2. 空白のてのひらと、記憶の結び目
光の糸に導かれて森の奥へと進むにつれて、周囲の木々は、驚くべき、そして残酷なほどに美しい変貌を遂げ始めた。
巨木たちの幹の表面、あるいは夜露に濡れた大きな葉のいたるところに、まるで現実世界の映画のスクリーンのように、鮮やかで、息を呑むほど美しい模様が浮かび上がり始めたのだ。
それは単なる映像の投影ではない。何色もの色鮮やかな刺繍糸を、気が遠くなるほどの精密さで、ちくちくと――それこそ何万回、何十万回と針を往復させて縫い合わせることで作られた、立体的な生きた刺繍絵だった。
「あ……おばあちゃん……」
紗夜は、右側にある大きなブナの木の前に立ち止まり、思わず歓声をあげた。
もちろん、霧矢の右手は繋いだままだ。彼もまた、紗夜の動きに合わせてぴたりと歩調を合わせ、ランタンを掲げてその視線の先を優しく照らし出している。
ブナの木の幹の樹皮には、茶色やベージュ、影を表現する深いチャコールグレー、そして優しい桃色の糸を使って、緻密なフレンチナッツステッチやチェーンステッチで描かれた祖母の姿があった。
祖母は、現実の紗夜がよく知る、あの少し背中の丸まった、度の強い丸眼鏡をかけた穏やかな姿をしていた。彼女の膝の上には、まだ小学校に上がる前の、小さくて不器用な紗夜が座っている。
祖母は自分の大きな手を、幼い紗夜の小さな手に重ね、一緒に1本の骨董品のフランス針を握り、白いリネン布に赤い木綿糸を通そうとしていた。
不思議なことに、その糸の模様は、ただの静止した絵ではなかった。紗夜がじっと息を詰めて見つめていると、刺繍で編まれた祖母の目元が優しく細められ、口元が嬉しそうに、確かに動くのだ。
同時に、カサカサと木の葉が擦れ合うような自然の音に混じって、祖母の、あの低くて少し掠れた、暖炉の炎のように温かい声が、紗夜の耳の奥に直接響いてきた。
『そうよ、紗夜。ゆっくりでいいのよ。針の先が、布の裏側に抜けるときの、あのすうっとした感覚を、指先でしっかり覚えるの。
焦らなくていい、糸はちゃんと、あなたの心についてきてくれるからね。途中で絡まっても、1本ずつ解けば、必ず綺麗な1本に戻るのよ』
「おばあちゃん……。
私、覚えてる。これ、私が初めておばあちゃんに刺繍を教えてもらった日だ。あのとき、不器用で、指に針をチクッて刺しちゃって、涙が溢れて泣きそうになった私を、おばあちゃんが『痛いの痛いの、夜の向こうへ飛んでけ』って、笑いながら頭を撫てくれたんだよね……。
あのときのおばあちゃんの手、すごく大きくて、お日様の匂いがしたんだ」
紗夜の瞳から、またしても熱い涙が堰を切ったように溢れ出し、彼女の頬を伝って足元の青々とした苔へと落ちていく。
涙が落ちた場所から、また新しい淡い緑の光がふわふわと舞い上がり、ブナの幹に描かれた祖母の刺繍を、より一層鮮やかに、立体的に照らし出した。
「素晴らしい思い出だね、紗夜さん」
霧矢は、紗夜の隣でしっかりと彼女の手を握ったまま、その刺繍絵を丸眼鏡の奥から見つめていた。
彼の表情には、かつてないほどに深い、静かな感動の光が灯っている。
繋がれた彼の指先から、微かな震えが伝わってくる。それは、紗夜の悲しみに共鳴しているかのようだった。
「君の心の中に、これほどまでに豊かな、温かい色彩が眠っていたんだ。祖母様は、本当に君のことを深く愛していたし、君もまた、その愛を全力で受け止めていた。
それは現実の時間の長さなんて関係ない、永遠の価値を持つ記憶だ。
……だからこそ、君はその手を離してはいけないよ」
「はい。おばあちゃんは、私の世界のすべてでした。
おばあちゃんが針を動かしているのを見ているだけで、私は何があっても大丈夫だって思えたの。
……でも、霧矢さん、見て。これ、おかしいよ」
紗夜は涙を指の背で拭うと、繋いでいない方の手――図案を抱える左手の指先で、そのブナの木の刺繍絵のある一部分を、震えながら指差した。
祖母の優しい笑顔、幼い紗夜の真剣な表情。すべてが完璧に描かれているはずのその刺繍絵の中で、ただ1箇所だけ、決定的な、不気味なほどの違和感があった。
それは、祖母が紗夜の頭を優しく撫でようとして差し出している、彼女の右手のひらの部分だった。
そこだけが、なぜか色のついた糸で縫い合わされておらず、元のざらりとした、色彩のない木の幹の茶色い地肌が、ぽっかりと丸く剥き出しになっていたのだ。
輪郭線だけが鉛筆で描かれ、中身が完全に抜け落ちている。
「欠けている……?」
紗夜は呟き、胸騒ぎを覚えて、周囲の他の木々を狂ったように見回した。霧矢の手を引くようにして、次々と現れる記憶の木々へとしがみつく。
左側のカエデの大きな葉に浮かび上がっていたのは、幼い頃、祖母に連れられて行った夏祭りの風景だった。夜空に大輪の、金や赤、紫の絹糸で紡がれた美しい花火が打ち上がっている。
けれど、その花火の最も眩しく輝くはずの中心核の部分だけが、糸が1本も通されずに、ただの青緑色の葉っぱの裏側が、虚しく露出していた。
さらに奥のブナの木に描かれていたのは、祖母が紗夜の誕生日に作ってくれた、大好物のオムライスの刺繍絵だった。
ケチャップの赤い糸が鮮やかに映えるその皿の横、祖母が『たくさん食べなさい、大きくなるのよ』と言って添えてくれたはずの、小さなスプーンの形だけが、やはり刺繍されずに白い下地の麻布のまま、ぽっかりと切り取られたように欠落していた。
「どうして……? どの思い出も、すごく綺麗で、私の宝物なのに、どうして全部、少しずつ欠けているの?
おばあちゃんの顔や、道具や、大切なものが、どうして未完成のままなの?」
紗夜は、胸の奥に冷たい氷の爪を立てられたような、言い知れぬ恐ろしさと不安に襲われながら、霧矢の顔を見上げた。恐怖のあまり、霧矢の右手を握る力が、骨が軋むほどに強くなる。
霧矢は、その紗夜の強い力を拒むことなく、むしろそれ以上の力強さで彼女の手を握り返し、ランタンの灯りを少しだけ下げて、森のさらに深い、光の糸が伸びる闇の奥を見つめながら、重く、静かな声で答えた。
「それはね、紗夜さん。君の心の中で、その記憶の最後の結び目が、まだ作られていないからなんだ」




