搬家・夕立
昭和四十八年六月十二日 火曜日 夕立
高知を発つ頃、空はまだ晴れていた。
バスの中は、革と日なたの匂いがした。冷房はなく、窓はすべて開いていた。カーテンがはためくたび、光が床を横切った。車内では誰かが紙巻きタバコを吸っていて、その煙が、開いた窓から逃げては戻ってきた。
母は、風呂敷包を膝に抱えて眠っていた。結び目を、誰よりも堅く握っている。ダンボール箱は六つ、もう荷物室に預けてあった。家族は半分ずつ、分かれて移動していた。
六箱のうち、いちばん重いのは本の箱だった。母が「重いから」と言って荷物室に預けた、その箱だけが、私の家計のすべてだった。
山に近づくにつれ、空の色が変わった。紫ではない。黒に近い紺だ。
土佐の夕立は、予告が短い。あとで聞かされたのだが、ここの雨は上からではなく、横から来る。峠を越えたあたりで、車窓に最初の粒が当たった。大粒で、間があいて、それから、一気に来た。
雨の前触れは、土の匂いだった。乾いた土が、雨を吸う前に、一度だけ、匂いで応える。谷の暮れ方は、その匂いから始まるのだと、あの日、私は知った。
母が結びを確かめている指を見ていたら、指輪の跡だけが白かった。指輪は、もうどこにもない。白い跡だけが、あと少しのあいだ、母の指に留まっていた。
ターミナルは、思ったより小さかった。
待合室に電球がひとつ。ベンチは木の色が古く、時刻表の紙は黄ばんでいた。時刻表には、峠の向こうの町への便が、一日に五本。谷の時間は、紙の上では少なかった。待っていたのは、白いセーラー服の娘だった。
娘は、待合室の軒先に立っていた。襟には、一日の暑さが残っていた。手には、長い傘が一本。谷の雨を知っている者だけがする、構えの持ち方だった。
母が名を教えた。美雪。五ヶ月下だとか、なんとか、耳に入らなかった。雨が来る前の、空気の鳴りが大きすぎた。
名を教えられた娘は、私を見て、それから母を見た。その順番が、あとになって、少しだけ気になった。娘にとって、母は先客であり、私は、母の連れだった。
「よろしく」
娘は頭を下げた。前髪は、まだ乾いていた。白い襟のあわいに、鎖骨が細く光った。それが、「美雪」という名について、私の記憶が保存した最初の頁だった。
夕立は、荷物を下ろすあいだに来た。
母が先に走り出した。屋根の下にいるより、走れば家は近い。私はダンボールを二箱抱えた。美雪の差していた長傘は、すぐに箱の上へ移った。私の肩が半分入っていたかどうかは、覚えていない。
抱えた箱から、インクと糊の匂いがした。あの日一日、私はその匂いの中にいた。
傘は、箱に優先された。
それでも、私は怒っていなかった。濡れた肩には、夕立の冷たさが残っていたが、それは、荷物と同じように、いずれ乾くものだった。乾かないものは、どこにも降っていなかった。
紐の結び目を、美雪はずっと持っていた。荷札が濡れないように。そこには、岡崎と書いてある。私の字ではない。見知らぬ運送屋の字で、私はその娘に紹介された。
道は急で、石段が続いた。石段は、百を超えていた。美雪は、息の上がる場所を、知っていた。上る者の腰を、そっと待つ場所を。
雨は、家の灯りの方へ横に流れていた。あの灯りのひとつが、今夜から私の家だった。
娘の右肩だけが、どんどん深い色になっていく。私の抱えた箱は、左右の重さが違った。傘の傾きと、ちょうど同じだけ、私たちは傾いていた。
家は、山腹にあった。
板葺きの屋根、長い濡れ縁。畳の匂いと、雨の匂いが、戸口で混ざっていた。玄関で濱田さんは頭を下げた。大きな人だった。タオルを四枚、出してくれた。四枚目に、私の分が混ざっていた。
風呂は薪で沸かされていた。湯の匂いは、高知の家のそれと、少し違った。違いの正体は、わからなかった。ただ、木の香りが湯に混じっているのを、私は覚えている。
夕食は静かだった。
カツオのタタキが出た。藁の匂いが、土間まで漂っていた。初夏の贅沢で、濱田さんは少し照れていた。美雪はおかずを小さく運び、箸を置く音を、いちばん最後にしていた。四人の食卓で、誰も音の使い方に慣れていない様子だった。
美雪は、お茶碗を運ぶとき、縁を二度、指で確かめていた。誰かに教えられた手つきではなく、見て覚えた手つきだった。
味噌汁の具は、茄子だった。高知の家では、出汁の癖が違っていた。私は、癖の違いを、黙って飲んだ。違いは、いつか慣れるのか、それとも、いつまでもこのままなのか、その時は考えなかった。
箸を置くと、卓の上の灯りが、四人の手の影を、それぞれ違う向きに落としていた。私は初めて、影が四人分ある食卓に坐っていた。
「ゆっくりしてくれよ」
濱田さんは、それだけ言った。
夜、雨は止まなかった。蛙が鳴いていた。用水のあたりで、蛍がひとつ飛んでいた。土佐の蛍は、五月に咲く。六月半ばの蛍は、帰る道を、一つ、まちがえた蛍だったのだろう。
蚊取り線香の灰は、畳の上で、すっと伸びていた。煙は真っ直ぐ立たず、天井に届く前に、どこかへ散っていった。
便所は、廊下を突き当たって、外にあった。傘を差さずに行くと、雨は横から頬を打った。あの家で最初に触れた谷の雨は、頬で知った雨だった。
布団は、新しい家の匂いがしていた。高知の家の匂いは、荷物の中にしまわれて、もう出てこなかった。
「雨戸、閉めようか」
濱田さんが立ち上がると、母も、美雪も立った。四人で雨戸を閉める。濱田さんと母が表、私と美雪が奥の四枚。
板をはめるたび、雨の音が遠くなった。最後の一枚を閉めたとき、家の中が、夜より少し静かになった。
四枚のうち、上から二枚目だけ、板目が少し違っていた。美雪が、そこをいちばん手早くはめるのを見て、去年の今頃は、その板の前に誰が立っていたのか、私には分かった。
雨戸を閉めると、家は箱になる。
その夜、私は荷ほどきの途中で眠った。本の箱だけは、開けなかった。開ければ、今夜が転校前夜の続きになってしまう気がした。転校前夜は、もう、終わっているのだから。
私の部屋には、文机がひとつ置いてあった。誰かの使い古したもので、引出しの取っ手に、手垢が光っていた。学期は半ばだった。穴は、明日から埋める。そう思うと、眠りが、少しだけ浅くなった。
この夜から先のことは、まだ書かない。
書けるのは、玄関に積まれた箱だけだ。六箱。風呂敷は、もう空っぽになっていた。
父の荷物は、一つもなかった。




