていた。


店の外では、夜が静かに降りてくる。

港も、坂道も、洋館の窓の灯りも、もう見えなくなる頃だろう。


けれど、見えなくなったからといって、今日あったことがなくなるわけではない。

橘には橘の夜があり、紫月には紫月の夜があって、自分にもたぶん、自分のぶんだけ残るものがある。


それぞれ別々の場所へ帰るのに、同じ出来事が静かに滲んでいる。

そんな夜の重なり方を、湊はまだうまく説明できなかった。

ただ、サロン・リュヌの薄い灯りの中で湯気の立つ湯呑みを見ていると、それで十分な気もした。


翌朝のサロン・リュヌは、いつもより少しだけ光がやわらかく見えた。


昨夜のうちに雨は落ちきったらしく、窓の外の坂道には細い水筋だけが残っている。港のほうから上がってくる風も、塩気はあるのに重くない。海の近い街の朝というより、ようやく一晩分だけ眠れた家の朝の空気に近かった。


湊が扉を開けると、店内にはまだ客の気配がない。


奥の小さなテーブルで、紫月が何かを書いていた。

薄いクリーム色のカードを一枚、左手で押さえ、右手で細いペンを動かしている。字を書くときだけは、彼女の手つきは妙に慎重だ。誰かの身体に触れるときとは違う種類の集中がある。


「早いですね」


顔を上げずに言う。


「そっちも」


「今日は開店前に少し片づけたくて」


湊は曖昧に頷きながら近づいた。

テーブルの脇には、小さな紙袋が置いてある。港の件のあと、橘が持って帰ったはずの青い瓶も手鏡もない。かわりに、淡い灰青色のリボンで口を軽く留めた包みと、手のひら大のカードが封筒に差し込まれていた。


「橘さん?」


訊くと、紫月がようやくペンを置く。


「朝いちばんで寄っていかれました」


「会えなかったな」


「大学がある時間でしょう、普通は」


その返し方がいつも通りで、少しだけ肩の力が抜ける。

けれど紫月の顔色は、昨夜よりはましでも、完全には戻っていない。右手首を隠す袖口がわずかに下がっていて、その内側に淡い痣の色がまだ残っているのが見えた。


「それ、見てますね」


すぐに言われる。


「見える位置にあるから」


「見えない位置にしておくべきでしたか」


「そういう話じゃないだろ」


湊が低く返すと、紫月は少しだけ目を細めた。笑いそうで、笑いきらない顔だった。


「橘さん、どうだった」


「昨夜は、ちゃんと自分の部屋で眠れたそうです」


紫月は封筒へカードを差し込みながら言う。


「化粧部屋の鏡も、朝一度だけ見たと。正面ではなく、昨日と同じ位置から」


「で?」


「何も映らなかったそうです」


それはたぶん、いい意味での“何も”なのだろう。湊は喉の奥で小さく息をつく。鏡の中に立たされるような感覚も、肩越しの視線も、少なくとも今朝は戻らなかったということだ。


「それで、これを」


紫月が紙袋のほうへ視線を落とす。


「お礼ですって」


「何が入ってる」


「まだ開けていません」


「開けてないのかよ」


「後で、湊くんが来てからと思って」


その言い方に、一瞬だけ返事が遅れる。別に深い意味があるわけではないのだろう。単に一人で先に開ける気にならなかっただけかもしれない。けれど、そういう小さな“待ち方”が増えたことに気づいてしまうと、なんとなく落ち着かなくなる。


湊は紙袋を手に取った。軽い。中には小さな箱が一つだけ入っている。包みをほどくと、薄い硝子の小瓶が現れた。青い瓶ではない。透明なガラスに、白い花の押し模様が一輪だけ入っている。中身はないが、香りの記憶だけがごく淡く残っているように見えた。


「香水瓶?」


「ええ。橘さんのお店にあったものだそうです。売り物にできるほど状態はよくないけれど、もしここに置いてもらえるなら、と」


湊は小瓶を光にかざす。

欠けはないが、口縁が少しだけ擦れている。長く誰かの化粧台に置かれていたものの磨耗だ。青い瓶みたいな濃い気配はない。ただ、使われて、手に取られて、それから静かに役目を終えた物の落ち着きがある。


「置くのか」


「たぶん」


紫月は頷いた。


「預かる、というほど仰々しいものでもありませんし」


「依頼人から物もらうの、珍しいな」


「そうですね」


短く答えたあと、紫月は少しだけ間を置いた。


「でも今回は、“もう見られるだけの人ではいたくない”という返し方なのかもしれません」


湊は小瓶をテーブルへ戻す。

その言い方は、いかにも彼女らしかった。お礼をお礼としてだけ受け取らず、その人がどんな距離の置き方を選んだのかまで見てしまう。


橘はもう、ただ守られる側の客ではないのだろう。

怪異に触れて、崩れかけて、それでも自分の足で立ち直る位置を選んだ。だからたぶん、あの人はこれからも時々ここへ来る。依頼があるときだけではなく、自分の立ち位置を確かめるために。


「……何ですか」


紫月が湊を見る。


「いや」


「いま、変な顔をしました」


「どっちが」


「湊くんが」


即答だった。


「橘さんのこと、少し安心しましたか」


図星を静かに刺されて、湊は眉を寄せる。


「まあ、少しは」


「よかったです」


その“よかった”が、依頼が片づいたことへの安堵だけに聞こえなかった。

港での一件を経て、橘との距離も少し変わった。その変化ごと、紫月は静かに受け入れているように見える。


窓の外で、自転車のベルが一度だけ鳴る。

街はもう朝を通り過ぎて、昼へ近づきはじめていた。けれど店の中だけは、まだ昨夜の余韻を半歩だけ残している。海の匂いは消えたのに、言いそびれたものや返しそびれたものの形だけが、目に見えない薄さで漂っていた。


「昨夜の瓶」


湊が口を開く。


「橘さんに預けてよかったのか」


紫月はすぐには答えなかった。

小さな香水瓶の位置を少しだけ整えてから、ようやく視線を上げる。


「よかったと思います。あれを“怖かったもの”として切り離すだけだと、百合子さんの鏡と、やり方が少し似てしまうので」


「見ないで済ませる感じか」


「ええ」


静かな声だった。


「橘さんは、見たうえで、自分の置き方を選びはじめています。全部忘れなくてもいいし、全部抱える必要もない。そういう中間の位置を、たぶん覚えていくんでしょう」


その言葉に、湊はふと、昨夜の港で紫月が瓶を抱えていた姿を思い出す。

返せなかったもの、待ち続けたもの、言えなかったもの。そういう“残りすぎた感情”に触れる人が、忘れることより置き直すことを選ばせるのは、ある意味で残酷でもある。きれいに終わらせてはくれないからだ。


でもたぶん、それがいちばん正しい。


「……で、そっちは」


湊は視線で彼女の手首を示す。


「今日はどのくらい無理してる」


「朝から失礼ですね」


「してないって言うなら信用しない」


「少しだけ、です」


「その返事も信用しない」


低く返すと、紫月は目を伏せる。

困ったようで、でも前ほど頑なではない沈黙だった。


「昼までは大人しくしています」


「ほんとかよ」


「本当です」


「じゃあ、その“本当”が破られそうになったら止めるから」


そう言うと、紫月は一瞬だけ言葉を失ったみたいに瞬いた。

それから、ごく小さく笑う。


「最近、ずいぶん自然にそう言いますね」


「そっちが止めさせるようになったんだろ」


「……そうかもしれません」


否定しなかったことのほうが、湊には少し意外だった。


サロン・リュヌの朝は、そのあともしばらく静かなままだった。

小さな香水瓶が窓辺の光を拾い、紙袋の脇には橘からの短いカードが置かれている。

怪異が去ったあとに残るのは、いつも何かの痕跡だ。けれど今回は、それが恐れだけではなく、少しだけ“戻ってきてもいい場所”の印みたいに見えた。


その日の午後、橘がもう一度サロン・リュヌを訪れたのは、日が傾きはじめる少し前だった。


来客を告げる鈴の音は控えめで、けれど前回までのようなためらいの長さはなかった。扉が開いて、やわらかい色のワンピースに薄いカーディガンを羽織った橘が入ってくる。髪は相変わらず丁寧に整えられていたが、その整え方に、誰かの視線へ先回りするような硬さが少し減っている。


「こんにちは」


橘のほうから先に言った。


それだけのことなのに、湊は一瞬だけ目を瞬いた。最初にここへ来た頃の彼女なら、もう少し呼吸を整えてから、相談のための言葉を探すみたいに口を開いたはずだった。


「いらっしゃいませ」


紫月がいつもの調子で返す。

静かな声だったが、ほんのわずかにやわらかい。客に向ける営業用の柔らかさではなく、一度崩れた姿を知っている相手へ向ける響きだった。


橘はソファの前まで来て、それから少しだけ困ったように笑う。


「……今日は、相談というほどのものではないんですけど」


「そういう日があっても構いませんと、この前言いました」


紫月がさらりと言う。

その返し方が自然すぎて、湊は少しだけ可笑しくなる。最初からこういう距離感だったみたいに聞こえるのに、ほんの数日前までは、橘は鏡の前で立つことさえ誰かに奪われかけていたのだ。


橘はソファへ腰を下ろした。

今日はバッグも膝の上へきちんと揃えず、横へ軽く置く。そんな小さな動作の緩みが、前よりも“客”ではない感じを作っていた。


「でも、報告はしたくて」


「何かありましたか」


「ありました、というほど大きなことじゃないんです」


そう前置きしてから、橘は少しだけ目を伏せる。


「昨日の夜、化粧部屋の鏡の前で……少しだけ、髪を結び直したんです」


湊は黙って聞く。

それが、彼女にとってはたぶん小さくないことなのだと、すぐにわかったからだ。


「前なら、鏡の前に立つだけで肩が上がってしまっていたんですけど、昨日は、一度だけ深呼吸して、それから自分で結びました。ちゃんと左右が揃っているかも見たし、直したいと思ったところは直しました。でも」


橘はそこで、わずかに口元を緩める。


「誰かに見せるために整えている感じが、少しだけなかったんです」


紫月の目が静かに細くなる。


「よかったです」


「はい」


橘は頷いた。

 その頷き方も、前より素直だった。大袈裟に喜んでほしいわけではなく、でも自分の中ではたしかに変わったのだと、静かに置いていく感じがした。


「あと……母の部屋も、少しだけ片づけました」


そう言ってバッグから小さな封筒を取り出す。

薄いベージュ色の古い封筒で、角だけが少し丸くなっている。


「写真が二枚、出てきたんです。百合子と、その隣に立っている人の」


湊は思わず姿勢を正した。

紫月もすぐには手を出さない。ただ、橘の指先の置き方を見ている。


「見ますか」


紫月が訊くと、橘は一瞬だけ迷ってから頷いた。


「はい。でも……たぶん、今日は見てもらうだけで大丈夫です。前みたいに、持っていかれる感じはしないので」


その言い方に、湊は少しだけ息をつく。

“怖くない”ではなく、“持っていかれない”。怪異に一度触れた人間の言い方だった。自分の感覚を雑に否定せず、でも全部を脅威とも呼ばない。


紫月が封筒から写真を取り出す。

モノクロの、少し色褪せた写真。若い女が二人、港らしき場所を背に並んで立っている。片方は、肖像画の女――百合子で間違いない。もう一人は少し年上に見え、輪郭だけなら橘の母に似ている気もした。


「姉妹、ですかね」


湊が言うと、橘が首を振る。


「いえ。手帳の走り書きからすると、たぶん知り合い……か、もっと近い人か」


もっと近い、という言い方が曖昧で、だからこそいろいろな可能性を含んでいる。

紫月は写真を指先で支えたまま、小さく頷いた。


「海の匂いは薄いですね」


「もう大丈夫そうですか」


「ええ。少なくとも、ここへ持ってくる途中で何かに引かれた感じはありませんでした」


その返事に、橘の肩から少しだけ力が抜ける。


「よかった」


ほとんど独り言みたいな声だった。

でもそれを聞いて、湊はふと、彼女がもう“自分だけで抱えて確認しに来る人”ではなくなりつつあるのだと思う。ちゃんと誰かと共有して、返事を待てるようになっている。


沈黙が落ちる。

重くはない。港の件を挟む前なら、こんなふうに三人で何も言わない時間は、もっと居心地が悪かったはずだった。


「そういえば」


橘が顔を上げる。


「この前いただいた小瓶、窓辺に置いてみたんです」


窓辺、という言葉に湊は朝見た透明なガラス瓶を思い出す。


「似合ってました?」


湊が何気なく訊くと、橘が少しだけ笑った。


「ええ。思ったより」


「それはよかったです」


紫月が淡く返す。

そのやり取りがあまりにも普通で、湊は妙な気分になる。怪異の相談の延長線上にあるはずなのに、少し前までここにあった張りつめた“依頼人と施術者”の距離が、いつの間にか半歩だけほどけている。


橘はソファの背へ浅くもたれた。


「ここ、静かですね」


ふいにそう言う。


「最初に来たときは、静かすぎて緊張しました。でも今は……なんというか、ちゃんと物音のある静けさに聞こえます」


湊はその表現に少し驚く。

たしかに、サロン・リュヌの静けさは、怪異の前と後で少し質が変わる。いまは遠くで湯の沸く音がして、窓の外を誰かが通る気配もある。ただ無音なだけじゃない。


「いい変化ですね」


紫月が言う。


「はい」


橘は頷いて、それから少しだけ視線を泳がせた。


「……また、来てもいいですか」


静かな声だった。

依頼のためではなく、と説明しなくても伝わる訊き方だった。


紫月はほんの一瞬だけ瞬きをして、それからいつもの調子で答える。


「ええ。構いません」


「何も持ってこなくても?」


「できれば、ご自身だけで」


その返しに、橘が声を立てずに笑う。湊もつられて少しだけ口元を緩めた。


たぶん、こういうふうに話せるようになったこと自体が、すでに一つの回復なのだろう。鏡の前で立つ位置を選び直したみたいに、人との距離もまた、自分で決め直せるようになってきている。


窓の外では、午後の光が少しずつ傾きはじめていた。

港の潮気はもう届かない。けれどあの夕方を通ってきた気配だけが、三人のあいだに薄く残っている。

それは怪異の残滓というより、いったん崩れた関係が、前と同じではない形で静かに置き直されたあとの余韻に近かった。


橘が帰ったあと、サロン・リュヌの中には、少しだけ水気を含んだみたいな静けさが残った。


扉の鈴はもう鳴り終えている。

坂を上がっていく足音も、窓の外のざわめきへ溶けてしまった。それでも、さっきまでそこにいた人の気配だけが、ソファの背やテーブルの縁へ薄く残っている。怪異の名残というほど重くはない。ただ、誰かがちゃんと自分の足で出ていったあとの、空いた場所の温度に近かった。


テーブルの上には、橘が見せてくれた古い写真が二枚、まだそのまま置かれている。


百合子と、もう一人の女性。

港らしき背景。古びたモノクロの中で、二人ともこちらを見てはいない。少しだけ斜めを向いて、何かが来るのを待っているような、あるいはもう見送ったあとの風景を見ているような曖昧な横顔だった。


紫月は、その写真をすぐには片づけなかった。

いつもの彼女なら、依頼人が帰ったあとのものはもう少し手早く整える。けれど今日は、紙の端へ触れるだけで、まだ何か考えているのがわかる。


「疲れた?」


湊が訊くと、紫月は写真から目を離さないまま答えた。


「はい」


あまりにも素直だったので、一瞬言葉に詰まる。


「……珍しいな」


「嘘をつく元気がないだけです」


低い声だった。

冗談めいているようで、本当にそうなのだろうと思う。顔色は昼より少し薄い。袖口の奥に隠れた痣も、たぶんまだ消えていない。


湊はテーブルの端へ腰を預ける。

窓の外では、昼から午後へ移る光がガラスにやわらかく滲んでいる。海の匂いはもうここまで上がってこない。それなのに、港の夕方で感じた“間に合わなかった時間”だけが、まだ身体のどこかへ薄く残っていた。


「橘さん、変わったな」


思ったまま口に出すと、紫月がようやく顔を上げた。


「ええ」


「最初に来たとき、入ってくるだけで息止めてる感じだったのに」


「今日は、少しだけ呼吸の仕方を知っている人の顔でしたね」


その言い方が、いかにも彼女らしいと思う。

治ったとか、救われたとか、そういう大きな言葉をすぐには使わない。ただ、どこが前と違って見えたのかだけを、淡く拾う。


「でも、あれで終わりじゃないんだろ」


「終わりではないと思います」


紫月は写真の一枚を持ち上げた。

百合子の横顔が、午後の光の中で少しだけ白く見える。


「鏡の前に立つ位置を選び直したからといって、今まで染みついたものがすぐ全部ほどけるわけではありませんから。たぶん、これから何度も迷うでしょうし、嫌になる日もあるでしょう」


「それでも、来るって言ってた」


「ええ」


紫月は小さく頷く。


「“依頼がなくても”と訊いたときの顔が、少しよかったです」


湊は思わず笑いそうになる。


「よかったって」


「居場所を、“問題が起きたときにだけ来る場所”から、少しだけずらせた顔でした」


そう言われてみれば、たしかにそうだった。

鏡の前で正面から半歩ずれたみたいに、ここへ来る理由も、怪異に引かれてくるだけのものではなくなりつつある。あの人はもう、ただ“見られる側”ではないのだろう。


写真の脇には、橘が置いていった小さな香水瓶が、窓辺の光を拾っている。

透明なガラスの中は空なのに、何かを使い切ったあとの静かな輪郭だけが残っている。


湊はそれを見ながら、ぽつりと言う。


「今回のって、結局なんだったんだろうな」


紫月が少しだけ首を傾ける。


「どこまでのことを指していますか」


「鏡も、港も、橘さんも」


曖昧な訊き方だった。

でも、それ以上細かく分けてしまうと、逆に本筋が逃げる気がした。


紫月はすぐには答えなかった。

写真をそろえ、小さな香水瓶へ視線を移し、それから窓の外の明るさを一度だけ見た。


「……見られることと、見届けることの違いかもしれません」


静かな声だった。


「百合子さんは、ずっと見ていた。でも、相手が何を感じているかまでは見ていなかった。港に残っていた人は、たぶん会えなかったけれど、それでも返そうとした事実だけは届いた。橘さんは、その両方を通って、自分がどこに立つかを決め直しはじめた」


湊は黙って聞く。


「見られるだけで終わると、人は自分の輪郭を誰かの視線へ預けてしまう。でも、見届けるほうへ少しでも寄れれば、同じ場所でも立ち方が変わる」


そこまで言って、紫月は目を伏せた。


「……たぶん、そういう話だったんでしょうね」


その“たぶん”に、湊は少しだけ引っかかる。

彼女は人の感情には言葉を当てられるのに、自分に近づくと急に曖昧になる。今の言い方も、橘の話をしているようで、少しだけ違う場所を見ている気がした。


「そっちは」


湊が低く言う。


「ちゃんと見届けられてるのか」


紫月が瞬く。

珍しく、すぐには返事がなかった。


「何をですか」


「自分のこと」


店の中が、そこでひどく静かになる。

外を誰かが通る気配も、湯の冷めていく小さな音も、全部少し遠くなる。そんな沈黙のあとで、紫月はようやく薄く笑った。


「難しいことを聞きますね」


「そっちが先に難しい話したんだろ」


返すと、彼女は困ったみたいに目を細める。


「……全部は、まだ」


その答えは、予想していたよりずっと正直だった。


「でも、前よりは少しだけ」


湊はそれ以上追わなかった。

追えば、たぶん今のこの人はまた一歩ぶんだけ引く。そういう加減を、最近ようやく覚えはじめた気がする。


かわりに、テーブルの上の写真を封筒へ戻し、小さな香水瓶を窓辺へ少しだけ寄せた。

そこに置くと、瓶の中を通った光が、机の上へ薄い影を落とす。何も入っていないはずなのに、長く使われたものにだけ残る輪郭のせいか、空っぽには見えなかった。


紫月が、その手元を見る。


「自然に片づけますね」


「置き方、うるさそうだったから」


「うるさくはありません」


「こだわりはあるだろ」


「少しだけ」


その“少しだけ”に、湊は小さく笑う。

彼女の言う少しだけは、たいてい少しではない。


窓の外では、午後の光がゆっくり傾きはじめていた。

港へ向かう坂道の先は見えない。鏡のある部屋も、旧波止場の風も、いまはここにはない。それでも、あの数日のあいだにあったことは、サロン・リュヌの静けさの中へ少し形を変えて残っている。


怪異はほどけても、そこで生まれた関係までは消えない。

橘にとってここは、もうただの“おかしくなったときに来る場所”ではないのだろう。

そして、紫月と自分のあいだにも、港の夕方や鏡のひびを挟んだぶんだけ、前とは違う沈黙が増えている。


それはまだ、名前の要る変化ではなかった。

けれど、何も言わなくても同じものを少しだけ抱え直せるようになってきた気がして、湊はその曖昧さをわざわざ壊したくなかった。


紫月が封筒を整え終え、ふっと息をつく。


「お茶、淹れますか」


「さっき飲んだろ」


「もう一度」


「飲みすぎじゃない?」


「そういう日です」


そう言って立ち上がる横顔は、まだ少し白い。

それでも、ひとりで全部を抱えて立とうとしていた頃よりは、ほんの少しだけ、人に見える場所へ出てきているように思えた。


湊はその背を見送りながら、窓辺の小瓶へもう一度目をやる。


空っぽの透明なガラスは、午後の光の中で静かに輪郭だけを保っていた。

何も入っていないからこそ、これから何を置くかは、自分で決められる。

それはたぶん、橘のことだけではなく、ここに残った全員に少しずつ関わる話なのだろう。


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