2. 再現された鈴蘭通りと、看板のない店
町をさらに奥へと進むにつれて、紗夜の胸の奥のざわめきは、無視できないほどに大きくなっていった。
ただの幻想的な異世界の町だと思っていた風景が、1歩進むごとに、奇妙な具体性と既視感を帯びて、紗夜の視覚に迫ってくるのだ。
(あのお店の形、あの街灯の傾き……まさか)
細い路地を曲がった先に見えたのは、木造の古いアーケードだった。
現実世界の最新のショッピングモールのような洗練さは微塵もない。むしろ、昭和の面影を色濃く残した、トタン屋根の低くて薄暗いアーケードだ。
入り口に掲げられた看板の文字は、長年の風雨に晒されたようにかすれていて読めない。
しかし、その独特の緩やかな傾斜のある坂道、等間隔に並んだ、緑色のペイントが剥げかけた錆びたシャッターの質感、そして何より――どこからともなく漂ってくる、鰹節の出汁の匂いと、香ばしい古いお茶の葉の匂い。
「ここ、私、絶対に知ってる……」
紗夜の足が、脳が命令するよりも早く、自然と前へ踏み出そうとした。
――その瞬間、繋いでいた霧矢の掌から、バチリ、と弾けるような衝撃が走った。
アーケードの奥から強烈な記憶の引力が吹き荒れ、磁石の同極同士を近づけたかのような不可視の力が、2人の固く結ばれていた手を容赦なく引き剥がす。
「っ、紗夜さん……!?」
霧矢が驚愕に目を見開いたときには、すでにその指先は虚空をかすめていた。
約束の温もりが消えた拒絶感と、それ以上の衝動に背中を押され、紗夜の体は自然と駆け足になっていく。
「紗夜さん! 急に走っては危ない、待ちなさい!」
霧矢の制止を告げる、少し焦ったような声が後ろから聞こえたが、今の紗夜にはそれを立ち止まって聞く余裕はなかった。
スカートの裾を翻し、彼女はアーケードの下へと飛び込んだ。
そこは、紗夜が小学校に上がる前、まだハルが今よりもずっと足腰が丈夫で、毎日のように彼女の手を引いて通っていた鈴蘭通り商店街の風景そのものだった。
現実の世界では、5年ほど前に大規模な都市再開発が行われ、すべての木造店舗は跡形もなく取り壊されてしまった。
今は味気ないタワーマンションと、巨大な全国チェーンの複合商業施設が建ち並ぶ、完全に血の通わない、記号のような場所に変わっている。
あの、夕方になると決まって自転車に乗った豆腐屋のラッパがプーと響き、惣菜屋のおばちゃんが「紗夜ちゃん、今日も大きくなったねえ」と、揚げたてのコロッケをいつも1つおまけしてくれた、あの温かい、泥臭くも愛おしい街並みは、とうの昔に地上から消滅したはずだった。
「どうして……どうしてここに、鈴蘭通りがあるの?」
アーケードの中ほどに立ち尽くし、紗夜は激しく肩を上下させながら、声を震わせた。
店先には、かつて見た通りの、手書きのお品書きが書かれた黒板や、色褪せたプラスチックの造花、昭和のアイドルのポスターが貼られたままのタバコ屋の窓口がある。
けれど、そこを歩いているのはやはり人間ではない。
顔のパーツが霧のようにぼやけた黒い影のような存在や、古いブリキのジョーロを頭にかぶった、言葉を持たない奇妙な住人たちだ。
彼らは互いに、声にならない音で挨拶を交わしながら、幻の商店街を厳かに回遊している。
「言ったはずだよ、紗夜さん。ここは忘れられたものが形を持つ場所だと」
霧矢はそう言うと、羽織の袖からすっきりと伸びた手を、今度は促すためではなく、遮るようにして紗夜の前に差し出した。
その掌は、これより先へ進むことへの明確な警告と、案内人としての強い制止の意志を孕んで、微かに震えている。
「紗夜さん。ここから先は、君の記憶の最も深い核――つまり、引き返せる限界の境界線だ。中へ入るなら、もう一度、僕の手を握ってほしい。君の存在を現実に繋ぎ止める錨として、今度こそ絶対に離さないでくれ」
現実へ戻るための、最後の命綱。
霧矢の真剣な眼差しを受け、紗夜はハッと我に返り、彼の美しい掌へと指先を伸ばしかけた。
――けれど、その時だった。
2人の手の隙間を縫うようにして、目の前の建物から、あの懐かしい風がふわりと吹き抜けたのだ。
思わず視線を奪われたその場所に、看板のない店がひっそりと佇んでいた。
格子組みの木製の古いガラス戸。その隙間から漏れ出てくるのは、温かい、そして微かに苦い、あの香り。
「ここは……」
紗夜の喉が、きゅっと収縮する。
霧矢の差し出した手への意識は、その香りを吸い込んだ瞬間に、完全に消し飛んでしまっていた。
それは、ハルが最期まで1人で暮らしていた、あの小さな平屋の自宅の、玄関兼作業場の佇まいそのものだった。




