4. 温かい手と、たった一つの約束
霧矢の鋭い制止の声に、紗夜は思わず手を引っ込めた。
振り返ると、霧矢は穏やかな表情を完全に消し去り、痛切なまでの真剣な眼差しで紗夜を見つめていた。丸眼鏡の奥の瞳が、ランタンの光を反射して鋭く光っている。
「霧矢、さん……?」
「すまない、大声を出すつもりはなかったんだ」
霧矢は一歩前へ進み、紗夜と作業台の間に入るようにして立った。彼の長い羽織の裾が、静かに揺れる。
「けれど、警告しなければならない。
紗夜さん、君が今見つめているものは、ただの古い布じゃない。それは君の心の中で、最も深く、そして最も未解決のまま残されている強い記憶の塊だ」
「でも、これはおばあちゃんが私のために……」
「わかっている。だからこそ危険なんだ」
霧矢は、作業台の上の図案を悲しげに見つめた。
「ここにあるものはすべて、現実での戻るべき場所を失った記憶だ。そして、生身の人間である君が、こちら側の記憶に強く感情を揺さぶられ、深く触れ合ってしまうと、君自身の存在の重みがこちら側に移ってしまう。
つまり――君自身が、この夜の向こう側の住人に引きずり込まれてしまうんだよ」
霧矢の言葉は、冷酷な事実として紗夜の胸に突き刺さった。
「君がその図案を手に取り、『どうしてここにあるの?』『ここにいたい』と強く願ってしまえば、君はもう、あの朝の来る世界へは帰れなくなる。
僕の役目は、君を安全に帰すことだ。だから、その図案からは目を背けなければならない」
帰れなくなる。
その言葉の重みを、紗夜は反芻した。
ここにとどまれば、大好きなハルの気配に満ちた世界で、この柔らかい空気に包まれて、ずっと生きていけるのかもしれない。あの、自分が誰だかわからなくなるような、冷たい現実に戻らなくてもいいのかもしれない。
それは、恐ろしいほどの誘惑だった。
しかし、目の前で淡い光を放ちながら、まるで生きているかのように波打つ図案をじっと見つめているうちに、紗夜の胸の中には、ある剥き出しの疑問が湧き上がってきた。
なぜ、この図案はこんなにも優しく光っているのだろう。なぜ、ハルはこれを未完成のまま残したのだろう。そして、自分がこの1年間抱えてきた、あの心の空洞の正体は何なのだろう。
すべてが、この1枚の布の向こう側にあるような気がしてならなかった。
「霧矢さん」
紗夜は、涙を拭い、霧矢の目をまっすぐに見つめ返した。
「私、知りたいんです。どうしてこの図案がここにあるのか。おばあちゃんが、最後に私に何を伝えようとしていたのか。それを知らないまま現実に戻っても、私はきっと、これからもずっと中身のない殻っぽのまま生きていくことになります。それじゃ、生きているのと同じじゃない」
紗夜の強い眼差しに、霧矢は息を呑んだようだった。
彼はしばらくの間、沈黙した。店内に、カチ、カチ、とどこかで古い柱時計が時を刻む音だけが響く。
やがて、霧矢は深く、深く溜息を吐いた。その溜息は、単なる諦めというよりも、紗夜の覚悟を受け入れた、案内人としての覚悟の音だった。
「……本当に、頑固な人だね」
霧矢はそう言うと、いつもの優しい微笑みを少しだけ取り戻した。
「君のその強い想いが、この図案をここまで輝かせているのかもしれない。
――わかった。もし君が、どうしてもその謎の先へ進みたいと言うのなら、僕はこれ以上、君を止めることはしない。ただし、条件がある」
「条件?」
「ここから先は、この街のさらに奥――記憶の根源へと続く場所だ。そこへ行くには、僕の先導が必要になる。そして、何があっても僕の手を離さないと、約束してほしい」
霧矢は、自らの右手を紗夜の前に差し出した。
彼の大きな手は、現実の人間のそれと同じように、ほんのりと温かそうだった。
「わかりました。約束します」
紗夜は頷き、霧矢の右手をしっかりと握りしめた。
その瞬間、作業台の上の未完成の図案が、一段と強い光を放った。淡い青白い光が、まるで1本の糸のように伸びて、店の扉を通り抜け、外の暗闇へと伸びていく。
「図案が、道を指し示しているね」
霧矢は丸眼鏡を押し上げ、前を見据えた。
「さあ、行こう、紗夜さん。君の記憶の、さらに奥へ」
2人は手を手を取り合ったまま、光の糸に導かれるようにして、手芸店の扉を開けた。
夜の向こう側の街並みは、次第にその形を失い、背景の建物がまるでインクが滲むように、深い緑の木々へと変貌し始めていた。




