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夜の向こう側  作者: 都桜ゆう
第2章 忘れられたものたちの町

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5. 刺繍の森の最深部へ

 紗夜の頑なな、魂の底からの叫びに応えるように、部屋の隅の柱時計が、ゴーン、ゴーンと重々しい音を立てて鳴り響いた。止まっていたはずの振り子が、彼女の強い感情の波動を受けて、不規則に揺れ始めている。


 霧矢は丸眼鏡の奥の目を大きく見開き、呆然としたように紗夜を見つめていた。

 その表情は、規則を破られた案内人の困惑のようでもあり、同時に、現実の重みに押し潰されそうになりながらも踏み止まる、人間の強い意思への敬畏のようでもあった。


 やがて、霧矢は深く、深く溜息を吐いた。


「……本当に、君という人は。どこまで頑固なんだ」


 霧矢は紗夜の手を掴んでいた力を少しだけ緩め、けれど離さないまま、ふっといつもの困ったような優しい微笑みを取り戻した。


「案内人失格だな、僕は。迷い子を説得して送り返すのが役目なのに、君のその真っ直ぐな目に見つめられると、どうしても僕の側(がわ)のルールが揺らいでしまう」


「霧矢さん……」


「怒ってはいないよ。ただ、君のその覚悟が、この世界の仕組みさえも書き換えてしまいそうで、少し眩しいだけさ」


 霧矢は繋いでいない方の手で、茶箪笥の引き出しをすっと開けた。

 そこから取り出したのは、古い、けれど美しく磨き上げられた真鍮製のポータブルランタンだった。


 霧矢がそのガラス面に指先でそっと触れると、マッチもライターもないのに、中にセットされた細いキャンドルへ、ぽっと小さなオレンジ色の炎が宿った。


「そこまで言うのなら、もう僕には君を止める権利はない。それを知りたいなら、この町の、さらに奥へ進むしかないね」


 霧矢はランタンを高く掲げ、ハルの居間の奥にある、普段は見落としてしまうような、壁と同化した小さな障子戸を指差した。

 その隙間からは、先ほど森で見たような、深い、深い植物の匂いと、夜露の冷気が微かに漏れ出してきている。


「この商店街の記憶の、さらに向こう側。君とおばあさんの記憶の根源が、最も純粋な、そして最も鋭利な形で保存されている場所――刺繍の森の、本当の最深部へ行くんだ。そこなら、その図案の空白が持つ本当の意味が、きっと明らかになる」


「刺繍の森の……最深部」


「そう。

 ただし、そこはさっき君が迷い込みかけた森よりも、ずっと深くて、暗い。君の存在が現実から切り離され、記憶に完全に呑み込まれてしまう危険性も、今の比ではないよ。文字通り、戻れなくなるかもしれない。

 ――それでも、行くかい?」


 霧矢の最後の、魂を試すような問いかけに、紗夜は迷わずに頷いた。

 指先の透明化はまだ止まっていない。それでも、彼女の瞳に宿る光は、現実世界にいたときよりも、ずっと鮮やかな色彩を取り戻していた。


「はい。行きます。おばあちゃんの言葉を、私の心に取り戻すために。

 ……霧矢さんが、一緒にいてくれるなら、怖くありません」


「……光栄な言葉だね」


 霧矢は丸眼鏡を指で押し上げ、どこか引き締まった、頼もしい大人の顔つきで行く手を見据えた。


「それを知りたいなら、もう少し奥へ。

 ――さあ、行こう、紗夜さん。ここから先は、僕たちの記憶を編み合わせる旅だ。約束通り、僕の手を絶対に離さないで」


「はい!」


 紗夜が答えた瞬間、彼女の胸に抱かれていた未完成の図案が、まるでその決意を祝福するように、激しく明滅した。琥珀色の光は1本の太い光の帯となり、奥の障子戸を内側から激しく突き破った。


 霧矢が障子戸を静かに、しかし力強く開け放つと、そこにはもう、日本家屋の続きなど存在していなかった。


 溢れんばかりの光の濁流の向こう側に、天を覆うほどの巨大な木々が、静かに、重々しく2人を待っているのが見えた。

 木々の葉には、紗夜の幼い頃の記憶の模様が、今や生き物のように激しく蠢き、明滅している。


 紗夜は未完成の図案を片手でしっかりと抱きしめ、もう片方の手で霧矢の温かい掌を強く握り締めながら、夜の向こう側の、さらなる深淵へと足を踏み入れたのだった。


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