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夜の向こう側  作者: 都桜ゆう
第1章 夜の向こう側

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5. 思い出を縫い留めた刺繍の森

 手芸店を1歩出ると、すでにそこは先ほどの石畳の商店街ではなかった。


 足元は柔らかい苔の絨毯に変わり、周囲には、天を衝くほどに巨大な古木が立ち並ぶ、ひっそりと静まり返った森が広がっていた。

 けれど、それはただの森ではなかった。


「これは……何?」


 紗夜は驚きのあまり、霧矢の手を握る力を強めた。

 木々の太い幹や、夜露に濡れた葉の表面に、まるでプロジェクターで投影されたかのように、鮮やかな模様が浮かび上がっていたのだ。


 右側の大きなブナの木には、縁側で並んで座り、スイカを食べている老人と小さな女の子の姿が、繊細な刺繍のステッチのようなタッチで描かれている。女の子が笑うと、糸の模様が微かに動く。


 左側のカエデの葉には、夕暮れ時の賑やかなお祭りの風景、屋台の灯り、金魚すくいの網が、鮮やかな金や赤の糸の質感を持って浮かび上がっていた。


「ここは刺繍の森」


 霧矢が、紗夜の隣で静かに告げた。


「君の記憶の断片が、この世界の自然と溶け合って、景観を作っているんだ。紗夜さん、ここにあるのはすべて、君とおばあさんとの大切な思い出の姿だよ」


 紗夜は、息を呑んでそれらの模様を見つめながら、1歩1歩、森の奥へと進んだ。

 初めてハルに針の持ち方を教わった日。小さな不器用な手で縫った、歪な形のハンカチ。ハルが上手ねと頭を撫でてくれたときの、手のひらの温かさ。


 浮かび上がるすべての模様が、紗夜の心の奥底に眠っていた記憶の引き出しを、1つずつ優しく開けていく。


(私、全部覚えてたんだ……。忘れたわけじゃなかったんだ)


 悲しみで麻痺していた心が、記憶の奔流に洗われて、じわじわと痛みを伴いながら蘇っていく。

 けれど、森の奥へ進むにつれて、紗夜はある奇妙な違和感に気づいた。


「ねえ、霧矢さん。この模様、どれも……」

「気づいたかい?」


 霧矢は悲しげに目を伏せた。


「どれも、少しだけ欠けているだろう?」


 言われてみれば、ハルの笑顔の口元が、わずかに白い糸のまま空白になっていたり、夏祭りの花火の中心が、縫い合わされずにリネン地のまま残されていたりした。


 美しい思い出の数々が、まるで未完成のパズルのように、決定的な一箇所を欠いた状態で存在しているのだ。


「どうして……どうして欠けているの?」


「それは、君の心の中で、その記憶の結び目が作られていないからだ」


 霧矢の言葉が、森の静寂に響く。


「おばあさんが亡くなる直前、君に言いかけた言葉があったはずだ。けれど、君はあの時の悲しみがあまりにも大きすぎて、その言葉の最後の部分を、心の奥底に沈め、封印してしまった。――忘れてしまったんだよ、紗夜さん」


 ハルの最期の瞬間。

 白い病室。微かな機器の電子音。

 痩せ細ったハルの手が、紗夜の手を握りしめ、乾いた唇を動かした。


『紗夜……いい、よくお聞き……』


 そこまでは覚えている。けれど、その後にハルが紡いだ最も大切なはずの言葉が、まるで濃い霧の向こう側に隠されたように、どうしても思い出せない。


「あの言葉を思い出さなきゃ……」

 紗夜は焦燥感に駆られ、前を見つめた。

 光の糸は、森の最深部にある、ひときわ巨大な一本のクスノキの根本へと続いていた。


 その根元には、先ほどの手芸店にあった、あの白いリネン布の図案が、宙に浮いた状態で静かに回転していた。


 図案は、周囲の木々から吸い上げた記憶の光を集めて、眩しく輝いている。

 けれど、その中心――最も重要な、大輪の蓮の花が描かれるべき場所だけが、ぽっかりと丸く、何も描かれていない完全な空白になっていた。


「あの空白が……おばあちゃんの、最期の言葉……」


 紗夜は呟き、吸い寄せられるようにその図案へと歩み寄っていこうとした。

 その拍子に、繋いでいた霧矢の手がするりと離れそうになる。


「――紗夜さん、約束だ」


 ハッとして振り返ると、霧矢が痛切なほどの真剣な眼差しで、離れかけた紗夜の端をきゅっと握り直していた。丸眼鏡の奥の瞳が、図案の光を反射して揺れている。


「何があっても、手は離さない。……いいね?」


「あ……ごめんなさい、霧矢さん」


 我に返った紗夜は、彼のほんのりと温かい手をもう一度強く握りしめた。2人は手を引き合ったまま、ゆっくりと図案の前へと進み出る。

夜の向こう側の森に、静かな、けれど確かな変化の風が吹き始めていた。


 紗夜の失われた記憶の核心へと、物語はゆっくりと編み進められていく――。


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