高台
昭和四十八年八月十八日 土曜日 夕立
朝、豆腐のトラックが来た。スピーカーの割れた声が、「豆腐ー」と谷に響いた。
豆腐トラックの運転手は、集落の人々の顔と買い目を、覚えていた。売れ残りの豆腐は、峠まで、仕事を続けた。
豆腐は、木綿に包まれて、いまだに温かった。風呂敷を広げると、湯気が、朝の光の中で、細く立った。
パンの行商は九つ頃、魚屋は午後だと、美雪が教えてくれた。谷には、店より先に、時間割があった。
買い物とは、鐘の音に出ることだった。トラックの音が、町の時計だった。
朝ごはんのあと、美雪が言った。「今日、高台に行きませんか。午後、雨が来ますから」
美雪の予報は、当たった。谷の天気予報は、手首の湿りと、山の色で、作られていた。
誘いの言葉だった。理由の付かない誘いではなかった。天気を盾にした誘いだったが、谷では、それが、いちばん格式の高い誘いだった。
私は、顔を上げて、頷いた。
高台への誘いは、父兄のいない昼間の家から、始まっていた。二人きりの家は、谷の、静かすぎる部屋だった。
母と濱田さんは、知っていたのかもしれない。知っていて、何も言わなかったのかもしれない。谷の大人の知らないふりは、山より厚かった。
高台という名は、昨日まで、私の地図に載っていなかった。名のない場所への誘いは、谷では、名のある場所への誘いより、格式が高かった。
頷きは、小さかったが、美雪には届いた。彼女は、台所に戻ると、急に用で忙しくなった。嬉しさの、振る舞い方を、どこかで習ったのだ。
登り道は、畦道を縫い、杉の根元をくねった。ミンミンゼミが、頭のてっぺんで鳴いていた。
道端には、野の萩が、咲いていた。萩は、秋の七草の、先鋒だった。
最後の曲がり角には、小さな祠があった。祠には、甘いものの包み紙が、供えてあった。祠の神は、甘党だった。
ミンミンゼミの鳴く高さは、地面から、人の背丈の二倍だった。谷の空は、人の頭の、すぐ上にあった。
高台では、谷の風は、一度だけ、上から来た。上からの風は、谷の風ではなく、峠の風だった。
高台の頂では、風が、一度だけ、私たちの間を、抜けた。風は、二人の距離を、測ってから、去った。
登りの汗は、谷の匂いを蒸した。土と、稲と、畑の緑の匂いだった。夏の谷は、汗ひとつで、匂いの持ち主を明かした。
美雪は、いつもの半歩先を歩く。その背中は、白いブラウスに日の光を受けて、少し眩しかった。
「昔、母と、よく来ました」と美雪が言った。「この道、急ですから」
話は、そこで終わった。私は、そのまま歩き続けた。急な道は、彼女の言うとおりだった。
彼女の話の終わり方は、谷の道に似ていた。急所で、緩やかに、曲がる。
道すがら、私は、計画表の残り三割を、八月の残りの日に配分していた。高台の頂上に着くころには、割り振りも、できあがっていた。
高台に着く頃、風が変わった。谷の底から、夕立が、黒い壁のように立ち上がってきていた。
美雪は、頂上の、いちばん見晴らしのいい場所では、止まらなかった。彼女は、見晴らしより、夕立の来る方角に、立った。
黒い壁は、谷の底で、影を作っていた。影は、集落の形を保ったまま、こちらへ這い上がってきた。
「雨の日は、ここがいちばんいいんです」美雪は言った。「山が、いちばん深い色をするので」
「いい」の理由は、私が訊ねたときには、いつも、遅かった。理由は、訊ねるより先に、雨の中に置いてあった。
遅れたものを、拾う手つきは、練習すれば、上手くなる。私は、もう、練習を、始めていた。
言い終わると同時に、最初の大粒が、石を叩いた。それから、一気に来た。
雨は、谷を呑んだ。集落も、田も、用水も、みな、すぐに消えた。山だけが残った。谷の周りの山が、一面、深い藍色に染まっていった。
黒い壁は、谷と谷のあいだに、一度だけ、海を作った。海は、藍色の、縦の海だった。
藍色は、谷が自分の深さを、一度だけ見せる色だった。
美雪は、雨の中で、小さく、息を呑んだ。呑んだ息は、雨に混ざって、声にはならなかった。
美雪は、濡れながら、立っていた。目を細めていた。それが、嬉しいのか、悲しいのか、その頃の私には、分からなかった。
その顔に、雨は、叩きつけるのではなく、撫でるように、降っていた。
雨の中で、美雪は、水溜りを避けなかった。避ける理由が、彼女には、見当たらなかった。
夕立の中の山々は、互いに、背中を、見せ合っていた。
濡れた背中の、白い布には、雨が、滝を描いていた。滝の流れは、彼女の肩の線に、沿っていた。
山の深い色は、雨に限って、出る。晴れの山は、山の制服だった。雨の山は、山の素顔だった。
けれど、あの顔は、雨に負けていなかった。
誘ったのが雨の日だったのは、偶然なのか。あの頃の私には、確かめられなかった。それを確かめられるようになった頃には、もう、遅かった。
夕立は、去るのも早かった。山道を水が流れ、ふたりの靴は、軒の下で泥を落とした。
帰り道では、美雪は、時々、立ち止まって、谷を見下ろした。見下ろすたび、彼女の影は、谷の影に、短く、接続した。
下り道では、話は、いっさいなかった。だが、黙りは、登りのそれとは、違う重さだった。濡れたもの同士の黙りは、軽かった。
母は、濡れたふたりを見て、何も言わなかった。ただ、風呂を沸かした。湯気の中で、美雪の前髪が、初めて全部上がっていた。
母は、私たちの濡れ方を見て、風邪を心配しなかった。夕立に濡れた子は、大丈夫だと、谷の母は、知っていた。
風呂の湯は、杉の桶に汲まれ、脱衣所の板の上で、輪を描いていた。輪は、今日の夕立の、戸籍だった。
風呂を沸かす音は、薪が鳴く音だった。その音が、今日という日の、帳簿を閉じる音だった。
夜、雨戸を閉める。奥の四枚は、今日も、私と美雪の仕事だった。
その日の彼女の顔は、私の心の中の辞典で、二番目の頁に収められた。一行目は、まだ名前がない。
その顔に、名前をつけたくなかった。名前をつけた瞬間、その顔は、記憶というより、所有になってしまう気がした。
辞典の二番目の頁には、雨の日の高台の匂いが、しみ込んでいた。匂いは、頁の糊だった。頁は、匂いで、贴りついていた。




