3. 涙に滲む琥珀の光
ガラス戸の真鍮製の取っ手には、ハルが魔除け代わりに結びつけていた、色褪せたつまみ細工の鈴がそのまま残っていた。
紗夜は震える手を伸ばし、そのガラス戸をそっと横に引いた。
ガタガタ、と建付けの悪い木枠が、現実と全く同じ、懐かしい拒絶の音を立てて開く。同時に、カランコロンと、低く優しい鈴の音が静かな商店街に響き渡った。
1歩、店内に足を踏み入れた瞬間、紗夜は目眩を覚えるほどの記憶のフラッシュバックに襲われた。
中は、ハルが暮らしていた平屋の居間、そのものだった。
長年の煮炊きで少し茶色く燻された柱。ハルがいつも腰掛けていた、座面が少し破れて平織りのクッションが敷かれた座椅子。部屋の隅で、今や現実では誰も使っていないような、重厚な黒電話が静かに沈黙を守っている。
壁に掛けられた大きな柱時計は、ハルが亡くなったあの日の時間――午後2時15分を指したまま、振り子をピタリと止めていた。
すべてが、紗夜の記憶にある配置のまま、埃1つない状態でそこに存在していた。
そして、部屋の中央に置かれた、使い込まれて角が丸くなった欅のローテーブルの上には、あの漆塗りの裁縫箱が、ぽつんと静かに鎮座していた。
「おばあちゃん……」
紗夜は吸い寄せられるようにローテーブルの前へと歩み寄り、畳の上にぽてりと跪いた。
あの現実の世界の手芸店で、ガラスケースの奥に見かけた美しい裁縫箱とは、明らかに存在感が違っていた。
ここに置かれている裁縫箱は、よりリアルで、圧倒的な、ついさっきまで誰かが使っていたかのような生々しい生活の気配を放っていた。
蓋の表面に施された、青いアゲハ蝶の螺鈿細工。
ハルが何十年もの間、作業の合間に愛おしそうに指の腹で何度も何度も触れていたせいで、アゲハ蝶の羽の端のあたりが少しだけ擦り切れて、下地の黒い漆が覗いている。
その、ハルの指の癖によってできた傷の形さえも、紗夜の記憶の引き出しにあるものと、完全に、寸分の狂いもなく一致していた。
「開けても……いいですか、霧矢さん」
紗夜は振り返らずに尋ねた。彼女の視線は、裁縫箱の小さな真鍮の留め金に釘付けになっていた。
霧矢は部屋の入り口の柱にそっと背を預けたまま、長い、長い沈黙を守っていた。
彼が外で差し出した手を、紗夜は握り直さなかった。現実に引き留めてくれるはずの命綱を振り切って、自らこの記憶の深淵へ踏み込んでしまったのだ。
繋がれぬままの彼の掌は、今も所在なさげに羽織の袖へと隠されている。丸眼鏡の奥の瞳が、暗い室内でどうしようもなく切なげに揺れていた。
やがて、彼は深く息を吸い、静かに、諭すような声で答えた。
「開けるのは君の自由だ、紗夜さん。それは君の記憶から生まれたものだからね」
霧矢の言葉は、静かだが、どこか重い警告を含んでいた。
「けれど、忘れないでほしい。僕の手を離し、その箱を開けるということは、君がこれまで1年以上の間、自分がこれ以上傷つかないために必死に鍵をかけて守ってきた痛みの蓋を開けるということでもあるんだよ。
そこに眠っているのは、美しい思い出だけじゃない。君が現実世界で受け止めきれずに放り出してしまった、生々しい悲しみの残骸でもあるんだ」
「わかっています。でも……」
紗夜は短く答えると、唇を強く噛み締め、意を決して裁縫箱の真鍮の留め金に指をかけた。
カチャリ、と硬質で冷たい音が、静まり返ったハルの部屋に響く。
ゆっくりと、重い蓋を持ち上げた。
その瞬間、箱の中から、堰を切ったようにハルの匂いが溢れ出してきた。
虫除けのためにハルが入れていた樟脳の独特のツンとした香りと、木綿や絹の様々な糸が持つ、少し埃っぽい、けれど強烈に落ち着く、あのハルの家の匂いだ。
2段構造になった箱の上段のトレイには、大小さまざまな針が規則正しく刺さった、ハルお手製の赤いフェルトの針刺し。そして、使い込まれて刃先が少し丸くなった裁縫鋏。
下段の広いスペースには、赤、青、緑、黄色――色ごとに細かく分類され、几帳面に束ねられた刺繍糸の束が、まるで小さな虹の標本のように、ぎっしりと並んでいた。
そして、その色彩豊かな糸たちの下から、1枚の、四折りにされた白いリネン布が顔を覗かせていた。
「見つけた……」
紗夜は震える指先で、その布を壊れ物を扱うようにして取り出した。
両手でゆっくりと広げてみると、それはやはり、ハルが最後に作りかけていた未完成の刺繍の図案だった。
さっきまで歩いていた、あの深い森の奥で見た幻影とは違い、布のざらりとした手触りが、紗夜の指の皮膚に直接伝わってくる。
細い鉛筆の線で、美しい植物の蔓や、今にも開花しそうな瑞々しい花々の輪狂が、ハル独特の丸みを帯びた筆跡で描かれている。
けれど、この部屋にある図案は、森の幻影よりもずっと生々しく、そして異様に変化していた。
描かれた鉛筆の線が、まるで生き物の微細な血管のように、ドクン、ドクンと、紗夜の心拍に呼応するかのような微かなリズムで明滅しているのだ。
その光の色は、最初は冷たい青白さだったが、紗夜が布を掴む力が強まるにつれて、次第に夕陽のような、あるいは暖炉の炎のような、じんわりとした温かみのある琥珀色へと変化していく。
そして、その図案の、すでに糸が通されている部分――。
そこには、ハルが無機質な病室のベッドの上で、震える手で縫い進めた、わずか数センチメートルの赤い糸のステッチがあった。
麻痺しかけた指先を必死に動かし、まるで自分の命の残滓を縫い付けるかのように、執念で遺した最後の足跡。
その赤い糸が、まるで今もそこにハルがいて針を動かしているかのように、微かに布の上で波打つように揺れていた。
「どうして……どうしてこれが、ここにあるの?」
紗夜は図案を自分の胸に強く抱きしめるようにして、ポロポロと、大粒の涙を畳の上にこぼした。
「現実の世界では、おばあちゃんが死んじゃったあと、私がいくら探しても見つからなかったのに。
遺品整理のとき、おじさんたちに『ゴミと一緒に捨てちゃったんじゃないか』って言われて……。
私が一番欲しかったのは、おばあちゃんが最後に触ってた、これだったのに。
どこにもなくて、本当になくなっちゃって、おばあちゃんが私のことなんて忘れて、どこか遠くへ行っちゃったみたいで、すごく、すごく寂しかったのに……!」
紗夜の涙が、抱きしめたリネン布の端に吸い込まれ、小さな濃い染みを作っていく。
すると、図案の放つ琥珀色の光はさらにその輝きを増し、部屋の壁や天井、茶箪笥の表面に、無数の小さな光の粒子を雪のように降らせ始めた。
それは、現実世界のどんなネオンよりも柔らかく、ハルがよく夜の縁側で、紗夜に語ってくれた古い星座の物語を呼び起こすような、神秘的な光だった。




