↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/9

盆

昭和四十八年八月十五日 水曜日 小雨


夏休みは、昼間の家をふたりきりにした。

母は人手の要る農家に出かけ、濱田さんは山に入った。残るのは、血の繋がらない兄と妹だけだった。

縁側には、すだれが下がっていた。昼下がり、すだれのこすれる音が、家のなかでいちばん大きかった。風のない日は、蝉が、すだれの向こうで、一定の距離を保っていた。

この夏、私は友だちをひとりも作らなかった。川へ誘われたのは一度きりだった。集まりの中心は、小さな頃からの顔ぶれで、遊びは決まっている。テレビもない、買い物も行かない。本も、先取りの勉強も、そこには入らなかった。誘うのも、それっきりで止まった。

外から見れば、私はつまらない奴だった。それでいいと、私は決めていた。一人になることは、もう慣れていたのだから。

昼ごはんは、美雪がそうめんを茹でた。湯加減は、一分の狂いもなかった。鍋は、亡き母のタイミングを、覚えているのか。

食べる音だけがして、蝉の声と輪になった。私は、時々、こっそり彼女を見た。先に梅干しを食べる癖は、いつからあるのだろう。

見つかると、「何か?」と言われる。「いや」と答える。このやりとりは、一日に三度あった。三度とも、内容は同じだった。

この夏、私は、夕方、用水を眺める癖がついた。用水の流れは、学校の問題集より、解きやすかった。

夜、ミシンの隣の机で、私は夏休みの宿題ではなく、先取りの勉強をしていた。計画表の朱は、七割を超えた。残り三割は、八月の光の中にあった。美雪の部屋の灯が消えるのは、いつも私より早かった。

夏の観察課題は、稲の育ち方だった。観察という字は、理科の字に見えて、谷では、農家の子の国語だった。

蚊取り線香は、私の側だけに置かれていた。美雪は、蚊に刺されても、刺されたことを、口にしなかった。口にしない刺され方は、谷の作法だった。

壁の向こうに、誰かがいる。それだけのことが、山の夜を、少しだけ柔らかくした。


七月の終わり、期末の順位が張り出された。

張り出しの紙は、雨でふやけかけながら、貼られていた。名前の朱は、滲まないよう、力を込めて書かれていた。読む者の手垢が、紙の縁を黒くしていた。

いちばん上に、岡崎潤。転校生が、谷のいちばん上に立った。

教室がざわめるより先に、森の目が変わった。あの目は、谷の外のことを知っていた目だった。

帰り道、森は、自転車で、私を追い越した。追い越すとき、何も言わなかった。代わりに、鈴を、一度だけ、鳴らした。

張り出しの前で、美雪と並んで立った。二人とも、黙っていた。

彼女の名前は、ちょうど真ん中あたりにあった。真ん中は、谷のいちばん安全な場所だった。上にも下にも、風は届きにくい。

数字は何も言わないのに、全部を言っていた。

あの時、私は谷を出る資格を、黙々と積み上げ始めていた。彼女は、その資格のないまま、谷に根を下ろしていた。

その差を、私たちは誰にも言わずに、知っていた。


八月、庭の梅は、壺の中で、夏を越していた。

摘むのは、六月の仕事だ。八月の仕事は、漬け替えと、土用干しの準備だ。梅酢を移し、実を撫で、壺を洗う。大きな壺の前で、濱田さんの大きな手が、私の手元を直した。

梅仕事は、揉むのではない、撫でるのだと、濱田さんが言った。塩を揉み込むより、塩に実を預ける。梅は、塩の手の中で、固く口を閉ざす。

美雪の手は早かった。塩で白くなった指先に、亡き母の手つきがそのまま残っていた。爪のピンクだけが、白い指で、生きた色を保っていた。

試食に、去年の梅干しが出た。ひと口かじって、酸っぱさで目が醒めた。

あの日の梅干しは、ここの木のものだったのだと、その時初めて気がついた。

私が食べたのは、夏の挨拶ではなく、彼女の母の遺していた梅だった。

壺に封じられた梅は、三年の沈黙を、約束された。梅は、三年のあいだ、谷の、静音になった。

梅干しの奥に、去年の夏が少し残っていた。塩の奥底に、一匙分ほどの、誰かの夏が沈んでいた。


盆の日の朝、仏壇に若い女の写真が飾られた。美雪に少し似ていた。彼女の亡くなった母だった。

盆週の家の昼下がりは、仏壇の線香の煙が、いちばん遅く、動いていた。

位牌の名は、いま、読める。あの頃は、読めなかった。名を教えてくれたのは、美雪ではなく、年月だった。

写真の女は、笑っていた。写真の笑いは、いつもの日の笑いではなく、撮られる日の笑いだった。

盆の夜、集落の人々が小さな盆踊りをした。太鼓が三台、踊り手は二十人ほど。美雪は輪に入った。

迎え火は、十三日に焚かれた。送り火は、今夜焚かれた。谷の盆は、火で書く手紙だった。宛先は、帰れる場所。差出人は、ここに残る者。

盆踊りの太鼓は、勝敗のために鳴らない。盆の夜だけは、谷の太鼓が、完全に休まれた。太鼓は、盆の夜は、送るための楽器になる。

私は輪の外で見ていた。客でしかない私に、踊りの輪は入れてくれなかった。

輪の中の美雪は、踊りを、覚えていた。その踊りの形を、教えた者は、いない。見て、覚えたのだ。見て覚えることの、深さは、私が、いちばん、知っていた。

帰り道、送り火が峠で燃えていた。火の前に立っているのは、美雪だった。

私は、声をかけないで引き返した。泣いているのかどうか、確かめなかった。それが、私にできた唯一の優しさだった。

深いとは言えない夜の、縁側で、ふたり、麦茶を飲んだ。涼みのはずの夜で、汗が止まらなかった。

盆の夜の汗は、涼の汗ではなかった。火の近くにいすぎた者の汗だった。

何も話さなかった。話せないものを、隣に置くだけの夜だった。

私の失った父と、彼女の失った母とが、同じ火の方角へ帰っていったのだろう。


小雨が、盆の夜を通しで降っていた。亡くなった者が、雨の中を帰るという。谷では、そう言う。

今日の日付を書きそこねた。夏休みは、日付を薄くする。

日付のない日は、帳簿の白い行だ。集計はできない。だが、白い行は、帳簿の、いちばん正直な行でもある。

盆の終わりは、送り火の煙の匂いで分かった。煙の匂いは、翌朝まで、髪に残った。私は、学校に行くまで、その匂いを、洗わなかった。

八月も半ば。新学期が来る。

谷に根を下ろす者と、根を引き抜く者とが、もう分かれはじめていることに、その頃の私は、気づいていなかった。

根を下ろす者、という言い方を、あの頃の私は、彼女のことだと思っていた。いま思えば、それは、私への、予告だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。