其の四
「啼義──」
ダリュスカインの記憶の中を、長い黒髪を背で結えた、黒い瞳の、どこか頼りなさげな青年の姿がよぎった。とはいえそれは羅沙で共に暮らしていた頃の印象で、最後に会った──いや、戦った時は、髪を肩先まで切って精悍な顔つきになり、随分と凛々しい男に成長していたのだが。
今はイリユスの神殿で蒼空の竜の力の継承者として日々奮闘しているであろう彼は、今年二十三歳を迎えるはずだ。
啼義は、靂の唯一の<息子のような存在>であった。
彼は、姫沙夜が亡くなって約三年の後、ドラガーナ山脈にあるドラグ・デルタが噴火した年に出自不明の赤子として靂に拾われ、十七になるまで羅沙の社で育った。
それが、本来の居場所であったはずのイリユス神殿の信仰とは真逆の、淵黒の竜を信仰する社だったことは、皮肉な運命だったと言えよう。
啼義には、幼い頃から謎の力があった。その正体が蒼空の竜の力であることに気づいたのは、他ならぬダリュスカインだ。
靂が姫沙夜の魂を呼び戻したいのと同様、ダリュスカインこそ、やがて淵黒の竜の力を探り当てられたならば、救えなかった両親と妹弟たちの魂の蘇生を願ってやまなかった。
啼義の力がその道を阻害する可能性があるなら、放置はできない。それは靂も同じだろうと、ダリュスカインは懸念を打ち明け、判断を求めた。
靂は答えた。
『お前は案ずるな。目的は必ず達する』と。
だが、敬愛する頭領が選んだのは、啼義の命だった。
ダリュスカインにとって、それが裏切り以外の何物でもなかったことは、当然の見解だ。
しかし、その決断を下すまでに靂がどれほどの葛藤を要したのかも、桂城は見ていた。だから、ダリュスカインが生きているならば伝えねばならないと、強い意志を抱いてここまで来た。
桂城は表情を引き締め、切り出した。
「靂様が啼義様をお逃がしになると決めた時、私に仰ったことがある──そなたのことだ」
「え?」
ダリュスカインが目に戸惑いの色を浮かべて桂城を見つめると、彼は神妙な面持ちで口を開いた。
「そなたへの裏切りの報いは、自らの命を懸けて受けると」
そうしなければ、ダリュスカインの気が済まぬだろう──そして。
「そなたの手に掛かって逝くなら、それも本望とな」
本望という言葉が、ダリュスカインの真正面から胸を打った。
「──そんな」
『それで相応だろう』
禁忌の信仰に手を染め、ダリュスカインのような忠義に厚い若者を巻き込み、誓われた忠誠心に応えるどころか、かえってもっと深い傷を負わせる結果を招いた己の末路として。
「そなたは、自身の存在が啼義様に敵わなかったと思っているかも知れないが──靂様にとっては、同じくらいに重く、それ以上に近い存在だった。同じ志を持ち、最愛の者を亡くした孤独を分け合い……類い稀なる魔術の才能も然り。ただの側近としてではなく、共に歩む盟友としてそなたを見ていた」
一言一言が、真実味を持ってダリュスカインの心に落ちていく。
「だからこそ、そなたになら命を奪られても良いと、覚悟を決められたのだろう」
<俺になら?>
衝撃のまま、ダリュスカインの脳裏に、靂の最期の言葉が蘇った。
『やはり、お前は強いな』
ダリュスカインが放った烈風の刃に腹を掻っ捌かれ、炎に包まれた赤い視界の中で崩れ落ちる靂が、笑ったかのように見えたのは。
靂の、傷口を押さえた指の隙間から、ダリュスカインの心の崩壊を模したように鮮血がとめどなく流れ落ちて、無慈悲なまでに床を紅に染めていく中──
「うわあああああー!」
その先は、自身の絶叫と、激しい火が巻き起こす轟音に飲まれて聞き取れなかった。
しかし今──「それで良い」と、靂の声で聞こえた気がした。「これで良かったのだ」と。
<本望などと>
握った拳が、震えた。
十八で靂の下に辿り着き、十年を共にした。
最初は、淵黒の竜でも何でも家族を取り戻せる方法があるならば構わぬ、取り入って上手く立ち回ろうと思って近づいた。
だがいつの頃からか──頭領として社を背負い立つ靂の、威厳に満ちた背に焦がれ、本心からの忠誠心となっていった。憧れは、家族と共に失った愛情にも近い執着も生んでいた。靂が時に啼義に向ける、本当の親のような眼差しが羨ましく、妬ましくなるほどに。
<分かっていたのか>
今さら、靂の胸懐が分かったとて──ダリュスカインは思わず目を閉じ、ぐっと口元に力を入れて、心の激震を懸命に静めようとした。
桂城が、察するかのように、外の緑に目をやって黙る。
やがてダリュスカインが、いまだ昂ぶりを残す声で問うた。
「しかし……それならば、靂様は、桂城殿にも同じように思っておられたのではありませんか?」
姫沙夜亡き後、懇願したように。
今度は桂城が、ほんの一瞬の揺らぎを見せた気がした。だが。
「いいや」
彼はゆるりと、老いた顔に寂しげな色を浮かべて頭を振った。「私はすでに一度、靂様を拒んでしまったからな」
あちらに逝くことも叶わず、ただ日々を消耗するだけだった靂の元にやってきた啼義は、偶然にも姫沙夜と同じ黒髪だった。
本能的に馴れ合うのを避けてか、あえて距離を取ろうとしながらも、その姿に姫沙夜の面影を、もしくは子を授かったならと重ねたこともあったであろう。それが、靂にとってささやかに心を照らす光となっていたことも、傍で見ている桂城には、明白に分かる瞬間がいくつもあった。
一方で、己が立ち続ける拠り所として頼った禁忌の信仰の存在は徐々に大きくなり、やがて社を傾けることになるであろうと、靂はいつしか悟っていたに違いない。
だからこそ、啼義の存在が自身を足元から崩すであろうことが分かった時、己を縛る全てから、そして己が支配する全ての解放を図るべく、最後の幕引きを天に任せて仕組んだのだ。
靂は、桂城に最後の決断を話した際、ふわりと穏やかな笑みを浮かべた。
『これで、ようやく仕舞いにできるな』と。
桂城に止めることは出来なかった。今度こそ靂の希望を通してやることが、桂城ができる唯一の道であり、贖罪であったのだから。
「いやはや……」
桂城は、胡座を組み直した。
「こうして風が噂を運び、そなたに再び会って思いを伝えられる日が来ようとは──あるいはこれは、靂様の思惑通りか」
やっと荷が下りたとでも言いたげに、肩を回して身体をほぐす。
ダリュスカインも、胸の奥にはいまだ熱い何かが灼けつくように支配して、ともすれば溢れそうな衝動が渦巻いている反面、強張っていた背中の内側が緩まるのを感じていた。心の底に重く立ちこめていた霧が、確かに今、少しではあるが晴れている。
「そう……なのかも知れませんね」
その時、遠慮がちに引き戸が開き、先ほどの金髪の女児──来華と、後ろにもっと控えめに黒髪の男児、柊が覗いた。




