4. 融けゆく境界と、案内人の焦燥
部屋中を満たす琥珀色の光の粒は、まるで静かな夜空の星屑のように、ゆっくりと旋回しながら紗夜の肩や髪に降り注いでいた。
その光の一つひとつが、ハルの手の温もりや、ストーブの上でコトコトと音を立てていた薬缶の湯気、2人で分かち合った甘いお菓子の味といった、懐かしい記憶の温度を運んでくる。
「それはね、紗夜さん。君がその図案を失われたものとして強く定義してしまったからだよ」
いつの間にか、霧矢がローテーブルのすぐ傍らにまで近づき、紗夜の隣に静かに身をかがめていた。
彼の大きな影が、光り輝く裁縫箱とリネン布を優しく遮るようにして落ちる。
霧矢の丸眼鏡の奥の瞳には、紗夜の流す涙をすべて受け止めるような、深い、深い哀愁と慈しみが宿っていた。
「現実の世界で、おばあさんが亡くなったとき、君の心はあまりのショックの大きさに耐えかねて、おばあさんとの思い出そのものを触れてはならない傷として処理してしまった。
日常の中で刺繍の道具を見るたびに、もうおばあさんがこの世界にいないという冷酷な現実を突きつけられる。だから、君は針を持つのをやめ、この図案を探すことも、心のどこかで諦めて、思考の奥底へと追いやったんだ」
霧矢の、低く、ベルの音のように澄んだ声は、紗夜が自分自身にさえ隠してきた心の最も柔らかい部分を、容赦なく、けれど信じられないほどの優しさで解きほぐしていく。
「君が諦め、記憶の底に沈めて蓋をしてしまったことで、この図案は現実世界での依り代を失ってしまった。
そして、遺された君の――忘れたくない、けれど向き合うのが怖いという、引き裂かれた強烈な未練と想いを燃料にして、この境界の薄い夜の向こう側へと流れ着いたのさ。
つまり、ハルさんの最期の遺品をここに呼び寄せ、現実に存在しないはずの形を与えたのは、他ならぬ君の心そのものなんだよ、紗夜さん」
「私の……心……」
紗夜は胸に抱きしめた図案を、涙で潤んだ目で見つめた。
ドクン、ドクンと脈打つ琥珀色の光の輪郭線。しかし、どれほど光が強くなろうとも、その中心――最も重要な、大輪の蓮の花が描かれるべき場所だけは、ぽっかりと丸く、何も描かれず、何も縫われず、ただの白い麻布のまま、頑なに沈黙を守っている。
「霧矢さん。おばあちゃんは、この空白に、何を縫おうとしていたんでしょう。何を、私に遺そうとしたの……?」
「それは、僕にはわからない。この世界は君の記憶を映す鏡だ。君自身がその記憶の鍵を開け、思い出さない限り、その空白が自然に埋まることはないよ」
霧矢はそう言うと、ふっと表情を険しくし、図案を抱きしめている紗夜の指先を鋭く凝視した。
「――やはり、僕の懸念通りだ。紗夜さん、自分の手を見てごらん」
霧矢のこれまでにない切迫した声に、紗夜はハッとして、胸元から自分の両手を離して目の前にかざした。
そして、恐怖に息を呑んだ。
驚いたことに、さっきまで布を握りしめていた自分の指先が、ほんの少しだけ透き通って見えたのだ。
手のひらを透かして、下にある畳のい草の模様がうっすらと視認できる。
現実世界での自分の肌が持っていた、生きている人間としての健康的な赤みが急速に失われ、まるでこの夜の向こう側を歩く住人たちのような、輪郭の曖昧な、光を透過する質感へと変化しつつあった。
「霧矢さん、私……身体が……!」
「君は今、現実には存在しないはずの過去の遺物に、あまりにも深く心を同調させてしまっているんだ」
霧矢は躊躇うことなく手を伸ばし、紗夜の透き通りかけた両手を、自らの掌で包み込んだ。
彼の大きな手は、この世界の案内人であるにもかかわらず、驚くほど確かな熱を持っており、紗夜の境界線がこれ以上崩壊するのを必死に繋ぎ止めているようだった。
「長く触れていると、あなた自身がこちら側に引かれる。
君の心が過去の思い出の中にだけ強い居場所を見出し、現実を拒絶してしまえば、君の存在そのものが、この夜の町の一部――すなわち忘れられたものになってしまうんだ。
そうなれば、君はもうあの朝の来る世界へは帰れない。大学へも、君の帰りを待つ現実の生活へも戻れなくなる。ただ、消えゆく記憶の残滓として、この終わらない夜を永遠に彷徨うことになるんだよ」
霧矢の眼鏡の奥の瞳が、焦燥に揺れている。
「僕の本当の役目はね、君のような迷い子を、生きていくべき現実へと安全に送り返すことなんだ。
だから、もう終わりにしよう。その図案を裁縫箱に戻し、僕と一緒にあの路地へ引き返すんだ。
今なら、僕の体温を分け与えれば、まだ現実に滑り込める」
霧矢の言葉は、完璧に正しかった。
ここにいてはいけない。自分は生きている人間で、明日も、明後日も、あの退屈で冷たい現実を歩いていかなければならないのだ。
けれど――紗夜の指は、ハルの図案の布を、どうしても離そうとはしなかった。
「……嫌です」
紗夜は小さく、けれど今までにないほどはっきりと首を振った。
「私、おばあちゃんが最後に何を言おうとしていたのか、どうしても知りたい。
どうしてこの図案が、こんなに温かくて、こんなに寂しそうに光っているのか、その理由から目を背けたくないんです。
それを残したまま、何もなかったことにして現実に戻ったら、私は一生、あの色彩のない世界の中で、心が半分死んだまま、置き忘れられたまま生きていくことになります。それじゃ、生きているのと同じじゃない。帰る意味が、ないんです!」




