第1話・真実の舞台
◇
――その日、私はまだ知らなかった。
憧れていた舞台が、命懸けの戦場になることを。
◇
晴天の朝だった。
天塚美佳流はごく普通の高校生。
制服に着替えた美佳流が玄関へ向かおうとすると、母親から声をかけられた。
「美佳流、ちょっと待って。昨日、郵便が来てたわよ」
「郵便?もう、学校いくところだから帰ってからでも……」
美佳流は母親から一通の封筒を受け取る。
差出人を見た瞬間、目を見開いた。
「……劇団エデン!」
「その劇団ってそんなにすごいの?」
母親は不思議そうに尋ねる。
「すごいよ!」
美佳流は肩にかかる髪を揺らしながら、封筒を両手に握り締めていた。
少し小柄であどけなさの残る少女だが、舞台の話になると目を輝かせる。
「劇団エデンはね、歌と演技を組み合わせたミュージカルを中心に活動してる劇団なの!」
「へえ」
「舞台の演出もすごくて、歌って踊って演じるだけじゃなくて、舞台装置まで全部使って観客を楽しませるの!」
「ふーん、すごいのね」
「ずっと憧れてた劇団なの!」
美佳流の声が興奮と共にどんどん大きくなる。
「エデンの舞台は、ただ人を楽しませるだけじゃないの。観客の心を動かして、明日も頑張ろうって思わせるんだよ!」
「公演を観た翌日は機嫌いいものね」
「だって、エデンの歌を聴いてると、なんでもできそうな気がしてくるの!」
美佳流はさらに声を大きくしながら答える。
「……その劇団のオーディションを私、受けたでしょ?」
「ええ」
「その結果が――これ」
美佳流は封筒から一枚の紙を取り出し、母親に見せた。
「『おめでとうございます。あなたは見事オーディションに合格しました』」
母親が読み上げる。
美佳流は手紙を見つめ、満面の笑みを浮かべた。
「私、本当に受かったんだ!」
手紙を胸に抱きしめる。
「憧れの劇団エデンに!」
美佳流の興奮はなおも冷めやらなかった。
「まさか私が選ばれたなんて!」
「はいはい、それより学校は?」
「あ……」
途端に現実へと引き戻された美佳流は急いで家を出た。
◇
教室。汗を額に残したまま、美佳流はなんとか遅刻を免れていた。
美佳流の席に女子生徒が近づいてくる。
「おはよう、みかる」
「おはよう、サオ!」
振り返ると、木下沙織が立っていた。
美佳流より少し背が高くて落ち着いた雰囲気の少女だった。
だが付き合いの長い美佳流には分かる。今の沙織は少しだけ緊張している。
「聞いて! 劇団エデン、受かった!」
美佳流が合格通知を見せると、沙織は目を丸くした。
「……本当に? すごい。おめでとう、みかる」
「ありがとう!」
美佳流も笑う。けれど、その笑顔の奥に。
ほんの少しだけ、言葉にできない感情があった。
「そういえばサオは?」
美佳流の一番の親友である沙織も同じオーディションを受けていた。
美佳流の言葉から一瞬の静寂。そして――。
「私は……駄目だった」
「そっか……残念だったね」
「うん。でも、美佳流が受かったのは嬉しいよ」
「……ありがとう」
美佳流は笑った。だが、ほんの少しだけ安堵があった。
――沙織も受かっていたら、私はどう思っていたんだろう。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
「でも美佳流なら受かると思ってた」
「サオ……」
「頑張ってね」
「うん!」
二人は笑い合った。
だが笑顔の裏にそれぞれ言葉にできない感情があった。
◇
その日の帰宅後。
美佳流はもう一度、合格通知を開いていた。
そこには初回稽古についての案内と、一枚の紙が同封されていた。
《初回稽古までの課題》
指定された台本の一場面。台詞を覚え、演技を考えてくること。
「……課題まであるんだ」
美佳流は台本を開く。
「よし」
その夜、美佳流は鏡の前で何度も台詞を繰り返した。
「――違う。ここはもっと……」
気づけば夜も更けていた。
「……よし。明日から、エデンだ」
台本を閉じる。
◇
いよいよやってきた美佳流が劇団エデンを初めて訪れる日。
美佳流は案内の車に乗っていた。
やがて車は劇団エデンの事務所へ到着する。
「さあ、中でお待ちですよ」
「はい!」
ドアが開き美佳流が降りる。
その目の前に、長身の女性が立っていた。
「あなたが新人さんね」
美佳流が顔を上げる。
そこにいたのは、長い髪を背中に流した女性だった。
すらりとした長身に、舞台衣装ではないシンプルな服装。それでも、ただ立っているだけで妙な存在感がある。
切れ長の瞳が、美佳流をまっすぐ見つめていた。
「初めまして。エデンの座長、李蘭華よ」
「わあ……!」
美佳流の目が輝いた。
(本物のランファさんだ!)
美佳流の心臓が跳ねる。舞台でも何度も見た憧れのランファが目の前にいる。
美佳流の胸の中で叫び声が響く。
「よろしくお願いします!」
美佳流は勢いよく頭を下げた。
「こちらこそ。今日からよろしくね、美佳流ちゃん」
「はい!」
「まずは、先日の課題を見せてもらいましょう」
「はい!」
美佳流は台本を持って前へ出る。
緊張しながらも、台詞を始める。
数分後。
「……以上です」
ランファはしばらく美佳流を見ていた。
「台詞はきちんと覚えてきたようね」
「はい! 家で練習しました!」
「それは結構」
ランファが少しだけ笑う。
「では、今日からあなたもエデンの一員よ」
「……!」
胸が高鳴る。
「よろしくお願いします!」
◇
その後、美佳流は劇団員たちに紹介された。
「よろしくね。美佳流ちゃん」
「はい!お世話になります!」
稽古場では、歌、ダンス、殺陣と、劇団員たちが舞台を縦横無尽に動き回っていた。
「これがエデン……!」
美佳流も稽古に加わる。
「もっと大きく!」
「はい!」
「声を客席の奥まで!」
「はい!」
ランファは厳しかった。 舞台で見ていた優しい笑顔とは別人のようだった。
「美佳流ちゃん。今の動き、遅いわ」
「す、すみません!」
「謝るより、もう一度」
「はい!」
しかし美佳流は嬉しかった。憧れの劇団で、本物の劇団員たちと稽古をしている。
そんなある日。美佳流は次回公演の台本を眺めていた。
「……あれ?」
首を傾げる。
「ランファさん」
「何?」
「この演目、モンスターが出てきますよね?」
「ええ」
「モンスター役って、誰がやるんですか?」
ランファの表情が一瞬だけ揺れた。
「……」
「ランファさん?」
「じきにわかることになるわ」
「え?」
ランファはそれ以上答えなかった。
◇
「それじゃあ、今日はここまで!」
演出担当の声が響く。
「ありがとうございました!」
美佳流と劇団員たちが一斉に頭を下げた。
「ありがとうございました!」
初めての稽古を終え、美佳流は満面の笑みを浮かべていた。
「楽しかった……! 本当に入っちゃったんだ、私」
憧れの劇団員たちと稽古ができた。それだけで胸がいっぱいだった。
「美佳流ちゃん!」
「はい?」
先輩の劇団員が声をかける。
「今日、入団祝いしない?」
「え?」
「みんなでご飯食べに行きましょうよ」
「いいですね!」
別の劇団員も笑う。
「新人歓迎会ってことで!」
「私も行っていいんですか?」
「もちろん!」
美佳流は嬉しそうに頷いた。
「行きます!」
少し離れたところでランファが荷物をまとめていた。
「ランファも来るでしょ?」
「当然でしょう」
ランファは淡々と答えた。
「座長だしアレがなきゃね」
「やった!」
美佳流は笑った。
憧れの人たちと食事。ランファさんも来る。
今日は最高の日だ。
だが美佳流はこの時はまだ蘭華の実態を知らなかった。
◇
店に着くと、席にはすでに劇団員たちが揃っていた。
「改めて、美佳流ちゃんの入団を祝って!」
「おめでとう!」
「ありがとうございます!」
未成年である美佳流の前にはジュース。
そして21歳のランファの前にはビール。
「ランファ、今日は飲みすぎないでよ」
「分かってるわよ」
そう答えたランファだったが、グラスを空けるペースは明らかに速かった。
「美佳流ちゃ~~ん!」
「はい!?」
酔ったランファが美佳流に絡んでくる。
「エデンに入ってくれて嬉しいわ~~!」
「ランファさん、飲みすぎですよ!」
「まだまだよ~~!」
「私、まだ16歳ですからね!」
「あ……そうだった……わ……」
「ランファさん?」
そして数分後、ランファは眠っていた。
「寝た……」
「いつものことだけど今回は大人しかったわね」
「ランファさんって、いつも……しかもこれで大人しいんですか……?」
「そうよ。他に何あったか聞きたい?」
「……いいです」
美佳流は眠ったランファを見る。
散々振り回されたが寝顔は魅入るほど穏やかだった。
その時。
ランファは目を閉じたまま、呟いた。
「妈妈、爸爸……」
その声は、いつもの凛としたものとは違っていた。
まるで幼い子供が、遠い記憶の中の誰かを探しているようだった。
美佳流はランファの寝言に思わず振り向く。
「……」
先ほどの騒がしさが嘘のようにランファは静かに眠っている。
美佳流は少しだけ表情を曇らせた。
「ランファさん?あの、なんて言ったんですか?」
美佳流はすぐ側の劇団員に尋ねた。
「ランファの故郷の言葉で『お父さん』と『お母さん』の意味よ。」
美佳流はランファを見つめる。しかしランファは目を覚まさない。
「お父さん、お母さん……」
美佳流は何も知らない。ランファがなぜその言葉を口にしたのか。
「……何かあったのかな」
そう呟くと美佳流はランファにかけるものを用意した。
◇
翌朝、ランファは何事もなかったように稽古場へ現れた。
「ランファさん、昨夜のこと覚えてます?」
「昨夜? 何かあったの?」
「……いえ。何でもないです」
「そう」
ランファは台本を開いた。
「じゃあ、始めるわよ。公演が近いわ。気を抜かないこと。舞台に立つ以上、観客から見れば全員が主役よ」
「はい!」
美佳流も大きく返事をした。稽古の準備をする。
ランファは美佳流を見る。
「美佳流ちゃん!」
「はい!」
「動きが遅い!それにターンの軸もぶれている!」
「……」
「もう一度やって」
「は、はい!」
美佳流は慌てて位置につく。
昨夜のランファとはまるで別人だった。
「もっと早く!」
「はい!」
「声が小さい!そんなことで舞台に立てると思っているの?」
「はい!すいません!」
美佳流は必死に食らいついた。
周囲の劇団員が苦笑する。
「ランファ、入ったばかりなんだから少しは優しくしてあげても……」
「わかってるわ」
ランファは美佳流から目を離さない。
「でも、この世界は甘くないって知っているでしょ」
その言葉に劇団員たちの表情が一瞬だけ変わった。
「……」
美佳流は気づかなかった。
ただ、必死に稽古を続けた。
それから稽古は毎日続いていった。
◇
「美佳流ちゃん、下がって!」
「はい!」
言われた通りに動く。
その直後、舞台の床の一部がゆっくりと動いた。
「わっ……!」
美佳流が驚いて足を止める。
「本番で驚いて固まらないようにね」
「す、すみません!」
ランファは笑った。
「謝らなくていいわ。初めてなら当然よ」
稽古の合間、美佳流は舞台の仕掛けを興味深そうに眺めていた。
「この床って、動かせるんですね」
「ええ。幕や照明、大道具も舞台の一部よ」
美佳流は興味深そうに装置を見渡した。
「すごい……」
美佳流は舞台の端まで歩いていき、装置をじっと見る。
そして、スタッフから教えてもらった操作方法を頭の中に入れていった。
「美佳流ちゃん、そろそろ稽古に戻るわよ」
「あ、はい!」
慌てて舞台中央へ戻る。
その後も何度も失敗した。
歌うタイミングを間違えたり、立ち位置を外したり。
それでも、少しずつ動きは良くなっていった。
「最初よりずっと良くなったわね」
ランファが言う。
「本当ですか?」
「ええ。だけどまだまだね」
ランファは少しだけ厳しい顔になる。
「舞台では、何が起きるかわからない。予定通りにいかなくなった時こそ、役者の力が試されるわ」
「……予定通りにいかなくなった時?」
「そう。だから舞台そのものをよく見ておきなさい」
美佳流は舞台を見渡した。
客席。幕。照明。動く床。大道具。
「……はい!」
その言葉を胸に刻むように、美佳流はもう一度舞台に立った。
美佳流は時々、不思議に思った。
戦闘を想定したような、奇妙な動き。
「……?」
どうして普通のミュージカル劇団なのに、こんなに激しい動きの訓練をするのだろう。
しかしエデンの舞台はアクションが売りだ。
そう考えれば納得できなくもなかった。
そしてついに。
「明日から初公演よ」
演出家の言葉に、美佳流の胸が高鳴った。
「はい!」
美佳流の入団から初の舞台は二日かけての公演。
美佳流のデビューは二日目だった。
初日は先輩たちが出演する。
「いよいよ私の初舞台……!」
緊張と期待が入り混じる。
◇
初日公演。
劇場は満員だった。
「すごい……」
舞台袖から客席を覗く美佳流。
観客で埋め尽くされた劇場。
その光景に胸が震える。
「これが……エデンの舞台」
幕が上がった。
劇団員たちが登場する。
華麗なダンス。迫力ある歌。
そして物語が進んでいく。
やがて。
「……あれ?」
美佳流は台本を見る。
「そういえば……敵役って……誰がやるんだろう?」
数日前に疑問に思ったことだ。台本には、敵となる「怪物」の存在が書かれている。しかし、配役表にはその名前がない。
「代役?演出?」
数日前に蘭華が語った。
『じきにわかることになるわ』
その言葉を思い出しながら舞台を見る。
するとランファが中央へ進み出た。
「さあ、皆さん!」
観客へ呼びかける。
「次は私たちと一緒に、この歌を歌ってください!」
「わあああっ!」
観客が歓声を上げる。劇場全体に歌声が響き始めた。
「……」
美佳流も笑顔になる。
だが舞台上に黒い霧が広がった。
「え?」
照明の演出だと思った。
しかし霧はどんどん濃くなっていく。
そして黒い影が姿を現す。
「……何、あれ?妙に……リアル過ぎない?」
観客から歓声が上がる。
「すごい!」
「本物みたい!」
観客は迫力のある特殊効果だと思っている。
だが美佳流は違った。
「……」
舞台袖から見る。ランファが剣を構えた。劇団員たちも武器を手にする。
怪物の攻撃を避ける。
床を転がる。反撃する。
劇団員たちが武器を手に怪物へ挑む。
「……本当に戦ってる?」
美佳流だけが知っていた。
あれは演技ではない。
ドンッ!
怪物が舞台を叩く。舞台装置が揺れる。
それでも観客は、
「すごいアクション!」
「エデン最高!」
と盛り上がっている。
やがてランファが最後の一撃を放つ。
黒い影が散っていった。
「……」
観客から大歓声。
幕が下りる。
◇
公演終了後の楽屋。
「ランファさん!」
美佳流が駆け寄る。
「どうしたの?」
「さっきの舞台……!」
ランファが振り返る。
「何かおかしかった?」
「あれ……本当に戦ってたんですよね?」
「……」
ランファはしばらく黙った。
そして。
「気づいたのね」
「やっぱり……!」
美佳流の顔が強張る。
「教えてください」
ランファは静かに答えた。
「劇団エデンは、ただのミュージカル劇団じゃないわ。私たちが戦っている相手はね……」
ランファが窓の外を見る。
「堕天詩よ」
「堕天……詩?」
聞き慣れない言葉に美佳流は首を傾げる。ランファはゆっくり説明を始めた。
「堕天詩は『歌』に取り憑く化物なの」
「歌に……?」
「そう。歌そのものを住処にする。その歌を聴いた人間に、少しずつ影響を与えるわ」
「どんな影響が?」
「最初は幻聴や幻覚。聴き続ければ身体まで弱っていく」
「……!」
「そして人間が極限まで弱ったところで姿を現し、その人間を襲う」
美佳流の表情が強張る。
「じゃあ……あの歌を放っておいたら?」
「被害者が増える」
ランファは即答した。
「だから私たちが堕天詩の取り憑いた歌を見つけ出して退治する。そして歌を浄化するのよ」
「でも、どうしてミュージカルなんですか?」
「堕天詩は自分から簡単には出てこないからよ」
ランファは舞台を指差す。
「奴らが姿を現す条件は二つ」
指を一本立てる。
「ひとつは、取り憑いた歌を聞いた人間が弱りきったとき。人を襲うために、自分から出てくる」
もう一本、指を立てる。
「もうひとつが、大勢の人間が、その歌を正の感情で同時に歌うとき。希望、応援、喜び。そういう気持ちを嫌って、歌の外へ追い出されるの」
「だから観客に……?」
「ええ。舞台の上で、みんなに歌ってもらう」
美佳流がハッとする。
「でも、それなら普通に『この歌をみんなで歌ってください』って言えば……」
「それじゃ駄目なの」
「え?」
ランファの表情が険しくなる。
「堕天詩は人間の負の感情を食らって強くなる。恐怖、憎しみ、嫉妬。堕天詩を知って恐れたまま歌うと、かえって奴を太らせる」
「……!」
「だから観客には、何も知らせない。好きな役者を応援して、物語に感動して、楽しい気持ちで歌ってもらう」
ランファが舞台を見る。
「その歌に込められた『頑張れ』『負けないで』『楽しい』って想いが、堕天詩を歌から引きずり出す。それがエデンのやり方よ」
「……お客さんたちは、何も知らないまま戦いに協力していたんですか?」
「ええ。騙している、と言われればそうよ。でも観客には、ただ舞台を楽しんでもらう」
美佳流はしばし言葉を失った。一拍おいて呟く。
「……でもさっきの怪物は? もう、いないんですよね?」
「いいえ」
ランファは即答した。
「まだいるわ」
「えっ?」
美佳流が振り返る。
「でも……さっき、ランファさんたちが倒したんじゃ……」
「倒してはいない。正確には、逃げられたのよ」
ランファは舞台の中央を指差した。
「堕天詩は、ある程度ダメージを受けると姿を消す。歌の中へ戻るの」
「……歌の中?」
「そう。住処に逃げ込めば、私たちには手が届かない。ただし、無傷で戻れるわけじゃない」
ランファは一枚の楽譜を取り出した。
「今日与えた傷は、歌の中でも残る。だからこの公演は二日間なの」
「二日間……?」
「初日は引きずり出して弱らせ、歌へ追い込む。二日目にもう一度引き出し、傷が残っているうちに浄化する」
楽譜を軽く叩く。
「歌を壊すんじゃない。巣食ったものだけを取り除く。それが、私たちエデンの仕事よ」
美佳流は小さく頷く。
初日の公演は終わった。
だが本当の決着は、まだ明日だった。
「そして明日は……」
ランファは美佳流に視線を向ける。
「あなたも舞台に立つのよ、美佳流ちゃん」
美佳流は厳しい現実を突きつけられた。
「でもどうして、私には教えてくれなかったんですか?今日初めて知りました。エデンが舞台で本当に戦ってるって」
ランファは静かに息を吐いた。
「怖がらせたくなかったのよ」
ランファは続けた。
「堕天詩は人間の負の感情を力にする。恐怖を抱えたまま舞台に立てば、あなた自身が危険になるから」
美佳流は黙って頷いた。
初舞台は、明日だった。
◇
二日目の公演がやってきた。
幕が上がった。
美佳流にとって、エデンでの初舞台。
だが、今日の彼女は戦わない。
新人である美佳流は、安全な役に配置されていた。
「ここなら大丈夫。私たちが戦うから」
昨日、ランファにそう言われた。
そして訪れた劇のクライマックス。観客の歌声で劇場が満たされる。昨日と同じように、音楽が歪んだ。
「……!」
黒い影が舞台上に集まり、堕天詩が姿を現す。昨日のダメージにより片翼がもげている。
「出たわ!」
ランファたちが一斉に構える。
「昨日のダメージが残ってる。一気に叩くわよ!」
ところが――。
「……え?」
その時、奇妙な声が聞こえた。
『……なんで、あの子なの?』
「……?」
『私だって……頑張ったのに』
声は、堕天詩から聞こえている。
「誰……?」
美佳流の視線が客席へ向いた。
最前列に座っている人物に美佳流は気づく。美佳流の一番の親友の沙織だった。
美佳流自身、歌なら沙織のほうが上手いと思っている。
そんな沙織が、今日は自分の初舞台を見に来てくれていたのだった。
「サオ……?」
いつもと変わらない沙織のはずだった。
『どうして美佳流だけ……』
美佳流の顔が青ざめる。
「え?」
その瞬間、堕天詩が激しく咆哮した。
「っ!」
ランファが受け止める。
「……おかしい」
「ランファさん?」
「昨日より明らかに強い」
ランファは堕天詩を睨みながら呟く。
「昨日のダメージが残っているはずなのに……」
美佳流にはなお聞こえてくる声。
『羨ましい……』
『私だって、エデンに入りたかった……』
「……!」
「どうしたの?美佳流ちゃん?」
「この声……私にしか聞こえてない?」
ランファが目を見開く。
「何が聞こえるの?」
美佳流は答えた。
「サオの声です!」
ランファの表情が変わった。
「サオ?みんな!一旦戦闘は任せるわ!美佳流ちゃん、話を聞かせて」
ランファと美佳流は一旦舞台袖へと退いた。舞台袖で美佳流はランファに事情を説明した。
◇
「なるほど、美佳流ちゃんにだけ聞こえる声は嫉妬ね」
「え?原因は……サオ……?」
「堕天詩は人間の感情、特に強い負の感情は、奴らにとって力そのものよ」
「じゃあ……サオの嫉妬が、あいつを……?」
「恐らくね。昨日より強くなったのはそのせいよ。沙織ちゃんの美佳流ちゃんへの嫉妬心によるものよ」
「そんな……でも嫉妬なんて……」
ランファと美佳流は舞台へ目を向けた。
「ランファさん!」
劇団員たちが押されていた。
昨日は互角だった攻撃が今は通じない。
「まずいわ!」
ランファが駆け出す。
「私たちも戻るわよ!」
「はい!」
ランファたちが舞台へ戻った、その直後だった。
「美佳流ちゃん!」
「えっ……」
美佳流へ鋭い一撃が迫る。
ランファが振り返る。
「なぜ……!?」
戦闘から外すつもりで置かれた位置だったにも関わらず堕天詩は迷わず美佳流を狙った。
ランファの表情が険しくなる。
「やっぱり!こいつは美佳流ちゃんを狙っているわ!」
「私を?」
「ええ。沙織ちゃんの嫉妬の対象があなただからよ!」
親友が自分に嫉妬を抱いていたショックの美佳流をよそにランファは剣を構え直した。
目の前の堕天詩は昨日までとは明らかに違う。
劇団員たちも肩で息をしながらかろうじて立っていた。その身体は思うように動かない。
「私のせい……?」
堕天詩が再び襲いかかる。
「きゃっ……!」
美佳流は後ずさった。
「どうしよう……私のせいで、みんなが……!」
「美佳流ちゃん、落ち着いて!」
ランファが前に出る。
そして堕天詩を睨みながら叫んだ。
「来吧!来攻击我!(かかってきなさい!)」
堕天詩がランファへ向きを変える。
「ランファさん!」
「大丈夫よ」
ランファは振り返り、微笑んだ。
「忘れないで。堕天詩は人の感情を力にする。あなたが怖がれば、それだけ奴を強くしてしまうわ」
「……!」
「だから、今は何も心配しなくていい」
ランファは再び堕天詩へ向き直る。
「私たちがいるでしょう?」
「……はい!」
美佳流は深く息を吸った。
「私は……大丈夫」
ランファは小さく頷く。
「そう。それでいいわ」
そしてランファが堕天詩へ駆け出した。
ランファは強化された堕天詩と互角に戦っていた。
だが、昨日の戦闘による疲労もあり、次第に押され始める。
美佳流の心に生まれた罪悪感も堕天詩は感じ取っていた。
黒い瘴気が一気に膨れ上がる。
「……!」
劇団員たちが次々と吹き飛ばされる。
「きゃあっ!」
「くっ……!」
「立って! まだ終わってないわ!……まずい!負の感情は伝播するもの……このままじゃ……!」
ランファが叫ぶ。
しかし堕天詩の力は圧倒的だった。
美佳流はその場から動けなかった。
「私のせいで……」
自分が選ばれた。
沙織を傷つけた。
ランファたちまで苦しんでいる。
「私が……ここに来なければ……」
堕天詩が美佳流へ攻撃を向けてきた。
「美佳流ちゃん!」
ランファが気づく。
「逃げて!」
だが美佳流の足は動かなかった。
その瞬間。
「させない!」
ランファが美佳流の前へ飛び込んだ。
ドンッ!
「ランファさん!」
攻撃を受けた蘭華の身体が大きく吹き飛ぶ。
「ランファさん!しっかり!」
美佳流が駆け寄る。
「どうして……?」
ランファは苦しそうに身体を起こした。
「どうしてって……」
ランファは美佳流を見る。
「あなたが私に……似ているからよ」
「……!」
「美佳流ちゃん。あなたを見ていると……昔の自分を思い出すの」
「昔の……ランファさん?」
ランファは静かに目を伏せた。
「……私にも、同じようなことがあったの」
「え?」
「言ったでしょう。堕天詩が姿を現す条件は二つ。正の感情を込めた歌で引きずり出されたときと弱り切った人間を襲うとき……私の両親は堕天詩の取り憑いた歌を聴き続けていたのよ」
ランファは一度言葉を切る。
「私が五歳の時……両親が堕天詩に殺された」
「……!」
「二人ともミュージカルの役者だった。あの日も、演劇で使う歌を聴いていたの」
「その歌に……堕天詩が?」
「ええ」
ランファは苦しそうに目を伏せる。
「私は何もできなかった。怖くて……ただ見ていることしかできなかった」
「ランファさん……」
美佳流の目に涙が浮かぶ。
「その後、私を引き取ってくれた人がいた。その人が後にエデンの団長となり、私たちの劇団を作ったの」
「それが……劇団エデン……」
「そう」
ランファは剣を握り直す。
「だから私は決めたの」
その声には、強い意志がこもっていた。
「もう二度と、誰にも同じ思いをさせない」
「……」
「堕天詩を滅ぼす。そして――両親が愛した歌を、守る。それが戦い続ける理由よ」
ランファは美佳流を見つめた。
蘭華は震える腕で剣を握る。
「あなたに厳しくしていたのも……あなたなら、この世界で戦えると思ったから」
「……ランファさん」
「あなたが昔の私と同じように、怖くて立ち止まってしまうんじゃないかって……」
ランファは微笑む。
「だから、厳しくしたのよ」
「……っ」
美佳流の涙が頬を伝う。
「ランファさん……」
ずっと怖い人だと思っていた。
厳しくて、自分にだけ冷たい人だと思っていた。
けれど違った。
「私を……心配してくれてたんですか……?」
「当たり前……で……しょう……」
苦しそうながらランファは笑う。
「あな……た……はもう……私たちの仲間……だから……」
「……!」
美佳流は涙を拭えなかった。ランファは意識を失っていった。
「ランファさん!」
美佳流の叫びが、誰もいないように静まり返った舞台に響いた。返事がない。
「そんな……」
美佳流の足が震える。
その目の前で、堕天詩の身体から黒い霧が噴き出した。巨大な身体がさらに膨れ上がる。
「いけない……!」
舞台袖から劇団員の声が飛んだ。
「美佳流ちゃんの負の感情を吸ってる!」
「私の……?」
「そうよ! あいつは人間の負の感情を力に変えるの!」
堕天詩が唸り声を上げる。
美佳流の胸が締め付けられた。
「私が……みんなを……」
サオのこと。ランファのこと。そして、自分が何もできなかったこと。
「私なんかが来なければ……!」
美佳流の罪悪感を糧に堕天詩の巨体が、また一段と大きくなった。
そのとき。
「……美佳流ちゃん」
「!」
倒れていたランファが、ゆっくりと目を開いた。
「ランファさん!」
美佳流の顔に安堵が浮かぶ。
「よかった……!」
「何を安心しているの」
弱々しい。それでも、いつもの厳しい声だった。
「敵はまだ目の前よ」
「……!」
「あなたが自分を責めれば責めるほど、あいつは強くなる」
「でも……私……」
「美佳流ちゃん!」
ランファが声を張った。
「言ったでしょ!あなたは私たちの仲間、それに舞台に立てばみんな主役よ!」
美佳流が息を呑みハッとした。
「主役なら最後まで舞台に立ちなさい!」
「……」
「私だって怖かった」
ランファは剣を握り直す。
「両親を奪われたあの日から、ずっと怖かった。それでも私は戦ってきた」
ランファの視線が美佳流に向く。
「あなたが私をどう思っていたか知らないけど……私はあなたを見ていると、昔の自分を思い出したのよ」
「ランファさん……」
ランファは小さく笑った。
「あなたはきっと強くなれる。いつか堕天詩消滅の日に欠かせないと信じているわ」
美佳流の頬を涙が伝う。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……そうだ」
拳を握る。
「ランファさんは、私よりずっとつらい思いをしながらそれでも戦っていた」
美佳流は涙を拭った。
「私が……ここで止まるわけにはいかない!」
ランファが微笑む。
「……その顔よ」
美佳流は堕天詩を見る。
「でも……私、武器なんて使えない」
そのとき、美佳流の視線が舞台を駆け巡った。
照明。幕。ワイヤー。舞台装置。
「……ある」
「何が?」
「私にも……戦う方法がある!」
美佳流は蘭華を見る。
「ランファさん!」
「何?」
「裏方さんたちに指示できます?」
ランファは一瞬きょとんとする。
「ええ。だけど、それがどうしたの?」
美佳流はランファの耳元へ駆け寄った。
「……」
作戦を伝える。
ランファの表情が変わった。
「……なるほど」
そして、口元に笑みが浮かぶ。
「面白いわね」
ランファが舞台袖へ叫ぶ。
「全員、聞いて! 美佳流ちゃんの作戦でいくわ!」
美佳流は堕天詩へ向き直り大声で叫ぶ。
「堕天詩!ここから……あなたを叩き出してやるわ!」
堕天詩が美佳流へ突進する。
「来なさい!」
次の瞬間。
「……やっぱり怖いよーーっ!」
美佳流は背を向けて走った。
客席がどっと沸く。
「お嬢ちゃん! さっきの威勢はどうした!」
「逃げるのかよ!」
「あははは!」
観客にはコミカルな演出にしか見えない。
だが美佳流は必死だった。
「ヒィィィっ!こっち来ないでぇ!」
堕天詩が追ってくる。
舞台奥へ。
さらに奥へ。
そして。
「……なーんてね」
美佳流は悪戯じみた笑みを浮かべてから横へ飛ぶ。
堕天詩の足元が開いた。
奈落。
巨大な身体が、そのまま落下していく。
「よしっ!」
観客から歓声が上がる。
「すげえ!」
「奈落まで使うのか!」
美佳流は舞台袖へ叫ぶ。
「今のうちにお願いします!」
「了解!」
暗転。
舞台が真っ暗になる。
観客は次の演出だと思い、拍手する。
その暗闇の中で、美佳流と裏方たちは動いた。
「ワイヤー、ここ!」
「了解!」
「照明は右側!」
「任せて!」
「幕も使います!」
そして。
堕天詩が奈落から這い上がってきた。
美佳流が舞台中央に立つ。
「こっちよ!」
堕天詩が襲いかかる。
美佳流は横へ逃げる。
「そこ!」
ワイヤーが飛ぶ。
堕天詩の脚に絡みついた。
「かかった!」
堕天詩がワイヤーを引きちぎる。
「まだ!」
今度は反対側からワイヤー。
さらに幕が落ちる。
堕天詩の視界を塞ぐ。
「照明!」
強烈なスポットライトが堕天詩を照らし堕天詩が怯む。
美佳流は走りながら叫ぶ。
「こっち!こっちだよ!」
逃げる。誘導する。罠へ追い込む。
剣がなくてもいい。力がなくてもいい。
この舞台には、戦うための道具がいくらでもある。
美佳流を見つめるランファと劇団員たち。
「全くやってくれるわね」
「ええ、まさか舞台装置を利用して戦うなんてね」
ランファの顔には笑みが浮かんでいた。
美佳流は堕天詩に視線を向ける。
「これが……私の戦い方よ!」
堕天詩が罠にかかった。
その瞬間。
客席から声がした。
「美佳流……!」
美佳流が振り返る。
沙織だった。
その顔には、もう曇りがなかった。
「頑張って!」
美佳流が目を見開く。
沙織は笑っていた。
「負けないで!美佳流!」
堕天詩の身体から、黒い霧が噴き出す。
「まだ強くなるの!?」
一瞬の不安と裏腹に今度は霧が消えていった。
「……え?」
堕天詩の身体が縮んでいく。
ランファが気づく。
「沙織ちゃんの負の感情が消えた……」
「じゃあ……」
「そうよ」
ランファが剣を構える。
「堕天詩はもう、力を得られない!」
美佳流は沙織を見る。
沙織は笑っている。
その笑顔を見て、美佳流も笑った。
「サオ……!」
そして堕天詩へ向き直る。
「今度こそ……終わりよ!」
照明が一斉に点灯する。
幕が開く。
劇団員たちが立ち上がる。
美佳流は舞台中央へ進み出た。
「ここは私が何度も稽古した場所」
照明が堕天詩を照らす。
「ここは、みんなが作ってきた場所!」
ワイヤーが堕天詩を拘束する。
舞台装置が動き出す。
そして美佳流は、堂々と堕天詩を見据えた。
「剣はなくても!力がなくても!ここなら……!」
美佳流が拳を握る。
一瞬の静寂。
「これが私たちの戦いの『舞台』よ!」
ランファが駆ける。
「行くわよ!」
「はい!」
劇団員たちが一斉に攻撃する。
ランファはトドメの突きを放つと堕天詩を包む光と轟音。
そして黒い霧が、完全に消えた。
堕天詩の取り憑いていた歌の楽譜が一瞬光る。
今度こそ歌へと逃げられずに堕天詩を完全に撃破したのだ。
一瞬、劇場が静まり返る。
そして――
パチパチパチパチパチッ!
割れんばかりの拍手が、劇場いっぱいに響き渡った。
「……え?」
美佳流は呆然と客席を見渡した。
観客たちは立ち上がり、笑顔で舞台に拍手を送っている。
まるで今までの戦いなど、すべて演劇の一部だったかのように。
「美佳流ちゃん!」
ランファの声が飛んできた。
「えっ?」
「そのままよ。次の曲に入るわ!」
「次?曲?」
戸惑う美佳流をよそに、劇団員たちはすぐに演奏の準備へと移っていく。
そして、先ほどまで堕天詩が取り憑いていた歌が始まった。
美佳流も遅れて歌に加わる。
最初は、何が起きているのか分からなかった。
ついさっきまで、この歌には堕天詩がいた。
なのに――。
歌声が劇場を満たしていく。
客席を見る。
さっきまで険しい表情をしていた観客たちが、笑っている。
子供も、大人も。
誰もが歌に耳を傾け、楽しそうに舞台を見つめていた。
その光景を見ているうちに、美佳流の胸に残っていた緊張も、少しずつ消えていった。
不思議だった。
身体の力が抜けていく。
心の奥まで、温かくなっていくような感覚。
歌い終わる頃には、美佳流自身も自然と笑っていた。
「……なんだろう。すごく……落ち着く」
隣にいたランファが、静かに微笑む。
「それが、浄化された歌の力よ」
「浄化された……歌?」
「ええ」
ランファは客席を見渡した。
「堕天詩に取り憑かれていた歌は、堕天詩を倒すことで浄化されるの」
「……」
「そして浄化された歌は、今度は人の心を良い方向へ動かす。聴いた人を励ましたり、元気にしたりする力を持つのよ」
美佳流は、客席を見る。
そこには、先ほどまでとはまるで違う笑顔が広がっていた。
「だから……エデンの舞台って、こんなに人気があるんですか?」
ランファは頷いた。
「それも理由の一つね」
そして、舞台の上に立つ劇団員たちを見ながら言った。
「私たちは堕天詩と戦うだけじゃない。人々が大切にしてきた歌を取り戻しているのよ」
観客たちは知らない。
今、本当に世界を脅かす怪物が倒されたことを。
ただ、最高の舞台を見たと思っている。
美佳流は客席を見渡した。
そして、その中にいる沙織と目が合う。
沙織が笑う。
美佳流も笑った。
舞台の上で。
今度こそ、自分の意志で。
◇
――その夜。
激戦があったとは思えないほど劇団エデンの食事会は盛り上がっていた。
「まさか初舞台であんな大活躍するとはね!」
「美佳流ちゃん、今日のMVPよ!」
「そんな……! 私はただ舞台にあるものを使っただけで……」
美佳流は照れながら笑った。
「でも、本当にすごかったわよ」
「ありがとうございます!」
今日の公演は無事に終わった。
そして何より、強大な堕天詩を倒した。
その記念も兼ねた食事会だった。
……ただし。
「美佳流ちゃん! こっちに来なさぁ~い!」
「ランファさん……」
顔を真っ赤にしたランファが、酒を片手にふらふらと近づいてくる。
「今日は偉かったわぁ~!」
「ありがとうございます。でもランファさん、もうかなり飲んでません?」
「全然飲んでないわよぉ~!まだ10杯よ!」
「飲みまくってんじゃないですか!説得力ないですよ!」
ランファは美佳流の肩に腕を回した。
「気にしない!私のかわいい後輩なんだからぁ~!」
「ちょっ、近い近い!」
劇団員たちが一斉に笑い出す。
「ランファ、いつもそれだから」
「酔うと後輩に絡むのよ」
「そして翌日には全部忘れてる。でもね、つらい過去を消すかのように酒に走るのよ。酔っていると幼いころのランファに戻るの」
「え……ランファさん……それで……」
美佳流は事情を察した。だが悪酔いの蘭華を見て美佳流はため息をついた。
先ほどまで堕天詩と戦っていたとは思えない。
今では完全に酔っ払いである。
「本当……これさえなければ、いい先輩なんだけどなー」
「困った人よね」
「ええ、本当に……」
「……ん?」
美佳流は隣を見る。
「…………サオ!?」
そこに沙織が座っていた。
「こんばんは、美佳流」
「なんでいるの!?」
「ランファさんに誘われたの」
「ランファさんが?」
美佳流はランファを見る。
「……」
ランファは何食わぬ顔で酒を飲んでいる。
「……まさか」
美佳流は少しだけ笑った。ランファは二人の間に残っているものに気づいていたのだ。
だから沙織をここに呼んだ。
堕天詩のことは何も知らない沙織には、ただの食事会にしか見えない。
「美佳流」
「うん」
沙織が少しだけ真剣な顔になる。
「……ごめんね、美佳流」
「え?」
沙織は俯いたまま、膝の上でぎゅっと手を握った。
「私……ずっと言えなかったことがあるの」
「サオ?」
いつもの沙織とは違う。
声が少し震えている。
「オーディションのこと……」
「うん」
「美佳流が合格したって聞いたとき……私、本当は……」
沙織は一度口を閉じた。
「…………」
俯いたまま、膝の上で手を握りしめている。
「……嬉しくなかった」
「……!」
美佳流が目を見開く。
「違う……全部が嬉しくなかったわけじゃないの。美佳流が夢を叶えたことは、本当に嬉しかった」
沙織は慌てて言葉を続ける。
「でも……その裏で、すごく悔しかった」
「サオ……」
「私のほうが歌が上手いって……ずっと思ってたから」
声が震える。
「だから、どうして私じゃなくて美佳流なんだろうって……」
沙織は目を伏せた。
「ごめん。こんなこと言ったら、美佳流に嫌われるよね」
「……」
「親友なのに……私、最低だよね」
「サオ!」
美佳流が呼び止める。
沙織が顔を上げる。
「……私も、正直に言う」
「え?」
「本当はね」
美佳流は少し照れくさそうに笑った。
「サオが落ちて、ホッとしたってある」
「……え?」
「だってサオ、歌も上手いし、勉強もできるし」
「それは……」
「もし二人とも受かってたら、私ずっとサオと比べられてたと思う」
美佳流は苦笑する。
「だから、サオが落ちたって聞いたとき……ちょっとだけ安心した」
「美佳流……」
「私だって、嫌なところあるんだよ」
沙織はしばらく黙っていた。
そして。
「……ふふっ」
「サオ?」
「なんだ……」
沙織の目に涙が浮かぶ。
「私だけじゃなかったんだ」
「うん」
「よかった……」
「え?」
「私だけがこんなこと考えてたんだと思ってたから」
涙を拭いながら、沙織は笑った。
「私ももう、根に持ってないよ」
「……本当に?」
「うん」
美佳流も笑う。
「じゃあ……これからも親友でいてくれる?」
「もちろん」
二人は笑い合ったその瞬間だった。
「そうそう!」
「え?」
背後から突然、大声が響いた。
「若いんだからいつまでも悩んでなんかいるんじゃないわよ!」
「ランファさん!?」
酔っ払った蘭華が、二人の後ろに立っていた。
「仲直りしたなら、それでいいの!」
「いや、いつから聞いてたんですか!?」
「細かいことはいいの!」
蘭華は満面の笑みで両手を振り上げる。
「えいっ!」
ポカン!
「いったーっ! 何するんですかランファさん!」
「もう……ランファさんってば」
沙織が笑う。
だが当のランファは。
「…………」
「ランファさん?」
その場で突然、静かになった。
「……寝てる?」
「嘘でしょ……」
ランファはそのまま座り込み、爆睡していた。
「ぐぅ……」
「ふふっ」
沙織がランファを見て笑う。
「面白い人だね」
「うん」
美佳流も呆れながらランファを見る。
今日、自分を守ってくれた人。
そして、こうして自分と沙織が本音を話すきっかけまで作ってくれた人。
「本当に……」
美佳流は優しく笑った。
「これさえなければ、いい先輩なんだから」
「ふふっ」
二人の笑い声が、夜の食事会に溶けていった。
◇
数ヶ月後。
今日も劇団エデンの公演が始まろうとしていた。
舞台袖。
美佳流は静かに深呼吸をしていた。
「ふぅ」
「美佳流ちゃん」
「はい!」
隣に立つランファが、美佳流の姿をじっと見る。
「肩に力が入りすぎているわ」
「え?」
美佳流の肩に手を置く。
「力を抜いて」
「……はい」
美佳流が肩の力を抜く。
「それから、顎を少し上げて」
「こうですか?」
「そう」
蘭華が頷く。
「随分と立派になったわね」
「本当ですか?」
「ええ」
美佳流は嬉しそうに笑う。
「ランファさんにそう言ってもらえると、なんだか自信が出ます」
「なら、その自信を舞台で見せなさい」
「はい!」
ランファは少しだけ笑った。
初めて会った日の美佳流は、憧れの劇団に入れたことだけで目を輝かせていた。
戦うことの意味も知らなかった。
自分に何ができるのかも分からなかった。けれど今、少女の瞳には、あの日にはなかった強さがある。
ランファは前を向いた。
「美佳流ちゃん」
「はい」
「私の後ろについてきなさい」
一瞬、美佳流は目を丸くする。
そして笑った。
「はい!……いや……」
しかしすぐに続ける。
「……いつかは、ランファさんの隣じゃなくてランファさんより前に出られるようになりますから!」
「ふふっ、言ってくれるじゃない!」
ランファが楽しそうに笑う。
「本気ですから」
「ええ。そのくらいでいいわ」
舞台の向こうから、観客のざわめきが聞こえてくる。
開演の時間だ。
美佳流が拳を握る。
「ランファさん」
「何?」
「今日も、よろしくお願いします!」
ランファは美佳流の肩を軽く叩いた。
「こちらこそ。行くわよ、未来のトップスターさん!」
「はい!」
二人は並んで歩き出した。
照明が灯る。幕の向こうには、大勢の観客。
美佳流は一歩前へ出る。
その横に蘭華が並ぶ。
そんな二人の姿を照らすように、スポットライトが二人を包んだ。
ランファが微笑む。
「皆さん、お待たせしました!」
美佳流も続く。
「劇団エデン、本日の公演――!」
二人の声が重なる。
「開演です!」
幕が上がった。役者にして戦士の二人は今日も『舞台』へと立つのであった。
完




