4. 忘却の余白と、小さな火
「記憶の……余白……?」
紗夜は、霧矢の藍染めの胸元に顔を寄せたまま、涙に濡れた掠れた声でその言葉を繰り返した。
霧矢の規則正しい鼓動が、繋いだ右手と彼の胸を通じて紗夜の耳の奥に伝わってくる。
ドクン、ドクンというその確かな響きは、この曖昧な夜の世界において、唯一無二の羅針盤のように確かで、心強いものだった。
「そうさ」
霧矢は、彼女の背中を優しく撫でていた手をそっと離し、足元の深い苔の上にランタンを置いた。そして、空いたその左手を、紗夜の右手を包み込んでいる自身の右手にさらに重ね、彼女の手を完全に自分の両手でホールドした。
決して、一瞬たりとも、物理的な接触を断たないという、強い意志の表れだった。
「人間の記憶というものはね、紗夜さん。君が思っているほど完璧な、強固なものじゃないんだよ。
どんなに大切で、生涯忘れたくないと願った思い出であっても、時間の経過とともに、色彩は少しずつ褪せ、輪郭はぼやけ、細かい会話やその場のディテールは、砂時計の砂のように指の隙間から抜け落ちていってしまう。
現実の世界に生きる人々は、それを忘却と呼んで、ただ悲しいこと、失われたこととして片付けてしまうけれどね」
霧矢は丸眼鏡のブリッジを、紗夜の手を握ったまま、自身の顎を動かすようにして微かに直し、森の奥に果てしなく広がる、無数の未完成の刺繍絵を見つめた。
「けれど、行き場を失ったそれらの忘却のピースは、宇宙の塵のように完全に消えてなくなるわけじゃないんだ。
現実の意識の隙間、忙しい日常のノイズの裏側から滑り落ちて、この夜の向こう側という特別な境界へと流れ着く。
影のように君に付き従い、君が忘れたくないという強い未練や、引き裂かれそうなほどの情熱と結びつくことで、もう一度だけ、現実に存在しないはずの形を与えられる。
つまりね、紗夜さん。この夜の商店街も、この刺繍の森も、君が日常の中で思い出せなくなってしまったもの――その愛おしい余白が集まって形作られた、美しくも儚い砂上の楼閣のようなものなんだよ」
「私の……思い出せない余白……」
「そう。君が祖母様の最期の言葉を思い出せないと苦しみ、その記憶の糸を無理に引きちぎってしまったからこそ、その思い出せないという強烈な空白の痛みが引力となって、この森の最深部を作り出し、ハル様の未完成の図案をここに呼び寄せた。
この世界にあるすべての欠落、あの商店街の看板の文字の掠れも、花火の刺繍の中心の白さも、すべては君が冷酷な現実を生き抜くために、心の奥底へ置いてこざるを得なかった優しさの残骸なんだ。だから、忘れてしまった自分を、思い出せない自分を、そんなに責める必要なんて、どこにもないんだよ」
「霧矢さん……」
紗夜は、霧矢の両手に包まれている自分の右手へと視線を走らせた。
彼の圧倒的な熱量のおかげで、肘から上は辛うじて人間の肉体としての保たれているが、彼の手の隙間から見える彼女の指先は、まだ薄く向こう側の苔を透過させている。
手を離せば、一瞬で消える。その恐怖が、彼女の心に冷たい警鐘を鳴らし続けていた。
このままこの余白の世界の圧倒的な優しさと懐かしさに甘え、過去の美しい思い出の中に溶けてしまえば、どれほど楽だろうか。
ここには、大好きな祖母がいて、彼女の温かい声が響き、自分が人生で最も愛した刺繍の美しい色彩が溢れている。
冷たい大学の講義室も、将来への不安も、誰もいない一人暮らしの薄暗いワンルームも、そして何より――祖母がもうこの世界のどこにもいないという、あの張り裂けそうな絶望的な事実も、ここには存在しないのだから。
――いや、違う。
紗夜の胸の奥底で、小さく、けれど決して消えない強固な火が、パチリと爆ぜた。
ここに残されている祖母のおもかげは、本物の祖母ではない。自分の脆い記憶が都合よく作り出した、糸と光で編まれた幻に過ぎない。
本物の祖母は、あの病院のベッドの上で、自分の手をその最後の体温で握り締めながら、確かに何かを伝えようとしていた。
その本物の言葉を拒絶したまま、ここで偽物の思い出に囲まれて消えていくことは、祖母の生れた人生を、そして注いでくれた無償の愛を、踏みにじることになるのではないか。
「私……行きます」
紗夜は、図案を抱える左腕の力をさらに強め、そして、霧矢の両手の中にある右手に、ありったけの力を込めて彼の手を握り返した。
「おばあちゃんの言葉の余白を、余白のままで終わらせたくない。
たとえそれが、どれほど悲しいお別れの言葉だったとしても、私はそれから目を背けずに受け止めて、私の心の中で、ちゃんとした結び目を作りたいんです。
そのために、私はあなたの手を絶対に離しません。だから、一緒に行ってください」
霧矢は、苔の上で紗夜と視線を交わしたまま、その瞳に宿る強い意志の光をじっと見つめていた。
彼の丸眼鏡の奥の瞳に、寂しさに似た、けれどそれ以上に深い、言葉にならないほどの誇らしさが満ちていく。
「……やはり、君は僕が思った通り、本当に強い人だね、紗夜さん。その約束、確かに引き受けた。
僕も、君が現実へ帰るその瞬間まで、この手を決して離さない」




