初登校
昭和四十八年六月十三日 水曜日 曇
朝、家は、雨の、止んだ、匂いに、満ちていた。
軒を伝う雫は、まだ途切れずに落ちていた。庭の梅の実が、昨夜より大きくなっている気がした。
私の部屋の隅には、白い布をかけたミシンがあった。白い布の下のミシンは、足踏み式の、黒光りする背の高いやつだった。埃は、引っ越しの埃ではなかった。最近まで、動いていた埃だった。
母の仕事場だったのだと、夜、知った。美雪は、その部屋の前を通るたび、いつも半歩、足を早めた。
私は、亡くなった誰かの部屋の中で、眠っていた。
台所では、美雪が炊きたての飯を弁当箱に詰めていた。弁当箱は、黒くなったアルミのやつだった。蓋の内側に、小さなへこみがひとつ。誰かの昔のへこみだった。亡くなった母の代わりに、朝の台所はもう彼女のものだった。
母は私の弁当を風呂敷に包んだ。転校初日に限って、卵焼きが二切れ入っていた。
美雪は、もう支度ができていた。夏服のセーラー服。白い襟に濃紺の二本線。髪は肩よりひと寸上、右側に小さな黒いパッチン留め。
胸の左の名札は、白い布に白梅色の糸で縫いつけられていた。濱田美雪。ぎっしりとした小さな縫い目に、亡き誰かの手が残っていた。
玄関で、彼女が靴を履いた。白い靴下は三つ折りにされて、くるぶしが細く見えた。
「潤、美雪ちゃんについて行きなさい」
母は、私を彼女に預けるような言い方をした。
道は、初日の朝に限って長い。
石段、用水、杉、崩れた石垣。美雪は何も指ささない。ただ、半歩だけ先を歩く。
用水には、朝の濁りが残っていた。昨夜の夕立が、山からまだ帰らない泥を運んでいた。
「曲がり角、ふたつあります」と彼女は言った。それだけだった。それだけで、足りた。
バス停に、集落の子どもたちが集まっていた。ざわめきは、見知らぬ者が加わると一瞬止んだ。
バス停の柱は木製で、時刻表のガラスには、小さな割れ目が入っていた。誰も直さなかった。谷のものは、壊れても、しばらくはそのままなのだ。
美雪が、私の隣に立った。それだけで、私はその場の人間になれた気がした。気が、しただけだった。
乗る前に、乗客は軒先で列になった。年長者が先で、私は最後だった。列の順番も、谷の時間表の一部だった。
クリーム色のバスが来た。ラジオが、空に打ち上げられた人の話をしていた。谷には、届かない話だった。
橋を渡るとき、広い濁った川が見えた。昨夜の夕立で増水し、土の色をしていた。川霧が、橋の下から立っていた。昨夜の雨が、川へ戻る途中の姿だった。
「吉野川です」と美雪が言った。
名前をもらった川は、少しだけ親しみやすく見えた。
校舎は木造で、廊下は長かった。下駄箱は革と土の匂いがして、木の階段は人の重さで音をあらげた。
朝礼のラジオ体操は、校内放送で、少しだけ速いテンポだった。伸びきらない背中が、数人いた。私も、そのうちの一人だった。
校庭の隅では、紫陽花が、雨の玉を抱えたまま咲いていた。
担任は、森という若い教師だった。カッターシャツの袖口が少し擦れている。
壇の上で、私は「岡崎潤」とチョークで書いた。知らない名前が、五十ほど飛んできた。
「濱田美雪さんの、義理のお兄さんだ」森が付け加えた。
教室がざわめいた。義理の、という三文字が、白い襟のあいだを流れた。
美雪は、名札の端を指で押さえていた。知っている名前は、そのひとつだけだった。
席は窓側いちばんうしろ。転校生の定席だった。
昼、教室はにぎやかな食堂になった。
私は風呂敷を解いた。糊と台所の匂いがした。引っ越しの日の匂いが、昼食に残っていた。
購買のパンを食べる連中は、向こうの席に集まった。パンの匂いと、弁当の匂いは、教室を半分ずつに分けた。
箸が何本も伸びて、卵焼きの味が審査された。甘さ三分。塩は控えめ。母のレシピは、教室で町の評決を受けた。
卵焼きは、四口で消えた。審査の結果は、誰も口に出さなかった。ただ、翌日、誰かの弁当に、似た卵焼きが入っていた。
誰かの弁当を、誰かが味見する。町とは、そういう仕組みだった。私はその仕組みの中へ、昨日、搬入された。
美雪は離れた席で、ひとり弁当を広げていた。
その弁当には、梅干しがいつも二粒あった。一粒は、箸で最初に口へ運ばれる。もう一粒は、昼の終わりに、おにぎりの芯へ埋められる。渡辺の言う通りだった。
「美雪ちゃんはね、いつも梅干しから食べるのよ」と渡辺が教えた。
食べ終わる頃、美雪が立って、私の席の前を通った。
「私のせいで、朝は騒がしくなりました。すみません」と言って、彼女は箸で梅干しをひとつ、私の弁当箱に移した。
教室が「おー」と言った。私は、何を返せばいいのか分からず、卵焼きを箸で取って、彼女の弁当箱に置いた。
あの梅干しの塩気は、今でも舌に残っている。
舌に残るものは、言葉にしない。言葉にしたものは、いつも、薄まった。
放課後、私は校舎をうろうろした。便所も、出口も、探すのに時間がかかった。
帰りがけ、教室の前を通った。渡辺と美雪の声がした。
「義理のお兄ちゃんって、本当はどうなの」「ただの義理です」
ただの、という言葉だけが、廊下に残った。私は、少しだけ、遠くなった。
棟の隅で、音楽室の扉が開いていた。中から、ギターの音がしていた。
私は、扉の前に立って聞いていた。私はまだ、その部屋の人間ではなかった。二回目に聞くギターの音は、初日より、少しだけ顔があった。曲の名前は、まだ知らなかった。
帰りのバスで、美雪は土佐町の娘たちと座っていた。私は、ひとり窓側だった。
橋を渡ると、川が見えた。今朝、名前をもらったばかりの川だった。山は、まだ名前がない。
夜、白い布のミシンの隣で、教科書を開いた。学期は半ば。転校の穴は、自分で埋めるしかなかった。
屋根の雫の音と、ページをめくる音が、交替でした。
雨戸を閉める。奥の四枚は、私と美雪の仕事だった。
今日、教えてもらった名前がひとつ。吉野川。この谷でいちばん大きい川だ。
名前を教えてもらうということは、地図の一片をもらうことだった。
本の少ない谷で、勉強だけが、持ち運べるものだった。どこへ運ぶのかは、その頃はまだ、誰も教えてくれなかった。
私は、誰の意志でもないところへ、昨日、搬入された。名前をひとつずつもらいながら、私はこの谷に、静かに積み込まれていった。
あの頃の私は知らなかった。それが全部、あの子の字で書かれていることに。




