1. 片腕のブリキ兵と、夜の深い層
光の糸が静かにほどけ、クスノキの巨木を包んでいた青白い霧が、ゆっくりと周囲の闇に溶けていく。
紗夜が図案の中心にある、あのぽっかりと穿たれた空白に触れようとしたその瞬間、足元の苔の絨毯が、まるで水面に投げ込まれた一石の波紋のように大きく、激しく揺らいだ。
「――紗夜さん、危ない!」
霧矢が叫ぶと同時に、紗夜の右手を握っていた彼の手に、痛いほどの力が込められた。次の瞬間、彼は繋いだ手を強引に引き寄せ、紗夜の体を自分の胸の中へと強く抱きすくめた。
案内人の長い羽織の裾が、2人を包み込むように激しく翻る。
世界は音を立てて反転した。視界がぐにゃりと歪み、万華鏡のように光と影が交錯する。強烈な浮遊感に襲われ、紗夜は思わず目を閉じた。
耳の奥で、カチ、カチ、と無数の時計が重なり合って進むような、奇妙な機械音が鳴り響いていた。
やがて、その浮遊感が唐突に収まり、紗夜の靴底が迎えたのは、柔らかい苔の手触りではなく、カチリとした確かな石畳の感触だった。
眩暈を堪えながらゆっくりと目を凝らすと、先ほどの原始的な刺繍の森の姿はどこにもなかった。
気がつけば2人は、再び古い街灯がぽつぽつと灯る、どこか見覚えのある古い町並みの中に立っていた。
「ここは……さっきの手芸店の前、ですか?」
紗夜は周囲を見回しながら、隣に立つ霧矢に尋ねた。まだ心臓が警鐘を鳴らすようにドクドクと早く打っている。
「いや、少し違うよ。ここは忘れられたものたちの町の、さらに深い層さ」
霧矢は丸眼鏡の位置を中指で軽く直しながら、少し息を切らせていた。彼の藍染めの羽織が、夜の風を孕んで静かに揺れている。
「さっきの森は、君の個人的な記憶がダイレクトに投影された、いわば記憶の吹き溜まりのような、極めて純度の高い、それゆえに不安定な場所だった。
君の感情がハルさんの思い出に触れて激しく揺れ動いたせいで、あの空間の境界線が暴走しかけてね。このままでは君の意識が記憶の底に沈没してしまうと判断したから、一時的に、この世界の比較的安定した町の区域へと、座標を戻させてもらったんだ」
霧矢の言葉通り、そこは確かにさっきまで歩いていた、あのガス灯の商店街に似ていた。しかし、決定的な違いがあった。
それは、最初に迷い込んだ場所よりも、どこか生活の営みを感じさせるような、不思議な住人たちの気配が圧倒的に濃くなっていることだった。
通りを見渡すと、オレンジ色のガス灯の光に照らされて、さまざまなシルエットが静かに、しかし確かに自立して動いている。
ある角では、全身が錆びついた真鍮の古時計のような姿をした老人が、ゆっくりと、自分自身のゼンマイを巻くようなギチギチという音を立てながら歩いていた。
彼は通りすがり、紗夜たちに向けて、文字盤の針をカチリと動かして一礼した。
またあるカフェのテラス席のベンチでは、すり切れた革表紙の古い本が、まるで鳥が羽ばたくようにページをパタパタと羽ばたかせながら、隣に座る頭部が磁器のランプになった人物とお喋りを楽しんでいる。
ランプの人物が楽しそうに笑うと、その頭部の灯りが、明滅して周囲を照らした。
「みんな、現実に置き去りにされたものたち……」
紗夜は、そのあまりにも奇妙で、同時に不思議と恐ろしさを感じさせない、むしろどこか哀愁を帯びて愛おしい光景から目が離せなかった。
「そうだよ。現実の世界で役割を終えたり、技術の進歩や流行の移り変わりによって誰の目にも留まらなくなったりした道具。
あるいは、それだけじゃない。持ち主が伝えるのを諦めてしまった言葉にならなかった想い、途中で挫折してしまった途切れた願い。そうした、現実世界で行き場を失った無形のエネルギーや記憶の断片たちが、この夜の向こう側の空気を吸うことで、一時的な器――つまり、人のような姿や、自立して動く体を得て暮らしているんだ」
霧矢は、通りをトコトコと歩いていく、片腕のないブリキの兵隊の頭を愛おしそうに優しく撫でながら、静かに語り続ける。
「彼らはね、現実の世界の誰かが自分を完全に忘れるか、あるいはこの世界で自分自身の存在理由や役目に納得がいったとき、静かに光となって消えていく。
ここはね、消えゆくものたちが最後に集う、とても穏やかで、少しだけ寂しいシェルターのようなものなのさ」
紗夜は、自分の胸にそっと手を当てた。
(私の心の中にある空洞も、この町と同じ色をしているのだろうか。――)
確かな答えを出せないまま、掌の奥でトクトクと刻まれる心音に、ただじっと耳を澄ましていた。
「さあ、紗夜さん。あまり1箇所に長く立ち止まっていてはいけないよ」
霧矢は兵隊の背中を見送ると、繋いだ手にそっと優しい力を込め、隣の紗夜を見つめた。
「君の体が、こちら側の空気に完全に馴染みすぎてしまう前に、君が現実へ持ち帰るべき記憶の糸口を見つけに行こう。君が本当に求めれば、この町は必ず、君に必要な場所を見せてくれるはずだから」
霧矢はそう言って、紗夜の手を引いて再びゆっくりと歩き出した。彼の和装風の羽織の裾が、夜の優しい闇を流れるように割りながら進んでいく。
紗夜は、その掌から伝わるほんのりとした温かさに支えられながら、しっかりと石畳を踏みしめて彼の隣を歩いた。




