5. 刺繍の森の最深部へ
紗夜の頑なな、魂の底からの叫びに応えるように、部屋の隅の柱時計が、ゴーン、ゴーンと重々しい音を立てて鳴り響いた。止まっていたはずの振り子が、彼女の強い感情の波動を受けて、不規則に揺れ始めている。
霧矢は丸眼鏡の奥の目を大きく見開き、呆然としたように紗夜を見つめていた。
その表情は、規則を破られた案内人の困惑のようでもあり、同時に、現実の重みに押し潰されそうになりながらも踏み止まる、人間の強い意思への敬畏のようでもあった。
やがて、霧矢は深く、深く溜息を吐いた。
「……本当に、君という人は。どこまで頑固なんだ」
霧矢は紗夜の手を掴んでいた力を少しだけ緩め、けれど離さないまま、ふっといつもの困ったような優しい微笑みを取り戻した。
「案内人失格だな、僕は。迷い子を説得して送り返すのが役目なのに、君のその真っ直ぐな目に見つめられると、どうしても僕の側のルールが揺らいでしまう」
「霧矢さん……」
「怒ってはいないよ。ただ、君のその覚悟が、この世界の仕組みさえも書き換えてしまいそうで、少し眩しいだけさ」
霧矢は繋いでいない方の手で、茶箪笥の引き出しをすっと開けた。
そこから取り出したのは、古い、けれど美しく磨き上げられた真鍮製のポータブルランタンだった。
霧矢がそのガラス面に指先でそっと触れると、マッチもライターもないのに、中にセットされた細いキャンドルへ、ぽっと小さなオレンジ色の炎が宿った。
「そこまで言うのなら、もう僕には君を止める権利はない。それを知りたいなら、この町の、さらに奥へ進むしかないね」
霧矢はランタンを高く掲げ、ハルの居間の奥にある、普段は見落としてしまうような、壁と同化した小さな障子戸を指差した。
その隙間からは、先ほど森で見たような、深い、深い植物の匂いと、夜露の冷気が微かに漏れ出してきている。
「この商店街の記憶の、さらに向こう側。君とおばあさんの記憶の根源が、最も純粋な、そして最も鋭利な形で保存されている場所――刺繍の森の、本当の最深部へ行くんだ。そこなら、その図案の空白が持つ本当の意味が、きっと明らかになる」
「刺繍の森の……最深部」
「そう。
ただし、そこはさっき君が迷い込みかけた森よりも、ずっと深くて、暗い。君の存在が現実から切り離され、記憶に完全に呑み込まれてしまう危険性も、今の比ではないよ。文字通り、戻れなくなるかもしれない。
――それでも、行くかい?」
霧矢の最後の、魂を試すような問いかけに、紗夜は迷わずに頷いた。
指先の透明化はまだ止まっていない。それでも、彼女の瞳に宿る光は、現実世界にいたときよりも、ずっと鮮やかな色彩を取り戻していた。
「はい。行きます。おばあちゃんの言葉を、私の心に取り戻すために。
……霧矢さんが、一緒にいてくれるなら、怖くありません」
「……光栄な言葉だね」
霧矢は丸眼鏡を指で押し上げ、どこか引き締まった、頼もしい大人の顔つきで行く手を見据えた。
「それを知りたいなら、もう少し奥へ。
――さあ、行こう、紗夜さん。ここから先は、僕たちの記憶を編み合わせる旅だ。約束通り、僕の手を絶対に離さないで」
「はい!」
紗夜が答えた瞬間、彼女の胸に抱かれていた未完成の図案が、まるでその決意を祝福するように、激しく明滅した。琥珀色の光は1本の太い光の帯となり、奥の障子戸を内側から激しく突き破った。
霧矢が障子戸を静かに、しかし力強く開け放つと、そこにはもう、日本家屋の続きなど存在していなかった。
溢れんばかりの光の濁流の向こう側に、天を覆うほどの巨大な木々が、静かに、重々しく2人を待っているのが見えた。
木々の葉には、紗夜の幼い頃の記憶の模様が、今や生き物のように激しく蠢き、明滅している。
紗夜は未完成の図案を片手でしっかりと抱きしめ、もう片方の手で霧矢の温かい掌を強く握り締めながら、夜の向こう側の、さらなる深淵へと足を踏み入れたのだった。




