1. 記憶の匂いがする路地
心の中に、小さな、けれど決して無視できない空洞がある。
大学2年になった春先から、紗夜はずっとそんな奇妙な感覚を抱えて生きていた。
何をしても、どこへ行っても、自分の本質のようなものが、数歩後ろから遅れてついてくるような気がする。
あるいは、大切な何かをどこか名前も知らない場所に置き忘れてきてしまったような――。
講義室の窓から差し込む、少し埃の混じった春の陽だまりを見つめているときも。
サークルの友人たちと中身のないお喋りに興じ、声を上げて笑っているときも。
紗夜の胸の奥には、いつも冷たい風が通り抜けるような、薄いベールが1枚挟まったような、確かな手応えのなさがあった。
「紗夜、今日のバイト、ラストまで入れる?」
夕方、大学の近くにある古着と雑貨を扱うセレクトショップ『トワ・エ・モア』の店長に声をかけられたとき、紗夜はレジの横に置かれた、アンティーク風の木箱を見つめていた。
その箱の表面には、細かなアカンサスの葉の彫刻が施されており、なぜかそれが、かつて見慣れた、あるものを激しく連想させた。
「あ……はい。大丈夫です。特に予定はありませんから」
ハッとして顔を上げ、紗夜は努めて明るい声を出す。
「助かるわ。
最近、なんだかぼんやりしてることが多いから心配してたんだけど、体調は悪くない?」
「ええ、元気です。ただ、少し寝不足なだけですから」
嘘だった。
体調が悪いわけではない。ただ、世界がほんの少しだけ遠いのだ。
1年前、祖母のハルが亡くなってから、紗夜の日常からは劇的に色彩が失われていた。
ハルは、小さな平屋の自宅で、いつも針と糸を握っている人だった。
彼女の手から生み出される刺繍は、まるで魔法のようだった。
1本の細い刺繍糸が、ハルの指先にかかると、今にも羽ばたきそうな青いアゲハ蝶になり、夜空に浮かぶ繊細な三日月になり、風に揺れる名もなき野の花になった。
そんな鮮やかな手仕事を、紗夜は幼い頃から、作業台に向かうハルのすぐ隣という特等席で見つめていた。
リネン地にちくちくと針が通り、小さな結び目が作られ、次第に豊かな物語が織り上がっていく様子を、時間を忘れて眺めていたものだ。
じっと手元を覗き込む幼い紗夜の頭を撫でながら、ハルはよく、こんな風に言っていた。
「紗夜、刺繍っていうのはね、ただ布に糸を縫い付けるんじゃないのよ」
ハルはいつも、度の強い眼鏡の奥の目を細めて、穏やかに笑っていた。
「これはね、心の中にある、言葉にならない想いを1本ずつ編み込んでいく作業なの。
だから、焦っちゃだめ。あなたの手が、あなたの心が、今何を伝えたいのか、ゆっくり耳を澄ますのよ」
ハルに教わって、紗夜も小学生の頃から刺繍を始めた。
高校生になる頃には、自分の持ち物や、友人へのプレゼントに小さなワンポイントの刺繍を施せるまでになっていた。
針を持っている時間だけは、世界と自分が完全に繋がっているような、深い充足感を得られた。
けれど、ハルが不意の病で入院し、そのまま静かに息を引き取ってから、紗夜は一切、針を持てなくなってしまった。
自分の部屋の机の引き出しには、ハルから譲り受けた漆塗りの裁縫箱が眠っている。
中には、色とりどりの刺繍糸や、使い込まれた鋏、そして――ハルが最後に作りかけていた、未完成の刺繍の図案が入っているはずだった。だが、紗夜はその引き出しを、もう1年以上も開けることができずにいる。
開けてしまえば、ハルがもうこの世界にいないという事実と、あまりにも残酷に向き合わなければならない気がした。
ハルのいない世界で、自分1人だけで糸を紡ぐことの意味が、どうしても見出せなかった。
そうして刺繍を遠ざけるうちに、紗夜の心は、ゆっくりと、しかし確実に、現実という確固たる大地から遊離していったのだった。
「お疲れ様でした」
時計の針が午後9時半を回った頃、紗夜は『トワ・エ・モア』の店内の照明を消し、鍵を閉めて通りに出た。
5月の夜風は、昼間の暖かさを残しつつも、肌に触れるとひんやりとして心地いい。駅へと向かう大通りは、帰宅を急ぐ会社員や学生たちでそれなりに賑わっていた。
車の排気ガスの匂い、居酒屋から漏れてくる賑やかな笑い声、ネオンサインの鋭い光。
それらすべてが、紗夜の目と耳を素通りしていく。
(今日も、何も残らない1日だったな)
トボトボと歩きながら、紗夜は自分の靴先を見つめる。
大学へ行き、ノートを取り、バイトをして、賃金を得る。生きるためのルーティンは完璧にこなしている。けれど、肝心の自分がどこにもいない。まるで、中身の抜けた精巧な蝋人形にでもなったかのような心地だった。
いつもなら、このまま大通りを真っ直ぐ進み、西口の改札へと向かうはずだった。
だがその夜、妙な胸騒ぎがして、紗夜はふと足を止めた。
駅まであと3分というところで、ビルとビルの間に、1本の狭い隙間があることに気づいた。
普段なら、ゴミ箱や室外機が雑然と置かれているだけの、薄暗い、見向きもしないような生活道路――いや、そもそもそこに路地なんてあっただろうか。
毎日通っている道だ。視界の端に嫌でも入るはずの場所だった。
しかし、そこに刻まれた細い空間は、紗夜の記憶にあるどの風景とも合致しなかった。
その路地は、奇妙なほどに、紗夜の視線を惹きつけた。
奥の方は深い闇に包まれているが、不思議なことに、現実の鋭いLEDの街灯とは違う、どこか温かみのある、オレンジ色の柔らかな光がぽつぽつと揺れているのが見えた。まるで、古いガス灯が灯っているかのように。
そして、その路地の入り口からは、微かに、本当に微かにだが、どこか懐かしい香りが漂ってきた。
それは、古い紙の匂いと、干したばかりのリネンの匂い、そして――ほんのりと甘い、ハルの淹れてくれた珈琲の匂いに似ていた。
「……何、ここ」
紗夜は呟き、吸い寄せられるように、大通りの喧騒から1歩、その路地へと足を踏み入れた。




