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「私、エステア・ラグレインは――セオドリク殿下との婚約を破棄いたしますわ」
「……は?」
それが誰の声だったのかは、わからなかった。
けれど、広間にいた誰もが、同じ顔で固まっていた気がする。あのメルディアでさえも。
唯一、フェルだけはなぜか広間にも現れなかったけれど……いまはその理由を考える余裕はなかった。
壇の前に進み出ようとしていたセオドリクは、そのまま固まっていた。
短い沈黙のあと、低い声が広間に響く。
「……いま、なんと言った?」
「ですから……婚約を破棄すると、申し上げましたの」
もう一度繰り返す。
セオドリクはゆっくりと姿勢を正した。
「……この婚約は、王家と神殿が共にこの国を支える証。それを破棄するなど――誰の許しを得て口にしている?」
広間じゅうがざわめく。
今度は王家の重臣や、神殿の上位神官たちまでもが、あからさまに顔色を変えていた。
さっきまで、ラグレイン家を切り捨てる側にいたはずの人々が、揃って動揺している。
ちょっとだけ胸がすっとした。
(なんて、まだ全然……なにも解決していないのだけれどね)
ふう、と一度息を吐く。
この先どう転ぶのか、さっぱり予想はつかない。
とにかく、やるだけやってみよう。
セオドリクを正面から見据える。
「お言葉ですが、殿下こそ……お父上や兄上――国王陛下や王太子殿下は、ご存じなのですか? あなたが、なにをしようとしていたのか」
セオドリクの口元が、わずかに引きつった。
広間のどよめきも、ぴたりと止んだ。
しんと静まり返った空気に緊張を覚えながらも、私は続ける。
「私との婚約を……先に破棄なさろうとしていたのでしょう?」
その言葉が広間に落ちた途端、ピシッと甲高い音が響いた。
反射的に音のしたほうを見ると、台に置かれていた細長い花器がひび割れ、耐えきれなくなったようにパリンと砕け散った。
「――あらあら、聖女様は気でも触れたのかしら?」
声の主は、メルディアだった。
顔に笑みを張りつかせながら、目だけは笑っていなかった。
乳白色の衣の袖をつまんで、口元を隠すように持ち上げる。
「もともと、殿下に相応しいお相手とも思えませんでしたのに……身の程もわきまえず、ありもしないことまで言い立てるんですの? こんな性悪が聖女だなんて、聞いて呆れますわね」
敵意を隠そうともしなくなったメルディアの、氷のような眼差しにぞくりとした。
目を逸らしたくなるのをなんとかこらえると、メルディアの瞳がすっと細くなった。
「それとも、そこまで言い切るのでしたら……なにか証拠でもあるのかしら? ――ねえ、聖女様。あなた……どこでそれを知ったの?」
全身に、鳥肌が立った。
この女は人間じゃない……確証もないのに、そうとしか思えなくなった。
ほとんど色のない薄い水色の瞳は、果てのない空みたいで――そこに落ち続けていくような感覚を覚えた。
「しょ、証拠は……ない、けれど……でも……」
声を震わせながら、言葉を絞り出す。
その時、なんとなく気づいた。
彼女は証拠なんてどうでもいい。
どこで知ったのか……言葉どおり、それだけを探ろうとしている。
(時間が巻き戻ってるなんて、私以外は誰も知らない……口にしたところで、まともに受け取るかどうかもわからないけれど。ここは、なんて返すべきかしら……)
いまのところ、処刑までの時間は稼げている。
このままうまく話を逸らせば、もしかしたら助かるかもしれない。
――なんて、そんな期待は、残念ながらすぐに打ち砕かれた。
「もうよい、メルディア。知られていようが、結果は変わらない。……そのとおりだ、エステア・ラグレイン。もとより、君との婚約は破棄するつもりだった。そして、この場で王家を代表しているのは私だ。父上も兄上も、ここでは関係ない」
吐き捨てるように言ったセオドリクは、メルディアのそばまで歩み寄ると、その肩を強く抱いた。
「ふふっ……殿下は本当に、強引なんですから」
メルディアの甘い声が、ずいぶんと白々しく聞こえた。
「まだ皆には紹介していなかったが……彼女は西方から参った神託の巫女、メルディア。私が選んだ、新しい婚約者だ。そして、彼女が見抜いたのだよ。ラグレイン家の……『嘘の封印』を」
(あっ、この流れは……まずい )
結局、また私を断罪する流れに戻ってしまった。
嘘でもなんでもいいから、もう少し場をひっくり返すようなことを言えばよかったのかもしれない。
そんなふうに冷静に分析してしまうあたり、三回目ともなれば、この流れに少し慣れてきてしまった自分がいる。
(ああ、でも……やっぱりまた、剣で殺されるのよね)
いっそ、いますぐ舌でも噛み切ったほうがまだマシかしら。
でもどうしても、そんな勇気は出そうにない。
目の前で、セオドリクとメルディアがなにか言っているけれど、耳から耳へとすぐに抜けていく。
「――本当に、聖女の祈りで封印が保たれているのか……ご自分でもわからないのでしょう? だからこそ、神託が必要なのですわ。人の目には見えない……偽りを暴くために」
メルディアの言葉が急に鮮明に聞こえて、はたと気づく。
このあと彼女は、セオドリクに私の処刑を進言する。
(うう……今回はここまでかしら……)
肩を落とした私は、セオドリクの胸にすがるメルディアを恨めしく見つめる。
彼女の薄い唇が開きかけた、その瞬間。
「――同感だね。人の目に見えない偽りは、暴かれるべきだ」
そんな声とともに、ぱち、ぱち、ぱち、と。
緊迫した空気には不似合いな、ゆったりとした拍手が後ろから聞こえてきた。
「まさか、自分から先に婚約を破棄するなんて……君がそんなに面白かったとは、知らなかったよ――エステア」
(この……声は……)
慌てて振り返る。
けれど、そこに声の主の姿はなかった。
「こっち」
先ほどの声が、また後ろから聞こえてきた。
どうなっているのかわからないまま、もう一度振り返る。
メルディアの肩を抱くセオドリク。
そのふたりのすぐ後ろに、今回の巻き戻りで初めて見る白いローブ姿――フェルが、いつのまにか立っていた。
「やっ、どうも。おふたりさん」
「――貴様っ!」「きゃあっ!?」
フェルの軽い声に、セオドリクの怒声とメルディアの甲高い悲鳴が重なり、耳がきんと鳴った。
セオドリクが、メルディアを庇うように身体を捻る。
そして次の瞬間、私は信じられない光景を見た。
メルディアは確かに、セオドリクに抱き寄せられていた。
そのはずだったのに、フェルが白いローブをひらりと翻すと――いつのまにか、メルディアはフェルの腕のなかにいた。
呆気に取られたような顔をするメルディアを連れて、フェルはセオドリクから距離を取る。
セオドリクは、なにが起こったか理解しきれていないのか、その場に固まっていた。
フェルは、こちらを見もしないまま、
「ありがとう、エステア」
と言った。
「君のおかげで、暴くことができた。人の目に見えない偽り――いや」
フェルの手には、いつのまにか一本差しの髪飾りが握られていた。
白い花を思わせる飾りをつけた細い銀の軸が、メルディアの首筋に食い込むように押し当てられている。
本来は髪を飾るためのもののはずなのに、その光景は妙に不穏だった。
「封印されていたはずの『大いなる災い』……それが君だろう? メルディア」




