第1話 灰雨の日、白匙亭の戸を開けてはいけない
初投稿です。しかも見切り発車です…
灰色の雨が降る日は、家の戸を開けてはいけない。
辺境の街リゼルでは、子供でも知っている言い習わしだ。
灰雨は、普通の雨ではない。
雲から落ちてくるのは水のようでいて、水ではなく、春の匂いもしなければ、土を潤すこともない。
屋根を叩く音は乾いていて、雨粒が石畳へ落ちても、跳ねない。
ただ、灰色の染みだけがじわりと広がる。
その日は、世界の境目が緩むのだと祖母は言っていた。
人の道と、人ならざるものの道が、ほんの少しだけ重なる日。
だから、リゼルの人々は戸を閉ざす。
窓辺に塩灰を撒き、玄関に古い鈴を吊るし、竈の火を絶やさずに夜が過ぎるのを待つ。
可哀想だと思っても、決して戸を開けてはいけない。
向こうのものは、人とは違う理をもつものだから。
ユノは、その言葉を何度も聞いて育った。
そして今、薬草茶屋《白匙亭》には、ユノしかいない。
祖母が亡くなって三年。
店の看板は少し古び、窓枠の白い塗装は剥げかけている。
それでも、天井から吊るされた薬草は今日も静かに揺れ、棚の硝子瓶には赤葉、白根草、眠り花の花芯、冬越しの月桂葉などが整然と並んでいた。
店の中は、乾いた葉と蜂蜜と、少し焦げた砂糖の匂いがする。
ユノは小さな薬缶を火にかけ、赤葉茶を量った。
今日は店を開けない。
灰雨が降る日に外を出歩く客などいないし、いてはいけない。
だからこれは、自分のためだけのお茶だった。
赤葉をひと匙に、乾燥りんごをひと欠片。少し迷ってから、蜂蜜も小さく落とす。
甘いものを惜しむと、こういう日は余計に寂しくなる。
「明日は、晴れるかな…」
独り言は雨音に吸い込まれ、当然ながら返事はない。
それが当たり前なのに、ユノは時々、まだ奥の部屋から祖母が顔を出すような気がする。
薬草の束を解きながら、また灰雨の言い伝えを教えてくれるような気がする。
けれど、白匙亭にいるのは自分だけだ。
薬缶が小さく鳴った。
お茶を入れようと、薬缶を手にしたその時、
ちりん、と入口にかけておいた古びた鈴が鳴った。
一瞬静止し、薬缶を戻す。
扉には閂をかけている。
その上、灰雨避けの鈴を三つ吊るしている。
風が鳴らしたのだろうか。
店内の空気が急に薄くなったような気がした。
ユノは息を潜める。
しばらく、何も起きない。
気のせいだったのかもしれない。
そう思った瞬間、もう一度。
ちりん
今度は、はっきりと鳴った。
胸の奥が冷える。
戸を開けてはいけない。
そう言った祖母の声が、耳の奥で繰り返された。
けれど、扉の向こうで微かに何かが息をしたような気がした。
人かもしれない。
誰かが、倒れているのかもしれない。
怪我をして、助けを求めているのかもしれない。
そう考えた瞬間、ユノはもう動いていた。
「……誰か、いるんですか?」
返事は無い。
雨音だけが、乾いた指先で屋根を叩いている。
ユノは扉の前に立ち、暫く閂を見つめた。
開けてはいけない。
けれど、もし本当に誰かが死にかけていたら?
見捨てたことを、自分はきっと忘れられない。
「本当に死にそうな人がいたら困るじゃない。」
誰にともなくそう言って、ユノは閂を外した。
扉を少しだけ開ける。
瞬間、冬が流れ込んできた。
白い息が零れる。
灰雨の冷たさとは違う、もっと深く、もっと古い冷気だった。森の奥で百年眠っていた雪を、そのまま胸に押し当てられたような寒さ。
店の前に、男が倒れていた。
黒い外套。
灰雨に染まった銀の髪。
青白い頬。
そして、額から伸びる二本の黒い角。
人ではないことがひと目でわかった。
人ではないものが、灰雨の中で倒れている。
はやく、はやく、扉を閉めなければ。
それなのに、ユノの視線はその指先に引き寄せられた。
長い指が、微かに震えている。
生きている。
「……困ったな。」
本当に、困った。
本音を言えば、怖い。
でも、体調が悪そうな人を放っておくのはもっと怖かった。
ユノは外套の裾を掴み、必死になって店の中に引きずり込んだ。
見た目は酷く痩せているのに、雪を詰めた棺のように重い。
扉を閉め、閂を元に戻す。
吊るしていた三つの鈴が、警告するように一斉に鳴ったが、ユノは聞こえないふりをした。
「……今更よね。」
毛布を引っ張り出してきて、その人外を寝かせる。
近くで見ると、ゾッとするほど美しかった。
およそ、その美しさは人間のものではない。冬の朝、凍った湖の底を覗き込んだ時のような、触れてはいけない美しさだった。
唇は血の気がなく、睫毛には水滴が凍りついている。
ユノは暖炉へ薪を足した。
一瞬燃え上がった炎はしかし、ひゅっと細くなる。
「寒いのがお好きなんですか?」
返事はない。
ユノは灰雨で汚れてしまった髪を布で丁寧に拭った。角には触れないようにした。何となく、触れるべきではないと思ったのだ。
薬缶の湯はまだ温かい。
ユノは赤葉茶を薄めに淹れ、蜂蜜を少し落とした。
弱った人には甘いものがいい。
人外にも効くのかは分からないが、何もしないよりはいいと思った。
匙で茶をすくい、その唇に近づけた、その瞬間。
店の灯りが全て青白く揺れ、雨音も息を潜めたように感じた。
ユノの手が震える。
だが、匙を落とすことなく、一滴の赤葉茶を男の喉へ滑り落とした。
男が嚥下したその時、暖炉の火が消えた。
床に霜が走り、窓の内側に雪の花が咲く。
ユノは息を飲んだ。
男の睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。
瞳は、夜明け前の雪原の色をしていた。
静かで、冷たく、どこか遠い。
「……人間が」
低く掠れた声が、静寂に満ちた店内にぽつりと落ちる。
「私に、春を飲ませたのか。」
ユノは匙を持ったまま固まった。
「春を……?」
男は、有り得ないものを見るようにユノを見つめていた。
「名を」
「え?」
「お前の名を、聞かせろ。」
真名を明け渡してはいけない。特に、境界の者へは。
祖母の声が鮮明に蘇る。
ユノは唇を噛んだ。
怖い、けれど逃げられない。
「…ユノ、です。」
真名ではない。皆が呼ぶ、ただの通称。
それでも、男の瞳が僅かに揺れた。
「ユノ」
彼がその名を口にした時、凍りついた窓辺に小さな白い花が咲いた。
冬の匂いの中に、微かに春の香りが混じる。
男は静かに目を細めた。
「見つけた。」
静かに、呟かれた声には何が込められていたのか。
長い冬の果てに、失くしたものを拾い上げたような声だった。
ユノはまだ、その意味を知らない。
自分が、何を招き入れたのかも。
この夜を境に、白匙亭がただの茶店ではなくなることも。
まだ、なにも。
ただ、冷えきってしまった店の中で、ユノは消えた暖炉を見つめながら小さく言った。
「……とりあえず、火をつけ直してもいいですか……?」
男は一瞬、呆けたように瞬きをした。
それから、小さく答える。
「好きにしろ。」
その言い方が、あまりにも偉そうだったので。
ユノは怖かったことも忘れて、ほんの少し笑ってしまった。
古くからの言い伝えには、理由があるんですよね。
おばあちゃんの言うことは聞きましょう。




