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「これはこれは……ラグレイン家の魔術師さん、でよかったかしら? ずいぶん面白いことを仰るのね」
メルディアは余裕を崩すことなく、くすくすと笑う。
ただ、その目はフェルではなく……自身の首筋に押し当てられた髪飾りを見つめている。
伏せられた長い睫毛の下、瞳の奥に暗い炎が揺れた気がした。
「封印されていた災いねぇ……ですからそのようなもの、最初から存在しないのではなくて?」
「そこの王子様ごと、君を何度も殺そうとしたよ。……どうしても、上手くいかなかった」
フェルは、メルディアの言葉を最後まで聞きもせず、淡々と言った。
「神託の巫女を名乗るとおり……君も聖女と同じような特別な力を持っていたのか、あるいは本物の魔術師かなにかだと思っていたんだけれどね。僕の鼻も鈍ったものだ」
やれやれ、なんて呟きながら、さらに強くメルディアを押さえ込む。
彼女の顔から、すっと表情が消え失せた。
「あなた……ただの魔術師ではないようね。いいえ、私……あなたを知っているような気がする」
メルディアは、先端が首筋にさらに食い込むのも気にせず、ゆっくりと振り向いた。
フェルの顔をじっと見つめる。
「その金の瞳……その忌々しい輝き……お前、あの女の――」
「おっと、お喋りはここまで。……エステア、いますぐここを離れるんだ」
「はっ、離れるって言っても……それに、あなたはどうするの……?」
「いいから、早く」
落ち着いた声でぴしゃりと言い切られ、思わず息を呑む。
言動から、少なくともいまのフェルは味方なのだろう。
けれど、このまま彼を頼ってしまっていいのか――どうしても、まだ信用しきれない。
迷っているあいだに、メルディアはフェルから視線を外し、こちらを向いて何事もなかったように笑みを浮かべた。
「あら、ダメよ。偽りの聖女様を、このまま逃すわけにはいきませんわ。――セオドリク」
その名を呼ばれた瞬間、呆然としていたセオドリクの目に、正気が戻る。
彼はすぐに体勢を立て直した。
逃げる暇もなかった。
あっという間に距離を詰められ、背後から後ろ手に腕を押さえ込まれる。
肩に鋭い痛みが走る。
「痛っ……殿下! お放しください!」
「エステア!」
フェルが叫ぶ。
その腕のなかから、メルディアの楽しげな声が聞こえる。
「さあ、早く私の首を突き刺してみなさいな。そうしたら……聖女様も一緒よ?」
「……いいのかい、王子様。君の新しい婚約者が、殺されても」
「それは貴様も同じだろう、魔術師。……先に、聖女から殺してやろうか」
セオドリクは私を押さえつけていた手を片方だけ離すと、今度は正面から首を掴んだ。
ぐっと指が食い込み、途端に息が詰まる。
「うっ……ぐぅ……っ!」
反射的に首を引き、必死に身をよじる。
けれど、後ろ手に押さえつけられたままでは逃れようがない。
息ができない。首の奥がぎしりと軋むみたいで、手足の先から力が抜けていく。
(絞め殺される……)
意識が遠のきかけたところで――ふいに声が聞こえた。
「ごめんね、エステア」
次の瞬間、目の前のフェルが……メルディアの首筋を、細い軸の先端で深く突き刺していた。
「メルディア……!」
セオドリクの声が落ちてきて、首を絞めていた力がふっと緩んだ。
崩れるように、広間の床に倒れ込む。
「ゲホッ、ゲホッ……うぇっ……」
涙目になりながら咳き込み、それでもなんとか前を見る。
ぼやけた視界の向こうで、メルディアの首のあたりから……黒いもやのようなものが、静かににじみ出ていた。
フェルの手元から腕のほうにも、そのもやがゆっくりと広がっていく。
「……やっぱり、これじゃ足りないか」
フェルが低く呟く。
首筋を深く突き刺されているというのに、メルディアは笑っていた。
その笑顔だけが、なぜか妙にはっきり見えた。
ぞっとするほど美しい、女の笑顔を保ったままで。
「まあ、酷い殿方……殿下にも触れられたことのない肌が、傷物になってしまいましたわ」
そんなことを、先ほどまでと変わらない声で平然と言ってのけた。
「ば……化け物……」
広間の誰かが、震える声でぽつりと漏らした。
――その言葉を皮切りに、張り詰めていた空気が一気に弾けた。
悲鳴が上がる。重臣も神官も、列席していた貴族たちも、我先にと両開きの扉へ向かおうとする。
けれど。
「あらあら皆様、どちらへ行かれますの?」
メルディアが笑った瞬間……広間に満ちていた悲鳴も足音も、ぴたりと止んだ。
扉に向かいかけていた人々が、その場で凍りつく。
一瞬の沈黙のあと――あちこちから短い呻き声が聞こえ始めた。
ひとり、またひとりと、その場に崩れ落ちていく。
様子をよく見ようと、涙でにじんだ目元を乱暴に拭う。
「なに、これ……どうなっているの……?」
呆然と呟く。
少し離れて立つフェルが、小さく息を吐いた。
「『災い』がもたらす病か……もう、ラグレイン家だけを狙っている場合じゃなさそうだね」
「私だって不本意ですのよ? せっかくいい駒にできそうでしたのに……でもこうなったら、仕方ありませんわよね」
ふたりのほうに目を向けると、メルディアの首もとから滲み出ていた黒いもやが、いつのまにか足元まで広がっていた。
それは床を這うように、広間じゅうへと伸びていく。
立っている人も、倒れた人も関係なく、そのもやは足元から静かに絡みつき始めていた。
「でっ……殿下!」
座り込んだまま慌てて身体の向きを変え、背後にいたセオドリクを必死に見上げる。
「殿下は……あの化け物に、騙されていたのですよ!? 早く……早く国王陛下や王太子殿下に知らせないと……」
ぴくりと、セオドリクの肩が揺れた。
一拍置いて返ってきた声は――ぞっとするほど静かだった。
「……その必要はない」
「えっ……?」
「化け物だの災いだの……人が勝手にそう呼んでいるだけのことだ。その存在によって弱き人間が淘汰されるなら……それこそ神託だろう」
「あっ、あなた……この国の民がどうなっても、構わないと言うの……!?」
「この国の誰よりも……彼女だけが、私を見てくれた。私にとっては、彼女のほうがよほど人間らしい。少なくとも、聖女として振る舞っていた……君よりはな!」
言い終わるや否や、セオドリクの足が私を蹴り飛ばした。
「うぐっ!」
息を詰まらせたまま、受け身も取れず床へ転がる。
メルディアが喉の奥で笑う。
「滑稽ねぇ、魔術師さん。その手……私から離れなくなってしまったのでしょう?」
「……助けられないのも、覚悟のうえだよ。まさか、君を傷つけただけで王子様が止まるとまでは思わなかったけれど」
「ふふっ……そんなところも可愛らしいのよ、殿下は」
メルディアの甘えた声を合図みたいに、セオドリクが私の上へ馬乗りになった。
次の瞬間、両手が首にかかる。
「がっ……!」
再び喉を絞められて、息が塞がれる。苦しい。
反射的にその手を掴んで引き剥がそうとするけれど、びくともしなかった。
「聖女は処刑する。……彼女がそう望んでいる」
「っ……う、ぁ……」
力が込められていくとともに、視界の端が暗く染まっていく。音が遠のく。
次の瞬間、意識がふっと途切れた。
◇ ◇ ◇
寝台の上で目を開けると同時に、思いきり息を吸い込んでいた。
「はあっ……はあっ……ふ、ぅ……」
喉がひりつく。息を吸うたび、さっきまで首を絞められていた感覚が蘇って、肩が震えた。
もう苦しくなんてないはずなのに、すぐには身体が言うことを聞かない。首元を押さえたまま、浅い呼吸を何度か繰り返す。
(うう……剣で斬られるのは嫌だなあって、確かに思ってはいたけれど……窒息もごめんだわ)
なんて、そんなことを考えている場合じゃない。
乱れた息をどうにか押し込み、私はようやく寝台から飛び降りた。
「――フェル!」
夜着のまま髪も整えず、勢いよく扉を開け放つ。
廊下には――前回いなかった白いローブ姿が、ちゃんと立っていた。
「おはよう、エステア。怖い夢でも見た?」
同じ表情。同じ声色。
その中身は……もう、前までと同じようには見えなかった。




