2. 夜の向こう側と、丸眼鏡の案内人
1歩、足を踏み入れた瞬間、背後の音が劇的に変わった。
さっきまで鼓膜を震わせていた車の走行音や、人々の話し声が、まるで水の中に潜ったときのように、急にこもって、遠くなったのだ。
紗夜は驚いて振り返った。
しかし、そこにはただ、暗いコンクリートの壁が続いているだけで、自分が今出てきたはずの大通りのネオンは見えなくなっていた。
「嘘……」
心臓がドクンと大きく波打つ。引き返すべきだ、という理性の声が頭の片隅で鳴った。
しかし、それ以上に、体の奥底から湧き上がる強い好奇心と、なぜか奇妙な安心感が、紗夜の足を前へと進ませた。
路地は、緩やかなカーブを描きながら奥へと続いていた。
足元はアスファルトではなく、いつの間にか、角が丸くなった古い石畳に変わっている。
壁はレンガ造りで、ところどころに青々としたアイビーの蔦が這っていた。
見上げると、ビルの隙間から見えるはずの夜空は、いつも見る東京の濁った灰色ではなく、深く吸い込まれそうなほどの濃紺色をしていた。
そこには、見たこともないほど大きくて優しい光を放つ三日月が、静かに浮かんでいる。
空気そのものが、現実の世界とは違っていた。
何より驚いたのは、その柔らかさだった。
肌に触れる空気が、まるで上質なウールの毛布に包まれているかのように、ほんのりと温かく、角が立っていない。
深呼吸をすると、胸の奥の固く冷え切っていた塊が、じんわりと解けていくような感覚すらあった。
路地を抜けると、不意に視界が開けた。
「え……?」
そこに広がっていたのは、紗夜のよく知る駅前商店街のようでいてその実、決定的に異なる街だった。
建物の配置や、通りの形は、確かに自分がいつも利用している場所に似ている。レトロな喫茶店があり、小さな本屋があり、洋服店がある。なのに、何かが決定的におかしい。
よく見れば、それらの建物はすべて、まるでおとぎ話の絵本から飛び出してきたかのように、どこか歪で、温かみのある木造やレンガ造りに変わっていた。
何より不思議なのは、街全体を満たす光と音だった。
ネオンサインや人工的な蛍光灯の光は1つもない。
すべての店先や街路樹には、ランタンやガス灯、あるいはガラス瓶に入れられたキャンドルのような、揺らめく炎が灯っている。
その光は、建物の壁や石畳を優しくオレンジ色に染め上げていた。
音もまた、極限まで柔らかかった。
風が木々を揺らすサワサワという音、どこか遠くで流れている、弦楽器の穏やかな旋律。人影はまばらで、すれ違う人々は、みな一様に穏やかな顔をして、足音を立てずに静かに歩いている。
「私、夢を見ているの……?」
紗夜は自分の右腕を軽くつねってみた。ツンとした確かな痛みが走る。
夢ではない。冷たい風が頬を撫でる感覚も、石畳を踏みしめる靴底の硬さも、あまりにもリアルすぎた。
呆然と立ち尽くす紗夜の前に、1つの影が静かに近づいてきた。
「おや。こんな時間に、とんだ迷い子が紛れ込んでしまったものだね」
低く、けれどベルの音のように澄んだ声が、紗夜の耳に届いた。
ハッとして顔を上げると、そこには1人の青年が立っていた。
年の頃は20代半ばくらいだろうか。色素の薄い、柔らかな焦げ茶色の髪が、夜風に揺れている。
その端正な顔立ちの中で、最も印象的だったのは、知的で穏やかな光を湛えた瞳と、その前に架けられた細い丸眼鏡だった。
彼の服装は、非常に独特だった。現代的な白いハイゲージのタートルネックセーターの上に、藍染めのような深い青色の、着物をアレンジしたような和装風の羽織を重ねている。
肩には、ざっくりと編まれた生成り色のウールショールが掛けられていた。
全体として、現実世界の流行からは少し浮いているが、この揺らめく夜の街には、これ以上ないほどに調和している。
「あの……ここは、どこですか?」
紗夜は、怯えよりも先に、その青年の持つ不思議な佇まいに圧倒されながら問いかけた。
青年は、丸眼鏡の位置を少しだけ直すと、困ったような、けれど酷く優しい微笑を浮かべた。
「ここはね、夜の向こう側だよ」
「夜の……向こう側?」
「そう。君たちが暮らす現実の世界の、すぐ隣にある余白のような場所さ。
普段は決して交わることはないのだけれど、時折、心のバランスを崩してしまった人や、強い想いに引かれた人が、さっきの路地を通ってこちら側に迷い込んでしまうことがある」
青年は1歩、紗夜の方へ近づき、丁寧に頭を下げた。
「申し遅れました。僕の名前は霧矢。この夜の向こう側で、君のように迷い込んでしまった人を、元のあるべき場所へ安全に送り届ける――いわば、案内人のような役目をしている者です」
霧矢と名乗った青年は、紗夜の目をじっと見つめた。その瞳は、まるで十何年も前から紗夜のことを知っているかのような、深い包容力に満ちていた。
普通なら、こんな怪しい男の言葉など信じるはずがない。だが、この街を満たす、どこか懐かしい空気と、霧矢の嘘偽りのない声が、紗夜の警戒心を驚くほど簡単に融解させていく。
「霧矢……さん」
「うん。さて、お嬢さん。君の名前を聞いてもいいかな?」
「……紗夜、です」
「紗夜さん。良い名前だ。夜の絹のように静かで、美しい」
霧矢はそう言って、ふわりと微笑んだ。
「けれど、紗夜さん。ここは生きた人間が長く留まるべき場所じゃない。ここは忘れられたものたちの領域なんだ。
君の体はまだ現実にある。あまり長くこの空気を取り込みすぎると、境界線が曖昧になって、本当に現実へ戻れなくなってしまうよ」
霧矢の言葉は、明確な警告だった。
早く戻らなければならない。明日も大学はあるし、現実の生活がある。
それなのに、紗夜の胸の奥は、激しく拒絶していた。
(戻りたくない……)
あの、色彩を失った、自分がどこにいるかもわからない冷たい現実の世界。こんなに温かい場所を目の前にして、すぐに帰るなんて、今の紗夜には到底できなかった。
「霧矢さん。私、もう少しだけ……もう少しだけ、この街を歩いちゃ駄目ですか?」
紗夜は、自分でも驚くほど子供っぽい懇願の声をあげていた。
霧矢は眼鏡の奥の目を少し見開いたが、すぐに諦めたような溜息を吐き、困ったように笑った。
「困ったな。僕の役目はすぐに君を帰すことなんだけど……。でも、君のその目は、ただの好奇心でここにいるわけじゃなさそうだ。
――わかった。本当に少しだけだよ? 僕が隣にいる間だけ、この街を案内しよう」
そう言って、霧矢は自分の肩に掛かっていた生成り色のショールを少し直し、紗夜に向かって「どうぞ」と手を差し伸べた。
紗夜はその手を借りるようにして、霧矢の隣に並び、ゆっくりと石畳の街へと歩き出したのだった。




