3. 螺鈿(らでん)のアゲハ蝶と、未完成の図案
「霧矢さん、さっき忘れられたものたちの領域って言いましたよね。それって、どういう意味なんですか?」
ガス灯の柔らかな光に照らされた商店街を歩きながら、紗夜は隣を歩く霧矢に見上げた。
霧矢は、歩調を紗夜の遅いペースに合わせながら、静かに語り始めた。
「現実の世界ではね、毎日、無数のものが生み出され、そして同じくらい無数のものが忘れ去られていく。
役目を終えて捨てられた古い道具、誰にも伝えられずに消えていった言葉、途中で諦めてしまった夢や願い……。そういった、現実世界で行き場を失った記憶の断片たちが、長い時間をかけてこの夜の向こう側に流れ着くんだ」
「流れ着いたものは、どうなるんですか?」
「ここで、一時的な形を与えられて、静かに暮らすのさ。
あるものは古い家具の姿のまま、あるものは人のような姿をしてね。彼らはここで、自分が完全に消え去るまでの時間を、ただ穏やかに過ごしているんだよ」
霧矢の言葉を聞きながら、紗夜は周囲の店を観察した。
確かに、ショーウィンドウの向こうに見えるのは、どこか懐かしい形のブリキのおもちゃや、セピア色に変色した写真立て、インクの切れた万年筆などだった。
それらはどれも、現実世界ではゴミや遺品として処理されてしまうようなものばかりだ。
けれど、この世界にあるそれらは、まるで優しい休息を得たかのように、薄い光をまとって、誇らしげに並んでいる。
「不思議……。寂しい場所のはずなのに、全然怖くない」
「それは、君の心の中にも、彼らと共鳴する忘れられたものがあるからだよ、紗夜さん」
霧矢の言葉が、チクリと紗夜の胸を刺した。
ハルのこと。刺繍のこと。自分が蓋をして、見ないようにしてきた大切な記憶。
その記憶が胸の奥で疼き出した、まさにその時だった。
2人が商店街の緩やかな坂を登りきると同時に、紗夜は吸い寄せられるようにある一軒の店の前で完全に足を止めた。
「あ……」
そこは、小さな手芸店のような佇まいの店だった。
木製の古びた扉の横に、小さなガラスケースが置かれている。そのケースの中に置かれていたそれを見た瞬間、紗夜の全身を、電流が突き抜けるような衝撃が襲った。
それは、黒い漆塗りの、小ぶりな裁縫箱だった。
蓋の表面には、長年の使用によって少し擦れてはいるものの、ハルが愛していた青いアゲハ蝶の繊細な螺鈿細工が施されている。
「おばあちゃんの……裁縫箱?」
紗夜は、震える手でガラスケースに触れた。
現実の自室の引き出しに眠っているはずの、あの裁縫箱と、全く同じものだった。いや、厳密に言えば、これはハルがまだ元気で、毎日のように針を動かしていた頃の、最も生き生きとしていた時代の裁縫箱の記憶そのものだった。
「紗夜さん、どうかしたかい?」
霧矢が心配そうに覗き込んでくる。
「これ……私のおばあちゃんが使っていた裁縫箱です。どうして、こんなところにあるの?」
「言っただろう。ここは戻るべき場所を失った記憶が形をとる場所だと。
君がその裁縫箱を遠ざけ、記憶の中に閉じ込めてしまったから、その使われなくなったという事実が、寂しがってここに流れ着いたのかもしれないね」
霧矢の言葉に、紗夜は目頭が熱くなるのを感じた。
自分が傷つくのを恐れて、ハルとの思い出を封印してしまった。
(そのせいで、おばあちゃんの大切な道具まで、こんな寂しい夜の街に迷い込ませてしまっていたのだろうか……)
込み上げる後悔に、視界がじんわりと滲んでいく。
「待って、中にも何かある……」
紗夜はガラスケースの横の扉をそっと押し開けた。カランコロン、と優しい真鍮の鈴の音が響く。
店内は、色とりどりの刺繍糸が壁一面に掛けられており、まるで虹のクローゼットのようだった。その中央の作業台の上に、1枚の白いリネン布が置かれていた。
紗夜は吸い寄せられるように、その布に近づいた。
布の上には、細い鉛筆線で、緻密な図案が描かれていた。ハルの独特の、丸みを帯びた、けれど芯のある筆跡。
それは、ハルが生前、病床で「これが完成したら、紗夜にあげるね」と言いながら、最後まで完成させることができなかった、未完成の刺繍の図案だった。
現実の世界では、ハルが亡くなった後、遺品整理のドタバタの中でどこかへ紛失してしまい、二度と見つからなかったはずの図案。
その図案は、驚くべきことに、静かに生きていた。
描かれた蔓草や、今にも咲きそうな花の蕾の輪郭線が、まるで呼吸をするかのように、微かに淡い青白い光を帯びて、波打つように揺れているのだ。
「おばあちゃんの……図案……」
紗夜の瞳から、一滴の涙がこぼれ落ち、リネン布の端に小さな染みを作った。
「どうして……どうしてここに……」
紗夜がその図案に手を伸ばし、触れようとしたその時。
霧矢の、これまでにないほど鋭く硬い声が、静かな店内を打った。
「駄目だ、紗夜さん! それに触れてはいけない!」




