1. サテンステッチの森と、琥珀の道標
ハルの居間の奥に隠されていた、あの古びた障子戸を潜り抜けた瞬間、紗夜を包み込んだのは、現実の東京では決して味わうことのできない、圧倒的な緑の深淵だった。
五感のすべてが、一瞬にして、暴力的なまでの瑞々しさで書き換えられる。
まず脳を揺さぶったのは、雨上がりの湿った土の濃厚な匂いと、何百年、何千年もの歳月を生き抜いてきた巨木たちが放つ、少し苦くて甘い、原始的な樹脂の香りだった。
現実の都会の夜に漂う排気ガスやアスファルトの熱気など微塵もなく、ただ冷涼で、どこか神聖な空気が肺の最深部を満たしていく。
耳を澄ませれば、遠くを走る電車の音も、深夜の深夜の沿道の騒音も一切聞こえない騒音も一切聞こえない。
ただサラサラ、サラサラと、果てしなく高い天井を形作る無数の木の葉たちが、夜風に撫でられて互いに囁き合うような、深く静かなざわめきだけが世界を満たしていた。
足元に視線を落とすと、そこには現実の靴底が決して感知し得ない、極上のウール絨毯のような、厚く、柔らかい苔の層が地表を完全に覆い尽くしていた。
1歩、また1歩と足を進めるごとに、じわりと夜露が染み出し、同時にその靴底が踏みしめた跡から、淡い、蛍の光に似た緑色の光の粒子がぽつぽつと湧き上がっては、夜の闇へと消えていく。
「これが……刺繍の森の、本当の深部……」
紗夜は、胸にしっかりと抱きしめた未完成の図案を落とさないよう、左腕の力をもっと強めながら、呆然と呟いた。
刺繍の森とは、その密度の濃さと異質さが明らかに違っていた。
周囲にそびえ立つクスノキやブナ、カエデの巨木たちは、まるで夜空そのものを支える巨大な柱のように太く、その樹皮には、大河の流れを思わせる数え切れないほどの細かな溝が刻まれている。
細部を凝視するほどに、紗夜の全身に鳥肌が立っていく。
その巨木たちの幹や、天を覆う無数の葉のすべてが、まるで一本の見えない糸によって織り上げられたかのような、独特の質感を備えているのだ。
木々の輪郭は、確かに植物のそれでありながら、近づいてよく見ると、微細な木綿や絹、麻の繊維が何重にも複雑に、あるいは規則正しく編み合わされて樹皮の模様を形成している。
風に揺れる葉の1枚1枚さえも、細いグリーンのグラデーションの糸が織りなす、見事なサテンステッチのように見えた。
彼女自身が人生のすべてを捧げて愛してきた刺繍の技法そのものが、この世界の物理法則を支配しているかのようだった。
「驚くのも無理はないよ、紗夜さん」
隣を歩く霧矢が、掲げた真鍮製のランタンの灯りで紗夜の足元を優しく照らしながら、静かに声をかけた。
彼の藍染めの羽織は、この深い緑の闇の中で、まるで夜の海そのもののような深い色彩を放っている。
丸眼鏡のレンズには、ランタンの小さな炎と、森のあちこちの闇から漏れ出す不思議な光の粒子が、万華鏡のように美しく映り込んでいた。彼の肩にかかった生成り色のショールが、夜風にふわりと揺れる。
「さっきも町で説明したけれど、ここは君の心の中の、最も純粋で、同時に最も触れられたくない、蓋をしてきた記憶が固まってできた場所だ。
君がおばあさんから教わった刺繍という技法、世界を認識するためのもっとも愛おしい眼鏡を通して、この世界が再構築されている。
だから、この森の自然はすべて、糸と針の記憶、布の感覚によって編み上げられているんだよ。
君の感覚そのものが、この森の景色を作っていると言ってもいい」
霧矢はそう言うと、自らの大きな掌で、未だに紗夜の指先から手首にかけて薄く透き通りかけている右手を、もう一度しっかりと、逃がさないように強く握り直した。
その節くれ立った指が、紗夜の指の隙間に深く滑り込み、男らしく力強い熱を伝えてくる。
「覚えているかい? 僕たちの約束を」
霧矢は、紗夜の顔を覗き込むようにして、真剣な、けれどどこか祈るような眼差しを向けた。
『記憶の根源へと続く場所だ。そこへ行くには、僕の先導が必要になる。そして、何があっても僕の手を離さないと、約束してほしい』
「……はい、覚えています」
紗夜は頷いた。霧矢の掌から伝わってくる、現実の人間と同じような、優しくも力強い熱。それだけが、今にもこの幻想的な緑の深淵、美しくも危うい過去の記憶に溶けてしまいそうな紗夜の意識を、辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。
彼女は、約束を反芻するように、霧矢の手をきゅっと握り返した。
「さあ、ご覧、紗夜さん。君の抱える図案の光が、森の木々と共鳴を始めている。君の心が、本当に進むべき方向を、もう自覚している証拠だ」
霧矢の言葉に促され、紗夜は自分の胸元を見つめた。
彼女が大切に抱く祖母の遺品の図案――あの鉛筆の線が生き物の血管のように脈打つ布から、1本の、細く、けれど確かな輝きを放つ琥珀色の光の糸が、するすると伸びていた。
その光の糸は、深い闇の奥へとまっすぐに走り、1本のひときわ巨大なクスノキの幹へと繋がっている。図案の光が、道標となって彼女を導いているのだ。
紗夜は生唾を深く飲み込み、霧矢の手の温もりをたった1つの命綱にするようにして、その右手を固く繋いだまま、光の糸が暗闇に描く軌跡を追いかけ、ゆっくりと1歩を踏み出した。




