3. 透き通る指先と、約束の体温
「結び目が……作られていない?」
紗夜は霧矢の言葉を、壊れやすいガラス細工を扱うようにして、震える声で反芻した。
「そうだよ」
霧矢は、紗夜の手をしっかりと繋いだまま、ランタンを掲げた左手をゆっくりと幹へ近づけた。そして、持ち手を握ったまま、長い指先を伸ばして近くの巨木の幹に優しく触れた。
彼の指先が触れると、樹皮を形成する細かな糸の繊維が、微かに波打つように動く。
「刺繍をするとき、最後に糸が解けてしまわないように、必ず布の裏側で小さな結び目――玉留めを作るだろう?
あれをしないと、どれほど長い時間をかけて、どれほど美しい模様を布の上に縫い上げても、糸の端を少し引っ張るだけで、すべてのステッチがするすると解けて、ただの退屈な1本の線に戻ってしまう。思い出も、それと同じなんだ」
霧矢は丸眼鏡の位置を中指で直し、繋いだ手から伝わる紗夜の微かな震えを宥めるように、親指の腹で彼女の手の甲を優しくさすった。その瞳は、彼女の痛みをすべて見透かしているようだった。
「君の心の中にある祖母様との思い出は、どれも信じられないほどに美しく、豊かだ。けれど、君は1年前、祖母様が亡くなったというあまりにも大きすぎる悲劇に直面したとき、その思い出のすべてを過去として完成させるための、最後の結び目を作ることを拒絶してしまったんだ。
――祖母様の死を、本当の意味で受け入れるという、痛みを伴う結び目をね」
霧矢の言葉が、鋭い針となって紗夜の胸の最深部を、情け容赦なく貫く。
「死を受け入れてしまえば、思い出は過去のものとして固定されてしまう。もう二度と更新されない、終わったものになってしまう。
それを恐れた君は、糸を針に通したまま、結び目を作らない状態で、記憶の引き出しを乱暴に閉めて、見ないふりをしてしまった。そのせいで、君の思い出のすべては、決定的な最後のピース――祖母様が君に遺した最後の言葉の周辺だけが、どうしても縫い合わされずに、空白のまま残されてしまったのさ。
だから、ここにある過去の景色はすべて、その核心の部分だけが欠落して、未完成のまま寂しそうに揺れているんだよ」
「おばあちゃんの、最後の……言葉……」
紗夜の脳裏に、あの白く、ツンとした消毒液の匂いが満ちた、1年前の病室の風景が、強烈な色彩を伴って蘇ってくる。
ベッドの上に横たわる、痩せ細ってしまった祖母。点滴の管に繋がれた右手。いつもかけていた度の強い丸眼鏡は外され、うつろな、けれどどこか愛おしそうな目が、自分を見つめていた。
祖母は、カサカサに乾いた唇を、微かに動かした。
『紗夜……いい、よくお聞き……。おばあちゃんが、あなたに、最後に伝えておきたいのはね……』
そこまでは、驚くほどはっきりと思い出せる。声の掠れ具合も、心電図の電子音も、窓の外のカラスの声さえも、ありありと鼓膜に蘇る。
けれど、その後に祖母が紡いだ、最も重要で、最も優しかったはずの物語の最後の言葉だけが、濃い真黒な霧の向こう側に隠されたように、どれほど記憶の糸を引っ張っても、どうしても思い出せない。
「思い出せない……! おばあちゃん、私に何を言おうとしてたの? どうして、そこだけが真っ白なの……!
私は1人で生きていかなきゃいけないのに、どうして一番大切な言葉が消えちゃってるの!?」
紗夜は叫び、耐えきれなくなって苔の上にへたり込むようにして跪きかけた。その瞬間、彼女の身体を襲ったのは、精神的なパニックだけではなかった。
「あ……っ!」
視界がぐにゃりと歪み、自分の右手の感覚が、急速に消失していくのが分かった。
慌てて視線を落とすと、霧矢の大きな掌に包まれているはずの彼女の指先から手首、そして肘のあたりまでが、まるで薄いガラス細工のように、向こう側の緑の景色を完全に透過させていた。
現実世界での自分の存在の重みが、過去の記憶の混乱と拒絶によって限界まで希釈され、世界の余白へと完全に溶けて消え去ろうとしていたのだ。
繋がっているはずの霧矢の手の熱が、急激に遠ざかっていく。肉体が実体を失うことで、彼の掌から紗夜の手がするりと、物理的にすり抜けて離れかけていた。
「駄目だ、紗夜さん! 僕の手を掴んでいて!」
霧矢が鋭い声で叫んだ。彼は跪きかける紗夜の身体を支えるように、即座に自らも苔の上に片膝をつき、繋いだ右手を自らの胸元へと強く引き寄せた。
「約束しただろう! 何があっても、僕の手を離してはいけないと! 君が僕の手を握っている限り、君は消えたりしない!」
霧矢は、透き通りかけた紗夜の手を、自身の両手で包み込むようにして、さらに強く、壊れ物を守るような必死さで握りしめた。彼の掲げるランタンのオレンジ色の灯火が、2人のすぐ側で、激しく、危うく揺れている。
霧矢の藍染めの羽織から漂う、古い書物の匂いと、ほのかな珈琲の香り。そして、彼の手から爆発的なまでに伝わってくる、現実の人間と同じ――いや、それ以上に熱い体温。
その約束の手の温もりが、紗夜の暴走しかけた意識のパニックを、冷たい井戸水のようにじんわりと鎮め、消えかけていた彼女の身体の輪郭を、辛うじてこの世界に繋ぎ止めていく。
「霧矢さん……ごめんなさい、私、怖くて……。約束、ちゃんと守ります。絶対に、この手は離しません……」
紗夜は霧矢の胸元に額を押し当てるようにして、幼い子供のように声をあげて激しく泣いた。彼女の涙が、霧矢の生成り色のショールにみるみるうちに染み込んでいく。
霧矢は、繋いだ右手はそのままに、もう片方の手で彼女の震える背中を、何度も何度も、優しく撫で続けた。
「いいんだ、紗夜さん。怖がらなくていい。君が僕の手を握り返してくれている限り、僕はどこにも行かないし、君を消させはしない。ゆっくりでいい、呼吸を整えて」
霧矢の声に導かれ、紗夜は深く息を吐き出した。木の葉のステッチの隙間から、あの巨大で優しい琥珀色の三日月が、2人を静かに見守っている。
「夜の向こう側という世界はね、紗夜さん。――記憶の余白でできているんだよ」




