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白匙亭と季節の約束  作者: 泉白李玖


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第2話 冬の魔物と温かい茶

翌朝になっても、灰雨は止まなかった。

リゼルの街は、灰色の薄布をかぶせられたように沈黙している。

ユノは窓辺に咲いた白い花を見つめていた。

昨夜、冬の魔物が自分の名前を呼んだ瞬間に咲いた花だ。

触れると冷たい。けれど、花弁だけは生きているように柔らかい。


「……普通じゃない、よなぁ。」


そう呟いて、ユノは店の奥を見た。


普通ではない原因は、毛布の上で眠っている。

銀の髪。黒い角。人形のように整った横顔。

眠っているだけなのに、店の空気が冷たい。

ユノは肩掛けを巻き直した。

昨夜のことが夢でなかったのだと、嫌でも思い知らされる。


衛兵を呼ぶべきなのかもしれない。

でも、灰雨の日に人外を家へ入れたと知られたら、怒られるのは間違いなく自分だ。

それに、衛兵が来たとして、何ができるのだろう。

目の前の存在は、たぶん剣や縄でどうにかなるものではない。


ユノはため息をつき、朝食の支度を始めた。

麦粥に干し茸を少し。

黒パンを薄く切り、蜂蜜を塗る。

それから、毛布の上の魔物を見た。


「……食べるのかな。」


 祖母の手帳を開いても、魔物を拾った時の対処法は載っていない。

 春の精霊に花粉を撒かれた時の洗眼水ならあるのに。


「おばあちゃん、そこまで書いておいてほしかった。」


ユノは薄い赤葉茶を淹れた。

昨日と同じ茶。ただし、蜂蜜は入れない。

春を飲ませた、と言われたのが少し気になったのだ。


器を持って近づくと、魔物の瞼がゆっくり開いた。

雪原の瞳が、ユノを映す。


「……起きましたか?」


「ここは?」


「白匙亭です。薬草茶のお店です。」


「白匙」

 

彼はその言葉を確かめるように繰り返した。


「お前の巣か。」


「店です。」


「同じだろう。」


「違います!」

 

即答すると、魔物は少しだけ目を細めた。


ユノは器を差し出す。


「飲めますか?」


魔物は湯気を見た瞬間、明らかに嫌そうな顔をした。


「温かい。」


「お茶なので。」


「熱を持つものは、私の内側を乱す。」


「では、冷ましてから飲みますか?」


「そういう意味ではない。」

 

けれど、器を下げようとすると視線で止められる。


「置け。」


「飲むんですか?」


「置けと言っている。」

 

偉そうだ。

とても偉そうだ。


ユノは小卓に器を置いた。

魔物はしばらく茶を睨んでいたが、やがて器を取った。

白い指先が触れた瞬間、湯気が凍る。


「……冷ましすぎでは?」


「うるさい。」


彼は冷えきった茶に口をつけた。

その瞬間、瞳がわずかに揺れる。


「飲めるな。」

「よかったです。」

「なぜだ?」

「? 私に聞かれましても……。」

「人間の食物は、普通、濁っている。生まれたところから、腐り、消える。短命なものは味が荒い。」


ユノは自分の麦粥を見下ろした。


「私の朝食を貶しました?」


「事実を言った。」


「悪く言いましたね。」


魔物は答えず、もう一口茶を飲んだ。

嫌そうな顔をしたまま、飲む。

その様子が妙におかしくて、ユノは少しだけ笑いそうになった。


「無理に飲まなくてもいいんですよ。」


「これは、お前が淹れた。」


「はい。」


「だから 、飲める。」


ユノは瞬きをした。意味が分からない。

けれど、聞いても答えてくれない気がした。


「あなたのお名前は?」


 ユノが尋ねると、空気が少し冷えた。

 まずかったかもしれない。


「真名じゃなくて、呼び名で構いません。ずっと魔物さんと呼ぶのも失礼なので。」


「礼儀を気にするのか。」


「お客さんなので。」


 長い沈黙のあと、彼は低く言った。


「エイル」


「エイルさん」


「さん、とは何だ。」


「敬称です。」


「不要だ。」


「では、エイル」


その名を呼んだ瞬間、暖炉の火がぱちりと爆ぜた。

エイルの瞳がわずかに揺れる。


「呼ばない方がよかったですか?」


「……いや、」


彼は器の中の茶を見下ろした。


「久しいだけだ。」


何が、とは聞けなかった。

その声があまりにも遠かったからだ。

食後、ユノは床を拭いた。昨夜の霜が溶け、板張りが湿っていたのだ。

エイルは動かない。

客というより、冬の置物である。


「動けますか?」


「動けるが?」


「では、なぜ動かないんですか。」


「ここにいる。」


「答えになっていません。」


「ここがよい。」


ユノは雑巾を持ったまま固まった。


「帰る場所は?」


「あるが、まだ帰らない。」


「帰らないんですか?なぜ?」


エイルは当然のように言った。


「お前がここにいるからだ。」


ユノは言葉を失った。

冗談ではない。それではこの魔物はずっとここに居座るではないか。

だが、残念なことに彼の声にはからかいというものが一欠片もなかった。


「私は、ただの茶店の店主です。」


「ただのものは、灰雨の日に私を拾わない。」


「それは、そうかもしれませんが……。」


「ただのものは、私に春を飲ませられない。」


 エイルはユノを見た。


「ただのものは、私の名を呼んで凍らないことなど有り得ない。」


ユノは無意識に喉元へ手を当てた。

魔物の名を呼ぶなんて、良くないことに決まっているのに。

そのことに思い当たらなかったことが、急に怖くなった。


「……私は、何なんですか。」


エイルは答えなかった。

ただ、今は完全に凍ってしまった茶の表面を指で撫でる。

そこに淡い花模様が浮かんだ。


「知らない方がいいな。今は、まだ。」


それは欲しかった答えではなかった。

けれどユノは、それ以上聞けなかった。


外ではまだ灰雨が降っている。

その雨音に混じって、遠くから小さな鈴の音がした。

店の入口ではない。

街のどこか。もしくは、街ではないどこか。


エイルが窓の外を見る。


「寄って来ているな。」


「何がですか?」


「境界のもの達だ。」


白匙亭の扉に吊るされた三つの鈴が、誰も触れていないのに震えた。


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