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第2話/未来の幻想

第2話できました。先に第1話よりご覧ください


◇


劇団エデン。

表向きは普通の劇団だがその裏で歌に取り憑く異形の存在、『堕天詩』を討伐している。

その活動を知っている人間は限られている。 


◇


天塚美佳流は高校二年生。劇団エデンに入団して数ヶ月が経っていた。今日はエデンの公演の日。


「えーっと、今日は何を着ていこうかな……」


美佳流はタンスを開け、服を一着ずつ取り出しては鏡の前で身体に当てていた。


「こっちもいいけど、ちょっと地味かな? うーん……」


悩んだ末、彼女は手にしていた服を床に放り投げた。


「ま、どうせ劇場で衣装に着替えるんだし、何でもいいか!」


そう言いながら、次の服を取り出す。

机の上には演劇の本や台本が積み重なり、床には脱ぎ捨てた衣服が散乱していた。

そのとき、背後でドアが開いた。


「美佳流、準備できてる?」

「ちょっと! 勝手に入ってこないでよ!」


振り返った美佳流が声を上げる。

母親は悪びれる様子もなく答えた。


「入るって言ったわよ。返事がなかったから入ったの。それより、お母さん、今日は仕事で公演を見に行けないけど、アンタは準備まだなの?」

「今やってるところ!」

「そう。せっかくの公演なんだから、忘れ物しないようにね」


母親はそう言って、部屋の中を見回した。

そして、床に散乱した衣服に目を留める。


「……ちょっと。何なの、この部屋」

「何って、見ればわかるでしょ」

「見ればわかるから聞いてるのよ。こんなに散らかして!」


母親はため息をつき、床に落ちていた衣服を拾い始めた。


「あーあ、もう。脱いだら脱ぎっぱなしなんだから……」

「あとで片付けるってば」

「その『あとで』がいつも来ないんでしょうが」


ぶつぶつ言いながら衣服を拾っていた母親が、不意に手を止めた。


「あら、これも洗濯物?」


手にしていたのは、美佳流のブラジャーだった。


「~~~~っ!?」


美佳流の顔が一気に赤くなる。


「ちょっ! 何拾ってんのよ!」

「何って、床に落ちてたから拾っただけじゃない」


美佳流は慌てて駆け寄ろうとした。

母親はきょとんとした顔で娘を見つめた。


「何よ、そんなに慌てて。別に珍しいものでもないでしょう?」


母親はふと、そのブラジャーについているタグに目を留めた。


「あら、これって……」

「な、何?」

「アンダー70のBね……」

「っ!!」


美佳流の顔が、先ほどよりもさらに赤くなった。


「さわるなー!」


美佳流は母親の手から強引にブラジャーを奪い取った。

美佳流は胸の大きさに、密かなコンプレックスを抱いていた。


(って余計なこと言わないでよ!)


母親はあっさり引き下がった。

それがかえって、美佳流には恥ずかしかった。


「もう! ほんっと最悪! お母さんなんか大っ嫌い!」

「はいはい。そんなこと言ってないで、早く準備しなさい」


母親は再び床の衣服を拾い始めた。


「それにしても、最近のアンタは本当にだらしないわね。昔はもっと素直だったのに」

「……は?」


美佳流の手が止まった。


「昔は言われなくても自分で片付けてたし、こんなに口答えもしなかったじゃない」

「またそれ? 昔の話ばっかり!」

「だって、最近のアンタはひどいじゃない。帰りも遅いし、家では演劇のことばかり。学校のことだって心配なのよ」

「演劇の何が悪いのよ!」

「悪いなんて言ってないでしょう! ただ、もう少し自分の生活も考えなさいって言ってるの!」

「私だってちゃんと考えてる!」

「だったら、もう少し部屋を片付けなさい!」

「うるさいなあ! いちいち口出ししないでよ!」


母親の眉間にしわが寄った。


「誰のおかげで生活できてると思ってるの?」


その言葉に、美佳流の表情が険しくなる。


「出た!そうやってすぐ恩着せがましいこと言う!」

「恩着せがましいって……。私はアンタのことを心配してるだけでしょう!」

「心配、心配って! それしか言えないの!?」


美佳流は鞄をつかみ、床に散らばった衣服を足で押しのけた。


「もういい! ババアの小言なんか聞いてらんない!」


母親の顔がぴくりと動いた。


「……誰がババアよ」

「お母さん以外に誰がいるのよ!」

「私、まだ42歳なんですけど!」

「だから何!? ババアはババアでしょ!」

「アンタねえ……!」


母親の声が一段と大きくなる。


「誰が毎日アンタのためにご飯作って、洗濯して、心配してると思ってるのよ!」

「頼んでない!」


母親が息をのんだ。

それでも、美佳流は止まらなかった。


「育ててくれなんて頼んでないんだから! もう放っといてよ、ババア!」

 

母親は黙り込んだ。

美佳流は思わず飛び出した言葉にハッとしたが鞄を肩に掛け、玄関へ向かう。


「美佳流、待ちなさい!」

「……公演に遅れるから!」

「まだ話は終わってないでしょう!」

「私は終わったの!」


美佳流は玄関で靴を履くと、勢いよく扉を開けた。


「行ってきます!」


返事を待たず、外へ飛び出す。

バタン!

乱暴に閉じられた扉の音が、家の中に響いた。

母親はしばらく玄関を見つめていた。


「……もう。あんなに怒らなくてもいいじゃない」


小さくため息をつき、娘の部屋へ戻る。

床には服が散らばり、机には演劇の本が積まれている。

母親はそのうちの一冊を手に取り、表紙を眺めた。


「……今日は美佳流の……」


そこまで言いかけて、口を閉じる。

誰もいなくなった部屋に、朝の日差しだけが差し込んでいた。


◇


「遅い!」


稽古場に駆け込んだ美佳流を、ランファの鋭い声が迎えた。


「ご、ごめんなさい!」


美佳流は慌てて頭を下げた。息が上がり、肩が大きく上下している。


「今日が何の日かわかってるわよね? 公演当日よ。出演者が遅刻してどうするの!」

「わかってるます!ちょっといろいろあって……」

「いろいろって何よ?」

「それは……」


美佳流は言葉に詰まった。

母親と喧嘩した、なんて言えるわけがない。

そもそも、今朝のことを思い出すだけで腹が立ってくる。


(もう!お母さんのせいでとんだとばっちりじゃない!)


自分が服選びに時間をかけていたことも、喧嘩を長引かせたことも、頭の片隅に追いやってしまう。


(あんなに朝からガミガミ言わなくたっていいじゃない!おかげで家を出るのが遅くなっちゃったし!)

「美佳流ちゃん?」


ランファに顔を覗き込まれ、美佳流はハッとした。


「な、何ですか?」

「何ですかじゃないわよ。聞いてるの?」

「き、聞いてます!」

「だったら、次からは時間に余裕を持って行動すること。いいわね?」

「……はーい」


美佳流は不満げに返事をした。


「返事は一回!」

「は、はいっ!」


ランファは深いため息をついた。


「まったく……。本番前からこんな調子で大丈夫なのかしら」

「大丈夫です!舞台に立てばちゃんとやれます!」

「その自信があるなら、普段の行動にも責任を持ちなさい」

「うっ……」


美佳流は言い返せず、唇を尖らせた。


(あーあ、朝から最悪……)


それでも、今日の公演を台無しにするわけにはいかない。

美佳流は気持ちを切り替えるように、頬を軽く叩いた。


(……よし! 舞台は舞台。お母さんのことなんか、もう忘れよう!)

「ランファさん、着替えてきます!」

「ええ。急いで準備しなさいよ。もうすぐ開演なんだから」

「わかってます!」


美佳流は楽屋へと駆け出した。

その背中を見送りながら、ランファはもう一度、小さくため息をついた。


「……本当に、慌ただしい子ね」


美佳流は大急ぎで衣装に着替え、舞台袖に立った。


◇


ランファの合図とともに、幕が上がる。

美佳流は何事もなかったかのように舞台へ飛び出した。

その日の公演は大盛況。舞台に現れた堕天詩も、劇団エデンの活躍によって無事に倒された。


◇


公演を終えた楽屋では、恒例の反省会が始まっていた。

団員たちがそれぞれの演技や動きを振り返る中、美佳流はランファの前で小さくなっていた。


「あの……ランファさん。大事な公演の日に遅刻して……ごめんなさい……。」


美佳流が謝りランファは厳しい表情のまま語る。


「劇団員の一人として、時間を守るのは当然のこと。お客様は、あなたの都合に合わせて待ってくれるわけではないのよ」

「はい……。本当にすみませんでした」


美佳流は素直に頭を下げた。

遅刻しかけたことは事実だ。言い訳はできない。


「今後は余裕を持って行動すること。いいわね?」

「はいっ!」


ランファは腕を組んだまま、まだ何か言いたそうだった。

すると、見かねた劇団員の一人が口を挟む。


「まあまあ、ランファ。説教はそのへんにしておいたら?」

「そうそう。今日は特別な日なんだから」


別の団員も笑顔で続けた。


「そうね。今日の主役だもの」

「……え?」


美佳流は顔を上げた。


「主役?」


劇団員たちが、にこにこと美佳流を見つめている。


「はい。主役って……私のことですか?」

「もちろんよ」

「え!?私、今日の公演でも今まででも、主演なんて一度もしてませんけど!?」

「ふふふ……」

「えっ、何? なんですか、その笑い!?」


団員たちは顔を見合わせた。

そして――。


パァン! パァン! パァン!


突然、クラッカーの音が楽屋に響き渡った。


「きゃあっ!?」


美佳流は飛び上がった。

紙吹雪が舞い、色とりどりのテープが頭に降りかかる。


「な、何!?」


驚く美佳流をよそにランファは、楽屋の隅に置かれていた箱を持ち上げてそれを美佳流の前に置く。


「開けてみて」

「……これ、何ですか?」

「いいから」


美佳流は恐る恐る箱の蓋を開けた。

中に入っていたのは、大きなケーキだった。

白いクリームに彩られたケーキ。

その中央には、チョコレートのプレートが載っている。

そこには、こう書かれていた。


『美佳流ちゃん17歳のお誕生日おめでとう!』


「…………」


美佳流は、しばらく動かなかった。

そして、ゆっくりと顔を上げる。


「あ……」


美佳流は目を丸くした。

ここ最近は公演の準備や学校の勉強に追われ、自分の誕生日をすっかり忘れていた。


「ハッピーバースデー、トゥーユー♪」


劇団員たちが歌い始めた。

目の前には、17本の蝋燭が立ったケーキ。

歌が終わると、勢いよく息を吹きかけた。

十七本のろうそくが一度に消える。


「おめでとう!」


拍手と歓声が楽屋に響いた。

美佳流は、頬を赤くしながら笑った。


「ありがとうございます! 私、すっごく嬉しいです!」


その後は、ケーキを切り分け、みんなで食べた。

公演の反省会は、いつの間にか誕生日パーティーへと変わっていた。

美佳流は学校の話をし、団員たちは昔の失敗談を披露する。

ランファは相変わらず厳しいことを言いながらも、いつもより少しだけ表情が柔らかかった。


「……ところで、美佳流ちゃん」

「はい?」

「今度からは、ちゃんと遅刻しないようにするのよ」

「うう……今言わないでくださいよ!」


楽屋に笑い声が広がる。

美佳流は、みんなの顔を見回した。

自分の誕生日を覚えていてくれたこと。

わざわざケーキを用意してくれたこと。

一緒に笑ってくれること。

どれも、嬉しかった。


(……私、幸せだな)


胸の奥が温かくなる。


(みんな、本当にありがとう)


やがて、片づけも終わり、団員たちは一人、また一人と帰り支度を始めた。

美佳流はソファに座り、満ち足りた気分で息をついた。


(……楽しかった)


今日は、いろいろあった。

母親と喧嘩して遅刻してランファに叱られた。

それでも、最後にはこんなに素敵な誕生日になった。


(……明日も、頑張ろう)


美佳流は目を閉じた。

遠くから、劇団員たちの声が聞こえる。

その声を聞きながら、美佳流はゆっくりと眠りに落ちていった。

――このとき、彼女はまだ知らなかった。

今夜見る夢が、ただの夢ではないことを。

そして、忘れたつもりでいた過去と、向き合うことになるのを。


◇


美佳流は起き上がろうとした。

しかし、体が思うように動かない。というか、体が勝手に動いている。


(……え?)


声を出そうとした。


「あー」


口から出るのは意味のない声ばかりだった。これもまた、勝手に声が出てしまう。


(えっ、ちょっと待って! どうなってるの!? それにここどこ? 私、エデンの楽屋に……)


そこまで考えたところで、部屋の扉が開いた。


「あら、起きていたのね」


入ってきたのは20代前半に見える女の人だった。

顔を上げた先に、若い女性の顔があった。


(……大きい)


いや、顔だけではない。肩も腕も、普段見慣れた人間よりずっと大きく見える。


「よしよし。いい子にしてた?」

(えっ、何? 私に言ってるの?)


女性が両腕を伸ばしてきた。

次の瞬間、体がふわりと持ち上がった。


(うわっ!?)


 背中に腕が回る。体が女性の胸元に寄せられ、温かな感触に包まれた。


(ちょ、ちょっと! いきなり何するのよ!)


美佳流は抗議しようとした。だが、体は女性に抱かれたまま、おとなしくしている。

それどころか、女性の腕の中で小さく身じろぎした。


(……私、今、何もしてないんだけど!?)


自分の意思とは関係なく動く体。

思いどおりにならない声。

何もかもがおかしかった。

それなのに、女性はまるで当たり前のように美佳流を抱き、優しく背中を撫でている。


(うーん……。なんか、この人、どこかで見たことがあるような……)


初めて会ったはずなのに、妙な懐かしさがあった。

どこかで見たような気がするのに思い出せない。


「ふふっ。お腹がすいたのかな?」

(お腹?)


言われてみれば、少し空腹を感じる。

視線がゆっくりと動いた。

美佳流が動かそうとしたわけではない。それでも、目に映る景色が少しずつ変わっていく。

体は思うように動かない。部屋の隅に、鏡が置かれていた。


(……あれ?)


鏡に映っているのは、女性と、その腕に抱かれた小さな子供だった。

赤ん坊。丸い頬に、小さな手足。

女性に抱かれ、きょとんとした顔で周囲を見ている。


(……赤ちゃん?)


鏡の中の赤ん坊も、同じように顔をしかめていた。


(………え?)



小さな手。短い腕。丸々とした頬。

そして、自分が今いる視点と、鏡の中の赤ん坊の動き。

そのすべてが、妙に一致していた。


(いや、まさか……)


そんなはずはない。だって、自分は17歳になったばかり。劇団エデンの一員として、堕天詩と戦っている高校生だ。

赤ん坊になどなるはずがない。


(……でも、もしかして)


 美佳流は、ようやくひとつの可能性に思い至った。


(私、どこかの家の赤ちゃんになっちゃったの?)


そう考えれば、一応の説明はつく。

体が自由に動かないことも、意味のある言葉が出てこないことも、この大きな女性に抱かれていることも。

夢なら、何が起きてもおかしくない。


(うん、そうよ!きっとそう!)


美佳流は、半ば無理やり自分を納得させた。


(どこの赤ちゃんか知らないけど……。じゃあ、この人がこの子のお母さんってこと?)


女性は、そんな美佳流の心の内など知るはずもなく、にこにこと笑っていた。


「よしよし。いい子ね」

(……うーん。なんか、妙に優しい人だなあ)


一体誰なのだろう。

そんなことを考えていた、そのときだった。


「美佳流、どうしたの?」

(…………え?)


女性の言葉に、美佳流の思考が止まった。

今、なんと言った?

美佳流?

それは、自分の名前だ。


(ちょっと待って)


女性は優しく頬を撫でながら、もう一度呼びかけた。

「美佳流ちゃん?」

(えっ、どういうこと?)


美佳流は混乱した。どこの誰とも知らない赤ん坊になったと思っていた。

目の前の女性は、その赤ん坊の母親なのだろうと思っていた。

なのに、どうして自分の名前を呼んでいるのだろう。女性に対して、懐かしさを感じた理由。

そして、何よりも――。

自分の名前を呼ばれたこと。


(まさか……)


頭の中で疑問が確信となる。


(この赤ちゃん……私なの!?)


美佳流は、ようやく理解した。

自分は、知らない赤ん坊になったわけではない。 これは、自分が赤ん坊だった頃の記憶なのだ。


(うそでしょーっ!?)


心の中で絶叫した。

しかし、赤ん坊の体は美佳流の意思とは関係なく、母親の腕の中で小さく声を上げた。


「あーう!」

「あらあら。元気ねえ」

(元気じゃない! 私は大混乱してるの!)


母親は楽しそうに笑い、赤ん坊の頬を優しく撫でた。

その手の温かさも、抱きしめられる感触も、すべてがはっきりと伝わってくる。

美佳流は、自分の意思では動かせない小さな手を見つめた。


(……これ、夢なの?体は子供、頭脳は高校生……って私はコ〇ンくんか!)


一人でツッコミしたが考えたところで、答えは出ない。

ただひとつ、確かなことがあった。

今の美佳流は、自分の過去の中にいる。

自分の意思で行動することも、過去を変えることもできない。

まるで映画の中に入り込んでしまったかのように、当時の自分の体験を追いかけるしかないのだ。


(……勘弁してよ)


美佳流は心の中で呟いた。


(私、これからどうなっちゃうのよ……)

「美佳流ちゃん、お腹がすいたのかな~? よちよち、おっぱいの時間でちゅよ~」

(……え?)


母親が突然、赤ちゃん言葉で話し始めた。


(ちょっと待って。なんで急にそんな喋り方なの? 私、そんなに赤ちゃんに見える? いや、今は赤ちゃんなんだけど!)


母親は慣れた様子で美佳流を抱き上げ、シャツをめくった。


(ん? 何をする気……って、ちょっと!)


ブラジャーが見えた瞬間、美佳流は嫌な予感を覚えた。


(ま、まさか……)


母親が授乳の準備を始める。


(やっぱりーっ!!)


美佳流の心の中で、悲鳴が上がった。


(待って待って! 私、もう17歳なんだけど!? 高校生なんだけど!? 今さら赤ちゃんに戻っておっぱい飲まされるなんて、聞いてないんですけどーっ!)

「あーう、あーう」


もちろん、口から出るのは言葉にならない声だけ。

母親はそんな娘の内心など知るはずもなく、優しく抱きかかえて授乳を始めた。


(うわあああ……! 恥ずかしい! 恥ずかしすぎる!)


ところが、17歳の意識とは裏腹に、赤ちゃんの体は自然に母親に甘えていた。


(ちょっと!? なんでそんなに慣れてるの、私の体! もう少し抵抗してよ!)


もちろん、赤ちゃんの体にそんな理屈は通用しない。


(しかも、どうせ飲むならスタバのミルクラテがいいんだけど! なんで私はカフェの新作も飲めない赤ちゃんに戻ってるのよー!)


自分でも理不尽な文句だとは思う。


(……いや、そもそも赤ちゃんにカフェラテは飲めないでしょ! 何を言ってるの、私!)


自分のモノローグに、自分でツッコミを入れる美佳流だった。

母親は優しく声をかけながら、娘の様子を見守っている。


「おいちいでちゅか~? ゆっくり飲んでね~」

(だから赤ちゃん言葉はもういいってば……!)

「ふふっ。ご機嫌ね、美佳流ちゃん」

(ご機嫌じゃないんですけど!)


母親は美佳流を抱き上げ、ベッドのそばに腰を下ろした。


「ねえ、美佳流ちゃん」


母親は、赤ん坊の顔を覗き込んだ。


「美佳流って名前、お父さんが考えてくれたのよね」

(……お父さん?)

「大天使ミカエルのように、輝く存在になってほしいって。お父さん、そんな願いを込めてくれたのよ」

(へえ……)


美佳流は目を瞬かせた。


(私の名前、ちょっと変わってると思ったら、そういう由来だったんだ)


自分の名前に、そんな願いが込められていたとは知らなかった。

ミカエル。天使の名を持つ少女。

劇団エデンで戦う今の自分に、どこか似合っている気もする。


「生まれたときは、本当に小さかったのよ」


母親は懐かしそうに語り始めた。


「予定より早く生まれたから、ちゃんと大きくなってくれるか心配で……。毎日、元気に育ってねってお願いしてたの」


母親は美佳流の手をそっと握った。


「でも、こうして元気に育ってくれて、本当によかった」


そして、微笑んだ。


「生まれてきてくれて、ありがとうね。美佳流はママの大切な宝物だよ」


まだ幼い自分を抱き、心の底から愛おしそうに見つめている。胸の奥が、じんわりと熱くなった。美佳流は母親の顔を見つめた。

その笑顔は、記憶の中にあるものとは少し違っていた。

今の母親とは美佳流が反抗すれば怒るし、口論になることだってある。

けれど、この頃の母親は違った。

ただ、娘が生まれてきてくれたことを喜んでいた。

美佳流は思い出した。今朝母親と喧嘩した時のことを。


『育ててくれなんて頼んでないんだから! もう放っといてよ、ババア!』


(……私、なんてこと言ったんだろう)


あの時は腹が立って思ってもいないことまで口にしてしまった。

でも、お母さんは自分が生まれたときから、ずっと大切にしてくれていたのだ。


(……ごめんね、お母さん)


謝りたかった。

今すぐ母親に、あのときの言葉を取り消したいと伝えたかった。

けれど、赤ん坊の体では何もできない。

言葉を発することも、母親に抱きつくことも、思うようにはできなかった。


(……お母さん)


胸の奥が熱くなった。


(いつも文句ばっかり言って、ごめんね。私もお母さんが大好きだよ)


本当は、そう伝えたかった。

けれど、その瞬間――。


「うええええん!」


突然、赤ん坊の泣き声が部屋に響いた。


(えっ!? ちょっと待って!)


美佳流は慌てた。


(私、今、感動してたんだけど!? なんで泣き声が出るのよ!)

「ど、どうしたの、美佳流ちゃん!?何か怖いの?」


母親が心配そうに顔を覗き込む。


(違うの、お母さん!怖いんじゃないの! 嬉しいの!)


しかし、口から出るのは泣き声ばかりだった。


(ああもう! ありがとうの一言くらい言わせてよー!)


母親は娘をそっと抱きしめた。


「よしよし。大丈夫よ。ママはここにいるからね」


優しく背中を撫でられ、美佳流の泣き声は少しずつ小さくなっていった。


(……ありがとう、お母さん)


美佳流は、母親の胸に顔を埋めた。


(私を生んでくれて、ありがとう)


言葉にはならない。けれど、今の美佳流には、それだけで十分だった。

母親は泣き続ける娘を、いつまでも優しく抱きしめていた。

窓から差し込む柔らかな光が、二人を包んでいる。

そこには、何の不安もない。

ただ、母親の愛情と、それに包まれる小さな命があった。 


――美佳流は、知らなかったわけではない。


母親が自分を心配してくれることも、叱ってくれることも。

ただ、それが当たり前になっていた。


(……帰ったら、ちゃんと謝ろう。それで、ありがとうって言おう)


美佳流は心の中で誓った。 



母親の腕の中は温かく安心する。

ずっと、このままでいたいと思うほどに。

やがて、赤ん坊の美佳流の体は眠りに落ちていった。

その意識が再び目覚めたとき、彼女はまた別の記憶の中にいることになる。


◇


気がつくと、美佳流は見知らぬ部屋に立っていた。


「……え?」


見覚えのある壁。窓際のテーブル。薄暗い照明。


(ここって……)


記憶をたどった瞬間、美佳流の顔から血の気が引いた。

中学に入学して一ヶ月も経たない頃の忘れたかった記憶の舞台だった。


(うそ……。なんで、ここに……?)


美佳流の意識だけが、過去の自分の内側に閉じ込められていた。身体を動かすことも、声を出すこともできず、五感を通して記憶を追体験するしかなかった。


(待って……。お願いだから、やめて……!)


数日前、放課後の廊下で二学年上の不良の先輩と肩がぶつかった美佳流は、落ちたスマートフォンの画面を割ったと責められ、弁償代として五万円を要求された。

親にも先生にも相談できずにいると、先輩の友人たちがある方法を持ちかけてきた。


「大人と会ってね……」

「……そんなこと、できません」


美佳流は必死に断った。けれど、先輩たちは引き下がらない。


「自分で壊したんだから、責任を取らないとね」


断れば、何をされるかわからない。

美佳流は唇をかみしめた。誰にも相談できず、逃げ道も見つからない。


「……やります」


先輩は満足げに笑った。


◇


そして現在。意識だけが過去の自分に閉じ込められた美佳流は望まない性行為を強いられたあの日の記憶を再び体験させられていた。


(やめて……! お願いだから、もうやめてよ……!)


美佳流は必死に願う。


(違う……。私は、こんなことしたくなかった……)


けれど、過去の自分には届かない。

ガチャリ。

ドアが開いた。


「美佳流ちゃんだね」


男の顔を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。

男の手が伸びてきた。


「いや……」


美佳流は身をすくめた。逃げようとしても、身体が思うように動かない。

男の腕が彼女を引き寄せる。

その瞬間、ふと、懐かしい記憶がよみがえった。

幼いころ、母親に抱かれていたときのこと。


温かな腕に包まれ、優しく頭を撫でられる。あのころは、何も怖くなかった。


――大丈夫よ。ママがいるからね。


(……違う)


美佳流は目を閉じた。

同じように誰かの腕に包まれているのに、そこには温もりも安心もなかった。


(お母さん……助けて……こんなの……違う……)


心の叫びは、誰にも届かなかった。

時間の感覚が失われていく。

男が強引に距離を詰める。


「いや……やめて……!」


美佳流の拒絶は届かなかった。

男は彼女の訴えを無視し、無理強いを続けた。

怖かった。

逃げたいのに、身体が思うように動かない。声を上げても、誰も助けに来てくれない。

当時の音と感触が再現される。


(帰りたい……)


頭に浮かぶのは、そればかりだった。


(お母さん……帰りたいよ……)


その願いが届くことはなかった。

突然の痛みに美佳流の目に涙が浮かんだ。

何度拒んでも男はやめようとしなかった。

男の荒い息が聞こえる。

あの日が最初で最後だった。

それなのに、どうしてまた、あの恐怖を味わわなければならないのか。


(どうして……二度も……)


美佳流はぎゅっと目を閉じた。

もう、何も考えたくない。

身体から力が抜けていく。涙で濡れた頬が冷たかった。

男の声が遠ざかっていく。

最初は、すぐそばで聞こえていたはずなのに。

やがて、何を言っているのかもわからなくなった。


(……もう、いい……)


意識が、ゆっくりと沈んでいった。


◇


「……っ!」


美佳流は勢いよく上半身を起こした。

見慣れた鏡。化粧台。壁に掛けられた衣装。

そこは、劇団エデンの楽屋だった。


「はぁ……はぁ……」


胸に手を当てる。心臓が激しく脈打っていた。


(そっか……私、誕生日のお祝いで眠っちゃって……)


恐る恐る、自分の手を見つめる。

指先も腕も、思いどおりに動かせる。声も出る。


「……夢、だったの?」


ぽつりとつぶやく。

やっと覚めた。そう思った瞬間、全身から力が抜けた。


(まさか、あの日のことを思い出させられるなんて……)


美佳流は身震いし、胸元の服をぎゅっと握りしめた。

そのとき、ふと違和感を覚えた。


(……あれ?)


自分の着ている服を見下ろす。


(私、誕生日のお祝いのとき、こんな服着てたっけ……?)


確か、あのときは――。


記憶をたどろうとした美佳流は、ふと目の前の鏡に目を留めた。

そして、固まった。

鏡の中に、見知らぬ女性が立っていた。

長い髪。大人びた顔立ち。すらりと伸びた手足。


「…………え?」


美佳流が顔を動かすと、鏡の中の女性も同じように動く。

頬に手を当てる。

鏡の女性も、頬に手を当てた。


「な、なに……これ……?」


知らない人のはずなのに、どこか見覚えがある。


(……お母さん?)


脳裏に浮かんだのは、赤ん坊の自分を抱いて微笑む母親の顔だった。

鏡の中の女性は、あのころの母親によく似ている。


「……うそ」


美佳流は頬に触れ、鏡をのぞき込んだ。

そこに映っているのは、十七歳の自分ではない。


(待って……。まさか……)

「私……大人になってるの……?」


美佳流は鏡の前で呆然と立ち尽くしていた。

そのとき。

コンコン。

突然、ドアがノックされた。 


「は、はい!」


反射的に返事をしてから、美佳流はハッとした。

声が出た。身体も自由に動く。

さっきまでの記憶の中とは違う。今の自分は、間違いなく自分の意思で動いている。


「……誰?」

「美佳流先輩、そろそろお仕事ですよー!」


若い女性の声だった。

仕事?

美佳流が首をかしげていると、再びノックの音がした。


「先輩? 入りますよ?」

「ま、待ってください!」


慌てて鏡から離れ、ドアに向かう。

ドアノブに手をかけたところで、ふと目に入ったものがあった。

ドアの中央に貼られたネームプレート。

そこには、はっきりとこう書かれていた。


『天塚美佳流様』

「……え?」


思わず文字を二度見する。

自分の名前だ。ここは自分の楽屋らしい。

それなのに、どうして自分がこんな姿になっているのか。


「先輩、どうしたんですか?」

「あっ、ごめんなさい……!」


美佳流は慌ててドアを開けた。

そこには、見覚えのない若い女性が立っていた。

年齢は十代後半くらいだろうか。劇団の衣装らしき服を着ている。

女性は美佳流の顔を見ると、にこっと笑った。


「もう、先輩!今日は出番が多いんですから、しっかりしてくださいよ!」

「ご、ごめんなさい!私、うっかりしてました!」

「プッ!やだー!先輩!どうしちゃったんです? 私に敬語なんて使っちゃって!」

「……敬語?」

「そうですよ!先輩が一番のベテランなんですから、私なんかよりずっとしっかりしてもらわないと!」


女性は冗談めかして笑った。

美佳流は、ぎこちなく笑い返す。


(ベテラン……?)


どういうことだろう。

目の前の女性は、自分を先輩と呼んでいる。しかも、かなり親しい様子だ。

それなのに、美佳流には彼女の顔にまったく見覚えがなかった。

いや、それだけではない。

自分が大人になっていること。

着ている服が誕生日祝いのときとは違うこと。

そして、ここが劇団エデンの楽屋であること。

わからないことだらけだった。


(落ち着いて……。まずは、何が起きているのか確かめないと)


美佳流は、あることを思いついた。


「あの……ちょっとお願いがあるんだけど」

「はい?」

「スマホ、見せてもらってもいい?」

「スマホですか?」


女性は不思議そうに首をかしげた。


「先輩、自分のスマホはどうしたんです?」

「そ、それは……ちょっとね」

「変なのー。まあ、いいですけど」


女性はポケットからスマートフォンを取り出し、美佳流に手渡した。


「はい、どうぞ」

「ありがとう……」


受け取った美佳流は、思わず目を見開いた。


(……何、このスマホ?)


見たことのないデザインだった。

自分が使っているものとは、形も画面の配置も違う。

いや、そもそも、こんな機種は見たことがない。


(まさか……)


胸の鼓動が速くなる。

美佳流は、恐る恐る画面を確認した。

表示されていた日付を見て、息が止まった。


「…………え?」


思わず、画面を凝視する。

見間違いではない。

何度確認しても、そこに表示されているのは同じ日付だった。

十年。たったそれだけの数字が、ひどく遠いものに思えた。


(待って……。じゃあ、今って……)


美佳流はゆっくりと顔を上げた。

目の前には、自分を先輩と呼ぶ女性がいる。

鏡には大人となった自分が映っている。

そして、スマートフォンの日付は十年後を示していた。

バラバラだった疑問が、ひとつにつながっていく。


「私、十年後の世界に来ちゃったの……?」

「……先輩?」


女性が心配そうに顔をのぞき込む。

しかし、美佳流には返事をする余裕がなかった。

十年後。

自分が二十七歳になった世界。

いったい、何が起きているのだろう。

そして――。


(ランファさんは? サオは?)


真っ先に浮かんだのは、大切な仲間たちの顔だった。

美佳流は、女性の肩をつかみそうになるのをこらえながら、必死に尋ねた。


「ねえ、あの……!」

「は、はい?」

「ランファさんって、今どこにいるの?」


女性はきょとんとした。


「……ランファさん?」

「そう! 李蘭華さん! 劇団エデンの――」

「えっと……」


女性は困ったように笑った。


「先輩、ランファって誰ですか?」

「…………え?」

「それに、さっきからどうしたんです? なんだか変ですよ?」


美佳流の背筋に、冷たいものが走った。

十年後の世界。大人になった自分。そして、ランファの名前を知らない後輩。

夢から覚めたはずなのに、どうしてこんなことになっているのか。

美佳流はスマートフォンを握りしめた。

ここは本当に現実なのだろうか。


それとも――。

夢は、まだ終わっていないのだろうか。


「……ねえ、もうひとつ聞いてもいい?」

「はい? なんですか?」


美佳流は、目の前の後輩をじっと見つめた。

ランファがいない。そんな世界が、本当に存在するのだろうか。


「あなたも、堕天詩と戦っているの?」

「……『ザ・天使』?新しい映画ですか?」


後輩はきょとんとした。


「なんですか、それ?」

「えっ?」

「それとも新しい舞台ですか?」


美佳流は言葉に詰まった。


「ち、違うよ。歌に取り憑いて、人間を襲う化物のこと!」

「歌に取り憑く……?」


後輩は少し考え込んだあと、ぽんと手を打った。


「あー、なるほど!」

「わ、わかってくれたの?」


美佳流の顔が明るくなった。

やっぱり、この世界にも堕天詩はいるのだ。呼び方を知らないだけなのかもしれない。

しかし、後輩の次の言葉に、美佳流は固まった。


「先輩って、すごいですね!」

「……え?」

「普段からあれだけ舞台に立っているのに、楽屋でも演技の練習を欠かさないんですね!

天使?なんて、いかにもファンタジー作品に出てきそうな設定じゃないですか!」

「いや、だから……!」

「なるほど!ランファって役名なんですね!勉強になります!」


後輩は感心したように何度もうなずいた。


(違う! そういうことじゃないのに!)


美佳流は心の中で叫んだ。

どう説明すれば伝わるのだろう。

そもそも、彼女にとって堕天詩との戦いは演技でも何でもない。劇団エデンの仲間たちと命懸けで戦ってきた、本当の出来事なのだ。

ところが、後輩はそんな美佳流の心中など知る由もなく、楽しそうに笑っていた。


「それにしても、先輩って本当に面白いなー!」

「……面白い?」

「はい!さすがトップスターですね!」

「…………トップスター?」


聞き慣れない言葉に、美佳流は目を丸くした。


「それ、どういうこと?」

「えっ?」


今度は後輩が不思議そうな顔をした。


「どういうことって……先輩、自分のことですよ?」

「私が……トップスター?」

「もう、冗談はいいですって!」


後輩は笑いながら、近くのテーブルに置かれていた雑誌を何冊か手に取った。


「ほら、これも!」


一冊目を開き、美佳流の目の前に差し出す。

表紙には、大人の女性が華やかな衣装をまとい、堂々とした笑顔を浮かべていた。


「…………え?」


そこにいたのは、美佳流だった。

いや、正確には、鏡に映っていた大人の自分。

雑誌の表紙には、大きく名前が記されている。

天塚美佳流。


「うそ……」


後輩は次々と雑誌を並べていった。

舞台特集。女優インタビュー。人気俳優ランキング。

どの雑誌にも、美佳流の顔が載っていた。

中には、表紙の中央に大きく写真が掲載されているものまである。


「これも先輩! こっちも! あ、これなんて、先輩の特集が丸ごと組まれてるんですよ!」


美佳流は、ただ呆然と雑誌を見つめていた。

知らない自分。

知らない仕事。

知らない十年間。

それなのに、そこに写っている女性は、間違いなく自分だった。


「……私、こんなに有名なの?」

「えーっ! 今さら何を言ってるんですか!」


後輩は大げさに肩をすくめた。


「先輩は劇団エデンの看板女優じゃないですか! 今や舞台界を代表するトップスターですよ!」


看板女優。トップスター。

幼いころ、初めて劇団エデンの舞台を見て、いつか自分もあの舞台に立ちたいと願った。

その夢を追いかけて劇団に入り、仲間たちと出会った。

そして十年後、自分は夢をかなえているらしい。

それなのに、喜びよりも戸惑いのほうが大きかった。

(……じゃあ、私はこの十年間、何をしてきたの?)


自分が歩んだはずの人生なのに、何ひとつ覚えていない。

そのとき、後輩が時計を確認した。


「先輩、早く行きましょう!」

「う、うん。ところであなた名前は?」

「いやだなー!いつもみたいにナギサって呼んでくださいよ!」


ナギサと名乗る後輩に促され、美佳流は楽屋を出た。

廊下ですれ違う劇団員たちが、次々と声をかけてくる。


「美佳流さん、おはようございます!」

「今度の公演、楽しみにしています!」

「先輩、あとでサインくださいね!」

「えっ? あ、うん!」


美佳流は戸惑いながらも、笑顔で応じた。

誰もが自分を知っている。

しかも、尊敬するような目を向けてくる。

どうやら十年後の自分は、劇団エデンを代表する女優になっているらしい。

その日、美佳流は取材を受けた。記者たちから出演作品や演技について質問され、今後の目標を尋ねられる。

知らない作品名ばかりで戸惑ったものの、なんとか受け答えを終えた。

その後も、舞台の稽古や映画の打ち合わせなど、忙しい日々が続いた。

資料や映像を通して知った未来の自分は、さまざまな役柄を演じ、数々の舞台で観客を魅了していた。

十七歳の自分にはできない演技。経験を重ねたからこそ表現できる感情。

画面の中の自分を見つめながら、美佳流は胸を弾ませた。


(私、こんな女優になれるんだ……)


未来の自分は、夢をかなえていた。

そして、いよいよ公演本番の日がやってきた。


◇


楽屋では、出演者たちが慌ただしく準備を進めていた。

衣装を整え、メイクを済ませ、台本を確認する。


「先輩、いよいよですね!」


ナギサが笑顔で声をかけてきた。


「うん!」

「私、先輩の舞台を見るのが大好きなんです。今日も楽しみにしてます!」

「……ありがとう。そういえばナギサ。どうして私に憧れているの?」


美佳流は気になっていたことを尋ねた。

ナギサは少し驚いた顔をしたあと、当たり前のことを聞かれたように笑った。


「先輩って、みんなが帰ったあとも一人で練習してるじゃないですか。失敗して落ち込んでも、納得できるまで何度も挑戦してる。私、そういうところが好きなんです」


美佳流は目を見開いた。

自分では、まだまだ足りないと思っていた。

演技も歌も、もっと上手くなりたい。失敗すれば落ち込むし、自分に才能があるのか不安になることもある。

そんな自分を、見てくれていた人がいた。


「……ありがとう、ナギサ」


美佳流は微笑んだ。

胸の奥が、じんわりと温かくなった。

誰かに認めてもらうために努力してきたわけではない。

それでも、自分の頑張りを見てくれた人がいたことが、嬉しかった。

ナギサは照れくさそうに笑った。


「だから、先輩みたいになりたいなって思うんです」


そのとき、ふと疑問が浮かんだ。

どうしてナギサは、そこまで自分のことを知っているのだろう。

楽屋で一人、何度も同じ演技を繰り返していたこと。

失敗して悔しくなり、それでも練習をやめなかったこと。

誰にも話した覚えはない。

偶然見かけただけかもしれない。

それでも、ナギサが自分の努力を知っていることが、なぜか気になった。


「ねえ、ナギサ。ひとつ聞いてもいい?」

「はい、なんですか?」

「私が練習してるところ、いつ見たの?」


ナギサは一瞬、きょとんとした。


「いつだったかな? でも、ちゃんと知ってますよ。先輩がどれだけ頑張ってきたか」


にっこりと笑うナギサ。

その答えは、質問に答えているようで、答えになっていなかった。

美佳流は、目の前の後輩を見つめた。

本当に、いつものナギサなのだろうか。


――それとも。


この世界そのものが、自分の知らない何かによって作られたものなのだろうか。

胸の温かさは、いつの間にか小さな不安へと変わっていた。


◇


舞台袖へ向かう時間になった。

幕の向こうから、観客の話し声が聞こえてくる。

美佳流は深呼吸し、そっと目を閉じた。


(……大丈夫)


幕が上がる。

まぶしい照明が、舞台の中央に立つ美佳流を照らした。

彼女は最初のセリフを口にした。

その瞬間、胸の奥から喜びがこみ上げてきた。


(ああ……。私、これがやりたかったんだ)


幼いころ、初めて劇団エデンの舞台を見た日。

いつか自分も、あんなふうに大勢の観客を楽しませたいと思った。

その夢が、今ここにある。

美佳流は目の前の観客に向かって笑顔を向けた。

演じることが楽しい。

共演者と息を合わせ、物語の中で生きることが楽しい。

何より、自分の演技を見てくれる人たちがいる。

夢中で演じているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。

そして、最後の場面。

美佳流が深々と頭を下げると、劇場いっぱいに拍手が響き渡った。


「美佳流さーん!」


観客の歓声が聞こえる。

美佳流は顔を上げた。

目の前に広がる光景を見つめ、胸が熱くなった。


(……幸せだな)


心から、そう思えた。

大好きな演劇を続けられる。

たくさんの人に見てもらえる。

明日も、その先も、ずっと舞台に立っていられる。

美佳流は、もう一度深く頭を下げた。


◇


その夜。

仕事を終えた美佳流は、一人で楽屋に残っていた。

鏡の中には、大人になった自分が映っている。

机の上には、今日の公演のパンフレットが置かれていた。

そこには、主演女優として自分の名前が大きく記されている。


「……すごいな、私」


美佳流は小さく笑った。

今日一日、本当に楽しかった。

舞台に立って、観客の拍手を浴びた。後輩たちと笑い合い、仲間たちと一緒に舞台を作った。

自分がずっと望んでいた生活が、ここにはある。

それに、この世界には堕天詩がいない。

歌に取り憑く化物も、命懸けの戦いもない。

ただ、好きな演劇に打ち込んでいればいい。


(……このまま、ここにいたら)


ふと、そんな考えが浮かんだ。

元の世界に戻れば、また十七歳からやり直すことになる。

これから先、どんなことが待ち受けているのかはわからない。

劇団エデンの仲間たちと一緒にいられるのは嬉しい。けれど、堕天詩との戦いが続く以上、いつ危険な目に遭うかもわからない。

それだけではなかった。

美佳流は、ふと中学時代の記憶を思い出した。

忘れたくても忘れられない、あの日のこと。

誰にも助けを求められず、自分の気持ちを押し殺すしかなかった。

もう二度と、あんな思いはしたくない。

もし元の世界に戻ったら。

また誰かに傷つけられるかもしれない。

また、自分の気持ちを押し殺さなければならない日が来るかもしれない。

もちろん、未来に何が起きるかなんてわからない。

それでも、美佳流の胸には不安があった。


(……私、ちゃんと前に進めるのかな)


美佳流は、鏡の中の自分を見つめた。

二十七歳の自分は、夢をかなえていた。

大好きな演劇を続け、たくさんの観客に認められ、後輩からも慕われている。

今日の舞台も楽しかった。

明日も、きっと楽しいだろう。


(……このまま、ここにいたら)


ふと、そんな考えが浮かんだ。

元の世界に戻れば、また十七歳からやり直すことになる。

堕天詩との戦いも続いている。過去の傷だって、簡単に消えるわけではない。

また怖い思いをするかもしれない。

また、自分の気持ちを押し殺すことになるかもしれない。

美佳流は鏡に手を伸ばした。

ここには、自分がずっと望んでいた未来がある。


(……元の世界に戻らなくても、いいんじゃないかな)


ランファや沙織の顔が浮かんだ。

今ごろ、自分を心配しているかもしれない。

そう思うと、胸が痛んだ。

それでも。


(……もう少しだけ)


美佳流は鏡の中の自分を見つめた。

今はまだ、この幸せを手放したくなかった。

美佳流は、鏡の中の自分を見つめた。

この幸せを手放すことなど、今は考えられなかった。


◇


一方、そのころ。劇団エデン、正確には現実の劇団エデンの楽屋では眠り続ける美佳流をランファと数人の劇団員が取り囲んでいた。


「美佳流ちゃん、起きて!」


劇団員の一人が肩を揺する。しかし、美佳流は目を覚まさない。


「もう、ずいぶん長いですよね……。ただ眠っているだけなんでしょうか?」

「わからないわ。いくら呼びかけても反応がないなんて……」


ランファは険しい表情で美佳流を見つめた。

眠る美佳流の顔は穏やかだった。まるで、幸せな夢でも見ているかのように。


「苦しそうな顔をしたと思ったら今度は穏やかな顔……夢でも見ているんでしょうか……?」


劇団員の言葉に、ランファは眉をひそめた。


「ただの夢ならいいのだけれど。何時間も呼びかけに反応しないなんて、普通じゃないわ」

「それって、まさか……」


ランファは眠る美佳流を見つめた。

歌に取り憑き、人間の心を蝕む異形の存在。

その可能性が、頭をよぎった。


「……堕天詩の仕業かもしれないわ」


その瞬間、ランファの表情が強張った。

もしも、堕天詩の仕業なら。

美佳流は今、夢の中で何かに囚われているのかもしれない。


「美佳流ちゃん……!」


ランファが呼びかける。

しかし、彼女は目を覚まさなかった。

その意識が今、どこにあるのか。

そして、夢の中で何を見ているのか。

それを知る者は、まだ誰もいなかった。


◇


美佳流は、鏡の中の自分を見つめていた。

誰もが認めるトップスター。好きな演劇に打ち込み、観客の拍手を浴びる毎日。

ここには、堕天詩との戦いも、命の危険もない。

過去のように、誰かに傷つけられることを恐れる必要もない。 


それでも――。

(私は……)


美佳流は、ゆっくりと目を閉じた。

ランファの厳しい言葉。沙織の優しい笑顔。劇団の仲間たちと過ごした日々。

楽しいことばかりではなかった。

失敗して落ち込んだこともある。戦いが怖くて、逃げ出したくなったこともある。

それでも、みんなと一緒に過ごした時間は、かけがえのないものだった。


(あの時間まで、なくしたくない)


けれど、本当にそれだけだろうか。

美佳流は、鏡の中の自分を見つめた。

ここにいれば、大好きな演劇を続けられる。努力を認められ、望んでいた未来を手に入れられる。

現実に戻れば、堕天詩との戦いが待っている。どれだけ努力しても、この未来にたどり着ける保証はない。

また傷つくかもしれない。


(……怖いよ)


美佳流は、自分の胸元をそっと握りしめた。

また傷つくかもしれない。誰にも言えない思いを、ひとりで抱え込むことになるかもしれない。

だったら、この世界に残ったほうが幸せなのではないか。

そんな考えが、頭をよぎった。

美佳流は、もう一度鏡を見た。

鏡の中の自分は、幸せそうに微笑んでいた。

その顔を見つめているうちに、美佳流は夢の中で見た光景を思い出した。

幼い自分を抱きしめる母親の姿だった。

あのころの自分は、母親の腕の中で安心しきっていた。 何も知らず、何も恐れず、ただ愛情を受け取っていた。


(……お母さん)


美佳流は、胸が締めつけられるのを感じた。

成長するにつれ、素直になれないことも増えた。 喧嘩をして、ひどいことを言ってしまったこともある。

それでも、母親は変わらず自分を大切にしてくれた。

今日もきっと、自分の誕生日を祝ってくれているはずだ。


(私……まだ、ありがとうってちゃんと伝えてない)


夢の中でなら、何もかも手に入る。

けれど、そこには今の母親はいない。

今まで育ててくれたことへの感謝も、心配をかけたことへの謝罪も、伝えることができない。

それに、ランファや沙織たちと過ごしてきた時間も、ここでは続いていかない。

美佳流は、ゆっくりと顔を上げた。

この世界は嫌いではない。ここでの生活は、本当に幸せだった。

それでも、自分はここに残りたいのだろうか。 それとも、傷つくことを恐れて、現実に戻るのをためらっているだけなのだろうか。

美佳流は自分の胸に問いかけた。


(……私は、逃げたくない)


怖くないわけではない。

これから先、何が起こるのかもわからない。

夢の中で見た未来が、本当に手に入る保証だってない。

それでも、自分で選びたい。

失敗することがあっても、傷つくことがあっても、誰かに支えられながら、自分の足で歩いていきたい。


「……私、帰らなきゃ」


美佳流はナギサを見つめた。

目の前には、憧れていた未来がある。

満員の観客席。鳴りやまない拍手。自分を慕ってくれる後輩。そして、舞台の上で輝く自分を誇らしげに見つめる母。

ここには、堕天詩との戦いもない。仲間を失う恐怖も、明日への不安もない。

ずっと夢見ていた、幸せな世界だった。


「先輩……?」


ナギサが不思議そうに首をかしげる。


「帰るって、どこにですか? ここが先輩の居場所じゃないですか」

「うん。そうだね」


美佳流は微笑んだ。


「でも、ここにいたら、私は何も変われない」

「……どういう意味ですか?」

「この未来が本当に来るかどうかなんて、わからない。もしかしたら、夢みたいにうまくいかないことだって、いっぱいあると思う」


美佳流は自分の手を握りしめた。


「それでも、自分で頑張って、悩んで、選んで……そうやって未来をつかみたいんだ」


舞台の上で輝く自分も、母の笑顔も、ナギサの憧れも。

どれも美佳流が欲しかったものだ。

けれど、それを与えられるだけでは意味がない。


「だから、ごめんね。私は帰るよ」


ナギサの表情が曇った。


「……帰っちゃうんですか?」

「うん」

「もう、ここには戻ってこないんですか?」

「わからない。でも、いつか本当にこんな未来をつかめたらいいなって思う」


美佳流はナギサの頭にそっと手を置いた。


「そのときは、また私のことを応援してね」


ナギサは何も答えなかった。 ただ、寂しそうに美佳流を見つめていた。

その顔を見た瞬間、美佳流の胸が痛んだ。

夢の中の存在だとわかっている。それでも、彼女との別れを寂しいと思ってしまう。


――本当に、私のことをわかってくれていたのかな。


美佳流は目を閉じた。


「……ありがとう」


誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。

次の瞬間。


パキッ。


小さな音が響いた。

目を開けた瞬間、景色に亀裂が走った。

劇場の壁も、舞台も、客席も。ガラス細工のように、世界そのものが崩れ始めていた。


「先輩……!」


遠ざかる声に、美佳流は振り返った。

ナギサは、泣きそうな顔で笑っていた。

世界が白く染まる。

そして、美佳流の意識は深い闇へと沈んでいった。


◇


「美佳流ちゃん!」


誰かが自分を呼んでいる。

遠くから聞こえる声に、美佳流はゆっくりと意識を浮上させた。


「美佳流ちゃん、聞こえる?」


聞き覚えのある声だった。

ずっとそばにいてくれた、大切な人の声。


「……ランファさん?」

「美佳流ちゃん!」


目を開ける。

見慣れた楽屋の天井が、ぼんやりと視界に映った。

美佳流はソファに横たわっていた。すぐそばには、心配そうに顔をのぞき込むランファがいる。


「私……どうして?」

「それはこっちが聞きたいわよ。いくら呼びかけても、全然起きないんだから」


ランファは安堵したように息を吐いた。


「お母さんから連絡があったの。いつまでたっても帰ってこないし、電話にも出ないって。それでみんなで探していたら、楽屋で眠っているあなたを見つけたのよ」

「眠って……?」


美佳流は身を起こした。

頭の中には、まだ夢の光景が残っている。

華やかな舞台。観客の拍手。母の笑顔。そして、ナギサの寂しそうな表情。

あれは、本当にただの夢だったのだろうか。


「ランファさん。私、どのくらい眠っていたの?」

「もう何時間もよ。何があったの?」


美佳流は答えようとして、口を閉じた。

説明しようにも、何から話せばいいのかわからない。

自分が望んだ未来を見せられたこと。

そこから帰ると決めたこと。  

そして最後に、ナギサが見せたあの表情。

すべてを話すには、まだ頭の中が整理できていなかった。


「……夢を見ていたの」

「夢?」

「はい。つらいこともあったけど……幸せな夢」


美佳流は自分の手を見つめた。


「でも、帰ってこられてよかった」


ランファはしばらく黙っていた。

やがて、美佳流の肩にそっと手を置く。


「……そう」


それ以上、追及はしなかった。

その手の温もりに、美佳流はようやく自分が現実に戻ってきたのだと実感した。

そのとき、楽屋の片隅で黒い影が揺らめいた。

誰にも気づかれないまま、影はゆっくりと薄れていく。

最後に一度だけ、美佳流へと視線を向けた。

そこにあったのは、怒りでも憎しみでもない。 理解できないものを前にしたような、かすかな戸惑いだった。


――どうして、帰ることを選んだのだろう。


その疑問を残したまま、影は消えた。

あとには、何事もなかったかのような静けさだけが残されていた。

堕天詩は、もうどこにもいなかった。

しかし、美佳流はまだ知らない。

あの夢を見せた存在が、いったい何を求めていたのか。

そして、自分が夢の中で感じた寂しさが、ただの作り物だったのかどうかも。

その答えは、まだ誰にもわからなかった。


◇


夢から目覚めて、楽屋に静けさが戻った。

美佳流は、ほっと息を吐いた。

ランファは美佳流に事情を説明をした。


「お母さんからの連絡でね……中々起きないあなたを見ておかしいと思ったの。」


ランファは武器を収め、美佳流に向き直った。


「それで? あなたはいったい、どんな夢を見ていたの?」

「……赤ん坊のころの記憶や、忘れたかった過去。それから、私が望んでいた未来も見せられました」


美佳流は言葉を選びながら、夢の中で起きたことを話し始めた。


「つらい過去を、もう一度体験させられたんです。自分では何もできなくて、誰にも助けを求められなくて……」

「……」


ランファは黙って話を聞いていた。


「でも、そのあとに見た未来は違いました。私は大人になっていて、劇団エデンのトップスターになっていたんです」


美佳流の表情が、少しだけ明るくなる。


「大きな舞台に立って、たくさんのお客さんから拍手をもらって。後輩にも慕われていて……。好きな演劇を続けながら、幸せに暮らしていました」

「あなたが思い描いていた未来、というわけね」

「はい。あんな生活が本当にできたら、どんなに幸せだろうって思いました」


美佳流はうつむいた。


「正直、あの世界にずっといたいと思ったこともあります。堕天詩との戦いもないし、もう誰かに傷つけられることを恐れなくてもいい。何より、大好きな演劇に打ち込めるんですから」

「それでも、あなたは戻ってきた」

「……はい」


美佳流は顔を上げた。


「ランファさんやサオ、劇団のみんなと過ごした時間も、なくしたくなかったんです。つらいこともあったけど、それも含めて、今の私がいるんだって気づきました」

「そう。おそらくは夢の世界そのものが堕天詩のようね。あなたは堕天詩によって幻を見せられた」


ランファは短く答えた。


「夢の中でどんな未来を見せられたとしても、現実で何を選ぶかはあなた次第よ。そこだけは忘れないことね」

「はい!」


美佳流は力強くうなずいた。

ランファは何かを思い出したように表情を変えた。


「そういえば……今回の堕天詩、どこであなたを狙ったかわかる?」

「え?」

「私たちは公演中に堕天詩を倒したはずよ。それなのに、どうして再び現れたのかしら」


ランファは腕を組み、考え込んだ。


「もしかすると、倒したと思っていた堕天詩とは別の堕天詩が、別の歌に取り憑いていたのかもしれないわね」

「別の歌……?」


美佳流は、誕生日を祝ってもらったときのことを思い出した。


「あ……ハッピーバースデーの歌ですか?」

「そう。みんなであなたの誕生日を祝ったときに歌った、あの曲よ」

「だから、私だけが眠ったままになっていたんですね……」

「おそらくね。歌に取り憑いた堕天詩が、あなたを夢の世界に閉じ込めたのでしょう」


美佳流は、夢の中で見た光景を思い返した。

幼いころの幸せな記憶。忘れたかった過去。そして、望んでいた未来。


「……あの夢は、私の記憶をたどって作られた世界だったんですね」

「そう考えれば、説明はつくわね。ただ、何故あなたに夢の世界を見せたかまではわからないけれど」


美佳流は無言のままランファの話を聞く。


「堕天詩がハッピーバースデーの歌に取り憑いた。そう考えれば、今回の事件にも説明がつくわ」

「だから、私だけが眠ったままになっていたんですね……。でもハッピーバースデーの歌なんてそんな身近な歌にも堕天詩が取り憑くなんて……」


美佳流は納得したようにつぶやいた。

誕生日を祝ってもらい、みんなの歌声を聞いた直後に眠ってしまった。

『ハッピーバースデー』の文字通りに夢の中では赤ん坊のころの記憶から始まり、忘れたかった過去を追体験させられた。

最後には、自分が望んでいた未来まで見せられたのだ。


「……あの夢は、私の記憶をたどって作られた世界だったんですね」

「そう考えるのが自然でしょうね」


ランファは静かに答えた。

美佳流は心に抱いた疑問をランファにぶつけた。


「……ランファさん。ひとつ、気になることがあるんです」

「何?」

「今回の堕天詩は、どうして私にあんな夢を見せたんでしょう?」


ランファは腕を組んだ。


「あなたを苦しめるためでしょうね。あなたの記憶を利用して、精神を追い詰めるつもりだったんじゃないかしら」

「でも……」


美佳流は、少し考えてから口を開いた。


「赤ん坊のころの幸せな記憶だけじゃなくて、つらい過去も、未来の夢も見せられました。まるで、私の人生を最初から最後までたどるみたいに」

「だから何だというの?」

「……堕天詩にも、心があるんじゃないでしょうか」


ランファの表情が険しくなった。


「何を言っているの?」

「いえ、もちろん、私にもよくわからないんです。でも、あの夢はただ私を苦しめるだけのものじゃなかった気がして……」


美佳流は、言葉を探すように視線を落とした。


「私がどんな人間なのか、何を大切にしているのか。それを知ろうとしていたようにも思えたんです」

「そんなわけないじゃない!いつまで寝ぼけているの!」


ランファの声が楽屋に響いた。


「堕天詩は人間の心を利用するのよ。つらい過去を見せたあと、幸せな未来を与える。そうやって、あなたを夢に閉じ込めようとしたのかもしれない」

「……それは、そうですけど」

「心があるかどうかなんて関係ない。私たちを脅かす存在である以上、倒さなければならない敵よ」


美佳流は、それ以上何も言えなかった。

確かに、ランファの言うとおりだ。

夢から目覚めなければ、自分はあの世界に閉じ込められたままだったかもしれない。堕天詩が何を考えていたにせよ、危険な存在であることに変わりはない。


それでも――。


(本当に、ただ私を苦しめるためだけだったのかな?苦しめるならつらい過去だけ見せればいいだけなのに幸せな過去を見せたのは?)


美佳流の脳裏に、夢の中で見た光景がよみがえった。

大勢の観客から拍手を浴びる自分。

後輩に慕われ、好きな演劇に打ち込む毎日。

そして、そこから抜け出そうと決意したときのこと。

あの夢は、確かに自分の記憶から作られていた。

だが、なぜ最後に、あんな未来を見せたのだろう。

自分を夢の中に閉じ込めるためだったのか。それとも、別の理由があったのか。

答えは出なかった。


「……わかりました」


美佳流は、いったん考えを胸の奥にしまった。


「とにかく、無事に戻ってこられてよかったです」

「ええ。本当にね」


ランファの表情が、わずかに和らいだ。


「心配をかけて、ごめんなさい。それから……起こしてくれて、ありがとうございました」


美佳流が頭を下げると、ランファは彼女の肩に手を置いた。

夢の中で見た未来は、まだ遠い。

それでも、いつか自分の力で、あの未来にたどり着いてみせる。

その決意は、今まで以上に強くなっていた。

けれど、胸の片隅には、ひとつの疑問が残っていた。

堕天詩は、本当に人間を苦しめることしか考えていないのだろうか。

その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。


「……そういえば、ランファさん」

「何?」

「私、今って何時ですか?」


美佳流の質問に、ランファは腕時計を確認した。


「もう少しで午前0時になるところよ」

「え!そんなに!?」


美佳流は思わず声を上げた。


「ヤバい!どうしよう……!」

「何を慌てているのよ」

「だって、こんな時間まで帰らなかったら、お母さんに怒られちゃいます!」

「仕事だったんだから、事情くらい説明すればいいでしょう」

「そうですけど……!堕天詩のことなんて言えないじゃないですか!とにかく、私、帰ります!」


美佳流は慌てて荷物をまとめると、ランファに頭を下げた。


「今日はありがとうございました! それじゃあ、お先に失礼します!」

「はいはい。気をつけて帰りなさいよ」

「はい!」


美佳流は楽屋を飛び出した。

夜道を急ぎながら、スマートフォンを取り出す。

母親からの着信はなかった。


(あれ? お母さん、心配してないのかな……?)


不思議に思ったが、今はとにかく帰るのが先だ。

美佳流は家路を急いだ。


◇


「ただいまー……」 


美佳流は恐る恐る玄関を開けた。


「あら、おかえりなさい、美佳流」


母親が顔を出した。


「お母さん、遅くなってごめんね。仕事でいろいろあって……」

「そう。お疲れさま」


母親は怒るどころか、優しく微笑んだ。


「……怒らないの?」

「何を言っているの。子供が帰ってきてうれしくない親がいるわけないでしょ」 


そう言って、母親は小さな包みを差し出した。


「それに、今日は美佳流の誕生日だもの。はい、プレゼント」

「あっ……!」


美佳流は目を輝かせた。


「ありがとう! 開けてもいい?」

「もちろん」


包みを開くと、中には天使を思わせるデザインのイヤリングが入っていた。


「わあ、かわいい!」


小さな翼を広げた天使が、きらりと輝いている。


「これ、すっごく素敵! 大事にするね!」

「ふふっ。気に入ってくれてよかったわ」


美佳流はイヤリングを見つめながら、ふと思い出した。


「そういえば……美佳流って名前は、大天使ミカエルから取ったんだよね」

「えっ?そうだけど……そんな話、いつしていたかしら?」

「え、えっと! 結構前に聞いたよ!」


美佳流は慌てて答えた。


(確かに、結構前だよな……。赤ん坊のころだから17年前だもん)


夢の中で見た光景がよみがえる。

幼い自分を抱きしめ、優しく語りかけていた母親。

あのころから、自分はずっと愛されていたのだ。


「……美佳流? どうしたの?」


母親の声に、美佳流は我に返った。


「ううん……なんでもない」


そう答えたものの、胸の奥から込み上げる気持ちを抑えられなかった。


「……お母さん」

「なあに?」

「ごめんね」


母親は目を丸くした。


「え? 何が?」

「遅くなっちゃったことも……。今朝、ひどいこと言っちゃったことも……」


美佳流はうつむいた。

喧嘩をして、母親を傷つけてしまったことがある。

心配をかけたことも、素直になれなかったこともあった。

そして、中学生のころのつらい過去を今も話せずにいる。


「……心配かけてばっかりで、ごめんね」


母親は少し驚いたあと、優しく微笑んだ。


「もう、そんなこと気にしていたの?」

「でも……」

「いいのよ。美佳流が元気でいてくれることが、私には一番大切なんだから」


母親は美佳流の頭をそっとなでた。

その手の温もりに、美佳流の目から涙がこぼれた。


「……お母さん」

「うん?」

「ありがとう……!」


美佳流は母親に抱きついた。


「プレゼントも嬉しい。でも、それだけじゃなくて……私を産んでくれて、育ててくれて、ありがとう……!」


母親は驚いたように目を見開いた。

それから、娘を優しく抱きしめた。


「……こちらこそ。私のところに生まれてきてくれて、ありがとう。美佳流」


美佳流は母親の胸に顔をうずめた。

あのときは、誰にも助けを求められず、ひとりで抱え込むしかなかった。

けれど、今は違う。

母親の腕の中で、美佳流はゆっくりと目を閉じた。


「……大好き、お母さん」


母親は何も聞かず、娘を抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。

美佳流は、その温もりを確かめるように、母親の服をぎゅっと握りしめた。

過去は消えない。 それでも、過去だけが自分のすべてではない。


(私は自分の未来を自分でつかんでみせる)


美佳流は母親の胸に顔をうずめたまま、小さく笑った。

夢から覚めた彼女にとって、それは何よりも温かい誕生日プレゼントだった。




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― 新着の感想 ―
華やかなミュージカルの舞台裏で、実は歌に取り憑く怪物と戦っているという設定が面白かったです。観客は迫力ある演出だと思っているのに、舞台上では本当に命懸けの戦いが繰り広げられているという構図が印象的でし…
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