第3話 春告げの精霊は、花を撒き散らす
灰雨が止んだのは、昼を少し過ぎた頃だった。
雲の切れ間から薄い陽が差した瞬間、リゼルの街は一斉に息を吹き返した。
閉ざされていた戸が開く。
子供たちが石畳へ飛び出し、パン屋の煙突から白い煙が上がる。雨を避けていた鳥たちは屋根の縁で羽を震わせ、鉢植えの花は恐る恐る顔を上げた。
世界がまた動き出す音に、ユノはほっとした。
灰雨の日の静けさは苦手だ。
自分だけが世界から取り残されたような気がする。
灰雨は終わったのに、白匙亭の中にはまだ冬がいた。
「エイル、せめてその辺りの霜だけ、どうにかなりませんか」
ユノは床にできた白い霜を指差した。
エイルは窓辺の椅子に座り、ユノの淹れた茶を嫌そうに飲んでいる。
「無理だ。」
「即答ですね…」
「これても意識して抑えている。」
「抑えてそれなんですか?」
「そうだ。」
ユノは諦めて霜の上に古布を敷いた。
春先の店内で霜対策をする日が来るとは思わなかった。
外では街の人たちが灰雨明けの片付けをしている。塩灰を掃き、戸口へ新しい春枝を掛ける。
ユノも店先に春枝を飾らなければ。
そう思った時、入口の扉が勢いよく開いた。
「ユノ!」
明るい声と一緒に、花びらが店へ雪崩れ込んだ。
薄桃、白、淡い黄色。
風もないのに舞い上がる花びらの中心に、少女が立っている。
見た目は十二、三ほど。
柔らかな緑の髪に、若葉色の瞳。頭には小さな花冠のような芽が揺れている。
春告げの精霊、リュシエだ。
「リュシエ、花粉を撒かないでください。白根草が眠ってしまいます。」
「白根草はいつも眠ってるでしょう?」
「もっと眠るんです!」
リュシエは笑った。
その笑い声で、窓辺の蕾が一つ開く。
春の精霊はだいたいそういうものだ。
悪気はない。
存在しているだけで、周囲を少し芽吹かせてしまう。
リュシエはユノの周りをくるくる回り、ふいに動きを止めた。
視線が店の奥へ向く。エイルを見たのだ。
花びらの流れが止まり、空気が張り詰める。
「……どうして冬がここにいるの?」
声は、さっきまでとは違っていた。
明るい少女の声ではない。
春の土の下で、根が軋むような響きだった。
エイルは茶器を置く。
「お前には関係ない。」
「あるわ。ここはユノの店よ。」
「知っている。」
「なら、出ていって。春が始まったのに、冬が居座ったら花が迷ってしまうわ。」
リュシエの足元から蔓が伸びた。
エイルの椅子の脚には霜が絡みつく。
ユノは慌てて二人の間に入った。
「店の中で季節喧嘩をしないでください!」
リュシエはユノの袖を掴んだ。
「ユノ、この冬に何をされたの?」
「何も……と言っていいのか分かりませんが、拾いました。」
「拾った?」
「灰雨の日に、店の前で倒れていたので…」
リュシエの顔色が変わる。
「灰雨の日に、冬を拾ったの?」
「はい。」
「戸を開けたの?」
「…はい。」
「名前は?」
「教えました。」
「まさかお茶を飲ませたりは…?」
「飲ませましたね。」
リュシエは両手で顔を覆った。
「ユノの馬鹿!」
「はい……」
さすがに反論できなかった。
エイルが低く笑う。
「馬鹿ではない。」
「冬は黙っていて。」
「断る。」
「ユノが大変なことになってるのよ!」
リュシエが叫ぶと、天井から花が降った。
ユノは慌てて薬草棚を庇う。
「大変なことって、何ですか?」
リュシエはユノの手首に鼻先を寄せた。
くん、と匂いを嗅ぐ。
「……やっぱり、匂いが変わってる。」
ユノは自分の袖を嗅いだ。
いつも通り、薬草と茶葉の匂いしかしない。
「人間の匂いの中に、境界の匂いが混ざってる。」
店の中が静かになる。
急に自分が自分で無くなっていくような気がして、怖くなった。
けれど、どこかで納得している自分もいた。
灰雨の日から、何かがおかしい。
白い花。
凍る火。
遠くの鈴。
そして、エイル。
「それは、悪いことですか?」
リュシエは困った顔をした。
幼い姿なのに、その表情だけひどく大人びて見えた。
「悪くはないの。悪くはないけど…」
彼女はユノの手を握った。
春の陽だまりみたいに温かい手だった。
「いずれ、選ばなければならない時がくるかもしれない。」
なにを、とは聞けなかった。
エイルが立ち上がる。
白い霜が床を走った。
「怖がらせるな。」
「事実よ。」
「それ以上言うなと言っている。」
「どうして? あなたが一番分かってるでしょう。」
リュシエはエイルを睨んだ。
「冬は、終わるものを欲しがらない。なのにどうしてユノの隣にいるの?」
エイルは答えなかった。
ただ、ユノを見る。
その瞳に、昨夜の「見つけた」と同じ色があった。
失くしたものを、もう二度と失くしたくないというような。
ユノは胸の奥が少し苦しくなった。
リュシエは深く息を吐いて言った。
「ユノ、今日は春枝を吊るして。ちゃんと外に。春のものを家に入れておかないと、冬に寄せられるから。」
「分かりました。」
「あと、その冬に真名を聞かれても答えないで。」
「……はい。」
「絶対よ?」
リュシエは念を押し、エイルの茶器を見た。
「……飲んでるの?」
エイルは無言で茶器を隠した。
「温かいもの、嫌いでしょう?」
「飲めない訳ではない。」
「ユノの茶だからでしょう。」
エイルは答えない。
リュシエは目を細めた。
「冬が春を飲むなんて、よくない兆しよ。」
そう言い残して、春告げの精霊は花びらと共に出ていった。
扉が閉まると、店には花の香りと冷たい沈黙が残った。
ユノは窓辺の白い花を見た。
灰雨の夜に咲いた、冬の中の春。
その花は、朝の光を受けて少しだけ開いていた。




